歴史問題

2018年2月11日 (日)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年回顧―⑨―

 

治安維持法で検挙され、精神障害になり、拘禁精神病と診断された人たち。これらの人たちがまぎれもない治安維持法の犠牲者である。

 拘禁精神病と呼ばれる精神障害は、単に拘禁という物理的条件からくるものではない。それは、特高の過酷な取り調べ、転向の強要などの身体的、精神的侵害、そして、自分の信念と肉親の情愛との相克、葛藤、愛するものの裏切り、といった精神的苦悩の限界状況に由来する。このような状況におかれれば誰にでも起こりうる精神障害である。

 千代子は、人間の良心と自由に対する権力の弾圧へ、からだを賭して無言の抗議をした。

 彼女の高等女学校時代の恩師で、アララギの歌人土屋文明が、1935年、雑誌『アララギ』に寄せた短歌三首を紹介する。

まをとめの、ただ素直にて行きしを、囚へられ獄にき、五年がほどに

こころざしつつふれしをとめよ、新しき光の中におきて、思はむ

 高き世をただめざす をとめらここにみれば 伊藤千代子がことぞかなしき

 伊藤千代子はじめ戦争に反対して斃れた先駆者の志を継承し、どんな困難であっても平和を守り抜かなければならない。戦争に反対し、平和のために闘って斃れた伊藤千代子たちのこころざしを正しく受け継ぎ、戦争の過ちを再び繰り返さない拠りどころとしなければならない。

 おわりに

ベラルーシのノーベル賞作家のスベトラーナ・アレクシェービッチが、過酷事故を起こした東電福島第一原発を視察した後の講演で「日本には抵抗の文化がない」と言っていたことが気になっていた。

確かに日本の農村地域に残る「横並び思考」を踏まえれば、その通りだと思えるが、日本の歴史・文化を辿るとそうとは言えないのではないかと思う。日本には「抵抗の文化」はあった。乏しい歴史知識でも、中・近世の土一揆、一向一揆、百姓一揆は、江戸時代を通じて約3200件も起きている。明治政府に対する自由民権運動。そして米騒動があげられる。

 個人としては、公害反対闘争の先駆者田中正造がいる。新藤謙「国家に抗した人びと」(寺子屋新書)によれば、海軍大佐でありながら、永久平和を願い軍備撤廃をめざした水野公徳。風刺精神を極限まで高めて川柳をつくりつづけた鶴彬。トルストイの思想に共鳴し、兵役拒否を貫き通した翻訳家・北御門二郎。陸軍参謀本部で軍部への怒りを日記に綴った作家・中井英夫。内心の自由を求め、ひたすらに思想と学問を深めていった歴史学者・家永三郎らが紹介されている。

 最後に、手前味噌となるかもしれないが、赤岩栄(1903~1966)をあげたい。日本基督教団の牧師。牧師をしながら共産党入党宣言をしたこととから教団内の大きな問題になった。詳しくはウィキペディアなどを参照してほしい。

 赤岩栄は上原教会の牧師をしていたが、小生の父はそこの教会員であった。父は赤岩栄を尊敬しており、赤岩栄は両親の結婚式の司式もしている。父は鉄道省の電気信号技師で、ATⅭ列車制御装置の先駆的研究をしていたが、教会の修養会などのお世話もしていたという。

父は山口高校時代に学生運動をするなど当時としては過激派であったため、東大は思想的に難しいかもと、親戚からのアドバイスを受け、京大の電気通信科に入学した。父は小生3歳の時に他界しており。直接感化されたことはないが、そうした父のDNAのかけらを引き継いでいるのかもしれない。

 赤岩栄は、晩年は、バルト神学を捨てて、ルズルフ・ブルマンの非神格化論の神学に影響されて、人間イエスを探求し、イエスを自ら実践する方法を探った。1966年に「キリスト教脱出記」(理論社)を出版し、正統なキリスト教信仰を廃して、内部からの鋭い問題提起とキリスト教批判とを行った。社会活動としては、全国生活と健康を守る会連合会(全生連)第3代会長などを務めている。

 《参考文献》

 『さよなら!福沢諭吉』第4号(2017年11月 発行世話人 安川寿之助)

 二宮厚美『終活期の安倍政権』(2017年11月 新日本出版社)

 鷲巣力『加藤周一を読む』(2011年9月 岩波書店)

藤田廣登『時代の預言者―伊藤千代子』(2005年7月 学習の友社)

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2018年2月10日 (土)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年回顧―⑧―

伊藤千代子

平和憲法を蹂躙して、治安維持法的なものがいつまた復活するか分からない状況が日本を飲み込もうとしている。

このような時代状況から、かって戦争に反対し平和のために闘って斃れた先駆者の思想と行動を学び、戦争の過ちを再び繰り返さないためのよりどころとしなければならない。

 昭和初期、1928年から34年にかけて、治安維持法で検挙、投獄された人たちの中に拘禁精神病と呼ばれる精神障害に罹患した人たちがいた。

 伊藤千代子はその中の一人である。千代子が過ごした大正末期から昭和初期、1920年代は、日本の軍部ファシスト政府が、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニと呼応して、15年戦争に突入する前夜であり、それに抵抗する民主化運動が急速に高まりつつある時期であった。

 千代子は、1928年(昭和3)年1月、東京女子大4年生の時、卒業を間近にして思想上の指導者である浅野晃氏と結婚。日本共産党に入党している。党中央事務局の事務局長水野成夫のもとでリポーターとして活動していた。

 全国の日本共産党員とその同調者と目された人たちが、3月15日一斉に検挙された3・15事件である。彼女も、民主化運動に対するファシズム政府の大弾圧で滝野川警察に逮捕された。この日検挙された人は全国で3千6百人にのぼった。この弾圧の拠り所になった法律が治安維持法である。

 千代子が警視庁滝野川署に逮捕されたとき、取り調べにあたったのは警視庁特高のM警部であった。Mは、後に殺された小林多喜二の拷問を指揮し、宮本顕治日本共産党議長に拷問を加えている。彼の取り調べはすぐ暴力をふるうことで有名だった、ひどい取り調べを受けた後、市谷刑務所に送られた。ここはまた、粗末な食事、不衛生な監房、病人に対する不親切など非人間的な取り扱いで有名だった。

 千代子は、体がかなり弱っていたのに、獄中ではいつも自分のことより他の同志のことを心配し、当局や看守の不当な扱いに対して勇敢に戦っていた。

 11月7日のロシア革命記念日には、激しい暴圧と厳しい監視の中で、獄中の同志たちと連絡をとり、起床のボーを合図に、女子舎房から刑務所中に「同志よ固く結べ」の歌声を響きかせた。また「帝国主義戦争絶対反対」などのスローガンを唱和し、3・15の記念日には、「赤旗(せっき)」の1番をほかの女囚と合唱したりして、看守連中をあわてさせた。

もちろん、懲罰は覚悟の上であった。当時の特高警察は、殴る、ける、たたくなどの暴力をふるい、若い女性には衣服を脱がせて裸にするなどの辱めでショックや動揺を与える「身体検査」を行うなど、病人でも容赦しない卑劣かつ残酷なやり方で取り調べをしていた。

 1929年3月ごろから、水野成夫氏ら、当時の共産党の指導者の一部が、市谷刑務所の獄中で、天皇制打倒といった治安維持法に触れる主義、主張を撤回し、党の解体と新しい党を樹立する運動をはじめ、この運動に加わった者が、それぞれ自分の主張を書いた「上申書」を警察に提出した。その中に、千代子の夫浅野氏もいた。

浅野晃氏は自分の上申書を、もし千代子が目にすることがあれば、きっと大きな衝撃を受けるにちがいないと思い、担当の検事に自分の上申書は千代子に絶対見せないでほしいと頼み込んだ。検事も見せないと一応の約束はする。しかし、取り調べの際、千代子に転向を迫るのに利用しようと、夫が解党派の一人であることを千代子に告げた。約束を破って、浅野氏の上申書を千代子に読ませた。

 千代子が精神に変調をきたしたのは、浅野氏の上申書を読んでから間もない1929年8月1日ころからである。急性の激しい錯乱状態に陥る。千代子の思想上の指導者であり、最愛の同志であり、夫である浅野晃氏の裏切りが、千代子に与えた衝撃がどんなに大きいものであったか推測に難くない。

 千代子が東京府立松沢病院第4病棟に収容されたのは発病から2週間以上たった8月17日であった。

 

因みに、上申書を書いた水野成夫氏、浅野晃氏ら解党派は、千代子がなくなった翌年、1930年にみな釈放となり、市谷刑務所から出所するが、日本共産党から除名された。

 

1929年9月24日、千代子は亡くなった。24歳2か月の短い生涯であった。その死は治安維持法と特高による虐殺に等しい、非業の死であった。

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2018年2月 9日 (金)

興味深い「さようなら福沢諭吉」明治150年を回顧―⑦―

 

しかし、政府は何らの対策も取らず、見捨てられた人々は1900年に第四回の押出しを余儀なくされた。被害民たちを利根川に架かる橋のある川俣で警官隊が待ち伏せして弾圧。100余名が逮捕され、51名が兇徒聚衆罪の罪名で起訴された。

正造は、議会で「関東の真中へ一大砂漠を造られて平気でいる病気の人間が、殺さないようにしてくれいという請願人を、政府が打ち殺すという挙動に出でたる以上は、もはや自ら守る外は無い。一本の兵器も持っていない人民に、サーベルを持って切りかかり、逃げるものを追うというに至っては如何である。これを亡国で無い、日本は天下泰平だと思っているのであるか。」と政府を追及した。

 それでも、時の政府が戦争に力を注ぎ、住民を守ろうとしないため、1910年10月、正造は「亡国に至るを知らざればこれすなわち亡国の儀につき質問書」を提出し、議会を捨てた。その年の12月、天皇直訴に及んだ。直訴は死罪の可能性もあり、正造は自らの命に引換に世論の喚起を狙ったのであった。幸いか不幸か、その直訴は天皇警護の警官隊によって阻まれ、正造自身は狂人として即日釈放された。

 正造の直訴を受け、一時期世論は足尾鉱毒問題に沸騰したが、それも時の経過とともに忘れられていった。

 荒廃した水源地は洪水をますます加速させ、渡良瀬川の堤防は度々決壊するようになったが、国や県はそれを修復するどころか、むしろ意図的に破壊した。そして、鉱毒溜めの池を作るため、栃木県谷中村(450戸、2700人の住民が住んでいた)を水没させることにした。現在の渡良瀬遊水地がそれである。

 1904年には日露戦争が始まり、挙国一致で戦争になだれ込んでいった。正造はその年、水没されようとしている谷中村に入村し、住民と寄り添う道を選んだ。

 住民たちは一戸また一戸と谷中村を離れていったが、19戸の住民はあくまでも国の無法に抵抗つづけた。しかし、ついに1907年、国が土地収用の強制執行を行って、住民の家屋を破壊した。それでも、住民たちは水没を免れた高台に仮小屋を建てて、抵抗を続けた。正造は以降1913年死を迎えるまで、水没させられた谷中村と、その住民に寄り添って過ごした。

 その後も、足尾銅山は政府の庇護の下、稼働を続けた。鉱石の品位は低下し、産銅量は低下、一時は命脈を絶たれる寸前となった。しかし、戦後の朝鮮特需で息を吹き返し、その後の高度成長の波に乗って、国内の他の鉱山からも運び込み、さらには外国からの鉱石も運び込んで稼働を続けた、そして1970年にベトナム特需で年間36万㌧を超える銅を生産して最盛期を迎えた。

 その足尾銅山も今では閉鎖となったが、鉱毒はその後も堆積場に野ざらしになって放置されたままとなり、福島第一原発事故が起きた東日本大震災の時には、源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒が流出した。今後も、長い年月に亘って、堆積場の崩壊によっていずれまた渡良瀬川の汚染が起きるであろう。

 正造は、死を迎えた朝、見舞客に対していった。

 「お前方大勢来ているそうだが嬉しくも何ともない。みんな正造に同情するだけで正造の事業に同情してきているものは一人もいない。おれは嬉しくない。行ってみんなにそういえ。」

 そして、正造は言う。

 「対立、戦うべし。政府の存立する間は政府と戦うべし。敵国襲い来たらば戦うべし。人侵入さば戦うべし。その戦うに通あり。腕力殺戮をもってせると、天理によって広く教えて勝つ者との二つの大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れてもやまざるは我が道なり。」

 足尾鉱毒で始まり、四大公害を経、そして今なお発生する公害、さらには沖縄を含めた基地問題など、全ては同根である。それを貫いているものは、国を豊かにするという思想である。そのもとで企業を保護し、住民は切り捨てるという構図が続いてきて、福島原発事故を経た今もその構図は全く変わっていない。しかし、「民を殺すは国家を殺す也」と正造が指摘した通り、住民を見捨てる国が豊かであるはずがない。正造は言う。

「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」

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2018年2月 8日 (木)

興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑥―

 

田中正造

 足尾は関東平野の北限に連なる山間の地である。山々から流れる沢は、渡良瀬川となって関東平野に流れ込む。

 その足尾で銅が発見されたのは1600年頃のことで、当初は徳川幕府直轄の銅山として稼業し、一時は年間1500㌧の銅を産出し、当時開国していた唯一の外国であるオランダに向けて輸出もしていた。

明治時代に入って足尾銅山は再度隆盛を極める。日本は日清、日露の戦争を戦い、世界の列強に伍そうとして、そのために明治政府は富国強兵、殖産興業を基本原理として、産業の近代化に邁進した。とりわけ、銅は海外での需要が多く、日本にとっては外貨を獲得するための主要な輸出商品となり、産出した銅のほとんどすべてが輸出された。足尾銅山はその基礎として開発、利用された。

 しかし、その陰で、足尾銅山からは、亜硫酸ガスが大量に放出され、付近一帯の山々は禿山となり、製錬の残さは100万平方メートルを超える堆積場を次々と埋め尽くし、保水力を失った禿山に雨が降れば簡単に洪水となって堆積場を襲い、銅を主成分として、鉛、カドニュームなどを含んだ鉱毒が渡良瀬川下流に流れた。そのため、1885年には渡良瀬川での魚の大量死が始まり、87年には渡良瀬川の魚類は死滅した。

 田中正造は栃木県佐野市の庄屋の家に生まれ、栃木県県会議員、議長を経、1890年に初代帝国議会の衆議院議員になった。直ちに、鉱毒被害の追及をはじめ、1891年には「足尾銅山鉱毒加害の儀につき質問書」を議会に提出し、政府を追及した。

 しかし、政府は足尾銅山を保護するだけで、住民を救済する方策をとらなかった。被害は拡大し、1892年には洪水で著しい被害が出た。加害者の古川鉱業は被害民と第1回の示談を行い、わずかばかりの金銭を支払った。

 1894年には日清戦争が始まり、政府は戦費調達のために足尾銅山の庇護を続けた。鉱毒による被害は増える一方となった。その当時、渡良瀬川は、江戸川となって東京に流れ込んでいたが、鉱毒が東京に流れ込むのを嫌った政府は、1894年に埼玉県関宿で渡良瀬川を銚子に流れる利根川に付け替えた。

 1896年に再度の大洪水が起こり、渡良瀬川、利根川、江戸川流域一府五県4万6千町歩に鉱毒被害が拡大した。疲弊しきった農民・漁民は、1897年、二度にわたって、東京に向けて「押出し」をし、救済を訴えた。

 正造は、押出しに向かう人々と呼応して、議会で、追及を続けた。苦難のどん底に突き落とされた住民は1898年に三回目の押出しに及んだ。そのとき正造はまだ帝国議会の議員であり、押出しに向かう住民を保木間で迎えて、以下のように演説し、押出しを思いとどまらせた。

「一つ、正造は日本の代議士にして、またその加害被害の顛末を知るものである。故に衆に先立って尽力すべきは正造当然の職分である。諸君がすでに非命に斃れるを見る。正造は諸君たちに先んじて死を決しなければならない。もう一つは、現政府は幾分か政党内閣の形をなすもので諸君の政府であり、また我々の政府である。(中略)政府が事実をはっきり認識しながら、なお鉱業の停止をしないならば、そのときは、もはや諸君の行動を止めない。進退を共にする。先頭に立って行動する。」

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2018年2月 7日 (水)

興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑤―

 《補論》

  加藤周一『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』に学ぶ

 『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』には、日本社会に残る超越的価値観の希薄性ないし弱さに対する加藤周一の「悲観論」を集約する。

 最後まで「気がかりにした日本の思想的特徴」である。「悲観的気がかり」を構成するキーワードとは、「超越的・普遍的価値観の欠如ないし希薄性(「鴎外・茂吉・杢太郎論」と「いま・ここ主義」(「日本文化における時間と空間論」)である。

「いま・ここ主義」とは「超越的・普遍的・絶対的価値観の希薄性」の裏側にある思考様式、世界観、エートス、文化的特質等のことである。

「いま・ここ主義」の一つの意味は現在中心主義をさす。現在中心主義とは、過去と未来とを現在を中心にしてつなぐのではなく、切断するということである。 過去・現在・未来の時系列の歴史的・論理的つながりを断ち切ることの第一の帰結は、過ぎたことは水に流すこと、特に都合の悪い過去を忘れ去ることである。(過去の戦争責任、「森友加計疑惑」、福島原発のメルトダウン事故など)

第二は、未来に対して、過去や現在を引きずらないこと、いわゆる「未来志向」に立って、その時その時の風に任せること。

 加藤周一は「済んだことは水に流す」の対句を、端的に「明日は明日の風が吹く」といっている。

過ぎたことを水に流す例として、ドイツ社会は、『アウシュビッツ』を水に流そうとしなかったが、日本社会は『南京虐殺』を水に流そうとした。

「明日は明日の風が吹く」式の思考を示すものとして、「1941年12月8日の東京市民の表情は愉しそうでした」、真珠湾攻撃の日に「日本人の顔が明るいのは、数年後に何が起こり得るかを考えずに暮らすことができるから」と説明する。

 加藤周一は「日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある」と指摘した。

「いま・ここ主義」にいう「ここ」とは、空間における「ここ」という部分的スペースを指す。「ここ主義」とは「部分(強調)主義」と言い換えられる。全体の計画や設計、見取り図、又は世界観や統一的様式があって部分が決まるのではなく、逆に部分が先にあって、結果として全体がつくられていくということである。

「いま・ここ主義」による無責任、なし崩し的変化、大勢順応主義とは

 第一は、過ぎたことは水に流して生まれる過去の忘却、そして、この不都合な過去の忘却に基づく無責任体制である。(2013年9月、東京オリンピック誘致演説において、安倍首相が福島第一原発の汚染水漏れ問題について「状況は完全にコントロールされています」

 第二は、「建て増し方式」(9条加憲論、アベノミクス第一の矢)

 第三は、大勢順応主義の傾向である。大勢順応主義とは、普遍的・超越的価値観が弱く、「いま・ここ主義」の風潮が強いところで起こる大衆的現象、すなわち「集団の成員の大部分が特定の方向へ向かう運動」のことである。

「いま・ここ主義」の強いところでは、過去・現在・未来を貫く視点や原理が弱く、普遍的・超越的価値観が希薄のために、人々を特定の方向に同調させる圧力が作用すると、大勢を集める流れがつくりだされ、たちまちのうちに大勢順応主義が大衆的現象となる。

 

概要、①鴎外らには普遍的・超越的価値観が希薄であったこと、②普遍的・超越的価値観が希薄性は日本文化を貫く「いま・ここ主義」と裏返しの関係にあること、③「いま・ここ主義」に起因して、a.無責任体制、b.なし崩し的変化、c.大勢順応主義の三つの傾向が生まれ、これが現在の日本にも根強く残っていること、これら三点である。

 

 

 

 

 

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2018年2月 6日 (火)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年を回顧―④―

  第二は、三人が絶対的・普遍的価値観ないし心情(=信念)をついに持ち得なかったことである。絶対的・普遍的価値観とは、例えば良心的兵役拒否といった絶対的平和主義のエートスのようなものである。

 絶対的・普遍的価値観は、時勢・時流に流されることのない不動の価値観や規範、大勢に逆らってでも堅持する揺るぎなき信念、時代の変化を超越した価値観のようなものである。加藤流では、この絶対的・普遍的価値観は超越的価値観と言い換えられる。超越的というのは、各個人が属する集団だとか、同世代・時代、大状況から超越的である、という意味であり、諸個人が自律性を保つための拠点になり得るような価値観のことを指す。ひらたくいえば「ぶれない価値観」である。

 加藤周一は、集団主義において強くあらわれる、大勢順応主義や時代迎合主義から各個人が自由になるには、この集団や時勢から超越した絶対的・普遍的価値観に依拠する必要がある、ということを再三強調した。

 鴎外等が経験した戦争中には、国民の多くが戦争に動員され、大勢は軍国主義に傾き、国を挙げて戦争に翼賛する体制が築き上げられた。この動きに抵抗したり、逆らって「反戦」を貫くことは容易なことではなく、よほどの信念・確信に支えられない限り、怒涛のような軍国主義の流れから自由になることは出来なかった。

 そこで、加藤周一は戦前の天皇制軍国主義の体勢に流されない視点として各自の有する超越的・普遍的価値観の重要性を指摘しつつ、同時に、鴎外ら三人はかかる絶対的・普遍的価値観を持ち得なかったとしたのである。

 戦前の場合、天皇制国家の軍国主義に対して「反戦」を貫き通すことのできる思想・価値観を提供したのは、もっぱらマルクス主義とキリスト教の二つであったといっても過言ではない(この二つが外来のものであり、土着のものではなかった)。

 第三は、三人が民衆の立場に立てなかったことである。鴎外らは、時代のエリートであって、階級的には支配層に所属していた。鴎外は天皇制官僚制の一員として権力中枢に近いところにいたし、杢太郎は帝国大学の教授、茂吉も私立病院の院長として、エリート層に属していた。民衆の一員だったわけではない。

 だが、戦争になると、最もその犠牲を被るのは、一般の大衆、民衆である。戦争の最前線でその犠牲者、被害者となるのは、専ら民衆、庶民である。別の視点でいうと、戦争に対して最も鋭く、敏感に反応するのは、民衆だということである。当世風のいい方では、戦争の当事者意識は民衆の立場に立ってこそ持ち得るし、理解できるものである。だが三人は、この当事者意識に欠けていた。

 以上三点、すなわち①戦争の社会科学的認識の欠如、②戦争に対する超越的・普遍的価値観の希薄性、③民衆的視点の欠落の三点が、鴎外・茂吉・杢太郎が共通して反戦的立場・思想を貫くことのできなかった理由である。これが加藤周一の講義のポイントであった。

 

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2018年2月 5日 (月)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―③-

鴎外・茂吉・杢太郎

今から二十数年前、加藤周一がNHK教育テレビ番組「人間大学」講座「鴎外・茂吉・杢太郎」において、12回にわたって話した(1995年1~3月)。

 鴎外・茂吉・杢太郎の三人が共通して、日清・日露から太平洋戦争にいたるまで、日本が当事国となった戦争に対して、決して反戦の姿勢を貫くことがなかった。三人が戦争に反対しなかった理由、又はしえなかった理由、その「謎」に対して、加藤周一は明快な説明をした。

 鴎外・杢太郎は、明治後期以降の日本の侵略戦争に積極的に加担したというわけではないが、反対の態度を鮮明にしたわけではなく、茂吉にいたっては、太平洋戦争を熱狂的に賛美し、明らかに天皇制国家によるアジア侵略を鼓舞する立場にまわった。これは、いったいいかなる理由によるものか。

 まず森鴎外、斎藤茂吉、木下杢太郎の三人に共通するのは、戦前の代表的な文学者、医師すなわち医学研究に従事した科学者、そしてヨーロッパ留学の経験者、といったところであった。戦前日本の場合、医学等の自然科学は、主に欧米の「輸入学問」に依存していたから、彼ら三人はベルリン(鴎外)、ウィーン(茂吉)、パリ(杢太郎)の留学経験を積んで、文学面のみならず、科学研究面においても日本では最前線にいた。彼ら三人は共通してインテリゲンチャとしてはエリートに属した。

 加藤周一が問題にしたのは、かくも優れたエリート知識人が、なぜ戦争に反対しなかったのか、反戦の立場に立ち得なかったのか、その理由である。加藤周一がたてた問いを現在の日本にあてはめていえば、現代日本のノーベル賞級の知識人たちの中で、もし安保法制や安倍改憲に反対しない人がいるとするならば、それはいったい何故なのか、いかなる理由によるものか、という問いである。

 加藤周一によれば、その理由は三点である。

 第一は、三人ともに戦争に対する社会科学的認識に欠けていたことである。日清・日露からアジア・太平洋戦争にいたるまで、近現代の戦争を貫く共通の性格は、言うまでもなく植民地侵略・獲得戦争という性格である。あるいは、帝国主義戦争であった。

 三人が反戦の立場をついにとりえなかったのは、中国・朝鮮をはじめとするアジア諸国に対する日本の帝国主義的侵略戦争の本質を見抜き得なかったことに起因する。

加藤周一のいう社会科学的認識とは、戦前の場合、具体的にはマルクス主義による戦争分析・認識のことを指す。それは、戦前の場合には、「社会科学=マルクス主義」という捉え方がほぼ一般的であったということと(例えば丸山眞男は「戦前においては、簡単に言えば社会科学イコール、マルクス主義だった」と回顧している(加藤周一『加藤周一対話集第二巻 現代はどういう時代か』かもがわ出版、2000年)、日本にあっては、実際に帝国主義的侵略戦争、植民地獲得戦争を正面から分析した社会科学は主としてマルクス主義陣営だったからである。

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2018年2月 4日 (日)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―②―

 

「祭天」とは、天を祀ること、天とは自然のことである。「祭天」とは自然崇拝のことである。「古俗」とは、昔からの習俗という意味である。

  日本中の神社を見てみると、和歌山県の那智大社は、那智滝をご神体とする神社、月山神社、出羽神社、湯殿山神社を合わせた出羽三山のように、月山・湯殿山・羽黒山という、山をご神体とする神社など、驚異的な自然を崇拝する例が非常に多い。

 一方、菅原道真を祀る天満宮(天神様)、徳川家康を祀る東照大権現のように、亡くなった人を神として祀ることがある。

 このように、本来の神道は、滝や山、あるいは、亡くなった人の霊を信仰の対象にするものであった。

明治政府はそれまで「天照大神」を崇拝する天皇家固有の神道だったものを「国家の宗」として、新たに「国家神道」をつくり上げたのである。

 この国家神道で、天皇は天照大神の子孫であり、生き神様であるとされた。国家神道の形成と、明治憲法の制定を基盤として、教育勅語が日本人の心を縛るものとなった。

「近代天皇制」を「明治時代にできた新興宗教」と言われる所以である。この新興宗教を信仰することを国民は強制され、洗脳された。明治政府は憲法や教育勅語だけでなく、「讒謗律」「新聞紙条例」「出版条例・出版法」「集会条例」「不敬罪」などで国民の言論の自由を奪い、身も心も縛り、侵す「天皇制国家」を作り上げた。

 

「近代天皇制」は長い歴史を持つ神道とは別物の「国家神道」を基盤に据え、天皇を現人神と崇める。

その国家神道の中心に据えられた天皇は、1945年の敗戦後、連合国軍によって、国家神道が廃止されると、1946年にいわゆる「天皇人間宣言」で自己の神格化を否定した。

 その時点で、近代天皇制は消滅したはずが、「洗脳」の影響は現在も残っている。

現在の「象徴天皇制」は、アメリカが日本を統治するために考え出した制度である。日本の敗戦後、戦勝国の間ではヒットラー、ムッソリーニと同様に、天皇にもその戦争責任を取らせるべきだという意見が強かった。ヒットラーは自殺、ムッソリーニはパルチザンにとらえられ処刑され、その遺体はミラノの広場で逆さ吊りにされた。翌年の6月の国民投票(1272万対1072万)によって、イタリア国民は王政を廃止し、国王一族を国外追放した。

 

ロシア、イギリス、オランダ、オーストラリアなどは天皇裕仁の処刑を強硬に求めた。しかし、戦勝の二年も前から戦後の日本統治の研究をしていたアメリカは、天皇を残しておいた方がアメリカにとっては日本を統治しやすいと考えた。

天皇を象徴としたのは日本ではなくアメリカが決めた。日本人はアメリカに与えられた「象徴天皇」の象徴の意味をあいまいにしたまま現在まで過ごしてきた。

 

石川県の高校教師(美術・書)である中谷成夫『一万円札の福沢諭吉』(2014年「文芸社」)の中で、福沢諭吉を、「若いときは民主主義、人間平等を鼓吹したとされるのですが」、後半生の20年間は、「隣国の朝鮮や支那への侵略を熱烈に主張する」「強烈な帝国主義者であり軍国主義者であり」「昭和にいたる暗い軌道を敷設する役割を果たし」、「結果的に昭和20年の日本の敗北にいたるアジア侵略へのレールを敷いた人物」と評価し、福沢が「最高額紙幣の一万円札の顔」に相応しくない人物であると結論付けている。

慶應出身者を含めて、『学問のすすめ』『福翁自伝』『文明論乃概略』なら、少し読んだことのある日本人はいるが、誰でも福澤を知っている日本人が、実は福澤の著作を読んでいない。

 日本人は『すすめ』『概略』『自伝』などは読んでも、肝心の福沢が直接社会に向けて一番多く発信した『社説、漫言、その他の論説』は読んでいない。ところが、『福沢諭吉全集』の中で一番多いのは福沢が経営していた「時事新報」紙(その後継紙が「産経新聞」)に福沢が掲載したこの『社説、漫言、その他の論説』である。

 福澤が「ヘイトスピーチの元祖」と言われるほどにアジア諸国民を蔑視し、「強兵富国」のアジア侵略路線を先導し、その近代化の道のりが1945年8月の日本の敗戦・破綻につながったことは、誰の目にも明らかになる。

 

『福沢全集』の福沢の『社説、漫言、その他の論説』に目を通せば、福沢の真実の姿を素人でも見落とすことがない。

日本人の福沢についての誤解は、まず日本人が福沢の著作をほとんど読まないできたためであるが、「戦後民主主義」時代の日本の研究者が、アジア蔑視、アジア侵略戦争の先導者福沢を、偉大な「民主主義の先駆者」と読み誤り、数々の福沢諭吉神話(じつは「丸山諭吉」神話)を創作してきたためである。

 丸山眞男の丸山福沢論の代表作『「文明論乃概略」を読む』(岩波新書)は致命的な誤読である。

 丸山眞男らは、戦後日本の民主化の啓蒙と推進のために、天皇制軍国主義者、帝国主義者の福沢を「民主主義の先駆者」という神話の主人公に仕立て上げ、福沢諭吉を1万円札の肖像まで押し出した。

 しかし、神話にもとづく啓蒙によって、現実の日本社会を変革することは出来ない。丸山らに代わって今、日本で福沢諭吉を最高にもてはやしているのが、日本の戦争国家への道を暴走している安倍晋三を筆頭とする石原慎太郎、平沼赳夫ら「極右」の政治家であることに注視する必要がある。

 

 

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2018年2月 3日 (土)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―①―

 今年は明治維新150年である。それに関連したニュースなどがいろいろ出て来るであろうことは前に書いた。

 先日友人から送られてきたのは、「さよなら、福沢諭吉」という小冊子の内容がよいのでワードにしたというものである。ワードにしたのは戸田しろうという方である。

 福沢諭吉と言えば、中学・高校などの歴史で必ず「学問の勧め」が紹介され、冒頭の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」という文が有名で私なども暗記してしまったくらいである。

 その福沢は西洋から民主主義の考えを取りいれた人だと思われているが、実はそうではなく天皇中心の国体を推し進めた人物であったということだ。私も以前に福沢について間違ってとらえられていることを取り上げたことがあった。

 明治維新150年の年に福沢の本当の姿を見るべきだという論考は面白いし有意義である。

――  明治維新から150年を振り返る

はじめに

 2018年の幕開けとともに私たちは歴史の節目を迎えた。2018年1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を称賛した。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。

 日本の近代化の出発点と言われている明治維新を振り返り、その後の歴史を辿ることは意義あることである。

 そこで、明治維新以来今日にいたる歴史の中で日本人に影響を与えた人物、福沢諭吉、田中正造、森鴎外・斎藤茂吉・木下杢太郎、伊藤千代子の生きざまとその思想を取り上げた。

(1)福沢諭吉

 福沢諭吉は、日本では最高額紙幣の顔となるほどの著名人である。慶應義塾大学の創始者であり、幕末・明治初頭に三度洋行して、『西洋事情』『学問のすすめ』等のベストセラーを書き、また「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、『すすめ』冒頭言葉で知られている。

 けれども、『すすめ』冒頭には確かに「天は人の上に造らず…」と書いてある、だが福澤はこれを、「・・・と云えり」と単なる伝聞として記し、後に続く文に先立つ譲歩節として置いただけである。

 天皇制についても、福沢諭吉は、明治8年(875年)の『文明論乃概略』までは、「我が国の人民は数百年の間天子の存在を知らず、ただ、伝説のように言い伝えてきただけである」「鎌倉時代に入り人民が皇室を知らなかったことは七百年に近い」

「国君といっても同じ人類である。偶然の生まれで君主の位にいる者か、または、一時の戦争に勝って政府の上にいる者にほかならない。どうしてこのような輩の命令にしたがって、我が一身の徳義品行を改めるものがあるだろうか」

「政治と天皇を尊び祭り上げることを、一つのものとする考えで世間を支配することとなったら、日本の未来はない」などと言っている。

 ところが、福沢諭吉は明治15年(1882年)の『帝室論』、明治21年(1888年)の『尊王論』では、突然、「我が帝室は日本人民の精神を収攬する(集める)中心である」「我が大日本国の帝室の尊厳神聖の得は高い。我々臣民としては帝室を尊ばなければならないことは万民の知るところである」などと、それまでとは正反対に、天皇を祭り上げることを言い始める。

 どうして、突然それまでとは違うことを言いだすのでしょうか。福沢諭吉は、実利を重んじる人間であって、実利を得るためには言うことを平気で変えてしまう。福沢諭吉は、日本を欧米諸国と同じ国民国家としての形を作るためには、天皇を中心に据えることが役に立つと考えて、天皇崇拝を推し進めたのである。

『帝室論』には、

 我が国の皇統は外国に比べるものがないほど長い。これを活用すれば場合によっては大きな効能があるだろう。

 ② 国體論は行政の順序を維持するためには大いに便利である。

 ③ 君臣の儀、上下の名分、は文明の方便である。

と書かれている。

 天皇を利用したのは明治維新を成し遂げた薩長土肥と公家たちも同じで、15歳の少年である天皇を「玉(ぎょく)」として担ぎ上げ、天皇の権威を利用した。その天皇にそれまでの代々の天皇がもっていたものとは全く別の権威を与え、自分たちはその権威を利用することにした。我々が天皇を崇めるのだから、人民も天皇を崇めろ。そして、そこでひっくり返して、その天皇に地位を与えられた我々は偉いのだ。として自分たちに権威を与えるのである。

 彼らは、1889年に明治憲法(大日本帝国憲法)を発布し、天皇に国の主権を与えた。

 天皇に形の上で主権を与えておいてその天皇を操って自分たちが実質的な権力を行使するという彼らにとっては大変便利な憲法である。

 明治政府はそれだけでは足りず、翌1890年に「教育勅語」(「教育に関する勅語」)を発布した。

「明治憲法」は政治的に日本人を縛るものであった。しかし、「教育勅語」は日本人の心まで縛るものとなった。

「教育勅語」の肝は

 ① 天皇には忠義、父母には孝行を尽くせ。「忠」「孝」は日本の国体(天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方)の精髄である。

 ② いったん戦争となったら国に身を捧げ、天地と共に永遠に続く皇室を助けるべし。の二つである。

 明治憲法にも、第3条に、「天皇は神聖にして侵すべからず」と書かれているので、それだけでも日本人の心を束縛するものであるが、この「教育勅語」こそ、「国家神道」と相まって日本人を天皇に心の底まで縛り付けるものとなった。

 明治政府は新政府樹立後すぐに「国家神道」の政策に取り掛かる。明治4年に「神社が国家の宗(祖先を尊びること)である」と宣言し、官幣社などの神社制度,神官職などの神官制度を定めて、日本中の神社を政府の統率のもとに置く。

 明治政府が成立する以前の本当の神道とは、「祭天の古俗」であった。

 

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2017年1月27日 (金)

「コミンテルン陰謀史観」というのを初めて知った

 Yahooニュースを見ていたら「アパホテル問題の核心~保守に蔓延する陰謀史観~」という記事があった。筆者は古谷経衡という文筆家である。

 それによると、「コミンテルンの陰謀」によって、日中戦争も南京事件も日米戦争(大東亜戦争と言っているそうだ)も起こったのであり、日本は被害者であるという史観だという。この史観に依拠して、アパホテルに置かれた本「本当の日本歴史 理論近現代史楽2」(元谷外志雄著)は書かれているという。

 その本の核心は、以下のアパグループHPでの反論に見られるというのだ、

 引用部分→日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、「大山大尉惨殺事件」、更には、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。(中略)そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

 さらに、2008年アパが主催する「真の近現代史観」懸賞論文第1回最優秀賞を獲得した田母神論文(元航空幕僚長田母神敏雄著述)もコミンテルン陰謀史観で書かれているという。

 引用部分→「この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(中略)これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。」

 このコミンテルン陰謀史観の依って来たところは、ユン・チアン著の「マオ誰も知らなかった毛沢東」という本だと指摘している。そしてこの本を元に黄文雄氏の「大東亜戦争肯定論」が書かれ、桜井よし子氏は「日本よ歴史力を磨け」を編纂したという。田母神論文はこれら3冊を引用しているというのだ。ユン・チアン(2005年)→1年後に黄、さらにその1年後に櫻井、そして3年越しに田母神と、この「コミンテルン陰謀史観」は培養されていったのである。

 古谷氏は次のように指摘している。

 「保守系言論人の言説を『オウム返し』する傾向が強いネット右翼(保守)の中にも、この『コミンテルン陰謀史観』は必ずと言ってよいほど頻出する精神世界である。日本はコミンテルンの謀略によって『嵌められた』被害者であり、よって南京事件も日本のイメージを失墜させるためにコミンテルンが計画した謀略だ、というのがその世界観の骨子である。これはつまり冒頭にあげた元谷氏の精神世界と全く同一といってよい。 」

 ダイヤモンド・オンラインによると、アパの元谷会長は、安倍首相後援会の副会長だったという。昔から関係が深かったのだ。

※詳しくは下記のURLを。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/furuyatsunehira/20170124-00066939/

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