NHK「昭和天皇は何を語ったのかー拝謁記」を見て
7日にNHKで放送された「昭和天皇は何を語ったのかー初公開 拝謁記に迫る」を見た。この番組は初代宮内庁長官の田島道治氏が天皇とのさしでの話し合いを克明に記したもので、田島氏が身辺整理をしたとき、危うく焼却されるところを親戚の人によって保管されてきたものだ。それが公開されることになって、研究者によって読み解かれたのだ。
田島氏は民間の出身で初めて宮中に入ったのだ。記憶力が抜群の人だったそうで、昭和天皇とのやりとりをきちんと記録することができたのだ。
この資料「拝謁記」が公開されたことによって、昭和天皇がかつての戦争をどうとらえていたか、戦後の時期をどのように生きようとしたのかなどを知ることができた。
昭和天皇は戦前は大日本国憲法によって唯一の主権者であり、大権を一手に掌握していた。それなのに分からないのは敗戦で戦争責任を追及されなかったことだ。法的には責任がないが道義的責任はあると説明されていたがその部分が理解できない。
天皇は2.26事件の前から軍部が力を増し、関東軍を中心に張作霖の殺害など勝手に行動することに不満を持っていたようだ。「下剋上」ということばで表現している。張作霖事件にきっぱりと対処しなかったことが「下剋上」を許したと言っている。自分の考えと違ってもそれをどうすることもできなかったと言っている。だから戦後再軍備は必要だと考えていたが、戦前のような軍閥には絶対にしてはならないと言っていた。
昭和天皇が戦争責任を逃れたのは、連合国軍総司令官のマッカーサー元帥の意向があったからのようだ。マッカーサーは戦後の混乱した日本を治めるには天皇の存在が必要だと考えたのだ。
昭和天皇は戦後退位について何度も考えたようだ。自ら道義的責任として退位する方がよいと考えたのだ。しかし、皇太子が15歳で若かったので退位することは難しかったようだ。国会でも退位について議論されたが、結局退位は実現しなかった。占領政策上からも退位されては困る事情もあったようだ。
「拝謁記」の後半は、講和条約締結の記念式典でのお言葉をどのようにするかをめぐって、田島宮内庁長官が天皇と話し合ったことが中心であった。お言葉について1年も前から田島氏はいろいろと研究して案を作り天皇と話し合ったのだ。
昭和天皇は先の戦争について触れることが大事だと考えていた。最初の案は、「事志と違ひ 時流の激するところ 兵を列強と交へて 遂に悲惨なる敗戦を招き 国土を失ひ 犠牲を重ね 嘗て無き不安と困苦の道を 歩むに至ったことは 遺憾の極みであり 日夜これを思ふて 悲痛限りなく 寝食安からぬものがある 無数の戦争犠牲者に対し 深厚なる哀悼と 同情の意を表すると同時に 過去の推移を三省し 誓って過ちを再びせざるよう 戒慎せなばならない」で始まっていた。
「事志と違い」の文言は削除され、他の部分も書き換えられたが、吉田総理は次の部分の削除を求めた。「勢いの赴くところ 兵を列国と交へて敗れ 人命を失ひ 国土を縮目 遂にかつて無き 不安と困苦を招くに 至ったことは 遺憾の極みであり 国史の成跡に顧みて 悔恨悲痛 寝食ために安からぬ ものがあります」
吉田総理の考えは終戦の詔勅をもって戦争のことは終わりとするというものであった。天皇は結局それに従うことになった。
その上で国民とともに深く反省をするべきだと。それでずいぶんこだわっていた。田島氏は吉田総理と話し合い総理の考えを尋ねたら、天皇がこだわっている部分について削除するように言ったのだ。
「拝謁記」を見て昭和天皇は軍閥の台頭と戦争に走ることを抑えられなかったこと、道義上の戦争責任を取って退位を考えたこと、講和条約締結をお言葉に戦争への反省を入れることにこだわっていたことなどが分かった。
軍部の力が、現人神とされ絶対的権力を持っている天皇を凌駕するほどになって、戦争が遂行されたことを知り、改めて軍が権力を持つことの恐ろしさを知らされた。
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