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思い出

2019年8月 7日 (水)

サンマが大不漁とは!!

 「公海 サンマがいない?」という記事が朝日新聞に載っていたので「エッつ?」とびっくりした。サンマは大好物の魚で子どもの時から食べてきた。育ったのが南紀新宮市なので大平洋でサンマが獲れ、漁港のある勝浦などから行商のお婆さんがサンマを売りに来ていた。また行きつけのハマノ鮮魚店でサンマを買うこともあった。

 あの辺りは「サンマ寿司」が名物で、正月の欠かせない料理であった。土地の人たちは年末にサンマを仕入れて甕に入れて寿司用のサンマを用意した。ときどきスーパーなどでサンマ寿司を買うことがあるが1匹分で700円前後はする。

 サンマは煮たり焼いたりして食べ、その他に干物のサンマが丸干しと開きと2種類あった。それでシーズンにはサンマを朝食に食べて夕食時にまた食べることもあった。

 三陸の方からサンマは太平洋を南下してきて南紀で秋の終わりごろから獲れるようになるのだ。サンマ寿司にできるのは油が少ないからだと言われる。あの目黒のサンマのように油が滴るのは北の方のサンマである。

 その大好きなサンマが大不漁だというのでがっかりである。サンマのことを英語でsauryというが、発音はソーリーでsorryと同じだ。サンマが獲れないなんてソーリーである。

 サンマが獲れなくなってきたのは以前から言われていたことだが、年々漁獲が減り今シーズンは最悪だというのだ。太平洋の公海で台湾や中国の漁船が獲れるだけ獲ってしまうのだ。サンマが夏から秋にかけて、公海から南下して日本近海にやってくる。その前に彼らは獲ってしまうのだ。記事によると日本に来るサンマがいるはずの公海にサンマの姿が少なくなったという。何とかならないものかと思う。

 新宮市出身の文豪佐藤春夫は有名な「秋刀魚の歌」という詩を書いた。

あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

 

2011年10月20日 (木)

子どもの頃の風呂、トイレ、洗面

 浴室、洗面台、トイレの便器などを取り替えて、最新のものになったのでとても快適で使いやすく、しかも、エコ対策にもなった。ある意味では、昔の王侯貴族や大名でもこれほど気持ちのよいシステムの恩恵には浴せなかった。

 ベルサイユ宮殿では、廊下などの片隅で大小便の用を足していたというし、イタリアでは石畳の道に二階などの窓から用便を投げ捨てていたと言われる。

 日本では、便所があって,人口百万の江戸の町には近郷の農民が便を集めに来ていた。便は再利用するシステムが出来上がっていたのだ。

 私が子どもの頃でも、近くの農民が大八車に肥桶を積んで集めに回っていた。その頃の便所は、ポットン便所で便器に下は大きなカメがあってそこに大小便を溜めたのだ。下を向くと便がまともに見え、匂いが上ってきた。

 それでも町の家は陶器できた便器が備わっていたが、田舎の祖父母の家は農家なので外の小屋にあり、板張りで土足で用を足した。最初に使ったときはびっくりしたものだ。

 大便をして便所紙がないときは、新聞紙をよくもみほぐして使ったり、習字の練習をした後の紙を使った。さすがに習字の紙で尻を拭くのはバチが当たりそうな気がした。

 男子用小便器はときどき洗っていても、黄色ぽい色がついていた。洗面所などはなくて台所で兼用していた。戦後名古屋の親戚の家に行ったら、洗面するところがあったので驚いた。

 風呂は、当然家にはなく、銭湯に行っていた。戦時中や戦後の銭湯はひどくて、湯は浴槽の半分ぐらいの深さしかなく、しかも、石鹸の色で濁っていた。そして時たま便が浮いていることがあった。。誰か子供が浴槽の中でしたに違いない。大便は大人が手ですくって外に捨てていた大便をするぐらいだから小便もしたであろう。

 銭湯の湯が溢れるようになったのは何時頃からか覚えてはいないが、ずっと後のことであった。

 我が家には、風呂はなかったが、夏休みに田舎の祖父母の家に行くと風呂があった。玄関脇の物置小屋の一角にあって、いわゆる五右衛門風呂というやつだ。木の桶の底が鉄板で、その下で稲藁などを燃やしてお湯にするので、入るときは火傷をしないよう浮き板を浮かべて入った。お湯は少なくて肩までがやっとであった。

 風呂の水汲みが大変で、井戸で水を汲んで風呂場まで運ぶのだが、それは子どもの役目であった。

 自分の家の風呂に入れるようになったのは、結婚してからであった。それも最初は木の風呂であった。家を建て直してからやっとガスで沸かすタイル張りの風呂になった。それが41年続いたのだ。

 そういう訳で、リフォームしたら余りにも違いがあるので極楽である。私たちは、子どもの頃からの今の感覚で見ると不便極まりない風呂やトイレを経験しているので、よく分かるのである。

2011年7月10日 (日)

子どもの手伝いも労働であった

 長男であった私は、戦時中も戦後も、家族の中で子どもながらに働く戦力として期待されていました。

 当時、食糧難でしたから、父はつてを頼ってあちらこちらにちょっとした畑を作る場所を探していました。

 父の教え子の1人で、和田という家が大きな山林持ちでした。最初に借りたのは、山の梅林でした。段々畑のようになっていて、梅の木が植えてあり、梅の木の下のちょっとしたところで作物を栽培したのです。

 麦、トマト、ナス、キュウリ、サツマイモ、大根などを育てていたのを思い出します。11月頃麦の芽が10cmぐらいになると、麦踏をしました。草履の足を横にして麦を踏んで行きました。そうすることにより強い麦が育つのだと知りました。

 トマトを植えたときに、脇芽を摘み取るのでしたが、それが分からないので父にこっぴどく叱られたことがあります。

 父は、この山のことを「和田の山」と言っていました。山へ行く途中に和田のビワ農園があり、ビワがたわわになっているのを見ましたが、食べることはできませんでした。梅も同じです。梅がなっても取ることはできませんでした。

 この山には、ちょっとした小川があって、そこには沢蟹やイモリがいました。イモリは気持ちが悪いので触りませんでしたが、沢蟹は可愛いのでつかまえました。

 大人になって、あるバーに行ったときに、沢蟹が出されて食べたことがありますが、そのとき初めて沢蟹は食べられるのだと知りました。食糧難のときになぜ食べなかったのだろうとも思いました。

 サツマイモは、遠くの山の木が切り倒されて、禿山になったところを開墾して栽培しました。開墾は大変でした。山の斜面に幅が1mぐらいの畝を作るのですが、斜面なので平らにはならないのです。

 農家に頼んで分けてもらったサツマイモの苗をさしました。さすところには、灰を入れて水をやらなければなりません。その水が大変なのです。何しろ山の上ですから湧き水のあるところまで行って汲んでこなければならないのです。

 この山の畑は一番遠いところにありました。8月15日の終戦の日、この畑に行く予定になっていました。私は嫌でしたが仕方がありません。ところが、学校から帰ってきた父ががっくりとしていて、「今日は畑には行かない。」と言いました。戦争が終わったので力が抜けたのでしょう。私は、畑に行かなくてよいので嬉しかったことを覚えています。

 苦労して作ったサツマイモは、貴重な食糧でした。先日も書いたように、父は、棒秤を作って、それで量って食べました。そのくらい貴重だったのです。

 家から山のトンネルをこえて山の反対側に行くと、熊野川が流れていました。その川原の砂地にも落花生やサツマイモなどを栽培しました。そこへ行くのも大変でした。おんぼろのリヤカーに肥料などを乗せて父が引き、私が後から押して山を登るのです。

 帰りには、川原で流れ木を拾って積んで帰りました。燃料の薪が不足していたからです。落ち松葉を山で集めるのは私や母の仕事でした。

 熊野川に行くのは、楽しみなこともありました。それはキリギリスなどを見つけることでした。

 国民学校1年生の頃から、畑仕事などをやらされましたので、自然に鍬や鎌の使い方、作物の作りかたなどを覚えました。このように当時の子どもの手伝いは、農家の子どもでなくても、労働が伴うものであったのです。