戦争と平和

2017年10月26日 (木)

「戦争の真実を学べ」―丹羽宇一郎氏の提言―②

――今の北朝鮮の立場は日米開戦前夜の日本に似ています。

 金正恩委員長を追い込めば、「野垂れ死にするぐらいなら玉砕してでも」と、第2次大戦突入時の日本の心境にさせるだけです。そこまで追い詰められた経験を持つ日本が、声高に制裁を叫ぶのは歴史を学んでいない証拠。トランプ大統領の挑発に真っ先に反対すべきは本来なら日本のはずです。

  ――「地下に逃げろ」というミサイル避難訓練も無意味です。

 今やロケット戦争の時代です。中国の習近平国家主席も昨年、陸海空軍に加え、「ロケット軍」を新設し、党中央軍事委員会の組織を変えました。最近明らかとなった新たな人事では、軍事戦略を立案する「連合参謀本部」の中枢を7人もの幹部で構成する最大の組織に改変しました。7人のうち陸軍出身2人、海空軍出身は1人ずつ。ロケット軍出身は3人を占め、軍の主流に躍り出ました。これからはロケット中心の戦いになると、中国はみているのです。

  ――なるほど。

 ロケット中心の戦争で、最大の脅威は原発です。日本に現存する原発は54基。原発は1基で広島型原爆の1000倍の放射性物質が貯め込まれているといわれています。どこか1つでもロケット弾が落ちれば、日本は広島型原爆の1000倍、5カ所なら5000倍の放射能に覆われてしまいます。この狭い国土がそれだけの放射能汚染を浴びれば、日本人はどうなりますか。だから、戦争は絶対に避けなければいけないのです。

――トランプ大統領の口汚い舌戦に同調する安倍首相は本当に日本の安全を考えているのか疑問です。

 北朝鮮のロケット弾は日本列島を射程内に捉えていますが、米国全土にICBMを飛ばす能力はまだない。米国は難民ラッシュも逃れられる。日本が北朝鮮を敵に回した時のリスクは米国とは比較になりません。また、米国は原爆を落とされたことも、本土爆撃や侵略された経験もない。「戦争の怖さ」を知らない人ばかりの国と、世界唯一の被爆国のトップが同じ「イケイケ」の考えでは、世界的な信用を失います。

■安倍首相は2年間の「核凍結」を米ロに迫れ

  ――国連演説で安倍首相は「対話による(北朝鮮)問題解決の試みは一再ならず無に帰した」とまで言い切りました。

 安倍首相自身、どれだけ北朝鮮と対話してきましたか。ひとこともしていないのに等しい。拉致問題だって何ら進展していない。「対話は無力」と言う前に、まず話し合うべきです。そもそも先の大戦の戦勝5カ国がまず核兵器を持ち、インドやパキスタンは“やり得”で保有を認められた。いつでも保有国は核兵器を使えるのに、北朝鮮だけ許さないのは常識的にみてアンフェア。核開発を放棄してイラクやリビアの二の舞いになるのを避けるなら、北朝鮮も命懸けで核を持つしかない。他に力がないのですから。

  ――核保有国は身勝手です。

  だからこそ、戦争と核兵器の怖さを思い知らされた日本が核保有国を説得すべきです。安倍首相が真っ先に説得すべきは核大国の米国とロシアです。表向きは北朝鮮を非難し続けてもいい。何らかの理由をつけてドイツとともにトランプとプーチン両大統領と会談し、水面下で2年間の核兵器凍結を提案する。1年は短いし、3年は長すぎます。簡単ではないのは百も承知です。それでもケンカは最後に強い者が一歩、引くものです。解除すれば再び核戦争の危機ですから、2年間の凍結は自動延長されます。ここまで深謀遠慮を巡らせて実現させれば、安倍首相はノーベル平和賞ものです。

  ――歴史に名を残したがる首相ですから、ぜひ動いて欲しいものです。

 核戦争回避にはこの道しかない。安倍首相はこの国を放射能の渦に巻き込み、滅ぼしていいのですか。日本には何ら得はないのに、米国と一蓮托生の北朝鮮への強烈非難には中国もおかしいと感じています。あそこまで日米同盟に懸命なのは、北朝鮮ではなく、中国が攻撃対象の「本命」なのかと。

  ――今度の総選挙は、敵ばかり増やした安倍首相の外交姿勢が問われるべきです。

 安倍首相にはひとこと言いたい。「あなたの民主主義とは何ですか」と。今の政治は「民の声」が反映されていません。日本は議会制民主主義の国とはいえ、選挙に勝てば何でも許されるわけではない。

 民主主義とはオールウェイズ(常に)民が主です。「力対力」では民が犠牲となる戦争を近づけるだけです。野党が今、手を結ぶべきは戦争を遠ざけること。民が主なら、最後まで対話をあきらめてはいけません。「戦争の大問題」に比べれば、小池都知事がどうこう言ったなんて、非常に些末な話です。そういう意味で今度の選挙は民主主義の根幹が問われているのです。
 
(聞き手=本紙・今泉恵孝)

 丹羽氏はネットでみると桜井よし子氏ら右翼の論客から厳しく批判されている。しかし私からみるとまっとうな考えを述べていると思う。日本が戦争への道を進もうとしている今これからも発言を続けてほしい。

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2017年10月25日 (水)

「戦争の真実を学べ」―丹羽宇一郎氏の提言―①

 元伊藤忠商事社長で中国大使を務めた丹羽宇一郎氏へのインタビュー記事が、日刊ゲンダイに載ったのを、横田さんという方が書き起こしたものを友人が送ってくれた。傾聴に値するので載せた。

 丹羽氏が出版したのは「戦争の大問題」(東洋経済出版社 1620円)

■今の政治は「民の声」が反映されていない

  ――近著をまとめるのに多くの戦争体験者や軍事専門家に直接、話を聞き歩くのは大変だったと思います。そこまでの労力を払って、この時期に「戦争の大問題」を世に問うたのはなぜですか。

 トランプ米大統領の誕生により、世の中に幾つもの「真実」が出てきました。ポスト・トゥルース、オルタナティブ・ファクト、フェイク・ニュースとか。客観的な事実より虚偽であっても、個人の感情や心情に訴えかける方が世論に強い影響力を与えてしまう。「真実とは何か」と考える機会をくれたトランプ大統領には感謝しますが、「戦争の真実」について私は考えました。戦争を知らない人々がますます増えゆく日本で戦争が近づく中、戦争とは一体何か、その真実は誰が決めるのか。

――確かに「真実」にもいろいろありますね。

 戦争から帰還した人がオルタナティブ・ファクトを語っている可能性もあるわけです。ならば大勢から話を聞かなければ真実は分からない。真実の度合いを広く深く自分の感覚で正確に知りたかった。戦争のリアルを知る人々は90歳を越えています。私も含め戦争体験者にはあまり時間はない。存命中にお会いして話を聞き、戦争を知らない世代に戦争の真実を活字で残す。それが、われわれの世代の義務です。

  ――本の冒頭に引用された「戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」という田中角栄元首相の言葉が印象的です。

 やはり戦争を知らない世代は戦争のリアルなイメージを持ちえない。戦争の「におい」とか「味わい」とか。最近も麻生副総理が北朝鮮からの武装難民の射殺に言及しましたが、彼は人を撃った経験があるんですか。人と人が1対1で撃ち合うなんてできません。人間ができない残酷なことは戦争体験者は絶対口にはしません。

――角栄氏の危惧がまさに顕在化しています。

 若い人は、先の大戦で日本兵は勇ましく撃ち合って戦場に散ったと思っているけど、帰還者に話を聞くと、大半は撃っていない。ひたすら歩き、さまよい、飢餓や疫病で亡くなった人々が圧倒的に多い。実際に引き金を引いた人も敵兵を目の前にして撃ってはいない。あの辺にいるはずだと目をつぶってバババッと撃っている人が大半です。今のシリアの戦闘映像と同じ。だから人を殺した実感がない。だが、それが戦争の本当の残酷さです。

  ――そんな目には遭いたくありませんね。

 ただ、本当の戦争を知る人々は、その体験を自分の子供たちにも話せない。食料を奪ったり、友達の肉を食べたり。いざという時にそこまで残酷な動物となった経験を語れるわけがない。戦争は人を狂わせます。だから体験者は皆「戦争だけはやらないでくれ」と口をそろえるのに、戦争をイメージできない世代には「やろう」と粋がる人が多い。こんな怖いことはない。

「あきらめない対話」が回避の唯一の道
 

 
  ――北朝鮮問題では、日本のトップが率先して戦争に向かおうとしているように見えます。

 日米両国が世界から孤立するように「力には力」と叫び、トランプ大統領は国連で北朝鮮の「完全破壊」に言及しましたが、出口なき戦略です。北朝鮮が崩壊すれば、日本にも中国や韓国と同じく難民が漂着します。日本海側には人口60万人から80万人の県が並ぶ。北朝鮮の人口は2500万人余り。数十万人が生きるために必死になって日本海側に押し寄せたら、食料や宿はどうするのか。想像を絶する事態となります。

  ――今の北朝鮮の立場は日米開戦前夜の日本に似ています。

 金正恩委員長を追い込めば、「野垂れ死にするぐらいなら玉砕してでも」と、第2次大戦突入時の日本の心境にさせるだけです。そこまで追い詰められた経験を持つ日本が、声高に制裁を叫ぶのは歴史を学んでいない証拠。トランプ大統領の挑発に真っ先に反対すべきは本来なら日本のはずです。

丹羽宇一郎 戦争の大問題 それでも戦争を選ぶのか。

 

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2017年10月10日 (火)

国際NGO「ICAN」のノーベル平和賞受賞

 今年のノーベル平和賞は「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の受賞に決まった。ICANはInternational Canpaign to Abolish Nuclear Weaponsの略称である。ICANは核兵器の非合法化と廃絶を目指す国際NGOで、今年の核兵器禁止条約成立に貢献したのだ。

 

 受賞理由は、「核兵器の使用がもたらす破滅的な人道面での結末を人々に気付かせ、条約に基づく核兵器禁止の実現へ画期的な努力を重ねてきた」と説明。「今年の授賞は核軍縮に取り組む全ての人々に捧げるものだ」と述べた。

 

 最初「ICAN」と聞いた時、あのオバマ前大統領の「Yes, We Can」が頭に浮かんだ。核兵器禁止もYes, We canでなければならない。核廃絶は世界の世論が高まればできるのだ。

 

 今年戦後72年たってようやく核兵器を人道的な側面から否定する核兵器禁止条約ができた。ただ非常に残念なことに世界で唯一の被爆国である日本は賛成をしなかった。これは安倍政権の間違った考えによるものである。

 

 今回のICANのノーベル平和賞受賞でも、日本政府はノーコメントである。何と情けないことであろうか。

 

 ICANのベアトリス・フィン事務局長は9月に、国連での条約署名式で、広島・長崎の被爆者に言及して「あなた方が与えてくれた証言に、取り組みに、そして条約実現へのあらゆる貢献に、感謝します」と述べた。

 

 朝日新聞は、ICANの受賞決定の原点には「悲劇をくりかえしてはならない」と声をあげ続けてきた被爆者たちがいる。これは被爆者たちへの授賞といっても過言ではないと指摘する。

 

 日本は、広島・長崎だけでなく、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって被爆した第五福竜丸の乗組員たちがいる。3度もアメリカによって原爆や水爆の被爆をさせられたのだ。

 

 以下ネットより引用する。

 

 ―日本の原水爆禁止運動の出発点となったのはビキニ事件です。1954年3月1日未明、アメリカが太平洋ビキニ環礁で水爆実験「ブラボー」を行いました。広島に落とされた原爆の1000倍の威力により出た「死の灰」はマーシャル諸島島民や周辺海域で操業していた日本などのマグロ漁船に降り注ぎました。

 

 焼津港を母港とする第五福竜丸をはじめ、実験での被害が広く知られると、それへの抗議の運動は、その月のうちに全国に広がり、東京築地での「魚屋大会」(4月2日)、被災船第五福竜丸の母港焼津をはじめ全国的な自治体決議、各地の平和集会や市民大会など多彩な形をとって発展しました。なかでも大きな役割を果たしたのは、全国各地で自発的に沸き起こった署名運動です。

 

 その広がりの中で、8月8日には、各地の署名を「集計する」こと、「署名に表れた日本国民の創意を内外に伝え、原水爆禁止に関する世界の世論を確立する」ことを目的に原水爆禁止署名運動全国協議会がつくられました(引用は、結成宣言から)。

 

 署名の総数は翌1955年8月6日、広島で開かれた「原水爆禁止世界大会」の初日に、8月3日までの集約3158万3123筆と発表されています。これは当時の有権者数の半数に迫る数でした。

 

 署名に表された国民の願いは、9月19日、世界大会の準備会と署名運動全国協議会が統合した日本原水協の結成、翌年1956年8月9日の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成へとつながっていきます。

 

 この運動の広がりの中で、最初から「核兵器全面禁止」を掲げた日本の運動の原則性、草の根から行動する広範な国民性、そして最初から世界によびかけた運動の国際性が生まれました。―

 

 残念ながら総評系の「原水禁」が「原水協」から分かれて行ったが、原爆禁止の運動は毎年日本の各地で続けられたのだ。私も東京で開かれた原水爆禁止世界大会に参加したことがある。

 

 ICANは世界101各国に468のパートナー団体を持っているが、そういう人たちの運動によって、やっと締結できた核兵器禁止条約には、米国やロシアや中国など核保有国は賛成していない。そして日本もである。これらの国も含めて核廃絶ができるのはいつのことであろうか。どこかの国が核兵器を使用すればそのときは地球の破滅になることは常識でも分かることなのだが。

 

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2017年9月 1日 (金)

国民の不安を煽り思考停止に導くミサイル避難訓練

 北朝鮮がまたまたミサイルを発射した。それに対して落下に備えた避難訓練が全国各地で実施されている。朝日新聞によると、26日には津市でも行われた。

  「参加者たちは、訓練開始と共に、体育館に避難し、身をかがめた」という説明がついた写真が掲載されていた。

  この訓練は津市が消防庁の呼びかけに応えて実施したもので、住民たちが草刈で集まることになっていた市立榊原小学校が会場となったそうだ。

  三重県の担当者は「災害とは違い、『Jアラート』による防災無線放送など不慣れなことが多い。まずはどんなものかを知り、万が一の事態に備えることが必要だ」と、訓練の意義を話したという。

  もし北朝鮮のミサイルが飛んで来たとして、その場合はおそらく最も効果的な地域がターゲットとされるであろう。米軍基地なのか首都東京の霞が関付近なのか、あるいは原子力発電所なのか・・・・。北朝鮮はすでにシュミレーションをしているだろうが、それを知ることはできない。

  ターゲットを目がけて打ち込んで来るのだから、おそらく事前に察知して撃ち落とすということなど不可能であろう。仮に察知できたとしてもJアラートが間に合うのかどうか確かではない。

  ミサイルが撃ち込まれれば、逃げるなどということは不可能だし、仮に運よくビルの中に逃げたとしても無事でいられるかは分からない。ましてや学校体育館など、地震や台風ならともかくナンセンスだ。

  29日の朝のNHKは、ミサイルの発射関連のニュースばかりを繰り返した。ここには明らかに政府に協力して危機感を煽るという役割を果たし行くという忖度が働いているのだ。

  各地で避難訓練を実施するとか、ミサイルの飛来を殊更に強調するのは、国民の不安を煽り、冷静で合理的な思考・判断力を弱めようということにつながるのだ。

 素直に体育館に伏せる訓練を受けることで、北朝鮮は本当に日本を攻撃するのか、するとすればその理由は何か?そういうことを考えることを止めてしまうことになる。

 

 戦時中鬼畜米英とか竹槍で重装備の米軍に向かう訓練とかバケツリレーなどを思い起こさせる。あの時は危機意識を煽られ、試され、ナンセンスと分かっていても、それに抗することはできなかったのだ。

 ミサイル避難訓練は戦時中と同じくらい馬鹿げたことであることに気付くべきである。

 

 金正恩は、日本が北朝鮮攻撃の危機を煽って防衛予算増額に利用していると批判したが、それは当たっていると思う。あまり抵抗なく受け入れられるからだ。

 

 

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2017年8月20日 (日)

NHKスペシャル「731部隊の真実」を観て

 8月13日に放映されたNHKスペシャル「731部隊の真実」を観た。以前に組曲「悪魔の飽食」のことを書いたが、そのときネットで調べたら、731部隊は作られたものだとかウソだとかいうサイトがたくさんあり、森村誠一の「悪魔の飽食」もでっち上げだというような批判がされていた。

 今回のNHK「731部隊の真実」では、731部隊がでっちあげではなくて「真実」として取り上げられていた。もとにした資料は旧ソ連によるハバロフスク裁判を記録したテープであった。このテープの存在が72年ぶりに発見されたのだ。

 その他に京都大学や北海道大学に残されていた資料を発掘したり、731部隊に14歳の少年兵として徴用されていた三角氏の証言なども交えて作られていた。

 731部隊は旧満州国のハルピンの広い敷地に置かれていた。その建物とか物品等は8月9日のソ連参戦により、証拠を隠滅するために破壊したのであった。現在残っているのはビルの残骸だけである。

 三角氏は、731部隊に関係した医者や科学者たちが帰国したあと、他の少年兵と共にガソリンで囚人を焼き骨も拾って始末をさせられたという。

 731部隊には全国から医者などの優秀な科学者が集められて研究に参加していた。京都大学の11名、東京大学の6名の他に全国の大学から多くの研究者が集められていた。

 派遣した大学には巨額の研究費が政府から支給された。また731部隊の研究者にも多額の金が支給されたのだ。

 テープに録音された証言によると、チフス菌やペスト菌などを囚人に食べ物と一緒に食させたり、身体に振りかけたりして発病させていた。

 囚人というのは「匪賊」と呼ばれた中国人たちである。戦争がはげしくなるに連れて「匪賊」がどんなに凶悪なものであるかを人々に刷り込ませる情報が新聞やラジオでばらまかれた。日本人はそんな奴らは徹底的にやっつけてしまえと思うようになったのだ。私は子どもの頃読み物などで「匪賊」というのが満州にいることを知り、とんでもない怖い連中だと思いこんでいた。

 多くの学者たちも、匪賊だから人体実験に使ってもよいと罪悪感をなくしていったようだ。陶器製の爆弾にチフス菌やペスト菌などを詰めて空中で破裂させばらまく爆弾が作られた。その爆弾は昭和16年から17年に3回使用されたという。また村にばらまくこともされた。 

 人体実験に使用された人の中には女性や子どもやソ連人も一部含まれていた。

 731部隊で人体実験に携わり研究をした関係の科学者は戦後罰せられることはなかった。それは731部隊で得られたデータを米軍に提供することと引き換え罪を問われなかったのだ。そして彼らはその後医学界などを引っ張る存在になった。多くの医者を送り込んだ和田正三京大医学部長は医学界の重鎮となった。チフス菌などの人体実験をした田部井氏は細菌学の権威をなった。

 凍傷の研究をした吉井寿人は死ぬまで自分は何も悪いことをしていないと言っていたそうだ。

 テープには柄井氏の話しが記録されていて、彼は痛切に反省をしている。残念なことに8年の刑期を終えると自殺をしてしまった。

 生き残った研究者たちは731部隊でした研究については何も語らず、研究の道を進んだ。本来なら歴史の貴重な証人として証言をしておく責任があったのに。ハバロフスク裁判のテープの証言はそうした医学者たちの下で働いた人たちが証言をしているのだ。

 ※次のサイトに詳しく出ている

   http://lite-ra.com/2017/08/post-3392.html

 

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2017年8月16日 (水)

戦時中の庶民の圧迫された暮らしをメディアに取り上げてほしい

 8月になると広島や長崎に原爆が投下された日や終戦の日があるので、メディアは原爆や戦争に関連した番組や記事を特集する。それはそれで大切なことだと思う。

 だが、戦争は他国への加害や自国の被害だけでなく、日本国民自身が当時の政府や軍部によって強制された生活によって、自由や人権が失われたり、圧縮されたということがある。

 戦争によって物資が不足し、配給に頼る貧しい暮らしや米国軍が日本に迫って来るにしたがって米軍機による爆撃など恐怖の日々が続いた。しかし、その他に天皇を現人神として崇めることを強制されたり、赤紙ひとつで徴兵されたり、学生が工場に動員されたり、小学生でも授業をやめて奉仕作業をさせられたり、皇国婦人会に組み入れられて、主婦もさまざまな勤労奉仕をさせられたりしたのであった。

 「一億火の玉」とか戦争末期には「一億玉砕」などということが叫ばれ、竹やりで米兵を殺すなどという馬鹿げた訓練が真面目に行われた。

 戦争の初めの頃は「欲しがりません勝つまでは」我慢を強いられ、「壁に耳あり、障子に目あり」など互いに監視する隣組組織も作られた。「とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、回してちょうだい回覧板 助けられたり助けたり」という明るいメロディの歌がある。今に残る回覧板は戦時中のものであったのかと思う。

 安倍首相の悲願は憲法を改悪し、できれば戦前に回帰することだと言われる。その点では小池東京都知事も全く同じである。それを支えるのか「日本会議」であり、その中心の1人桜井よし子氏は最近も第3次安倍内閣が一番だと言っている。

 天皇中心の大日本帝国憲法と富国強兵の明治に戻したいのだ。その点では維新の会も名前の通り同じであろう。安倍首相が言う経済最優先の裏にあるのは富国強兵なのだ。国民の生活の向上ではないのだ。

 メディアに扱ってもらいたいのは、戦時中の庶民の生活がどんなものであったのかということである。大東亜共栄圏建設のために中国や東南アジアを侵略しただけでなく、そのために協力させられた国民が、どんなに悲惨な目にあわされたのかということを、つぶさに掘り起こしてほしいのである。

 8月10日の朝日新聞に「暮らしの手帖」が「戦争中の暮らしの記録」を単行本にしたのが売れていると出ていた。累計で20万部売れ、若い人にも人気があるという。花森安治編集長が68年の暮らしの手帖をまるごと「戦争中の暮らしの記録」にしたのだという。全国から集まった1736の投稿から139編を採用したのだ。

 私は読んだことがないので読もうと思うが、私のような戦時中の生活を知るものが読むのではなく、70歳以下の戦時中を知らない人たちにこそ読んでもらいたいと思う。メディアがこういう視点の特集をしてくれるとよいのだが・・・と切に願っている。

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2017年8月15日 (火)

72年目の終戦の日

 8月15日は72回目の終戦の日である。私が小学校4年生の時に終戦になった。以前にも書いたとこがあるが、この日は太陽が照りつける大変暑い日であった。

 商業学校の教師をしていた父は学校に出かけて行った。父が帰宅すると遠くの山の中腹を開墾して作っていたちょっとした畑に行くことになっていた。私は長男なのでいつも家の手伝いをさせれれていた。

 暑いので畑に行くのは嫌だと思っていた。午後に父が帰宅したが、何も言わずに「今日は畑にはいかない」とだけ言った。家には4球式スーパーラジオ(その頃は英語は使えなかった。何と言っていたが忘れた。多分4球式放送受信機?)があったが、天皇の終戦の詔勅の放送があることは知らなかった。だから終戦を知ったのはその日の夜だったと思う。とにかく遠い山の畑に行くことは免れたのが嬉しかった。

 終戦になって何と言っても嬉しかったのは、もうアメリカのB29が飛来して、夜となく昼となく爆音を響かせて上空を飛んでいくのがなくなったことだ。それまでは田舎の街でもいつ空襲されるかとか機銃掃射をされるかと毎日心配であったからだ。

 平和という言葉があることを知ったのはずっと後のことで、戦争が終わった、もう殺されることはないという安心が一番であった。

 私たち子どもは、その日から外で安心して遊ぶことができたし、誰でもがやらなくてはなかった家の手伝いも安心してやれることになったのだ。

 夜の燈火管制もなくなった。夜になると小さな2燭豆電球の周りに黒い布で覆って光が漏れないようにしていた。それが布をはずして、今でいうと30Wぐらいの電球をつけることができたのだ。

 空襲警報が鳴るたびに防空壕に飛び込むこともなくなった。家の前の空き地に共同の防空壕があった。住んでいた新宮市の熊の地が焼夷弾で爆撃されたとき、その防空壕から顔を出して、そちらの空を見上げて、焼夷弾がキラキラと光りながら雨の様に落ちていくのを眺めながら、きれいだなあと不謹慎な感想を持ったことが忘れられない。その下で多くの家が焼かれ人々が殺されたり傷ついていたのに。

 終戦によって8月15日を境に戦争から平和へと劇的に切り替わったのであった。生活は非常に苦しく、父も母も必死であったし、私も畑仕事や松葉広いなどいろいろ手伝っていた。しかしそうしたことは、いつ殺されるか分からない恐怖の毎日に比べればどうということはないとも言えた。とにかく普通の日常生活が戻ったのだから。

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2017年8月13日 (日)

特攻艇兵士の短歌

 8月12日の朝日新聞に載った「戦死と向き合う 戦後72年」の記事が目にとまった。太平洋祭竿戦争末期に日本の陸海軍が編成した「特別攻撃隊」。航空機による海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊はよく知られているが、他にも陸軍の「水上特攻隊」が広島県の江田島にあった。

  ボートは秘密のため連絡艇とされ「マルレ」の略称で呼ばれていた。資材が不足する中、薄いベニヤ板と自動車のエンジンで作られ、船尾に250キロの爆弾を積んだ。

  前線に赴いたのは計30戦隊3125人いた。その内1703人が亡くなったという。沖縄・慶良間諸島に派遣された秋田県出身の横山小一さんは19歳であった。「大義のために死ぬのなら悔いはない。笑って『神兵』になるという覚悟で入隊した。1945年3月に米軍から急襲されて戦死した。

  横山さんが残した短歌2首が紹介してあった。

   大君の 御盾となりて 捨つるみと 思えば軽き 我が命かな

   戦時中兵士の命は鴻毛の軽さと言われていた。天皇(昭和)を守る盾となって特攻艇に乗り、沖縄の米軍艦艇を沈めて命を捨てるのだが、考えてみれば自分の命は何とも軽いことかという気持ちをうたったのだと解釈する。19歳の若さで自らの命を引き換えに敵に損害を与えることを命じられたのだが、その心境はいかばかりかと思う。横山さんは残念なことに目的を果たせず戦死したのだ。

  弟さんは「どんな時代になろうとも、多くの犠牲を忘れてはならない」と、その歌碑を実家の庭に建てた。

  横山さんのもう一つの歌は次のようである。

   大君に 捧げまつりし 命なれ 無駄に死するな 時代来るまで

  「いのちなれ」の後にどんな助詞を加えるかで意味が変わってくる。「ば」を入れて考えると、大君に捧げた命だから、病気とか失敗とかで無駄死にするなという意味になる。

 「ど」を加えるとどうなるか。大君に捧げた命ではあるが、無駄死にしてはいけないとなる。そして最後の「時代来るまで」につながるのだ。おそらく戦争が終わって平和な時代がくることを予想していたのではないか。そのときまで生きぬきたいという気持ちの表れであろうと解釈する。しかしそれは叶わず米軍に殺されてしまったのだ。もし生きて生還していれば新しい時代を立派に生き抜いたことであろう。

 同じように特攻艇で慶良間諸島にいて、助かった人もいる。隠してあった特攻艇が米軍に焼かれて使えなくなったので命拾いをしたのである。その人は91歳でお元気である。

 もう2度と戦争で命を捧げる事態があってはならない。稲田元防衛相も安倍首相も小池都知事も戦前のような国家の仕組みに戻すことを念願としている。それをよく見なければならない。

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2017年8月10日 (木)

NHK ETV 「告白 満蒙開拓団の女たち」―お二人の感想

 以下に、友人から送られてきた「告白」を観たお二人の方の感想を記載させていただく

 (1) 敗戦による日本女性の犠牲。中でも敵兵(ソ連兵、国民党の兵士等)や日本の敗戦で今や勝利者側になった旧満州・朝鮮・ほかのアジアの男たちの性のはけ口にされた女性たち。その態様は様々でした。

 入局3年目に制作・放送した佐世保の「引き揚げの記録」(昭和4858日放送)の取材の過程で得た情報にも、そのような女性の姿が描かれていました。厚生省引き揚げ援護局がまとめた局史(佐世保引き揚げ援護局)に書かれていたと記憶しています。*佐世保にはアジアの広範囲の地域から復員兵・民間人140万人が引き揚げてきました。

 敗戦の混乱の中、祖国日本への引き揚げ船が出る中国遼寧省西南部の不凍港・コロ島に満州・北支など各地から列車で向うことの出来た人々がいました(私の両親と姉二人もその中にいました)。

 コロ島から佐世保に引き揚げてきた多くの女性たちの中で、一番荒れていたのが「性のはけ口にされた」女性たちでした。満州からコロ島に向う列車はしばしば中国の軍隊の国民党軍と八路軍(共産軍)に停車させられました。

 中でもアメリカが支援する国民党軍は車内の日本人女性を列車から降ろさせ、慰み者にしようとしたことが記録されています。その時、列車の中の団体がどのように対応したかは、引き揚げ列車の指導者層の判断次第でした。

 何とかお金で解決した列車、満州などで酌婦や女郎屋で暮らしを立てていた商売女に相手をさせ、素人日本女性を守ろうとした列車などなど。敵兵は差し出された女性たちを列車外に連れ出し、目的を達した後はまた列車に戻しました。この間、列車内に残り彼女らが戻るまでの間、特に同性の女性たちはどのような思いで列車内で過ごしていたのか。

 同じ敗戦国民として引き揚げる時、かつての玄人筋の女として敵兵に差し出された女性たちはコロ島に到着するまで、幾たびかこのような処遇を受けたことだろうと想像します。

 毛沢東率いる八路軍(共産軍)にこうした事例がほとんど聞かれないのは、国民党と熾烈な戦いのなかで中国国民の支持を得るために「強姦に対する厳罰」(露見すれば処刑)という規則を軍規としていたからでした。

 こうした女性たちの存在を、昭和26年に大ヒットした「上海帰りのリル」(作詞:東條寿三郎 作曲:渡久地政信 歌:津村 謙)を歌うときにいつも思い出します。

 一番の歌詞「船を見つめていた ハマのキャバレーにいた 風の噂はリル 上海帰りのリル リル あまい切ない 思い出だけを 胸にたぐって 探して歩く リル リル 何処に居るのかリル だれかリルを 知らないか」。

                                         (根本さん)

(2) いま、Eテレの「告白」を視聴しました。感動しました。

総括デイレクターを務めたNHKの塩田純さんからもみてくれと連絡が来ていました。期待にたがわない力作でした。

 接待という名目でソ連兵を「慰安」し、その犠牲の下で集団自決から開拓団の人々をまもった女性たちが居たのですね。驚きました。

 女性としてどんなにか辛かったか。そしてその周辺の人びとも苦悩した。その史実を明らかにしていったNHKならではの調査力を感じる作品でした。

 女性たちが名前も顔も出して、「生きて帰れたから、その後喜びも悲しみも体験できた。生きていて良かった。」とおっしゃっている姿は涙流さずにみることができませんでした。事情を呑み込んで彼女たちと結婚した男性たちも居たのですね。

 その一人、佐藤ハルさんの夫となった人はヒルしかすまない山奥の開拓に夫婦でとりくみ、戦後を二人で生き抜きました。

 その方を拝みました。立派なお二人です。また、子どもを産むことができなかった女性の、養子をめぐる話は哀切きわまりなく、しかし明るいものも感じさせ感動的でした。

 2年前に「集団事件の真実」(朗読劇)を演じてくださった方には、またさらなる思いが加わったのではないでしょうか。

 あの作品でも、ソ連や中国人の攻撃をうけながらの満州逃避行で弱い子どもたちが犠牲になったことを描きました。

 満州での集団自決は明治からの150年の日本の教育、洗脳の帰結です。

 「告白」は、その背景は語られていませんでしたが、それでも満州でたくさんの集団自決が起こったらしいことは想像させる「語り」でした。

また、あの舞台を再演したいですね。         (仲内さん)

 

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2017年8月 9日 (水)

NHK ETV特集「告白~満蒙開拓団の女たち~」を観て 

 8月5日にNHK ETVで放送された「告白~満蒙開拓団の女たち~」を観た。戦前に日本が旧満州国を作り、そこへ日本の各県から国策として送り出された27万人の農民がいた。岐阜県の旧黒川村(現白川町)からは満州の吉林省陶頼昭に黒川開拓団として入植した。戦争で養蚕がなりたたなくなり、一家で入植したと佐藤さんは語った。

  1945年8月ソ連が参戦し日本はまもなく負けてしまった。その後中国人たちが黒山のように黒川開拓団に押し寄せ物品を略奪し始めた。隣の九州から来ていた開拓団は薬を飲んで集団自決をした。

  黒川開拓団でも集団自決をする議論がされた。そのとき3km先の駅を占拠していたソ連軍に中国人を追い払ってもらうことを頼んだ。ところがその見返りとしてソ連軍は女性の提供を求めて来たのだ。

  苦渋の策として黒川開拓団では15人の未婚の女性を提供することにした。接待所を設けてそこにずらりと布団を並べてしいて若い女性、21歳~17歳を送り込んだ。

  ソ連兵はまるで物体のように銃剣で女性をあしらい相手をさせたという。昼でも夜でもソ連兵は来たので、1日に何度も相手をしなければならなかったそうだ。

  聞くに堪えない惨い話しであるが、600人の開拓団を救うためにはどうしようもないことであったのだ。

  女性たちには性病やチフスなどの感染を防ぐために洗浄などの措置が取られたが、それでも感染をし4人が亡くなった。また帰国後福岡の港の病院で中絶の手術を受けた者もたくさんいた。600人いた開拓団で帰国できたのは400人余りであった。

 女性たちも開拓団の人たちも帰国後この接待について触れることはなかった。心の中に封じ込めていたのだ。

 ところが数年前に当時89歳の安江善子さんが当時の経験を大勢の人の前で告白した。その女性は91歳で亡くなってしまったが、接待をさせられた女性が94歳の佐藤ハルエさんを筆頭に山本ミチ子さんなど3人生存しており、当時の様子を語りはじめたのだ。

 最初に告白した安江さんは夫や家族にもその動機については何も話さなかったという。生きている内に証人として地獄の経験を明らかにしておきたいと思ったのであろう。

 それをドキュメンタリーとして描いたのが、今回のNHKの番組である。佐藤ハルエさんは、黒川村に帰ったが、接待をした女性とは結婚できないなどの中傷をされ、2年後に蛭川村に移り、山を開拓して何とか生計をたて、満蒙開拓戻りの男性と知り合って結婚して今に到っているという。安江さんも開拓団の男性と結婚された。でも、子どもを産めない身体になっていた。

 安江さんは妹を守るためにその分も接待をしたのであった。それで子どものいない姉のために次男を養子に上げたのだ。心温まる話である。

 佐藤さんのお父さんは生きることが大切だと接待の道を選ばれたそうで、佐藤さんは生きていてよかったと言っておられた。ただお父さんは残念なことに現地で亡くなられた。

 戦後72年近くなって長生きをして、やっと話す気になったのだ。佐藤さんは後世に残さなければならないと語っている。カメラの前で名前も明らかにして当時の様子を話した勇気に感動をした。毎晩思い出されて夢にも出てきてさいなまれるという。開拓団を救うためとはいえそれほどの屈辱の体験であったのだ。非常に大切な歴史的事実で決して忘れられてはならない。

 

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