宗教

2016年11月19日 (土)

葬儀や法事でのお経はおまじないか?

 この頃葬儀と法事に出席する機会があった。いずれも曹洞宗であった。私は葬儀でも法事でも、僧侶の読経を聞いて、何を言っているか知ろうとするのだが、漢文のお経では摩訶般若波羅密多心経以外には全くチンプンカンプンである。先日の葬儀や法事では文語によるお経も読まれたが、99%ぐらいは分からなかった。

  法事のとき、たまたま僧が読んだメインの経の表紙を見ることが出来た。それには「神力品」と書いてあった。「神力品」とは何だろうと思いネットで調べたらあった。「じんりきぼん」と読むのだ。

  正式の名称は「妙法蓮華経如来神力品第二十一」と言うようだ。「妙法蓮華経」だから日蓮宗のお経かと思ったら、天台宗でも使われているらしい。曹洞宗開祖の道元禅師は、天台宗の延暦寺で修行したのでそこで学んだという。道元は死ぬ前日に神力品を静かに唱えていたそうだ。

  文語で書かれた神力品というお経であるが、やはり聞いていても、ところどころの単語以外サッパリ意味が分からない。

  いつも葬儀や法事の時に思うのだが、どうして誰にでも分かる現代語に翻訳した経を読まないのであろうか。おそらくそうした現代語訳の経典がないのであろう。

  中国では、インドまではるばるとシルクロードを通って行って、経典を長安まで運んできて漢訳をした。日本の経典は中国から持って来た漢語の経典をそのまま使っている。それは漢語を読めるのはごく一部の僧侶や貴族だけであったからで、僧侶は寺院で修行をしながら、ひたすら漢語の経典を読んで理解しようと努めたのだろう。

  思うに日本に伝来したその時点で、経典はごく一部の当時の知識層の独占物であったに違いない。難解な漢語の経典を読むことで、彼らに特権意識が働いたのだ。だからお経はなんだか分からないが有難い、ご利益のあるものとして、呪文のように唱えられたのだと思う。

  奈良・平安の時代は仏教は天皇や貴族のものであった。一般庶民はあずからぬところであた。国家安寧のために東大寺が建てられたり、病気の治癒を祈るとか、様々な災難を逃れるために多くの寺院が建立されたのだと思う。

  貴族たちは病気を治したり、悪霊災厄を追放するために僧を頼んでお経をあげさせた。そして極楽浄土に往生することを祈願した。

 そのお経の有難さを一般庶民にまで与えようとして念仏が作られたのだ。「南無阿弥陀仏」唱えれば極楽往生が叶うというのは、非常に単純化してしかも効果的な方法であった私は思う。鎌倉時代になって日蓮は法華経をもとに、「南無法蓮華経」を唱えることを説いた。これも浄土教と同じがり方である。

 日本で経典が日本語に訳されたのが、何時頃であったのかは知らないが、今日聞くものは文語訳で、その上漢字部分はそのまま使われているから、漢語の経典とあまり変わらない。多少読みやすくなっただけである。聞いて意味が分かることは絶無である。

 仏事でサッパリわからないお経を有難そうに聞くというのは、呪文を聞くのと同じである。意味も分からずにただ音を聞いているだけである。一種の単調な音楽である。

 葬式や法事で読むお経を何時、誰が決めたのかは知らないが、そのやり方が何百年も続いて来て今日でも行われているのが不思議である。しかし、この10年ほどで急速に葬儀のやり方が変わってきているのは、従来の葬儀への疑問が広がっているからであり、お寺離れが広がているのも軌を一にしている。

 長い間の日本仏教の怠慢が、21世紀になって指弾され始めたのだといってもよいと思う。

 

 

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2016年9月26日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―43―

 

 

 私どもが日常つかう言葉の中に「勿体」ないという言葉がある。お金を無駄につかってはいけない。勿体ない。紙を無駄にしてはいけない。勿体ない。たとえ自分の持ち物でも、みんなの役に立つように使わねばならぬ。勿体ないから。かように私どもはこの言葉を日常つかておるが、これはもと仏教の言葉であって、深い意味をもっておる。

 

 この金は私のものだ。この紙は私のものだ。この身体は自分の身体だ。私たちはいつもそう思っている。だが、佛教の考え方によるとそうではない。一銭の金といえども、一枚の紙といえども、本当に自分のものだというものはない。一枚の紙も、いろいろと衆力を集めて出来たものである。一銭の金も、人々が相寄り相扶けて経済社会を保っているから通用するのである。本当に自分のものだといえる物はどこにもない。みんな天下のもの、衆のものである。それを自分が預かっているにすぎない。自分の勝手にはならぬ。大事にしなければならぬ。それが勿体ないの心である。

 

 だが、勿体ないのは、金や物ばかりではない。考えてみると、自分のこの身体さえも勿体ないのである。私たちはみな、何等の因縁なくしてここに存在しているのではない。父母ということも考えねばならぬ。社会ということも考えねばならぬ。自然のめぐみということも考えねばならぬ。私のからだはこれを父母に受けたものである。私のからだは米を食い、野菜を食い、肉を食いしてここまで成長して来た。私のからだは社会からいろいろと保護と影響を受けた。その外になお種々の力が加わって、ここにいま私の存在がある。だから、この私は決して私自身のものではない。また父母のものでおなく、社会のものでもなく、自然のものでもない。そう考えて来ると、本来私自身というものは何処にもない。ただ衆力和合の結果がここにある許りである。これも勿体ないである。

 

 かかる従来仏教の常識的な考え方が、縁起の理法の理解に、幾分でも役立たないであろうか。釈尊もある時、弟子たちにむかって、おなじく「この身は汝等のものに非ず。また余人のものに非ず」と説いたことがあった。そして縁起を思念すべきことを教えてつぎの如く言った。

 

「比丘等よ、されば聖弟子は縁起を聞きてよく思念するものなり。斯くこれあるが故にこれあり。これ生ずるが故にこれ生ず。これなきが故にこれなし。これ滅するが故にこれ滅す。即ち無明に縁りて行あり、行に縁りて識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて觸あり、觸に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有によりて生あり、生に縁りて老死・愁・悲・苦・憂・悩あり。斯の如きは、これを全苦蘊の集なり。無明の無余・離貪・滅によりて行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて觸の滅あり、觸の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老死・愁・悲・苦・憂・悩の滅あり。是の如きは、これを全苦蘊の滅なり」

 

既に述べたように、釈尊によって考えられた存在の方式は、相関性相依性のものであった。それは縁によりて生じてあるが故に、縁生といい、また縁起といい、通常十二の項目の並列によって説かれておるが故に十二縁起とよばれ、またこの縁たるものを因と縁とに分けて考えるばあいには因縁と称せられる。そして、我等の身体のみならず、その他一切の存在は、この方式によって存在しているのだと教えられる。

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2016年9月18日 (日)

増谷文雄「仏教入門」―㊷―

 4、相依る存在(縁起)

 釈尊は、弟子や信者から物を質ねられると、たいてい親切な説明をもって教えた。外道の人々の質問に対しても、懇切な説明をもって答えることが多かった。だが、ある種の質問に対してのみは、黙然として答えないことがあった。答えても、「そんなことは知らない」とか、「それはどうでもいことだ」とか、杵で鼻をかんだような態度をとったものである。

 この世界は常在であるか無常であるか。人間は死後も存するものか存せざるものか。身体と霊魂は一つのものであるか、それとも別の存在で会うか。かような問題をひっさげて釈尊のところに出かけていくと、釈尊はしばしばそっけない態度をとった。いつもの理路整然たる説明も、諄々として懇切な態度も忘れたもののごとく、黙然として空うそぶいておった。

 あるときのこと、婆蹉という沙門が、また例のような質問をもって、釈尊の答えを求めるためにやってきた。

 「大徳に一つご教示願いたいと思って参ったのであります。そもそも我というものは存在するのでありましょうか。それとも存在せぬものでありましょうか」

 だが釈尊は、例によって黙りこくって、一言も口を開かない。経典の言葉はこれを「爾時世尊黙念不答」と記しておる。そこで沙門は重ねて質問を繰り返した。だが、釈尊は依然として黙っている許りである。「是の如くすること再三なれども、その時世尊また再三答えず」と経文に言っている。何度尋ねても、釈尊はこれに一向答えなかった。すると、師のうしろで扇をもって煽いでいた阿難陀が、つい堪りかねて言った。

 「あの沙門はもう三度もお質ねしておりますのに、師はどうしてお答えになりませんか。ひょっとすると、師は答えが出来なくて黙っていたなどと、言いふらさぬとも限りません」

 すると釈尊は、阿難陀をかえり見てて、いつものように、諄々たる態度で言い聞かせた。

 「私がかりに我は存在すると答えたらどうであるか。彼はきっと従来の邪見をますます加えるに相違ない。また仮に我は存在せずと答えたらどうであるか。彼はやはり疑惑を増すばかりであおう。ありと言うは常見である。なしと言うは断見である。私はいつも言うように、この二つの極端を離れて、中道にあって法を説くものである。

 そして、つづいてつぎのごとく説明した。

 「所謂この事ある故にこの事あり。この事起こる故にこの事生ず。謂はく、無明に縁りて行、乃至生老病死憂悲悩苦滅なり。仏はこの経を説くのみ」

 この説明は、極めて簡略にされておるが、これが即ち縁起の理法である。縁起はまた、古くは因縁といわれ、近年の学者は新たに相依るちう言葉をもって名付けている。

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2016年9月13日 (火)

増谷文雄「仏教入門」―㊶―

 五

 四諦の第四、道諦はつぎのごとく説かれておる。

「比丘等よ。苦滅道聖諦とは此の如し。八聖道なり。謂く、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり」

 苦滅道聖諦すなわち道諦とは、苦の滅のために行われるべき実践に就いての真理である。それは八つの聖道から成っておる。

 八つの聖道は、普通には八正道とよばれ、また八直道あるいは八支とも言われる。この八正道は、四諦の体系の中にあっては、道諦の内容をなすものであるが、他面より見れば、これは仏教の実践的体系そのものであって、考え方によると、四諦の全体系はこの八正道に集中され、八正道の実践は四諦の眼目となるのである。それは古来より特に八正道を四諦から取り出して、四諦八正道と呼び習わしているのである。

 さて、八つの正道を順次に説明してみると、まず正見というは、広く言えば人生の正しい見方であり、具体的に言えば四諦の理を見極めることである。どうせ人生は果敢ないものであるから、できるだけ享楽しようというがごときは正見ではない。むしろ人生は短いからこそ、多苦なればこそ、正法に順って正しく意義ふかく生きたいと、正しい人生観をうち立てるのが正見である。

 正思というのは、四諦の理法を見て、思いを練り、真智を増長せしめることである。愛欲の思いに駆りたてられたり、瞋恚の念に人生の方向を見失ったりすることなく、一切の思惟をぴたりと正しい方向に集中することが正思である。

 つぎに正語というは、よく口業を修め、すべて非理の語をなさざることである。正語の対に邪語がある。仏教ではその種類と数えあげて、妄語、両舌、塵言、綺語とならべる。うそやでたらめを言ってはならぬ。心にもない世辞をいうことも善くないことである。それらを去って正しい語業につくのが正語である。

 第四には正業である。一切の邪業を除き、清浄の身業に住することである。生けるものを殺し、与えられざる物をとり、淫行に耽るなどのことは避けねばならぬ。それらの邪業をさけて清浄に就くのが正業である。

 次に正命というは、正法によりて活命すること、正しい生き方をすることである。正しい経済生活を営むことである。人を欺いたり、不正を行ったりして、財を得、命をつなぐことは邪命である。邪命をしりぞけて、正しい生活に就かねば、その精神生活もまた正しかることを得ないであろう。

 かくの如くにして、邪をしりぞけて、正に就かんことを務め、また未発の悪はこれを未発のうちに封殺し、未生の善はこれを助長して実現せしめるなど、自他の向上のために努力してやまざる態度は、正精進と名づけられる。精進とは、なまぐさいものは食わないことだけでなく、もっと広く、一切の正しい努力、それを精進というのである。

 また、正しい努力を進めるに就いては、思慮を正しくし、欲念を去り、不善の念を離れなければならぬ。この心がまえ、正道を憶念し邪念なきを正念と名づける。

 さらに最後には、正念に住し正精進に力め、仏道修業の究竟の目的を実現するためには、欲念を去り、瞋恚を去り尽くして、再び動揺することなき禅心を必要とするであろう。これが正定である。そして、正精進と正念と正定と、この三つの道における努力が、前後互いに相扶け相補ってすすむところ、仏法の大道は必ずや実現せられるであろうと教えられるのである。

 ※釈迦の教えの中核となる「四諦八正道」というのは、四諦の第四、道諦(苦滅聖道諦)の中の八正道を重要なものとして取り出して言っているのである。だから正しくは、三諦八正道と言うべきであろう。人の生き方としての道徳的な面を取り上げて教えているのである。

 大事なことは「諦」とは「見極める」ということである。物をなくして出てこないと「諦めろ」とか、失恋すると「諦めが肝心よ」などと使うが、それはもともとの「諦め」から変化して使われているのである。本来はしっかりと見極めた結果どうにもならないと知って諦めることになるのだ。

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2016年9月12日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―㊵―

 四

 四諦の第三は、滅諦と名づけられ、釈尊によって次の如く説明せられておる。

「比丘等よ、苦滅聖諦とは此の如し。この渇愛を余りなく離滅し棄捨し定棄し解脱して執着なきなり」

 苦滅とは苦を滅する処方である。人生は苦である。苦は執着あるに依って有り、執着は渇愛あるによりて存し、渇愛は無明損するに依りて存する。されば苦を滅するためには執着を滅することが前提となり、執着を滅するためには渇愛を断つことが必要であり、渇愛を処理すべき方法は無明をなくすことより外にはない。

 無明をなくするとは、具体的に言えば、四諦を知ることである。人生多苦の真相に目覚め、この多苦の原因を洞見することが出来れば、ここに、この苦の処理のためには残りなく渇愛を捨離し、執着なきに到るより外に方途なきことが判然としてくるのである。この処理の方途を確立するのが、この第三諦である。苦を処理するには、その原因を処理せよという。至極平凡にして当然の考え方とも思われるが、人間愚凡の浅ましさは、この当然の考え方に徹することが容易なことではないのである。

 昔、ある男が、好物の蜜湯をわかしておると、そこに日ごろから世話になっておる人がやって来た。男は、「ようこそお出でになりました」と、いそいそと迎えて、早速つくり立ての蜜湯を差し上げようと思ったが、湯はたぎり立っていて、そのままでは熱すぎる。そこで彼は、団扇をもって来てばたばたと蜜湯を煽いだのだが、よほど周章ているものと見えて、釜をこんろから下すのを忘れていたのであった。

「どうしたというのだ。湯は一向にさめない」

煽ぎつかれて、彼はふと呟いた。それを聞いて客は、ぷっと吹き出してしまった。

「君はさいぜんから何をしておるのかと思ったら、さては蜜湯をさまそうというのであったか」

「さようであります」

「あほらしい。どんなに君が煽いだからとて、その蜜湯がさめる道理があるものか。釜の下には火がかんかんに燃えているでははいか」

「これは、これは」

 彼はやっと気が付いて、火のように顔を赤くしながら、そっと釜をこんろから下したのであった。

 これは古い経典のなかにある譬喩の物語であるが、この世の中には、こんろから釜を下すことを忘れている人が、何と多いことであろうか。

 人生は苦しい、内心の平和が得たいと希みながらあも、人生多苦の根源に鍬を入れようとするものは尠い。内心の安穏が得られないのは、欲望に駆りたてられているからだと知っても、つい欲望を甘やかしているのが人間のつねである。「法句経」の聖句にもいう。

「樹根害われずして固ければ、樹は伐からるるとも再び生ずるが如く、愛欲の執着断たざれば、この苦は再々生起す」

「愛欲の流れは至る処に流れ、愛欲の蔓は芽を発して茂る。この蔓の生ずるを見ば、智慧を以てその根を断て」

 苦の滅のためにはただ一路があるのみである。智慧を発し、渇愛を残りなく滅し、執着するところ無きに到って、苦は完全に解脱せられる。この方途を確認するのが四諦の第三諦である。そして第四諦にはこれが実践の方法、すなわち道諦が説かれておる。

 ※ここまでは釈迦の教えの中核をなす四八聖道のうち、四諦についての解説であった。次は八聖道についての説明がされる。

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2016年8月24日 (水)

増谷文雄「仏教入門」―㊴―

 四つの真理のうちの第二の真理は、続いて次のように述べておる。

「比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し。後有を齎し、喜貪俱行にして、随処に歓喜する渇愛なり。謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。」

 人生はすべて苦であることは、第一の真理として説かれた。その苦の原因は何であろうか。それに対する答えが、この第二の真理である。集とは集起の義、苦集とは苦の因となるもの、苦を生起するものの意である。釈尊は、すべての苦はみな人間の渇愛によって生起せらるものであると考えた。渇愛とは、今日の言葉では、欲望といってもよく、もっと適切には、欲望をあらしめる生命衝動とでも言うべきものである。

 これを大別すれば三つの渇愛がある。欲愛すなわち情欲の渇愛、有愛すなわち生存への渇愛、無有愛すなわち安息への欲愛がそれであって、それらが相率いて、充足をもとめ、欲貪をかきたて、歓喜に酔い、転生の因をつくる。この人間欲望の本質に対して無智であり、したがって、欲境に対して執着をもつ、そこからすべての苦は生れて来るのだと教えられる。

 我々はさまざまの欲望をもっておる。富貴をのぞむ欲望もある。美人を愛せんとする欲望もある。いつまでも生きたいという欲望もある。死んで後には彼の世に安穏を得たいと言うのも欲望である。だが、静かに考える者には解ることだ。人間はいつまでも生きられるものではない。美人の愛すべき容色もいつまでも存するものではない。富貴は浮雲のように果敢ないものであると言われている。支那の詩人も詠って言ったことがある。

    百川日夜に逝き

    物々相隨って去る

    惟だ宿昔の心あり

    依然として故処を守る

 万物はつねに流転して止まるところを知らぬ。一切は念々刻々に変化していく。昨日満開を誇った花は、明日は散りゆく花である。諸行は無常である。一切は変化する。変化するが故に存在しないのではなく、一切のもののあり方は変化であるということ、すべては時間的に存在するということである。このことわりを知らぬ人間のみが、いつまでも富貴にとらわれ、生存にとらわれ、情欲にとらわれている。それが執着である。

 しかも、いくら執着したからとて、いかに煩悩の焔をもやしたからとて、移ろうものは移ろう。流転するものは流転する。したがって執着する人間の心は、念々刻々裏切られねばならぬ。人生の苦しみはかくのごとくして生ずる。これが釈尊の考え方であって、この考え方が四つの真理の第二、佛教術語でこれを集諦となづける。

 苦は渇愛(欲望)にとらわれること(執着)から生ずるという。万物は無常(常なるものはない)つまり変化する。欲望の対象となるものもすべて変化する。それが釈迦が説いた第二の真理だというのだ。「いろはにほへとちりぬるをわがよたれそつねならむ・・・」といういろは歌はその真理を詠ったものである。平家物語の「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・」も同様である。方丈記の「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にはあらず・・・という名文章は解りやすく無常を説いている。

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2016年8月23日 (火)

増谷文雄「仏教入門」―㊳―

 生老病死の四つの苦のほかに、釈尊はもう四つの苦をあげておる。愛する者んい別れるのも苦、これを漢訳では愛別離苦という。愛せざる者に会うも苦、これを怨憎会苦という。願うところの達せざるも苦、これは求不得苦と言われる。そして最後には、人間のさまざまの執着はみな苦であるとする。これを五蘊集苦という。そして、この四つに前の四つを加えて八苦となし、前に四苦に、全部の八苦、それを四苦八苦というのである。

  無論、人間の苦しみは、この四苦や八苦に限ったものではない。時代が移り、世の中が複雑になって来ると、苦の様式にもいろいろと新しいものを生ずるであろう。それは兎も角、人生は苦しみの多いところである。その事実を見極めることが、釈尊の宗教における出発点となるのである。

  むろん、この世の中には悦ばしいこともあり楽しいこともある。それは釈尊もまたもとより知らないではなかった。だが、本当に人生の真相を洞見したものは、ただ悦ばしい楽しいでは済まされない。

  時間の世界に於いては、一切が無常である。ここに因縁理法の核心がある。これを人生の喜怒、哀楽、得失、利害と、あらゆる位相に当ててみると、そこに人生の真相の洞察が生まれてくる。

  愛する者に会うよろこびがあればこそ、愛するものと別れる悲しみもあるというものだ。歓楽きわまるところに、哀感はおのづから湧いてくるものである。楽しいと思うからこそ、楽しみに執着する心がやがて苦しみを齎すのである。この人生の機微が理解さるれば、やがて、人生は結局苦しみだということが、しみじみと解って来る。また、それとともに、人生の苦しみはどおからくるかということも、ほのかに見当がついて来るであろう。それが解って来れば、四つの真理における第二のものも、おのづから理解せらるる筈である。

 四苦八苦という語句は日常生活において何かをしようとしてうまくいかず苦労するとき出る言葉である。でも、この語句が釈迦が説いた根本原理に由来することを知っている人はどのくらいいるであろうか。四苦も八苦も生を受けて死ぬまでついて回るのである。

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2016年8月22日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―㊲―

 釈尊は成道後ほどなくして、菩提樹の下を去って、西の方に赴き、波羅捺國の仙人随所、鹿野苑において、五比丘に対して最初の説法―初転法輪―を試みた。その説法は、かの中道の宣言にはじまり、それにつづいて四つの真理―四諦―に就いての説明が行われた。

 「比丘等よ、苦聖諦とはかくの如し。生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、怨憎するものに会うは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、略説するに五取蘊は苦なり」

 四つの真理の中でまず第一の真理は、苦の諦すなわち「人生は苦なり」という真理であった。これが釈尊の宗教における第一着歩、出発点をなしているのである。

 古来、「四苦八苦」という言葉が存するが、これは釈尊がこの苦の諦を説いた時の言葉に出づるのである。生も苦である。死も苦である。老いるも苦であり、病むも苦である。これが四苦であって、いろいろの苦しみの中でも、もっとも普遍的且つ根本的な苦である。これらの苦しみは、いかなる幸福の星の下に生まれたものでも、これを免れることはできない。

 多くの仏教経典は、出家前の釈尊がいかに幸福な生活を享受していたかを強調しておる。彼は王族の嫡子として生まれ、邸のうちには三つの池があって、そこには一面に青蓮、紅蓮、白蓮が浮かんでいた。夏と冬と秋に適した三つの別邸もあった。衣物には波羅捺産の美服をまとい、食物には米と肉とを主とした最上の珍味が供せられた。だが、かかる生活の中にあっても、結局、生老病死の反省がなされずには済まされなかった。のちに、弟子たちに語った往時の追懐は、つぎのごとく記されておる。

 「比丘衆よ、我は是の如く富裕にして、又是の如く究竟して無苦なりしにかかわらず、思惟しらく、―無聞の畢生(無智凡庸の者)は自ら老いるものにて、未だ老いを免れざるに、他の老衰者を見て悩み、己を越えて慚じ嫌う。我もまた老ゆべきなり。未だ老いを免れず。我もまた老ゆべきものにて、未だ老を免れざるに、他の老衰を見て悩み慚じ嫌うべきか。これ我に応(ふさわ)しからずと。比丘衆よ、我は是の如く観察せしとき、あらゆる壮年時に於ける壮年の憍何時逸は悉く断たれり」

 そして病に就いても、死についても、また同じことが繰り返されておる。鈍感無反省の人間は、老死が直接彼をつかむまでは、知らざるもののごとくである。だが、人間はしべて生まれてはまた死んでいくのである。その生と死との間には、またさまざまな苦が介在しておる。それが人間の運命であって、この運命の上にそそがれた人類の涙は、大海の水もこれに及ばすと言われた。

 この初転法輪は後の者が釈迦の教えを整理組織した思想体系であろうとする説もあるが、四諦説が釈尊の思想体系の基本的なものであることに異論はないと増谷氏は言う。

 生・老・病・死は人間のみならず、生きとし生けるものすべてに逃れることが出来ないものである。他の動物や植物はどうなのか知らないが、脳が発達した人間には原始の昔から最大の悩みであったに違いない。

 釈尊は生・老・病・死をしっかりと捉えて明らかにすること(諦)を説かれたのである。ここに釈迦が説いた真理の根本があるのだ。

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2016年8月11日 (木)

増谷文雄「仏教入門」―㊱―

 釈尊の説法は、かくの如く、時に臨み機に応じてなされた。

 釈尊の弟子の中に、朱利槃特という頭のわるい弟子があった。よく物を忘れる彼は、どうかすると、自分の姓名さえも忘れることがあった。お前はもの覚えが悪いからというので、釈尊は彼に、つぎのような極く簡単な文句を教えた。

「三業に悪を造らず。有情を傷めず。正念に空を観ずれば、無益の苦しみを免れるべし」

 ともかくこれだけを暗誦するように命ぜられた。この短い文句の中にも、一応は仏教の根本精神がつくされている。だが彼は、たったこれだけの文句がとうしても覚えられなかった。毎日彼は、人のいない野原へ行って、「三業に悪を造らず・・・」とやるのだが、どうしても暗誦できない。近くで聞いている牛飼いの子供が覚えてしまっても、まだ彼は覚えられぬ。自分で自分に愛憎がつきて来た。そしてある日のこと、彼は祇園精舎の門前にしょんぼりと立っていた。その姿を見て釈尊は静かに彼に歩み寄った。

「おまえは、そこで何をしているのか」

「師よ、私はどうしてこんな愚かな人間でございましょうか。私にはとても・・・」

すると師は、彼の言葉を制して、慈悲のこもった言葉で仰せられた。

「いやお前は、決して真のおろか者lではない。愚者でありながら自分の愚かさを知らぬのが本当のおろか者である。お前はそうではない。決して真のおろか者ではない」

そう言って労わりながら、師は彼に1本の箒を与え、あらためて一句を教えた。

「塵を払わん、垢を除かん」

 それから彼は毎日、この一句を誦しながら庭の掃除をはじめた。塵を箒きながら彼は、一生懸命にこの句を考えた。そして幾年かの後には、ついに自心の塵垢を除き去って、愚鈍第一の朱利槃特が神通説法第一の阿羅漢と言われるまでになったという。

 かくのごとく、釈尊の説法はいつも時に臨み機に応じてなされた。山の上から火の燃えさかるのを見ると、世間は煩悩に燃えているのだと教えた。女を探している若者たちに合うと、自分自身をさがすことの大切さを説いた。愚かなるものに対しては愚かなものに適うように教え、賢いものには賢いものに応ずるように説いた。したがって、その説法には数の限りがなかった。だが、その数かぎりのない説法の様式にも、おのづから臨機応変的なものと基本的なものとの差別が見られる。そして、その最も基本的なものは、かの四諦八正道のおしえであった。

 次からはいよいよ釈迦の教えの中核となる四諦八正道が解説される。

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2016年8月10日 (水)

増谷文雄「仏教入門」―㉟―

 3.四つの真理(四諦)

 涅槃という理想目標がさだまり、また中道といふ根本態度がたつと、今度はその基本の上に展開せられる思想と実践の体系が説かれねばならぬ。

 仏教には八万四千の法門があるといふ。八万四千といふは無論実践ではなく、一種の理想的数字であって、佛教には種々様々な説き方が存したといふほどの意味に解して差し支へない。世の中には賢いものもあるし、愚かなものもある。善良なるものもあり、邪悪なものもある。人間はひとりとして同一のものはない。釈尊は一々それを分別して、その人にあひ、その時にあふやうに説法した。これを時機相応といふ。時とは時の塾せるや否やをいひ、機とは人の機縁をいふ。釈尊の明智はあよくこの時と機とを洞察して、説法の効果を挙げることを得た。

 ある時、釈尊は、眼を泣きはらして死児を抱いた女の訪問を受けたことがあった。

「私には、この児がこのまま死んでしまうなんて、堪へられません。この児が生きかへらねば、私も一緒に死んでしまひます。何かこの児の蘇る法を、どうぞ教えてくださいますように」

 女は気狂ひのやうになっていた。ここで生死の諦観などを説いても、この女の耳には入りさうもなかった。そこで釈尊は、それでは芥子粒を貰っておいで、それも昔から死んだ者のない家でもらって来なさい。さうすればそれで、この児の蘇へるくすりをつくって上げようと教へた。

 女は喜んで釈尊のもとを辞し、死児を抱いたまま、家から家へと、教へられた芥子粒を求めて歩いた。だが、何処にいってみても、昔から不幸のなかった家などといふものはなかった。釈尊の教えた芥子粒はどこに行ってもえられなかった。太陽はやうやく西に没せんとしていた。足は疲れて棒のやうになった。失望と疲労に堪えかねて、じっと佇んでいるとき、彼女の心の中に霊感がもたらされた。彼女は、人生の真相をしり得たやうに思った。そこで釈尊の教団に入って比丘尼となり、仏道の修行につとめることになったといふ。

 釈尊の説法は、かくの如く、時に臨み機に応じてなされた。

 このエピソードは分かりやすくて腑に落ちる。この後にもう一例続くがそれは次回にする。

 

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