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宗教

2023年9月 8日 (金)

葬式の読経

 久しぶりに葬儀に参加した。この頃は家族葬が多い。小さな家族葬だが、それでもお寺関係も入れて120万円ほどかかると言っていた。

 本願寺系の僧侶が1人で読経をした。僧侶の読経を聞きながら、意味不明のお経を歌の様に唱えるだけで何がよいのだろうと思った。本願寺なので途中で日本語の部分もあったが、文語の文章を読んでいるようであった。「ようであった」というのは僧侶の声が小さく発音が明瞭でないので何を言っているのか分からなかったのだ。文語であることはわかった。せっかく日本語を読んでいるのだからよくわかるようにして欲しいと思った。

 お経はどの宗派でも漢語のお経を音読みしている。聞いている方は何が何だかさっぱり分からない。葬儀はどこでもだいたい30分ぐらいお経を読む。さすがに僧侶も覚えきれないと見えて経典を開いて読む。読んでいる本人は意味が分かっているのだろうかと思うがどうなのか。ひょっとするとただ読んでいるだけかも知れない。

 昔の人は有難いと思ってお経を聞いていたのだろうが、現代人は有難いと思って聞く人はほとんどいないのではないだろうか。

 葬式のやり方も分かるものに変えなければ、ますますお寺離れが起きるのではないかと思う。思い切って口語で話して誰にでも分かるようにした方がよいと思うのだが。

 葬式の30分間お経を聞きながらそんなことを考えていた。

2023年4月23日 (日)

仏教の葬儀法要は改革したらどうか

 先日は知人の葬儀で浄土真宗の葬儀に出た。今度は親戚の曹洞宗の法要があった。その時思ったのは、葬儀や法要で僧侶がお経をよむことについてであった。参会者は数珠を持って僧侶の読経の後ろの席に座っているのだが、僧侶のお経が鐘や木魚の伴奏で朗々と唱えられるのを耳にするだけで、意味が全く分からないのだ。

 真宗の場合、南無阿弥陀仏の部分はわかるが、曹洞宗の場合は全くちんぷんかんぷんである。

 長いお経の場合は僧侶は経典を広げて読んでいる。読んでいる当人は意味が分かって読んでいるのか、そんなことはお構いなしに読んでいるのだろうかと思った。昔の人はそういう読経を有難がって聞いたのだろうが、今の人たちはどう聞くのだろうと思った。

 ずっと以前どこかの葬儀のとき、参会者にも経典が配られ、それを見ながら読経を聞いたことがあった。いいアイディアだと思うが予備知識なしでいきなり経典を見ても意味は分からないのは同じであった。

 私の知り合いの人で、お経のCDを買って、それをかけて自分で法要をするという人がいた。それも一つのやり方かもしれない。

 この頃は葬式のやり方も変わってきて、近親者で済ませることが多くなった。以前は新聞に企業関係の訃報が載って大々的に葬儀が行われていたが、最近は全く見なくなった。有名人でも近親者でやるようである。

 葬儀のやり方も大きく変わる時代、葬儀の内容も変えるべきだと思う。分からないお経を聞かせるのではなく、意味の分かる現代語のお経にして読経をすると参会者にもよくわかり、退屈もしないのではないだろうか。

 私はキリスト教の葬儀は知らないが、テレビでドラマなどで見ると、カトリックの場合は讃美歌が流れたり、聖職者が聖書の一節をよむようだ。 讃美歌はお経と違って聴いていてとてもよい。

 日本ではキリスト教徒ではないのに結婚式はキリスト教会で挙げる人が多い。ネットで調べたら信徒でなくてもキリスト教的葬儀をする人もいるようだ。やがてはそういう人がふえるのではないだろうか。

2022年11月26日 (土)

岸田首相は宗教団体の高額献金問題をやれるのだろうか

 YAHOOニュースを見ていたら、「創価学会、高額献金の実態を長井秀和が告発 『仏壇に2千万円』『脱会すると信者から“呪詛の言葉”』」という記事があった。元創価学会員のお笑い芸人長井秀和が週刊新潮のインタビューに答えた語ったもののようだ。

 宗教団体への高額献金を規制する必要性が叫ばれている。統一教会騒動でクローズアップされた宗教2世や高額献金、政治と宗教の問題は、創価学会にとっても人ごとではないはずだ。統一教会の被害者救済を巡り、現在、国会では高額献金を規制する新法の是非が議論されているが、これに対する公明党の歯切れの悪さも長井氏の話を聞けばうなずける。

 岸田首相は高額献金問題に真剣に取り組むと言っているが、果たしてどこまでやれるか疑問である。なぜなら自民党は創価学会をベースとする公明党と与党を組んでいるからである。公明党が嫌がるようなことは絶対にできないはずだ。長井が語るところによると、「学会で献金を表す『財務』もそうです。今年もその季節となりましたが、毎年11月下旬から全国一斉に振り込みが行われ、集まる金額は1千億円以上とも。」

 創価学会も統一教会に負けず劣らずの献金をさせているようだが、献金とは言わず「財務」と言っているのだ。

 長井は次のように述べている。「かつて池田氏は“他の新興宗教と違って寄付や献金はやらない”と明言していたはずなんです。それが、1972年に大石寺に正本堂を建立するための寄付を募ったことをきっかけに、毎年の恒例行事となってしまった。正本堂建立の際は、数日で300億円以上が集まったといいますから、献金のうまみに味をしめてしまったのでしょう。

 学会側が明言することはありませんが、財務の額はおおむね収入の1割が目安といわれています。」

 収入の1割も財務という名の献金をさせられるというのは大変なことだ。長井は「収入が低ければ低いほど、当然、負担は大きくなる。うちの両親でもすでに総額で数千万円の寄付をしていると思いますよ。それだけでなく、例えば高額な学会専用の仏壇を3基も購入していて、仏壇関連だけで約2千万円。統一教会の“100万円の壺”なんて安すぎて、多くの学会員はピンとこないんじゃないでしょうか。」と語っている。

 柴田理恵とか久本雅美、石原さとみ、氷川きよしなどいっぱいいる有名タレントも1割収めているのだろうか。

 統一教会と違って政権与党になっている創価学会は頭がいいとしか言いようがない。

 

 

 

2022年7月15日 (金)

統一教会の実態をもっと知らしめて

 安倍元首相を銃撃して死亡させた山上容疑者は、母親が旧統一協会信者で多額の献金により破産し、家庭が崩壊したことで、統一教会に恨みを持ったと言われている。

 安倍元首相の祖父の岸信介元首相が統一教会を日本に引き入れたことと、安倍氏が統一教会(現世界平和統一家庭連合)の関連団体にビデオメッセージを送ったことで安倍氏が統一教会と深い関係があると思い殺すことにしたという。

 この驚愕の事件により世界平和統一家庭連合(統一教会)が久しぶりに大きくクローズアップされた。羽鳥モーニングショーでは2日間にわたり大きく取り上げていた。

 統一教会の献金や霊感商法や合同結婚式が今も行われていると知り驚いた。紀藤弁護士によると50億円もの献金をした家族がいるそうだ。教祖文鮮明の言葉を集めた「聖本」というのが1冊3000万円で買わされるとか献金というのは多種多様あって、金がないと借金をさせられるという。

 合同結婚式もかつて桜田淳子などが結婚した頃よく報道されたが、昨年でも世界から2000人以上参加し、驚いたことにそのうち半数が日本人だと言っていた。

 結婚相手は教会がきめて、学歴や職業や収入や国籍など一切言われる通りにするという。結婚するには結婚献金が今は40万円に減ったが、その他にいくつもの献金をさせられるという。

 霊感商法では印鑑や数珠などの物品を高額で売らなければならない。キリスト教会なのに数珠を売るのはおかしいと思うのだが。その被害についてこの5年間で50億円に上るという。
 

 教会からの退会は非常に難しいと弁護士は言っていた。教会に文句をいうと「信仰がたりない」と言われたり、「サタンがついている」と言われるそうだ。
 

 信者は映像やいろんな手段でサタンや地獄や霊界について洗脳されるのでそう言われると恐怖心を募らせるという。
 

 どんな宗教でも「信仰が足りない」は非常に便利な殺し文句である。また「地獄へ行く」も同じだ。大抵の人は死んだら極楽とか天国に行きたいと思うから信仰をするからだ。
 

 それにしても世界平和統一家庭連合(統一教会)を信仰する人が世界中にいることは驚きである。献金で家庭を破壊されたり、霊感商法をさせられたり、合同結婚式でそぐわない人と結婚させられたり・・・いいことは一つもないと思うのだが、どうして惹きつけられるのであろうか。
 

 メディアはこれを機会にどんどん取り上げて世界平和統一家庭連合(統一教会)の本当の姿をみなに知らしめて欲しい。

 

2021年9月 5日 (日)

理解しがたいタリバン

 タリバンが再びアフガニスタンの支配者となった。タリバンとは若い神学徒という意味だとどこかで読んだが、彼らはイスラム教の教え、イスラム法によって統治すると言っているようだ。

 前回は女性の就労や教育を受ける権利を奪われた。その後政権が代わって女性の社会進出や教育を受ける権利が認められた。ところがタリバンが政権につくことによって再び女性の権利などが抑えつけられると危惧されている。

 メディアが報じるところによると、美容院などが閉鎖に追い込まれたようだ。タリバンの連中はみな立派な髭を持っている。男性に対しても髭を伸ばすように強制しているようだ。私など髭が薄いので伸ばしても口の周りやあごに少し無精ひげができる程度だ。そういうのは認められるのだろうか。

 スマートニュースを見ていたら、タリバンが人気歌手を銃殺したと報じていた。隠れていたところを見つけて殺したのだ。タリバンによるとイスラムの宗教で使われる僅かな音楽以外は一切禁止すると言っている。音楽を禁止するなど信じられない。

 私はイスラム教のことは全く分からないが、女性に肌を見せることを禁じたり、収入を得る仕事を禁じたり、教育を受けさせなかったり、世界の常識から理解しがたいことだ。

 また、自爆テロを行うがそれは本人が進んでやるのか強制されてやるのかどちらだろう。多分強制によって自爆させるのだと思うのだが。自爆して死んだら天国へ行けるということらしいが、そういうことを神が認めるのが信じがたい。

 そういうタリバンがどうして武力によるとは言え、アフガニスタンで政権を倒すことができたのか理解に苦しむところである。

 国外にいるアフガニスタンの人たちは世界各地で助けて欲しいとデモや集会をして声を上げている。日本政府や欧米諸国やアジアの国はタリバンに国民の権利を奪い抑圧することがないよう働きかけるべきだ。

 世界的にコロナが猛威を奮っているが、アフガニスタンのコロナはどうなっているのだろうう。メディアでは報道しないが心配である。

2021年8月21日 (土)

神も仏も同じー日本人の鷹揚な受け止め方

 日本では神社とお寺が共存し、神社の中に仏教関係のものが一緒になっているのをよく見かける。豊川稲荷、日光東照宮などがそうだ。

 どうして仏教と神社が共存できるのか不思議であったが、YahooニュースでAera dotの「お盆に考えたい不思議な日本人の宗教観 そもそも神と仏の違いとは?」という記事を見つけ、読んでみたら明快に説明がしてあった。

 「お盆で行うさまざまな行事は、仏教のものだと思いがちだが、実は元をたどるとまったく違うことがわかる。もともとのインド仏教には、偶像を作ることも祖先を敬う考えもなかった。」と書いてあるが、原始仏教に興味を持ち多少勉強していたのでその通りである。釈迦は偶像を崇拝すること、死後の世界のことなどは説かなかった。自分自身の心の持ちようについて悟りを開き、それを説いたのだと理解している。

 釈迦の教えは仏教として伝播していくうちにいろいろな物が付け加えられて変化していったのだ。記事では「インドから中国へ伝わった仏教は、儒教などの影響を受け、祖先崇拝の要素が取り込まれた。仏教が東アジアへ広がるにつれ、仏像が誕生し、祖先(自然も含む)を大事にすることで現在に福がもたらされる、といった教えに変化していくのである。」と述べている。

 祖先崇拝が儒教の影響であることは知らなかった。タイやベトナムやマレーシアなどで立派な仏像を見るが、ミャンマー、スリランカなども同じである。どこが仏像の発祥地なのだろうか。ネットで調べたら西北インドのガンダーラ地方もしくは北インドのマトゥーラ地方という説があるようだ。

 「仏壇に置く『位牌』も、本来は儒教の葬礼から派生したものだ。死者の『官位』を書く『牌』(ふだ)という意味から来ていて、日本で一般に広まるのは江戸時代になってからである」と説明している。江戸時代から普及したとは歴史が浅い。仏像は伝来以来作られているから、それまでは仏像を置いて先祖の供養をしていたのだろう。

 祖先崇拝は仏教が入って来る前から日本にはあったそうだ。縄文時代にすでにあったという。それで仏教が日本に入って来るともともと祖先崇拝はそのまま受け入れられたようだ。
 

 「仏教伝来当初は、排仏派(仏教反対派)の物部氏と崇仏派(仏教推進派)の蘇我氏(加えて聖徳太子)が争い、やがて戦にまで発展するほどだったが、次第に(平安時代にはすでに)仏教と神道は融合していき、神社とお寺の線引きはどんどん曖昧になっていく。」と説明している。

 釈迦が説いた仏教は偶像崇拝とか祈りを捧げるとか願望実現を託すと加護とか・・・そういったものには無縁であったのに、現世のご利益を託すものに変わってしまった。天然痘撲滅を祈願して聖武天皇が建立したと言われる東大寺は正式には金光明四天王護国之寺で護国を託している。神社はもともと祈りや加護の対象であるからいいが、仏教も神社と変わりがなくなってしまったのだ。

 神社もまた仏と融合している。八幡神社をは、ながく守護神は八幡大菩薩という名の仏さまだった。記事は次のように説明している。

 「つまり、江戸時代までは神さまでもあり仏さまでもあった。こうして日本では、神さまと仏さまは一体であり、別名をもつものと考えられてきた。天照大神は大日如来であり、素戔嗚尊(スサノオノミコト)は牛頭天王(ごずてんのう)、大国主神は大黒天というように、八百万の神々は仏の化身であるという考え方(これを本地垂迹〔ほんじすいじゃく〕説という)で吸収したのである」。日本史で習ったが忘れていた。何とも融通無碍な考えではないか。

2020年7月13日 (月)

「あの世」について

 朝日新聞9日朝刊の「寂聴 残された日々」というエッセイは「書き通した『百年』」という題で書いている。

 九州の大雨に触れた部分で「テレビに映る町を埋める大水や、屋根の吹き飛ばされた人家を見ると、平安時代の大雨の民衆の姿を見ているようで、気が遠くなる」と書き、そのあとに以下の分が続く。

 「ふと気が付くと、こんな時、すぐ電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない。彼等の命は果たしてあの世とやらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行きつく自分は、先に行ったなつかしい人たちに、果たして逢うことが出来るのだろうか。
 

 出家して、47年にもなるが、正直なところ、あの世のことは何一つ理解出来ていない。親しい人、恋しい人はほとんど先にあの世に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない」
 

 寂聴さんが「あの世」について触れたこの部分を読んだとき、「アッ!?」と思った。寂聴さんは出家して47年の天台宗の僧侶である。京都の寂庵に住んで、作家活動の傍ら全国を飛び回って大衆に説法をしている。私は1度も聞いたことはないが、大変人気があるようだ。


 おそらく仏教に基づく講話をしているのであろうが、その中で「あの世」のことも話しているのではないか。なぜなら「あの世」は仏教にとって中心の命題だからである。

 日本の仏教ではどの宗派も死ねば「あの世」に行けると説いているはずである。「彼岸」というのは「あの世」のことである。

 宗派の違いは「あの世」への行き方の違いであると私は解釈している。例えば天台宗から出た法然や親鸞などは「南無阿弥陀仏」を唱えることによって「あの世」に行けると説いた。
 

 俗説では「あの世」は「極楽浄土」とされ、仏教伝来以来天皇や貴族は極楽浄土に「往生」出来ることを願って東大寺や宇治平等院のような大きな寺院を建立した。
 

 「あの世」について寂聴さんが何も知らないと書いているのは興味深いが、実は誰にも分からないのである。死後の世界があるにしても「現世」に戻った人がいないからだ。
 

「あの世」つまり「極楽浄土」に「往生」できることは人々の願望なのである。苦楽の多い「現世」から解放されて、死後は永遠に極楽で生きながらえることが出来ることを信ずることによって、「現世」での心の安寧を得るのだ。

 釈迦は「あの世」については語っていない。「涅槃」つまり「悟り」の大切さを説いたと理解している。寂聴さんは「悟り」を得ていると想像するのだが。

2019年12月18日 (水)

カトリック南山教会聖堂での待降節行事

 先日、オルガンの秋ブランチクリスマスコンサートに行ったとき、南山教会での待降節行事のチラシがあった。「みんなで歌おう!パイプオルガン・合唱・聖歌・ハンドベルによる 音楽のアドベントカレンダー、そしてクリスマスのお話」というタイトルであった。

 南山教会は我が家から近くにあり、以前にもコンサートに行ったことがあり知っていた。私はキリスト教徒ではないが、そういう制限はないようなので出かけた。

 プログラムには次のように書いてあった。

 ――西ヨーロッパのキリスト教会では、12月25日の4週間前の日曜日(今年は12月1日)からクリスマスぜんじつの24日までの、今の時期を、キリスト降誕を待ち望み、私たちの心の準備をもする時期として、「待降節(アドベント)」と呼びます。

 例えばドイツでは、もみの木リースや、最近ではモダンなフラワーアレンジメントにろうそくを4本立てたものを用意し、第1待降節の日曜日にはろうそくを1つ、第2待降節の日曜日にはろうそくを2つ、灯す習慣があります。クリスマスが近づくにつれて、増す「光」は、近づいてくるキリストの降誕を象徴するだけでなく、降誕とそして再臨をも待ち望む希望が増していることも表しています。

 そして、12月25日が本来のキリストの西端のお祝いである「主の降誕の祭日」、いわゆるクリスマスであり、1月6日(もしくは2月2日)まで「降誕節」は続きます。

 24日に「クリスマスイヴ」として祝われる伝統は、祝日当日が始まる夜中よりすでに教会で祈りが捧げられていたことによります。

 愛であり、光であり、その創造物である人間を、無限の愛で抱擁する神が、人間もその神の愛の一部でありえること、その愛によって神のいのちとして迎えられることができるように、神の子であるイエス・キリストを人間として、人間の救いのために遣わした記念、これがキリスト教会の祝うクリスマスです。ーー

 聖堂のバルコニーにオルガン奏者の吉田文さんと合唱隊がいて、祭壇の前にハンドベルの学生がいて演奏をした。司祭は祭壇の下手で聖書の一節を朗読した。

 ハンドベルの「ウエールズ地方民謡『お部屋を飾ろう』」の演奏から始まった。ついで「グレゴリオ聖歌」を聖歌隊がうたった。

 そのあと、音楽によるアドベントカレンダーとして、

14日 聖歌「高く戸を上げよ」(聖歌隊)、 G,ウンベハウン作曲「高く戸をあげよ」(オルガン)  

15日 J・S・バッハ 「目覚めよ呼ぶ声あり」(オルガン)

16日 バッハ 「神の御子が来られる」(オルガン)

 17日 グレゴリオ聖歌(聖歌隊)

 バッハ 「全能の神に賛美を」(オルガン)

18日 グレゴリオ聖歌「天よ、露をしたたらせ」(聖歌隊)

19日 グレゴリオ聖歌「おお エッサイの切り株」(聖歌隊)

20日 FR・リスト編曲 「アルカデルトのアヴェ・マリア」(オルガン)  

21日 A。ギルモン「ヘンデル作『ユダス・マカベウス』のコラール『シオンの娘よ、喜べ』によるパラフレーズ

22日 グレゴリオ聖歌「来てください、民の救い主」(聖歌隊)

 バッハ 「いざ来たりませ、異邦人の救い主よ」(オルガン)

23日 聖歌「いま来たりませ」(聖歌隊)

    ばっは「いざ来たりませ、異邦人の救い主よ」(オルガン)

 そして24日 聖書朗読(ルカによる福音書1章26節~37節

 グレゴリオ聖歌「アベ・マリア」(聖歌隊)

 聖書朗読(ルカによる福音書1章38節)

 聖歌「エッサイの根より」(聖歌隊)

 C.sattora- 「エッサイの根より(1輪の薔薇が咲いて9(オルガン)

 聖書朗読(ルカによる福音書2章1節~7節)

 グレゴリオ聖歌 「今日キリストがお生まれになった」(聖歌隊)

 CI.ダカン「ノエル」(聖歌隊&オルガン)

 聖書朗読(ルカによる福音書2章15節、16節)

 聖歌「まきびと」(全員で)

 聖書朗読ルカによる福音書2章17節~21節)

 合唱 ヘンデル「メサイヤ」より「ハレルヤ」(聖歌隊)

 平和を求める祈り 全員で朗読

 

 聖書朗読(ルカによる福音書2章8節~14節)

  聖歌「あら野のはてに」(ハンドベル)

  聖歌「あら野のはてに」(全員で)  

主の祈り  グレゴリオ聖歌(聖歌隊)

クリスマスを迎える心の準備 「もろびとこぞりて~来たれ友よ(ハンドベル)

 「もろびとこぞりて」参加者が歌う

 聖歌 O Sanctissmima (聖歌隊)

 聖歌 「いざ歌え」(全員で)

 聖歌 「いざ歌え」(全員で)

 奏楽 「しずけき真夜中(ハンドベル)※(きよしこの夜のメロディ)

 聖歌 「しずけき真夜中」(全員で)

 こういうキリスト教会での待降節行事を見たのは初めてであったが、プログラムには歌詞や主な言葉が書いてあり、キリスト降誕までのプロセスがやクリスマスの意味がよくわかった。異教徒の私の取っては良い勉強になった。

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2019年6月23日 (日)

仏典に性差別があるのを知らなかった

 18日火曜日の朝日新聞「仏典の性差別をどうする」という記事があった。リードには、「#MeToo運動や入試における女性差別の表面化を機に、ジェンダー平等の意識が改めて高まるなか、佛教界でも差別との向き合い方が問われている。受け継がれてきた経典には、現代の目で見ると差別的な記述がある。(1部省略)」と書いてある。

 真宗大谷派東本願寺が開いた企画展「経典の中で語られた差別」で、世界人権問題研究センターの嘱託研究員、源淳子さんが準備した女性差別に関するパネルが、同派の意向で展示されなかったという。

 そのパネルは、女性は修行しても仏になれないとする「女人五障」、女性は親、夫、子に従うべきだとする「三従(しょう)」の教えのほか、女性は男性に生まれ変わって成仏できる「変性男子(へんじょうなんし)」思想を紹介するものであったという。源さんは公開質問状を出して外された理由をただしたそうだ。

 真宗大谷派が女性差別の仏典を真正面から取り上げず、隠そうとしたようだ。私はこの部分を読んで、佛教にそういう女性差別の考えがあることを初めて知って驚いた。また、これまで放置されてきたことにも驚いた。

 Wikipediaには、「三従」について「龍樹菩薩の大論九十九巻では、女人の三従さんじゅうについて、幼則おさなきときは父母に従い、少則わかきときは夫に従い、老則おいたるときは子に従うとし、属するところなきは悪名を受けるとした。これは仏教特有のものでなく、儒教書のひとつ『礼記』及び『儀礼』にもみえる。 」としている。私の子どものころは、一般に言われていたが、儒教から来たものだと思っていた。仏教経典にもあるということは儒教の影響を受けたのではないか。

 「五障」とは、「五障(ごしょう)とは、ブッダ入滅後かなり後代になって、一部の仏教宗派に取り入れられた考えで、女性が持つとされた五つの障害のことである。「女人五障」ともいう。女性は梵天王帝釈天魔王転輪聖王仏陀になることができない、という説である。 」と説明している。

 釈迦は「仏陀」になることは説いたが、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王などについては説いていない。これらはヒンズー教の影響で誰から取り入れたものだと思う。

 釈迦入滅後かなり年月が経ってから経典が作られたというから、釈迦はこのように言われた(如是我聞)というようにして古い経典は書きはじめられるが、釈迦が説いたことそのままでなく、口伝を文書化した人の考えも入ったことは十分に推察できる。

 Wikipediaは更に、「大智度論では、五礙(ごげ)と称す。三従とセットにされ、「五障三従」と称する用例もある。釈迦の言葉ではなく、仏教本来の思想ではない。ヒンドゥー教の影響から出てきた考え方とされる。 」私もこの説明に賛同する。

 そして釈迦は次のように言ったと紹介している。「人にはいろいろの種類がいる。心の曇りの少ないものもあれば、曇りの多いものもあり、賢いものもあれば、愚かなものもある。(中略) また人には男女の区別があるが、しかし人の本性に差異があるのではない。男も女も道を修めれば、然るべき心の道筋を経て悟りに至る(仏陀になる)であろう。

 私が知る限り釈迦は差別をしなかった。誰でも仏陀になれると説いた。それが本当の仏教である。

 この男女平等の時代に、今なお男女差別を温存している仏教は早急にその経典を捨てるべきである。

2019年2月28日 (木)

墓をどうするかという問題―②―

 朝日新聞の記事によると、今のような墓石を建てるようになったのは江戸時代中期からだそうだ。「○○家之墓」という墓碑も天皇制を支えた家制度の道徳規範が行き渡る明治末期からだという。

  戦前は家制度で家督相続があった。その名残の古い習慣や意識が残っていたのが、家族の形や価値観が多様化するようになって変わってきたのだ。

  新聞の有名人死亡欄を見ていると、この数年「近親者で営みました」というのが多い。20年余り前までは有名人や地位や資産がある人たちは葬儀場や寺などで大きな葬儀をしたものであったが、それが無くなって来た。

  墓をどうするかという問題もそうした変化と時を同じくして起きて来ているようだ。日本最初の散骨は1991年「葬送の自由を進める会」が海で行ったのだという。

  「直葬」という葬儀を行わないやり方も増えて来ているようだが、火葬場で遺族が遺骨を一切拾わないという「0葬」というのもあると知って驚いた。「ゼロ葬」は宗教学者島田裕巳氏の名づけのようだ。

  親鸞は「自分の遺体は鴨川に流して魚に食べさせよ」と遺言したというが実際はどうだったのか?釈迦も葬儀とか供養とかは言っていないようだから弟子たちが勝手にやったことだろう。

  チベット仏教だったと思うが「鳥葬」の所もあり親鸞と同じ発想だ。ゴビ砂漠では砂に埋めて自然に風化させるのを見た。

  近頃では遺骨でペンダントや置物などを作るサービスあるとNHKでやっていたが、随分と変わって来たものである。

  墓の代わりに納骨堂が増えて来たが、安くても60万円以上150万円ぐらいとかなりの金がかかる。それでも全国で50万基もあると記事に書いてある。

  火葬場で遺骨を拾わないという考えには目が開かれた。葬儀の自由や直葬ぐらいまでは頭が回ったが遺骨は拾ってどこかへ納めるものと思い込んでいたのだ。

  考えてみれば遺骨を拾わなければならないという決まりはない訳で、海や山に散骨をするのなら同じことである。

  故人を祀るということに関しては、写真や遺品もある訳で、要は故人をどう接遇するかという問題である。つまり心の問題なのだ。心の中で故人のことを偲んでいればそれでよいのだともいえる。

  そうなると墓は無くてもよいもので、叔父や私のように断絶するのであれば墓も要らないのだ。高い永代供養料を払って納骨堂に入れたとしても、永代ではなく20年ぐらいだと言われる。名前だけが永代なのである。

  自分が元気なうちに死後をどうしてほしいか身内と話し合って決めておくことが大事だということである。

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