戦争と平和

2018年1月 5日 (金)

真の宗教なら核廃絶は当然

 朝日新聞1月3日の朝刊に、ローマ法王が核廃絶へのメッセージを込めたナガサキの写真入りカードを配布したという下記の記事が出ていた。

  ――カトリック教会のローマ法王庁(バチカン)が昨年末、教会関係者に向け、1945年に原爆投下を受けた後の長崎で撮影された写真入りのカードを配布した。フランシスコ法王が配布するよう命じたもので、教会関係者によると、法王が年末にカードを配布するのは異例。「核なき世界」を訴えてきた法王が出した強いメッセージと受け止められている。――

  その写真は、米国の従軍カメラマン故ジョー・オダネル氏が45年に撮影した「焼き場に立つ少年」である。法王はこの写真に「戦争の結果」とするメッセージと自身のサインを添えた。

  写真には「亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待つ少年。少年の悲しみは、かみしめて血のにじんだ唇に表れている」と、スペイン語での説明がつけられている。

  法王は昨年11月に核軍縮をテーマにしたシンポジウムの参加者に「核兵器は人類の平和と共存しない」と述べるなど、核廃絶を求めるメッセージを全世界に投げかけているという。

  真の宗教者ならば、核兵器廃絶を願うのは当然のことである。人類の平和と共存しないのは普通の感覚人間なら誰しも思うことである。

  今度核戦争が起これば人類だけでなく、地球そのものの持続さえ危ぶまれる。地球は人類だけのものではないのだ。

  昨年は核兵器禁止条約が採択されたし、ノーベル平和賞が核廃絶を目指して活動しているICANに授与された。今回の法王の行動はよいチャンスと捉えてのことであったのだろう。

  ローマ法王に続いて世界の宗教家が核廃絶に向けての行動を起こすべきである。私が知る限りでは、日本で原爆反対活動に加わっている日本の宗教団体は日蓮宗系の「日本山妙法寺」だけである。

 核兵器廃絶、原発廃棄をリトマス紙としてみるならば、世界に真の宗教はほとんどないことが明白である。

  

写真

   東京新聞から

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2017年12月30日 (土)

南京大虐殺に関する審判――⑥

(四)軍事法廷による審判結果とその影響

第二次世界大戦戦犯の国際裁判は、戦後の国際秩序を構築するための重要な根拠であり、又、現代の国際刑法の主要な根源である。1951年、日本政府がアメリカと締結した「サンフランシスコ条約」の第11条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内および国外の他の同盟国戦争犯罪法廷の裁判を受諾する。」と明確に規定している。これは、又、戦後日本の民主改革の基礎となった。

南京裁判は正義を広め、戦争犯罪を攻撃し、平和を呼び掛けた。当時法廷は検挙と裁判のもろもろの段階で、社会各界の広範な参加を引き起こした。また、法廷裁判の部分証拠である「南京大虐殺事件」は、2015年10月にユネスコの「世界記録遺産」*に登録され、人類が平和を愛し、戦争を遠ざけるための歴史的な文化資源になった。

*筆者註、なんと今年12月13日、河野外相はパリでユネスコのアズレ局長と会談し、世界記憶遺産の選考方法について見直す必要があるとの認識で一致したという。14日の報道によると、≪南京事件や従軍慰安婦の問題をめぐる日本と中・韓、両国の論争などを念頭に、「世界の記憶」の選定をめぐっては、加盟国が政治的に対立する事態は避けるべきだと指摘、アズレ事務局長は、ユネスコが政治化を避けて本来の機能を取り戻すことが重要だと語った上で、制度改革を進める意向を示した。≫東京新聞。

南京裁判、東京裁判は正当で、裁判は大体において公正に行われた。だが、司法の独立上、完璧ではなく、政治の影響も受けた。たとえば、アメリカは自らの極東政策の必要性から、一部重要戦犯の戦争責任を緩めた。懲役を言い渡された一部の戦犯は減刑され、釈放され、政界へ戻り日本政府の要人になった人さえいる。天皇の戦争責任は訴追されず、細菌戦、化学戦の犯罪行為、慰安婦の加害犯罪は審判や清算されず、被害者は賠償されず、財閥の責任も追及されなかった。

南京裁判において、国民政府はアメリカの政策に追随し、内戦で忙しかったので、岡村寧次の裁判等の戦犯裁判に対し徹底されなかった。このことは、裁判であるべき効果に、一定程度影響した。

東京裁判は、国際法に対する総括及び発展で新たに「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が加えられた。東京裁判は、個人の戦争責任追及を実現し、国際法の発展に大きく貢献した。

★南京裁判、東京裁判から70周年が経ち、この間、歴史を回顧し総括すると、「前事を忘れざるは、後事の師なり」ということである。新しい時代に、国家や民族の限定を超え、人類文明過程の高きに立ち、南京裁判、東京裁判を考えることは、歴史を正視し、未来へ向う正しい道程になる。以上、==南京全国連翻訳チームのテキストの主要部分を抜粋した。==

===③田中宏さん(80)が、山東省に任さんを訪ねてと題して報告した===

最初に、孟国祥さんのプレゼンに関連し、「南京大虐殺記念館」は1985年にオープンした。それを知ってか、どうかわからないが、その翌日に、中曽根首相は靖国神社を参拝し、アジア諸国から大きな反発があった。翌1986年、衆参両院選挙で自民党は304議席を獲得し大勝した。この年には、靖国神社には参拝せず、後藤田官房長官は、なぜ参拝しないのかと訊かれ、「講和条約の第11条に則り、戦犯を出しているから」と答えた。また、孟国祥さんの話にあるように、南京軍事法廷、東京裁判は、講和条約の第11条を認めている。記念館の名前は長く、鄧小平が揮毫したが、記念館のオープンの翌日に、靖国神社を中曽根首相が参拝したとは、両国のギャップはあまりに大きく、唖然とするばかりである。

私は30年前、戦後50年に、南京大虐殺の現場にいた日本兵とお詫びの旅に行った。復讐されるかと、恐る、恐る、出かけた。1987年、「東史郎日記」が出版され京都の展示会で公開された。ベトナム戦争のプラトーンに習い「我が南京プラトーン」と・・・・。しかし、ひとりの小隊長が名誉棄損であると提訴した。その背後に板倉・開高社と西本氏の資料集があり、歩兵20連隊の虐殺は虚偽であると鉄槌を下し、2006年最高裁で敗訴した。東日記の記述は間違いで、日本ではデタラメということになっている。

私は解きほぐされた戦争の記憶と「東史郎日記」との符号を長年調査してきた。山東省の元教師(1936年生)による日本兵士罪行の現場検証である「東史郎日記と私」は、任さんが持ち歩き、たくさんの村民が手にした日記であり、過去の歴史とどう向きあうか、加害者の立場で書いたただ一人であると思う。

任世金著、田中宏監訳、「東史郎日記と私」の本の紹介になったが、みなさん、とりわけ若者がこの本を読んで、残酷な戦争に対して切実な感覚を持つことができると思う。この東史郎日記に書かれていることが事実であり、不見識な名誉棄損という指弾を打ち消すだけでなく、日本社会に、「事実を見極める、事実を重視する」傾向を作って行くことになると思う。以上。

 

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2017年12月29日 (金)

南京大虐殺事件に関する審判――⑤

==南京大虐殺事件の法廷尋問==

検察側の証人、証拠、駐華ドイツ大使が本国に送った秘密文書、アメリカ駐華大使が受けた報告、南京地裁調査報告、マギーの記録映像等から・・・日本政府は日本軍による犯罪行為を了解していた。たとえば、「安全区」は、ジョン・ラーベらが、日本大使館へ抗議した事例等・・・・

==松井石根の裁判==

1947年11月24日、法廷は松井石根の第一回目の審判を行う。弁護士は松井石根の無罪を弁護する12の証言を読み上げた。(内容省略)。松井の一部下である下級軍官は、B、C級戦犯処理について心配しており、肝心な点を避けて、その場逃れの証言をするか、極力否認した。(以下省略)

==南京大虐殺事件と松井石根の判決===

1948年3月29日、最後の法廷が終わり、11名の判事は判決文を起草した。多数派(米、英、加、NZ、比、中国、ソ連)と少数派(豪、仏、印、蘭)に分かれた。

東京裁判の判決の中で、日本軍の「南京大虐殺」に関する判決の要約は、①虐殺数、「日本軍の南京占領後の最初の6週間で、南京城内および付近地域で虐殺された平民と捕虜の総数は20万人を超える。・・・・・この数には、焼き払われた者、揚子江に投げ捨てられた者、および日本軍により他の方法で処理された死体を含まない。」、②南京城が焼き払われた規模「放火は数日後に行われ、まるで予定した計画通りに行われたように6週間の長きにわたって継続した。そのため、全市の三分の一の建築物は破壊された。」、③強姦された数「日本軍が占領した最初の一週間の間、市内で2万以上の強姦、輪姦事件が発生した。」

松井石根に対する判決分は、「彼は事件発生に責任ある軍隊を指揮していた。その上、彼はこれらの暴行について知っており、さらに権力もあり、軍隊を制御し、不幸な南京市民を保護する義務があった。彼は、彼の汚職行為について刑事責任を負う必要がある。」判決は、松井石根に死刑を処した。法廷が出した結論は、「日本政府は南京での犯罪について完全に了解している。」であった。

少数判事の判断や判決と、一部の日本人による「日本無罪」の論調は、完全に二つの違った概念だと言うことがわかる。彼らは明白に、間違いなく、日本の戦争犯罪を厳しく非難しており、日本支持とはほど遠い。少数派判事の反対判決が出たことは、東京裁判が一辺倒で、いい加減な「戦勝国による敗戦国に対する裁判」ではないということを、まぎれもなく説明している。インドとフィリッピン判事の参加により、東京裁判は、「勝利者による敗者に対する裁判」というよりも、「被害者による加害者に対する裁判』という側面がはるかに大きい。

 

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2017年12月28日 (木)

南京大虐殺事件に関する審判――④

B.向井敏明、野田毅と田中軍吉に対する裁判(併合審理)

 向井敏明は山口県の出身、1937年、日本軍第16師団・砲兵小隊長。野田毅は鹿児島県出身、1937年、日本軍第16師団・富山大隊副官。公開され記録されている中で向井と野田は南京攻略戦前後において、「百人斬り」競争の暴行を実行した。

 田中軍吉は、東京人で1905年生まれ。陸軍士官学校を卒業。1937年8月、中国侵略日本軍に従軍して華北に侵入、この時、第6師団・中隊長。南京大虐殺の期間中、谷寿夫師団の大尉として、「名刀助広」(田中が愛用した軍刀)を携えて、三百人を超える民衆の首を斬った。1947年5月、中国に引き渡され、12月、南京法廷で公開裁判が行われた。

 「百人斬り」(東京日々新聞)の報道と写真をめぐり、向井と野田は、報道は嘘だ、記者が戦意高揚のためにしたこと等と弁解、・・・・・(内容省略)・・・・・法廷は最後に、向井敏明、野田毅、田中軍吉に対して、作戦期間中、共同し連続して俘虜及び非戦闘員の虐殺をおこない、よって死刑に処すとの判決を出した。谷寿夫、向井敏明、野田毅、田中軍吉等はB、C級戦犯として死刑判決が下され、前後して南京・雨花台で銃殺刑に処せられた。

(三)極東国際軍事法廷(東京裁判)による戦犯審理

==法廷による南京大虐殺事件の証拠集め==

 1946年1月19日、マッカーサーは連合国・最高委員会の決定に基づき、「極東国際軍事裁判所の特別宣言」及び、「同憲章」を東京で設置することを正式に公布した。2月18日、マッカーサーはウエッブを裁判長に、そして、中国、ソ連、米、英、仏、蘭、比、加、NZ、印を加えた11カ国、11名の裁判官およびキーナン総検察官とその他30名の検察官を任命した。

 東京裁判は1946年5月から1948年の審判終了まで、約2年7カ月の間、開かれ、818回開廷された。法廷記録は4.8万頁、出廷証人は419人、呈示証拠文書は4000件以上になる。判決書は1213頁、20万人の傍聴人を引き付け、ニュールンベルグ裁判をしのぎ、人類史上最大規模の国際裁判と言われた。

 ♦「南京大虐殺事件が極東国際軍事法廷の判例となる。」東京裁判の対象は主に、A級戦犯による「平和に対する罪」で、「通例の戦争犯罪」及び「人道に対する罪」も含まれる。・・・中略・・・

 ♦「法廷による証拠集め」、1946年3月、トーマス・モローらが中国へ向い調査を行い、5週間、総数31名の証人に会見「中国からの報告、平民への暴行」という調査報告を書いた。・・・中略・・・それ以外にも、1946年3月下旬、キーナンが中国人検察補佐官を伴い、証拠集めのため訪中、13名の国際検察官を同行、南京で実地調査をした。

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2017年12月27日 (水)

南京大虐殺事件に関する審判――③

(二)南京大虐殺事件の立件と帰結

==裁判の立件と準備作業==

抗日戦争が開始されてほどなく、国民政府及び民間機構は、早くも中国侵略日本軍の戦争犯罪に対する調査を始め、資料を蓄積してきた。~中略~

 「南京敵人罪行調査委」は、1945年11月7日に成立し、日本軍が南京にて犯した犯罪を調査した。委員会は、「敵人罪行種類調査票」、「証言可能な被害者氏名・住所表」、「男女別死傷者統計表」を作成し、同時に日本軍暴行の数多くの写真も集めた。調査数は2784件にのぼり、極東国際軍事法廷及び中国戦犯審判軍事法廷のために、大量の原資料と有力な証拠を提出した。

 戦犯処理委は、1946年12月25日に立件を決定した。戦犯総数83名の名簿を公表し、被告の氏名、階級、所属組織が確定した戦犯59名、そのうち師団長以上の戦犯は12名、下級部隊の指揮官47名である。

 関係する犯人逮捕の駆け引き、あるいは引き渡しが始まるにつれ、中国側は連合国司令部に引き渡しを要求したが、さまざまな原因、すなわち、①松井石根A級戦犯は引き渡せない、②皇族は起訴できず、③中島(今朝吾)、柳川(平助)等は既に死亡し・・・・引き渡されたのは、B級戦犯の谷寿夫、C級戦犯の田中軍吉、向井敏明、野田毅などで、公表された戦犯名簿から見れば、逮捕或いは引き渡されたのはやはり少数であった。

==法廷の審理と戦犯の弁明==

 南京法廷が審理した戦犯の主要人物は谷寿夫、向井敏明、野田毅と田中軍吉である。

A.谷寿夫(第6師団長、中将指揮官)の裁判(単独審理)

 谷寿夫は1882年生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学卒業。1928年、済南事件に関与し中国外交官を虐殺。1937年8月、第6師団を率いて中国華北などに侵入、後に上海、南京に侵入。1946年2月、谷寿夫は連合国軍総司令部に逮捕され、巣鴨プリズンに入獄。1946年8月、中国に引き渡された。南京軍事法廷は、谷寿夫を「中国侵略の最重要戦犯」であると認定した。

 1946年10月から尋問(一カ月余りの間に6回)、谷寿夫は自己の罪行を弁解する陳述、軍事法廷は大量の調査と度重ね審問、1947年1月、法廷に弁明書を提出、「第6師団の行為は厳正であり、紀律違反の行為は決して存在しない」と主張した。

 法廷は、起訴状を受け付けた後、再び大量の証拠について調査を行った。法廷に出向き、聞き取りに応じる人多く、その数600余人に達した。同時に石・裁判長は兵器工場の後ろの山や五カ所で、大虐殺事件における被害者の遺骨埋葬地の実地調査を行った。

 1947年2月、公開裁判が三日間行われ、石・首席裁判官は谷寿夫の主要な罪行について一つひとつ証拠を挙げた。谷寿夫は、一貫してずる賢い論理を以って言い訳をし、責任転嫁を意図した。だが、法廷に出された明白な証拠を前にして、谷寿夫はまたもや、「激烈な戦闘中なので、住民の死傷は免れない」と弁解した。

 法廷は更に充分な証拠を明らかにするために、三回にわたり公開裁判を開いた。・・・・被害者である李秀英(前述①の証言にある)、目撃証人である鼓楼病院の程結証人、・・・・等、血まみれの写真、映像資料が出された。社会団体による調査記録も公表され、又法廷は第6師団の将兵が書いた日記を探し出して提示した。アメリカのマギー牧師のドキュメントフィルム、日本軍が自分の功労を見せびらかすために作った記録フィルム、NYタイムズのダーディン記者の目撃記、英国ガーディアンのティンパーラー特派員の編著・・・・、裁判前後5か月には、関係証拠4~5000件の多きに達し、証人は500余人になった。

 1947年3月10日、法廷は最終的に「谷寿夫は、作戦期間中、兵が捕虜及び非戦闘員を虐殺し、また強姦し、略奮し、財産を破壊するのを放任し、よって死刑に処す」との判決を言い渡した。谷寿夫は判決を不服として、二回にわたり控訴書を提出し、不服理由と再審を請求したが、国民政府主席の批判を受け、再審請求はすべて却下された。

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2017年12月25日 (月)

南京大虐殺事件に関する審判――①

演題  南京大虐殺事件に関する審判  (竹山克則氏編)

◎南京医科大学の教授である孟国祥さんは開口一番、今日12月13日は南京大虐殺がスタートした日であり、中華民族の屈辱と苦難、超弩級の大虐殺事件である。なんとしても戦争は避けないとダメだ。日本の歴史認識、1972年の国交正常化は日中の大きな基本認識であり、大前提だ、「南京裁判、東京裁判が南京大虐殺事件を審決し、日本は受け入れた」のだと述べた。

 日本国内で歴史を歪曲する雑音が、あちこちから聞こえてくるが・・・・中国は被害者として、確かに感情的になる側面もある。だが、中国は賠償を放棄したのに、日本政府は侵略行為も虐殺などの加害事実も認めない。歴史に対し両国の温度差は余りに大きい。日本の友人から、「虐殺の証拠を出せ」とよく言われるが、既に私たちは72件も証拠を出した、これ以上はもう無理だ。日本の友人に、南京にある「南京大虐殺記念館」に、ともかく行って、見て、感じて、考えて欲しいと答えている。

◎戦後、南京軍事法廷(南京裁判)、極東国際軍事法廷(東京裁判)に日本戦犯に対する裁判で、共に「南京大虐殺についての事実確認」が行われている。特に東京裁判の判決書には、専ら一章を設けて、南京大虐殺事件の認定を行っている。

 この二つの法廷での日本戦犯に対する審判から、南京大虐殺事件を四つに分けて基本事実を見てみる。即ち、

(一)戦犯審判法廷の設立(組織、法理)。

(二)南京大虐殺事件の立件と審理。

(三)極東国際軍事法廷による戦犯審理。

(四)軍事法廷による審判結果とその影響。

==戦後、連合国による戦犯処理の政策==

1942年1月13日、ドイツの侵略に遭ったヨーロッパ9カ国の亡命政府は、ロンドンで会議を開き、「戦時犯罪を懲罰することに関する宣言」に署名した。1943年10月、米英の提案によって連合国はロンドンにおいて「戦争犯罪委員会」設立を決定し、独、伊、日のファッショ戦争犯罪に対する調査活動を開始した。1944年5月、連合国は重慶にて「戦争犯罪調査委・極東太平洋特別委」を設立した。同年11月3日、ソ連、米国、英国の三国外相会議がモスクワにおいて「モスクワ宣言」を発表した。

1944年には、連合国戦犯審査委が成立し、「国際戦犯裁判所公約」と「連合国戦犯引き渡し公約」を制定、1945年7月26日には米、英、中の三国が「ポツダム宣言」を発表し、戦争犯罪者への懲罰に関し、明確に「我々は日本民族と国家の消滅を意図するものではないが、我が国の俘虜への虐待を含む戦犯に対しては厳正な法的制裁を行う」と表明した。

1945年9月2日、日本は降伏文書に署名し、併せて、ポツダム宣言にある条款を受け入れた。1946年1月19日、マッカーサーは連合国最高委の決定に基づき、東京において国際軍事法廷(東京裁判)を設置する「特別宣言」、および「極東国際軍事法廷憲章」を正式に宣布し、軍事法廷が成立した。

東京国際法廷以外にも中国の南京等の10都市、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、ホーチミン、ベルリン等でも、日本戦犯を審理する法廷が設立された。

東京の戦犯軍事法廷ではA級戦犯を審理した。すなわち、憲章で規定するところの「平和を破壊する犯罪(平和に対する罪)」の戦犯である。その他の被害国では、B級戦犯(「通例の戦争犯罪」)、C級戦犯(「人道に対する罪」)を審理した。

 

東京の戦犯軍事法廷ではA級戦犯を審理した。すなわち、憲章で規定するところの「平和を破壊する犯罪(平和に対する罪)」の戦犯である。その他の被害国では、B級戦犯(「通例の戦争犯罪」)、C級戦犯(「人道に対する罪」)を審理した。

 

戦犯は主に、「ハバロフスク赤十字条約」などの国際公約、あるいは戦時法規への違反を指し、殺人、強姦、残酷な暴力、俘虜虐待、人身拘束などの非人道行為を行うか、それを支持した者である。

 

「犯罪責任は免除されない事項に関する規定」、戦犯は下記の事項であっても、犯罪規定は免除されない。国家機関の職務として関与した場合でも、それらの受命者であっても、実行は政治的な活動でも、国際法上は免除されない。そうでないと、これらの事項を口実に責任が逃されてしまう。

 

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2017年12月22日 (金)

2017.12.13、「南京大虐殺80カ年」、2017年・証言を聞く東京集会レポ①

 以下のレポートは、 集会に参加された竹山克則氏が纏められた労作である。友人が送ってくれたもので是非紹介したいと思い取り上げた。

 南京大虐殺の博物館へは、30年ぐらい前に初めて弟や子どもたち中国旅行をしたときに、どうしても見たいと思って訪れた。忘れられないのは私たちが日本人だと分かると周りの中国人たちの目が非常に冷たかったことである。

 日本軍の南京大虐殺などの暴虐といい、ナチのホロコストといい、アメリカの原爆や無差別爆撃といい、戦争の度に繰り返される大悲劇は今もシリア、イラク、アフリカ等で繰り返し起こっている。

 私たちは歴史をきちんと認識し、それを記憶に留めなければならない。その意味でもこの証言を読む機会があったことは有難いことであった。

★「南京大虐殺」とは・・・・・・1937年7月、中国・北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は中国との全面戦争を始めた。翌8月には上海で大規模な戦闘に発展(第二次上海事変)。日本軍は兵力を増派し、上海から首都・南京に急進撃し、12月13日に南京を占領した。日本軍は南京への追撃戦や、南京陥落後の掃討戦で、中国軍捕虜や非戦闘員を組織的に殺害し、住民から食料を略奮した。民家を放火、女性への性暴力も多発した。日本軍による組織的犯罪である。

★12月13日は南京大虐殺から80カ年、証言を聞く東京集会が、水道橋の全水道会館で18時半から開かれた。大会議室は中国から来た人たちも加わり、開場時間前から参加者で溢れた。主催は、「ノーモア南京の会」(代表、田中宏氏)。

★プログラムは、①陸玲(ルーリン)さんが、母親の李秀英が南京大虐殺中に受けた被害について証言、②孟国祥(モングォシャン)さんが、南京大虐殺事件に関する審判について講演、③田中宏さんが、山東省に任さんを訪ねての報告があった。南京出身という朱さんが通訳した要点を、ここに書き取った。

★司会は「ノーモア南京の会」の山田さん、「陸玲さんは12月8日に来日し、大阪、名古屋、静岡の集会で証言し、今日12月13日は南京大虐殺80カ年、東京証言集会に参加した」と簡単に紹介した。人民日報などの中国メディアも取材に来ており、場内での写真撮影、録音は許可のある人だけに限定された。

①===陸玲(ルーリン)さんが、「80年前の骨にまで刻まれた屈辱の歴史を決して忘れない」、母親の李秀英が南京大虐殺中に受けた被害について証言した===

◎私は陸玲と言い、南京大虐殺幸存者の次女です。私の外祖父は山東省の出身、子どものころから武術を学び、大人になると運送会社で用心棒をし、後に南京の警察署で働きました。母の李秀英は1919年2月南京生まれ。外祖母は進歩的な女性で、外国製品をボイコットし、民族工業を保護する学生運動を支持していました。このことは幼い母へ大きな影響を与えました。母が13歳の時外祖母は亡くなり、その時から母は弟や妹の世話や家事の負担を背負いました。

 父の陸浩然は1911年天津市生まれ。16歳の時、友人とともに南京へ丁稚に行き、学校に通い、卒業後は上海の政府機関で電報の送受信係に配属されました。1936年10月、17歳の母親は知人の紹介で父と知り合い、1937年3月に結婚しました。上海に住み、第二次上海事変のあと南京に戻り、外祖父の家に身を寄せました。11月に父は118師団とともに武漢に移転する際、南京を経由し母を連れていこうとしましたが、母はその時、身ごもっており、行けなかったので、おじの李振声を連れていくことにし、母のことは外祖父に保護を頼みました。

 1937年11月、南京で国際安全区が、そして、12月1日に国際赤十字会南京支部が設立され、外祖父と母は、安全区内の南京・五台山付近のアメリカ人が経営する学校の地下室(現在の五台山幼稚園)に身を隠すよう割り振られました。地下室は、男性用と女性用に分かれていたのです。

 1937年12月13日、日本軍は南京を侵略し占拠しました。南京陥落後、武器を持たない住民は残忍非道で狂気じみた日本軍による血なまぐさい大虐殺の餌食になり、国際赤十字会の保護を受けていた国際安全区内の住民も、この難から逃れられませんでした。

 12月18日、日本軍の一団は、母が隠れていた地下室の男性部屋に押し入り、たくさんの青年男性を無理やり連れ去り、隠れていた難民の夫や息子たちが連れ去られパニックになりました。

 12月19日午前、日本軍の一団が今度は地下室の女性部屋に押し入り、彼らは母を含む若い女性を無理やり連れ出し、車に乗せようとしました。その様子を見ていた母は、日本軍に連れ去られると強姦されるか、殺されると思い、自身の純潔を守るため死んでも屈しない覚悟で、頭を壁にぶつけ気絶してしまいました。日本軍は床に倒れた母を蹴り飛ばしましたが、母が身ごもっているのを見て、他の若い女性を連れ去ったのです。

 友人たちが、気を失った母を抱えて地下室に連れ戻し、唯一あった荷物用の台の上に寝かせましたが、夕方に三人の日本兵がまた地下室の女性部屋に押し入り、日本刀を捧げた士官と銃剣を持った二人の兵士は30歳くらいの女性を引っ張り出しました。

 士官は台の上で寝ている母を見つけ、他の人を追い出し、”娘さん“と声をかけ、母の服のボタンをはずし強姦しようとしました。驚いて目が覚めた母は、日本刀の柄がすぐ近くにあるのを見て、無造作にそれを引き抜き日本兵に命懸けで挑みました。日本刀を引き抜かれたことを知った士官は驚愕し、すぐに両手で刀を持った母の手をつかみ、大声で叫び、その弾みで母は起き上がり、もう片方の手で士官の襟をつかみ、壁の隅へ引っ張り取っ組み合いになりました。

 叫び声を聞いた二人の兵士は捕まえていた女性を離し、銃剣を抱えて母に突進、それを見た母は、士官の体を盾にしようと胸の前に持って行きましたが、突進してきた二人の兵士は左から一人、右から一人、母の足や顔を突き刺し殺そうとしました。左右の足を何十回も刺され、鼻と口は刺されて裂け、右目の下も刺されてめくれ、目がほとんど見えなくなりました。

 母は口の中の鮮血を日本兵に噴きつけ、命懸けで抵抗を続けたのです。ひとりで三人の日本兵相手に奮闘しましたが、出血多量で体力が続かず、士官を捕まえていた手の力がなくなり、動かなくなりました。日本兵は母のおなかを目がけて、ひと突きし、母はすぐに血だまりの上に倒れ瀕死の状態になりました。おなかの中にいた6カ月半を過ぎていた母の一人目の胎児は刺殺されました。

 三人のフル武装の日本兵は、国際赤十字安全保護区の地下室に押し入り、まだ19歳の6カ月の子を身ごもった武器を持たない女性を強姦しようとしましたが、思いがけず母の命がけの抵抗にあいました。友人たちは体中傷だらけで血まみれの母を見て、非常に敬服し、また非常に同情し嘆きました。

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2017年12月13日 (水)

核兵器は「必要悪ではなく絶対悪」に同感!!

 ノールウェイのオスロで10日にあったノーベル平和賞受賞の講演で被爆者のサーロー節子さんが迫る核兵器の危機と廃絶を訴えた。

  サーローさんは自分が被爆した時に見た原爆投下後の惨状を克明に描写し、核兵器は「必要悪」ではなく、絶対悪」だと言い切った。私も全く同感である。核兵器は人類が作り出した最悪の悪魔の兵器である。

  以前冷戦時代にソ連と米国が二大核保有国として対立していたとき、核戦争の時計が作られた。最近はどうしたのかこの時計が何時になっているのか報じられない。

  核保有国がインド、パキスタン、フランス、中国、北朝鮮、英国など8か国もある。核兵器は15000発あると言われる。そんな中北朝鮮と米国は互いに核使用をほのめかし対立している。時計の針は1~2分前かもしれない。

  核兵器禁止条約が今年7月7日に122か国の賛成で採択されたが、核保有国や日本、カナダ、ドイツなどは参加していないので実効性がない。米、英、仏などの核保有国はノーベル平和賞授賞式に参加しなかったし、平和賞を決めたノールウェイのソルベルグ首相は「核兵器のない世界をどう達成するかにはICANとは意見の相違がある」と述べた。ノールウェイも核の傘の下にあるからだ。

 核兵器廃絶は被爆者だけでなく、人類の、いや地球上のあらゆる生命体の悲願で鳴ければならない。それなのに今なお核兵器に拘り核実験を繰り返している。

 福島第一原発事故でもその後の処理ができていない。原爆となればヒロシマ・ナガサキ程度では済まないだろう。被爆者のサーロー節子さんの演説は何度も大きな拍手で共感されたという。

 核兵器は廃絶されなければならないのだ。人類だけでなく地球が長く生き残るために、悪魔の兵器や原発をなくす方向に行くことが我々人類の為すべきことである。しかも急がねばならないことである。

 核兵器禁止条約が採択されたことが「ひと筋の光」であるとサーロー節子さんは訴えた。まだ隙間に見える灯りであろうが、この灯りを少しずつでも広げていかなければならないのだ。

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2017年11月29日 (水)

アメリカのベテランズ・フォア・ピースの来日―Yahooニュースから

 米国の元軍人による平和団体「ベテランズ・フォー・ピース(VFP)」のメンバーが来日したというニュースをYahooニュースで見つけた。元海兵隊員で、イラク帰還兵のマイク・ヘインズさんは、本日25日から、12月上旬まで日本に滞在。各地で北朝鮮情勢の平和的解決や憲法9条を護ることの大切さ、沖縄の基地負担軽減を訴えるという。

 イラクに海兵隊の特殊偵察部隊員として2003年に派遣された、経験から戦争や米国の外交軍事政策に疑問を持つようになり、除隊後VFPのメンバーになったという。

 今回来日の目的は、「北朝鮮と米国の核戦争を防ぎたい。日本は重要なポジションにある。事態の平和的解決にむけて、働きかけてほしい」ということだそうだ。

 米国ではドナルド・トランプ大統領が、北朝鮮との挑発合戦を繰り広げている。一方で、実際に戦争になれば、韓国や日本の市民、米軍関係者にも甚大な被害が出ることが予想されることから、軍関係者には、北朝鮮攻撃に否定的な声が多い。

 北朝鮮に対して強硬な圧力で対処するというのは安倍首相とトランプ大統領だけである。それについて、ヘインズさんは「安倍首相はトランプの言いなりですね」と指摘しているという。本当にその通りである。

 「一般的に政治家達は、戦争を経験しておらず、自身でその恐ろしさを味わったことがありません。そのため、戦争を恐れませんが、その結果として犠牲になるのは、常に市民です」

 指導者は自らは戦場に行かず遠くから見ているだけである。戦場で殺し合いをするのは兵士である。その修羅場をくぐって来たヘインズさんの言葉には真実と重みがある。

 また、「政治家達は、軍需産業との関係が深いことが多く、その利益のために戦争をすることもあると、その例として、ディック・チェイニー副大統領がCEOもしていたこともあるなど関係の深い企業がイラク戦争で大儲けしたことを挙げている。

 「政治家と軍需産業との癒着を市民は許してはいけません」と語り、来日の際にトランプ大統領は「私の訪日は、偉大な米国に大きな利益をもたらすだろう。とんでもない額の武器やエネルギー関係の受注を得られた!」とツイッターに書き込んでいると指摘した。。  

 My visit to Japan and friendship with PM Abe will yield many benefits, for our great Country. Massive military & energy orders happening+++!

 さらにヘインズさんは、安倍政権が改憲を目指していることについても、「自衛隊が日本を守るというだけではなく、国外に派遣され、戦争を行うようなことにならないか、とても心配しています」と懸念しているそうだ。

 安倍首相の最大のねがいは自衛隊が海外に行き戦争ができるようにすることである。それはトランプ大統領などアメリカの願いでもある。北朝鮮の脅威を煽り米国から大量の武器を買うことを約束しトランプ大統領を喜ばせた。安倍政権の富国強兵路線は国民にとって非常に危険である。日本は憲法9条を守って世界の平和に貢献すべきである。

 ニュースの全文:https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20171125-00078544/

 

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2017年11月20日 (月)

ジュネーブ軍縮会議で高校生平和大使の演説が出来なかったとは

  Yahooニュースでこんな記事を見つけた。2014年以降、毎年8月にジュネーブ軍縮会議で核兵器廃絶を世界に訴えてきた日本の高校生平和大使の演説が今年は見送られたことに関した記事である。。

  ジュネーブの軍縮会議で高校生が演説ができなかったということは初めて知った。NHKや大新聞は伝えなかったように思う。

  それに関して西日本新聞は独自に入手した外務省の公電で分かったと書いている。演説が認められなかった理由は、核保有国の中国が今年2月以降、高校生にスピーチをさせないよう日本政府に圧力をかけていたというのである。

  高校生平和大使は、日本政府が1日だけ政府代表団に登録する形で、軍縮会議本会議場でスピーチを認められてきた。

  開示された公電や外務省の内部文書によると、中国の軍縮大使や次席が今年2月以降、日本側に「軍縮会議の手続き規則は、高校生が政府代表団の一員になることを認めていない」と数回にわたり指摘。「毎年続くようであれば、しかるべき対応をせざるを得ない」とスピーチの見送りを求めたというのだ。

 これに対し日本政府側は「若い世代の活動を通じて、核兵器使用の惨禍について正確な認識が深まり、『核兵器のない世界』に向けた国際社会の機運が高まっていくことを期待している」などと反論したという。

  唯一被爆国の日本の高校生が国際会議の場で核の惨禍について訴えれば相手の心に入ることは期待できる。

この件に関して、鈴木達治郎・長崎大核兵器廃絶研究センター長のコメントを掲載している。
 

 「高校生のスピーチをここまで強く阻むのは異常だ。昨年までは容認していたことを考えると、核兵器禁止条約制定の動きも踏まえて核保有国が被爆国・日本に核保有国寄りの態度を鮮明にするよう圧力をかけたのではないか。

 スピーチを例年通りに行うと、軍縮会議の円滑な運営に影響を与えるリスクはあるが、公の場でスピーチに抗議するほどの理由があるとは思えない。日本として堂々と主張を貫く選択肢もあったかもしれない。「核なき世界」への日本の立ち位置をもっと明確にし、核保有国と非保有国の橋渡しのための政策をきちんと作っていくべきだ。」

 核兵器禁止条約制定に当たっては、被爆国の日本は先頭にたって禁止を訴えるべきであったのに、アメリカに配慮して賛成しなかった。何とも情けない話であるが、高校生平和大使の演説までが止めさせられたとは驚きである。安倍政権の不甲斐なさを証明する話ではないか。

 この真相を掘り起こした西日本新聞に拍手を送りたい。

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