戦争と平和

2021年10月12日 (火)

岸田首相は核兵器禁止条約を批准すべし

 10日のサンデーモーニングで岸田首相の核兵器禁止へのかかわりを取り上げていた。首相就任演説では「第3に、地球規模の課題に向き合い、人類に貢献し、国際社会を主導する覚悟です。核軍縮・不拡散、気候変動などの課題解決に向け、我が国の存在感を高めていきます。被爆地広島出身の首相として、私が目指すのは、『核兵器のない世界』です。私が立ち上げた賢人会議も活用し、核兵器国と非核兵器国の橋渡しに努め、唯一の戦争被爆国としての責務を果たします。これまで世界の偉大なリーダーたちが幾度となく挑戦してきた核廃絶という名のたいまつを、私も、この手にしっかりと引き継ぎ、『核兵器のない世界』に向け、全力を尽くします。」と述べた。
 

 しかし、肝心の核兵器禁止条約の批准については記者会見で「核保有国は批准していません」と言葉を濁した。核兵器保有国が批准していないのは核兵器があるからすぐには批准できないという理屈だろうが、核兵器のない、しかも世界で唯一の被爆国としての日本は率先して、堂々と批准をすべきである。
 

 コメンテーターの寺島氏は、米国の核の傘に入っているからできないのだと指摘していたが、それとこれとは別である。地球を守るという視点に立てば、地球温暖化と同じように最重要課題である。日本は被爆国として批准をして、率先して核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとるべきである。

 サーロン節子さんは広島出身の岸田首相に手紙を送って核兵器禁止条約の批准を訴えた「核兵器を、非人道的でいかなる場合も許容できない兵器であるとして全面禁止したこの条約に、唯一の戦争被爆国日本が背を向けていることが許されるでしょうか。日本がこの条約に加われば、それは世界全体に大きな波及効果をもたらし、核保有国さえ動かします。広島選出の総理大臣がその決断をせずに、いったい他に誰がそれをするのでしょうか」と記し、▼核兵器廃絶は最優先事項であること、▼核兵器禁止条約への署名・批准を目指すことを公約とし、来年3月に予定されている条約の締約国会議にオブザーバーとして参加するよう求めた。

 だが、岸田首相はあいまいな態度である。本当に情けない。いったい誰に気を使って核兵器禁止に踏み出せないのか。安倍元首相や麻生氏などに忖度すべきではないのだ。

 「国際社会を主導する」とか「核兵器のない世界へ向けて全力を尽くします」などきれいな言葉を並べているが、では具体的にはどう進めるのかは述べられていない。この場合は「核兵器禁止条約批准」が具体的な行動である。

 安倍元首相も菅前首相そうであったが、抽象的な美辞麗句を並べて国民を煙に巻いてきた。岸田首相はそのやり方を受け継いではいけないのだ。

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2021年8月20日 (金)

全国戦没者追悼式での菅首相の式辞に思う

 8月15日に日本武道館であった、全国戦没者追悼式での菅首相の式辞は、安倍前首相のコピペだとネットにあった。首相になったとき、安倍首相のやり方を踏襲すると述べた菅首相は事あるごとに安倍路線の上を進んでいる。

 式辞で菅首相は「我が国は、積極的平和主義の旗の下・・・」と述べたが、これは安倍が首相が集団的自衛権行使を容認するために、憲法解釈を閣議で変更して以来、外交や安全保障戦略を語る際に使って来た用語だ。

 積極的平和主義というのは自衛隊を海外派遣するという狙いを持っている。専守防衛から逸脱した危険なものである。憲法9条を守って、その立場で世界の平和に積極的にかかわることが、真の積極的平和主義である。

 式辞では近隣諸国への加害責任については安倍政権に続いて触れられなかった。何と9年も無視してきたのである。

 朝日新聞によると、1993年に細川元首相が「アジア近隣諸国をはじめ、全世界全ての戦争犠牲者とその遺族に対し、国境を越え慎んで哀悼の意を表する」と「加害責任」触れてい以来、歴代首相は「あの戦いは、多くの国々、とりわけアジアの諸国民に対しても多くの苦しみと悲しみを与えた」(橋本首相)などと加害責任に触れて来たのだ。本来ならもっと明確に加害責任に言及すべきことである。

 ドイツはナチスのホロコーストについてきちんと国内教育をし、関係諸国に謝っているのと大違いである。

 菅首相は広島・長崎の原爆式典でも核兵器禁止条約について触れなかった。世界唯一の被爆国である日本は、率先して核禁止条約を批准すべきで、それこそが積極的平和主義である。「国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります」と式辞で述べたが、言葉の上だけの空疎な決意である。

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2021年8月15日 (日)

8月15日終戦の日

 8月15日は76回目の終戦の日である。終戦記念日でもなく、敗戦の日でもなく、終戦の日というニュートラルな名付けである。

 日本軍部の過信による無謀な、武士道精神にももとる卑怯なハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったが、広大な国土と豊富な資源と巨大な工業生産力を持っている米国相手では、横綱に幕下が闘いを挑むようなものであった。勝ったのは最初のうちだけですぐに負け始めてしまった。

 天皇が現人神とされ、天皇に逆らうことは不可能であった。マスメディアも大政翼賛の名のもとに戦争を賛美する役目を担わされた。

 鬼畜米英と叩き込まれ、欲しがりません勝つまではと銃後の民は我慢を強いられた。新聞やラジオは連日我が日本軍の赫赫たる戦果を大本営発表の名のもとに伝えた。大人はどうであったか知らないが、我々子どもは戦果のニュースを信じ、日本軍を誇りに思った。

 思えば太平洋戦争を少しでも経験した者は僅かとなった。私が国民学校1年のときに太平洋戦争が始まり、20年の敗戦まで4年間の戦争を体験した。

 サイパン島が米国のものになってから日本本土にB29が飛んでくるようになり、私の住んでいた新宮市は陸の孤島と呼ばれた田舎であったが、近くに最南端の串本町の潮岬があり、そこを目指してB29が飛来した。そして夜も昼も上空を爆音を響かせながら飛んだ。

 空襲警報が発令されると、夜中に飛び起きて防空壕に飛び込んだ。我が家の小さな庭には父が造った防空壕があったが、名だけのものなので近所の空き地に造られた共同の防空壕を利用した。

 学校の行き帰りにはいつも防空頭巾を携行した。以前にも書いたと思うが、そのうちに太平洋から艦載機が飛来するようになり、機銃掃射の音を聞くこともあった。米国は日本の都市をすべて空爆したから、我が新宮も例外ではなかった。帰途に就くB29が残った爆弾や焼夷弾を捨てていくのだという大人がいた。

 そんな中でも我々小国民は意気軒高としていた。日本軍は勝つと信じ込まされていたからだ。それが真っ赤なウソであったことを知ったのは8月15日の敗戦の日であった。

 以後平和がどんなに大切なものかを身に染みて知り、戦争は2度とやってはならないと思い、平和を守り事が大切だと考え行動してきた。東京や名古屋などの大都市のような悲惨な体験はなかったが、田舎町でも毎日が恐怖の生活であったことは間違いない。ささやかな戦争体験であるが、私も間もなく86歳。戦争を知る世代がどんどん少なくなっていくのはどうしようもない。自然災害と違い戦争は人間が起こすことである。今も世界では武器を使った争いが行われているところがある。国連は戦争をなくすためにつくられたと思うのだが、十分に機能していないのが残念であるが,一人一人が2度と戦争を起こさないと心に決めることが大切だと思う。

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2021年5月19日 (水)

ハマスとイスラエルの停戦を!

 イスラエル軍とパレスチナ自治区ガザの武装勢力との軍事衝突が始まって1週間以上たった。テレビでイスラエル軍の空爆によって大きなビルが崩壊する様子をみたが恐ろしい光景であった。

 イスラエル側はハマスの武装勢力の拠点を狙ったと言っているが、報道では外国のメディアも被害を受けたようだ。

 ガザの市街地への空爆で死者が200人になり、そのうち子どもが59人、女性が35人だという。負傷者は1305人である。(17日昼現在)何とも痛ましいことである。

 天声人語によると、ガザは種子島より小さい面積なのに200万人も住んでいるという。世界でも有数の人口密集地だそうだ。

 イスラエルはそんな市街地をねらって空爆を繰り返しているのだ。ガザ地区からはハマスなどが約3100発のロケット弾をイスラエルに発射したという。被害はイスラエルにもあるがガザの比ではない。

 一日も早く停戦が望まれるが、米国やアラブ諸国の動きも鈍い。国連安全保障理事会では停戦問題が協議されたが、イスラエル寄りの米国によって決議はできなかった。議長の王中国外相は米国が障害だと述べたがその通りだと思う。

 トランプの時はトランプの身内にユダヤ教の人がいて、イスラエルを強固に応援していたが、バイデン大統領はどうして中立的な立場をとれないのだろう。米国内のイスラエル関係の人口が多いとはいえ、人道的な観点に立って対処してほしい。テレビに映るガザの子どものいたいけな顔を見るのがつらい。

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2020年10月31日 (土)

人類には核廃絶の責務がある

  核兵器禁止条約の批准国が50か国に達し、来年1月22日に発効することになった。広島・長崎に原爆が投下されてから75年の歳月が経った。長い時間を要したが、大変うれしいニュースである。

  この条約が50か国の批准で発効という要件が分からない。いろいろ調べたがどうして50か国だけの批准でよいのか。国連加盟国の1/3にも満たないと思うのだが。

  批准をした国はほとんどが小国で、大きいのはメキシコぐらいである。ヨーロッパでは永世中立国のスイスも北欧諸国も批准せず、わずかにオーストリアだけだ。

  核保有国や開発を進めようとしている国は批准していないし、世界で唯一の被爆国である日本も日米安保条約で米国の核抑止力に頼るので批准ていない。

  本来なら日本こそが先頭に立って世界の国々をリードすべきなのだ。それをしないというのは恥ずべきことである。

  核兵器禁止条約の中身は素晴らしいものである。核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵、移転、受領、使用、威嚇などを禁止している。自国領域、管理地域での核兵器の配置、設置、配備の許可も禁止している。

  これまで世界で様々な核兵器廃絶の運動が行われてきたその成果が実ったのだが、この条約が本当の実効性を持つにはまだやっとスタート地点に立ったというしかない。

  私も高校生の頃「原爆許すまじ」を友達と歌い、原爆禁止を願った。その後も大学でもセミナーなどで原爆禁止を討論したりした。職に就いてからは毎年夏に開かれた原爆禁止の集会に参加をした。常に核の廃絶には関心を持ち、自分でできることをしてきた。

  今年1月24日には「世界終末時計」は100秒まで縮まった。核兵器禁止条約が発効してどうなったのかネットで調べたが分からなかった。

 とにかく一人一人が核廃絶に関心を持ち地球上から核をなくすように行動することが大事なのだ。人類が作り出した悪魔の核兵器をなくせるのは人類しかないのだ。

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2020年10月11日 (日)

予科練の歌(若鷲の歌)

 先週連続テレビ小説「エール」で描かれたのは古山裕一が、映画「決戦の大空へ」主題歌作曲のエピソードであった。裕一(古関裕而)は霞が関の予科練に1日体験入隊をして作曲したことになっているが、実際は詩を書いた西条八十と一緒に入隊したのだそうだ。

 裕一は長調の曲と短調の曲の2曲を用意し、幹部は長調の曲を選んだが、予科練生たちが短調の曲を選んだのでそれに決まったということになっている。不自然さを感じたのは予科練生たちがすぐに暗譜で「若鷲の歌」を歌ったことであった。練習もなしに歌えるはずがないのに。

 それはともかく、私はこの歌を「予科練の歌」という題名だと思っていた。なぜならいつも「予科練の歌」と言って歌っていたからだ。「若鷲の歌」と知ったのは初めてであった。

 この歌ができたのは昭和18年だというから、国民学校2年生の時であった。私たちはこの歌をよく歌ったので体にしみこんでいて、今でも1番の歌詞は覚えている。
 

 国民学校の頃この歌を歌いながら「7つボタン」に憧れていた。将来は予科練の海軍士官になるのが夢であった。紺色の服に7つボタンは格好良く魅力的であったのだ。もし予科練を受けられる年ごろになったとして、私の運動神経では全く無理であったはずだが、子どもの頃はそんなことはおかまいなしであった。

 「エール」では裕一の妻の音が教えていた男の子が予科練に合格して挨拶に来るシーンがあった。予科練は花形であったのだ。
 

 4番の歌詞の最後は「見事轟沈 した敵艦を 母へ写真で 送りたい」となっているが、戦争が激しくなり特攻隊に駆り出されるようになると自らの命と引き換えだから、轟沈させた写真を母に送ることなどできるはずはなかったのだ。

    若鷲の歌(別名予科練の歌)
    

    若い血潮の予科練の
    七つボタンは 桜に錨(いかり)
    今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
    でっかい希望の 雲が湧く

    燃える元気な 予科練の
    腕はくろがね 心は火玉
    さっと巣立てば 荒海越えて
    行くぞ敵陣 なぐり込み

    仰ぐ先輩 予科練の
    手柄聞くたび 血潮が疼く
    ぐんと練れ練れ 攻撃精神
    大和魂にゃ 敵はない

    生命惜しまぬ 予科練の
    意気の翼は 勝利の翼
    見事轟沈 した敵艦を
    母へ写真で 送りたい

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2020年9月17日 (木)

14回 昭和区平和の集い

 12日(土)午後1時から名古屋市公会堂4階で開かれた「第14回昭和区平和のつどい」に参加した。記念講演がサンデーモーニングのコメンテーター、安田菜津紀さんだったので生の姿を見たいと思ったのだ。

 新型コロナウイルス対策として、検温、アルコール消毒、マスク着用が求められ、座席はソーシャルぢスタンスを保つようになっていた。

 プログラムは2部に分かれ、
 第一部 平和の文化交流
  ☆開会あいさつ
  ☆マジックとバルーンアート     桜花学園インターアクトクラブ
  ☆群読「♪なのだソング」      いのこ福与さんと共に
  ☆「活動紹介・つなぐ子ども食堂」  安藤綾乃さん

 第二部記念講演
   講師  安田菜津紀さん
   演題 「紛争地、被災地から平和を伝える」
 

 安田さんの講演は中央の大きなスクリーンにフォトジャーナリストである安田さんが撮った写真が写され、話が進められた。
 

 彼女がフォトジャーナリストになったいきさつや米国のイラク侵入、シリアの内乱、そして東日本大地震・大津波により壊滅的破壊を受けた岩手県陸前高田のことなどを話された。

 シリアは人口2200万ぐらいの国だそうだが、IS(イスラム国)とシリア政府との戦いで半分近くの1000万人が国外に逃れたという。新型コロナウイルスから命を守るために我々は「移動しない」でいるが、紛争地では「移動」によらなければならないのことを頭に止めて欲しいと話された。

 安田さんの夫の実家が陸前高田にあるそうで、その関係で被災地陸前高田に関わって来られたのだ。義理のお父さんが、勤めておられた4階建ての病院の屋上から津波が押し寄せてくる様子を摂った4枚の写真を映された。それによると7万本の松があった松原が消えていき、街が完全に津波に襲われた様子がよくわかった。

 陸前高田の被災者たちはシリアの難民に救援物資を送ったそうだ。津波の被災によって世界から救援物資を受けた経験から、どんな物資をどのように分類して送ればよいかということが分かっていたと言う話がよかった。

 そして「恩贈り」というコトバを紹介された。またトラフィックチルドレンというコトバも紹介された。「売買された子どもたち」という意味だそうだ。これは東南アジアで起きているそうだ。

 紛争地のシリアとかイラクとかカンボジアや被災地などをまわって写真に収め映像によって現地の様子を伝えておられる安田さんの仕事は素晴らしいと思った。その安田さんは今はコロナのために動けないでいるという。

 安田さんは紛争地も被災地も一番恐ろしいのは「無関心」だと言われた。関心を持って自分にできることをしていくことが大事だ。

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2020年8月19日 (水)

さっぱり分からなかった「太陽の子」

 15日にNHKで19時半から放送された「太陽の子」を見た。番組表の説明には「特集ドラマ 太陽の子『戦後75年~いま改めて戦争の恐ろしさを描く~原爆開発に翻弄された若き科学者の物語、戦時下に輝いた青春』と書いてあって興味をひかれたのだ。終戦の日なのでそれにちなんだ番組のようであった。

 見始めてストーリーに展開がさっぱり分からなかった。建物の強制取り壊しで家を失った祖父と孫娘朝倉世津(有村架純)が京都のどこかの家を頼って行く。そこには田中裕子演じる母親と息子石村修(柳楽優弥)が住んでいた。

 その息子は大学生である研究室に所属して研究の手伝いをしているのだ。教授は国村隼が演じていた。教授は新型の爆弾つまり原子爆弾を作ろうとしているのであった。

 研究室ではガラス瓶に入った黄色い粉を遠心分離機で分離させようとするのだが、そのためには超高速の分離機が必要である。それを作ることから始めていろいろ試していくのだ。どうやらその粉はウランのようであった。ウランの瓶を手で掴んだり、机上においていたが放射物質をそんな扱いをしてよいのかと思った。

 実験室の様子が描かれるのだが、ごちゃごちゃとしていて何のことか分からなかった。この爆弾をつくれば戦争が終わると信じている人とそんな爆弾を科学者が作っていいものかという人がいるようであった。

 そのうち修の弟裕之(三浦春馬)が一時帰郷で軍隊から帰って来る。あとでわかったのだが弟は特攻隊員であった。弟はしばらく一緒に過ごすのだが、ある時海に行き入水しようとする、それに気づいた裕之と世津が助けに行くのだ。そのいきさつもさっぱり分からない。

 裕之がどこかへ希少物質のウランを手に入れに行くことが2度描かれたが、なぜ裕之が求めに行くのか、どういう商人なのかそれも分からなかった。

 やがて広島に新型爆弾を落とされた。米国の放送を聞いていた研究室ではそれが原子爆弾であることを知る。彼らが作ろうとしていた爆弾が先に使われてしまったのだ。米国の英語の放送を聞くことができたのは驚きであった。


 そんな時勢の中で世津は戦争が終わったら教員になるのだと夢を語る。 世津と兄弟の一人との恋があるのかと思ったら、そうでもなかった。裕之は世津を好きなようであったし、世津も同じであったようだが時局がそれをゆるさなかったのだろうか。 弟の裕之はもう少しで終戦というときに、特攻機で亡くなり、母親は悲嘆にくれる。

「太陽の子」はストーリーの展開が非常に分かりづらく、面白みも全くなかった。ただ亡くなった三浦春馬と有村架純と柳楽優弥という俳優を見せたというだけのものであった。

 日本でも仁科研究室が原爆を作ろうと研究していたことは知っているが、それを描こうとしたのかどうかさえ分からなかった。仮にそうだとしても、その過程を分かるように描いてほしかった。

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2020年8月18日 (火)

CBC「終戦の日スペシャル」から

 8月15日終戦の日にCBCが放送した「終戦75年スペシャル 『女性たちの8.15』と引き続いて放送された『綾瀬はるか戦争を聞く』」を観た。

 第一部の「女性たちの8.15」は、東京の跡見学園の講堂で、関口宏さんと作家の保阪正康氏が映像を見ながら対談し、時々女子高校生に感想を聞くというものであった。女子高校生は高1と高2から8人が選ばれていた。

 この中で、神風特攻隊後続隊というのがあって、当時の女子学生が志願していたのとを初めて知った。現在も生きている女性が当時の気持ちを話していたが、死ぬことを怖いとは思わなかったと言っていた。あの当時の日本の状況から少女たちはそのように洗脳されていたのだ。私もそうであったが。

 日本は追い詰められて、男子だけでなく、少女まで特攻に駆り立てるという状況にいたのだ。軍国少年という言葉はあるが、軍国少女と呼ばれていたのだ。

 第一部では、ひめゆり隊や国防婦人会なども取り上げていた。国防婦人会は戦争が激しくなると官制の自粛警察としての役割を負わされるようになった。

 第二部の「綾瀬はるか戦争を聞く」は、綾瀬はるかさんが、ずっと以前から戦争当時のことについて、経験をした女性を訪ね歩いて、収録したものから編成されたものであった。インタビューした女性の数は64人になると言っていた。

 彼女は、上皇后が言われたという、先の戦争で忘れてはならない4つの日に触れて、その日に関係した女性を取り上げていた。4つの日とは、終戦の日、広島に原爆が落とされた日、長崎に原爆が落とされた日、そして沖縄の日である。4人の女性の

 4人のエピソードが取り上げられたが、苦難に遭いながら、90歳以上になって今もなお元気で生きておられることに驚いた。

 どのエピソードにも感銘をうけたが、一番感銘を受けたのは、長崎の原爆資料館にある、「原爆廃墟に立つ少女」の写真にまつわるエピソードであった。

 足元に小さな焼け焦げた骸骨があり、傍に立つ少女がどこかを眺めている写真である。その少女を探して訪ねたのだ。少女は瀧智江子さんと言い、当時15歳であった。
 

 瀧さんの足元にあったのは母親で、眺めていたのは父親が防空壕から近所の7歳の少女を助け出すのを見ていたのだという。助け出された少女は菅原耐子さん7歳であった。
 

 この地は爆心からわずか300メートルの地点であった。そんな場所に瀧さんは立っていて、菅原さんはたった一人生き残ったのであった。
 

 菅原さんが生き残れたのは防空壕が奥深く、いくつも曲がりくねっていたからであった。そして瀧さんの父親に助けられたからであった。瀧さんは父親と母親を探しに来て廃墟に立っていたのであった。
 

 綾瀬はるかさんは瀧さんと会った後、瀧さんを伴って長崎まで菅原さんを探しに出かけた。そして菅原さんが生きていることを突き止め、面会をしたのであった。
 

 二人とも原爆のことは家族にもほとんど話していないと言った。被爆したことで学校などで言いようのない差別を受けて来たので、話したくないというのだ。
 

 爆心地の少女が二人とも生き延びて現在も生きておられるという奇跡に感動した。綾瀬はるかさんはいい仕事をして来たと思う。吉永小百合さんのように平和のためにこれからも戦争を語り継ぐ仕事を続けてもらいたい。
 

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2020年8月15日 (土)

終戦の日を忘れてはならない

 8月15日は「終戦の日」である。でも、カレンダーにはそのことが記されていない。どうして「終戦の日」がカレンダーに載っていないのだろう。「終戦の日」という言い方にも異論を唱える人がいるからだろうか。その人たちは「敗戦の日」というべきだと言っている。またあの戦争を美化する人たちは「終戦の日」を屈辱の日ととらえているからだろうか。


 私は「終戦の日」でもよいと思うが、大事なことは歴史的事実を忘却の彼方に送らないことである。時が経つのは速いもので、今年は戦後75年である。昔戦争があったことを経験している人は年々少なくなっていく。

 広島・長崎の原爆の日の新聞記事には、被爆者が少なくなっていて、原爆について、次へ引き継いでいくことが難しくなってきていると書いてあった。あの戦争についても同じことが言える。

 私は終戦の日は国民学校4年生であった。だから戦争の記憶と言っても,戦場に行った経験はない。南紀新宮という田舎に住んでいたので、大都会に住んでいて爆撃されたという悲惨な経験はない。

 だが、わが街も連日連夜B29が上空を飛んでいき、生きた心地がしなかった。あのB29の唸るようなプロペラの音を聞くと恐怖に包まれた。B29が近づいて来ると防空壕に入るのだが、防空壕が直撃されたらひとたまりもないと想像すると、爆音が早く通り過ぎていくのを祈っていた。

 ある晩焼夷弾が雨あられの様に投下されるのを、防空壕の入り口から顔を出して見ていた。キラキラと光って、言葉は悪いがとてもきれいであった。花火と違ってその下では我が街の熊野地という地域が焼かれていたのであった。

 こんな田舎でもB29は無差別に焼夷弾を落とし、一般市民の生活を破壊するという暴挙をしたのであった。

 あの戦争は「鬼畜米英」との戦いであると叩き込まれ、日本は大東亜共栄圏のために正義の戦いをしているのだと思い込まされていた。

 大東亜共栄圏なのに、中国人のことを「チャンコロ」と蔑視し、朝鮮人も「チョーセン、チョーセン、パカにすんな。オナチ飯くて、トコチガウ?」などと蔑視していた。

 ラジオで「中部軍管区発表」という戦果の発表を聞いて胸をわくわくさせていた。新聞にはいつも大本営発表の日本軍の赫赫たる戦果が報じられた。負けた戦いも「玉砕」という美名で報じられた。大人はどう思っていたか知らないが、子どもはみな日本が勝つと信じていた。

 それが1945年8月15日の、敗戦を認めた天皇の勅語によって歴史的転回をしたのであったが、それを自覚するのはずっと後のことであった。

 あの日は天気が良い日であった。職場から帰って来た父は気を落としていて、遠くの山の開墾地に行くのをやめたと言って家に引っ込んでいた。父が戦争をどう見ていたかは全く知らなかった。ただ教員だったので、多くの生徒を鼓舞し戦場に送ったに違いなかった。

 私はその晩から安心して寝られるのでほっとしていた。

 戦争は2度とやってはいけない。戦後は戦争が間違いだったことを学び、戦争に反対し、平和を守ることが大切だと行動してきた。

 8月15日は、子どもや若い人たちも含めて、あの戦争について、さらに今でも世界のどこかで存在する戦争について考える日にしたいものだ。その意味でも、カレンダーに載せるべきである。

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