戦争と平和

2009年8月25日 (火)

戦争は利益のために画策されるという

 「アメリカが隠し続ける金融危機の真実」のP.105には、次のような恐ろしいことがちらっと書いてある。

 「ブッシュ政権下で強い力を握ってきた軍産複合体は、イラク戦争の先にさらに大きいな戦争を起こし、戦争景気によって双子の赤字をうやむやにする戦略をとろうとした。私(ベンジャミン・フルフォード)が独自に入手した情報によると、軍産複合体の目指していた戦争のタイムスケジュールh2012年に設定されていた。まずは、イスラエル軍によるイランへの空爆を行い、中東に新たな火種を作り出した上で、EU,ロシア、中国を巻きこんだ第3次世界大戦になだれ込もうとするシナリオまで、用意されていたよだ。」

 イスラエルとイランの関係は常に険悪で、そのためにイランは核武装をするのだと思われる。

 ブッシュ政権を支えたネオコンはアメリカの新世界秩序、ニュー・ワールド・オーダーを目指していたという。

 冷戦が終わり、軍事予算が削減されて軍産複合体は儲けが少なくなり、影響力が弱まってしまうのを恐れた。それで

 「アメリカに対する新たな脅威を作りだすプランを練り、その資金力と政府へとつながる人脈を駆使して、数々の工作を行っていった。

 その一つがイスラム社会との対立の構図だ。イスラム過激派の脅威を煽り、裏ではテロ組織派の資金提供なども行いながら現在のテロ戦争を作り上げて行く。」(P.111)

 オサマ・ビン・ラディンはもともとCIAの工作員であったという。

 こうなると、裏ではどんな恐ろしいことが画策されているのかと思う。一般市民が何も知らないところでその運命が決められているのだ。

 「軍産複合体に動かされたブッシュ政権は、日本の税収をはるかに超える6000億ドルもの軍事予算を注ぎ込み、核兵器、生物兵器を含む新兵器の開発やハイテク化に邁進した。いうまでもなくこの膨大な予算の大半は軍需産業に流れ込んでいく。」(P.112)

 昔から”死の商人”ということが言われたが、戦争という最悪の手段を金儲けにつなげようという貪欲な人たちがいるのだ。

 この本によると、あのイラク攻撃も今では嘘であったという言いがかりによって開始され、イラクを悲惨な状態に陥れた。フセインにより秩序ある統治がされていた独立国家を破壊したことも述べられている。イラクを手に入れたのも石油の利権が本当の目的であったのだ。

 オバマ大統領が唯一軍隊の増派をしてでも守り抜くといっているアフガンについても本当は石油会社の利権がからんでいることを書いている。

 要するに、みんな一部の大資本家の金儲けのためなのだ。金を儲けるためにはどんなことでも平気だやるということなのだ。

 その資本家についてもこの本は名前を挙げて述べている。

 

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2009年8月15日 (土)

8月15日の思い出

 8月15日は終戦記念日である。昭和20年のこの日に戦争が終わった。

 その日は、天気のよい日で暑かった。父は何の用があったのかは知らないが、勤務していた学校に出かけていた。父が帰ってきたら一緒に遠くに借りていた小さな畑に行くことになっていた。

 当時私は10歳。長男なので家の手伝いは全てやることになっていた。弟妹の世話、ご飯焚き、薪集め、畑仕事・・・・。

 午後何時か知らないが、父が帰ってきた。そして、「畑に行くのはやめだ。」というと、ごろんと横になった。何があったのだろうかと訝ったが、私にしてみると、暑い太陽が照りつける中を遠くまで歩いて畑に行かなくてもよいのでホッとしたのを覚えている。

 後で母から、「戦争に負けたのだ。」と聞いた。

 父は、召集されて戦争に行く覚悟は決めていたし、その準備もしていたが、丙種合格で教師をしていたからか召集されないうちに戦争が終わった。

 父が戦争をどう思っていたのかは私は知らない。戦争の現状とか行く末についてとか話を聞いた覚えはないからだ。だから畑に行くのをやめた理由も知らない。

 家には真空管4球式のラジオがあったが、私は玉音放送のことは知らない。近所の人からも聞いたという話を聞かなかったから、誰も知らなかったのだろう。

 戦争が終わり、もう毎日上空を飛行していたアメリカの飛行機が爆弾を落とすこともなくなるのだと思ったのは後のことである。

 8月15日の思い出は、他愛のないものだが、何故か父が帰ってきた部分だけは鮮明に覚えている。

 そして、行くはずであった畑にはカボチャが豊作であったことも思い出す。

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2009年8月13日 (木)

NHKの「兵士たちの証言」を見て

 8月は、ヒロシマ、ナガサキに原爆が落とされ、8月15日に終戦となり、忌まわしい戦争から解放された月である。

 8月が近づくと、NHKを始めマスコミは、かつての戦争に関連した番組や特集を作って流す。それは戦争をなくし平和を求める気持ちを持続するために大変有意義なことである。

 今年のNHK制作の「兵士たちの証言」シリーズは、かつて第二次世界大戦中にアジアの各地で戦った生き残りの兵士の証言を元に作られていて、非常に生々しい。

 奇跡的に生き残った人たちは、もう85歳から95歳になっている。中にはこれまで誰にも話さなかった戦争の体験をやっと話した人もいる。どの人も戦場での悲惨な体験が心の中の深い傷として残っているのだ。

 このシリーズで取り上げられたのは、レイテ島の陥落、戦艦武蔵の最期、中国雲南の拉孟戦線、特攻重爆撃機、フィリピン、インパール作戦、従軍看護婦などであった。

 いずれも、アメリカ、或いは連合軍などの猛攻撃にあって、部隊が壊滅的打撃を受け、生き延びた人も食糧がなくて、草を食べたり、虫などを食べたり、中にはやむを得ず人肉を食べるという状況であったという。

 そして、傷病兵は体にウジが湧いて死んで行き、ハゲタカなどの餌食になってしまったという。

 また、どうしようもない傷病兵は手りゅう弾を渡されて自爆したり、看護婦が死ぬ薬を注射して殺したりしたという。

 特攻航空機では、15歳の少年航空兵も死んでいる。しかし、兵士の大部分は20歳前後だから15歳も20歳も生きられるはずの人生から見るとほぼ同じ僅かな人生で死を余儀なくされたのだ。

 地上兵も戦艦武蔵の水兵も悲惨さにおいては特攻兵と同じであった。殆ど徒手空拳で敵に向かい死んでいったのだ。

 中国で敵に包囲されてどうしようもなくなった看護婦たちが、地上に仰向けに寝かせられ、その体の心臓を男の兵士が銃剣で順番に突き殺していったというのはぞっと身の毛のよだつような実話であった。

 それを語った女性は、1回目が急所をはずれたので2回突かれたがそれもまた急所をはずれたのだという。そしてたった一人生き残ってソ連軍の捕虜となったのだという。

 生と死を分けたものは何か。運命としかいいようがない。生き残った人たちは99%の死の中から生き残ったのだ。そして、90歳前後まで生き延びてきている。何という生命力の強さだろうと思う。

 私は、戦争の経験はあるが、戦争に行った兵士のような生と死の極限までの体験はこれまでにはしたことがない。

 戦争に行った人はもう90歳前後になってきている。戦後生まれも64歳なのだ。だからと言って戦争を風化させてはならないと思う。戦後64年間の平和な時間があったことを有難く思い2度と戦争を起こす側にたってはならない。

 兵士たちの貴重な証言を時々見て平和への誓いを新たにして欲しいものだ。

 http://f3.aaa.livedoor.jp/~hatuki/GSN.HTM

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2009年3月25日 (水)

アメリカB29爆撃機の日本無差別爆撃

 3月は、太平洋戦争末期の1945年にアメリカが日本に最後の止めを刺すべくB29による日本の都市への無差別爆撃を加え始めた忌まわしい思い出の月である。

 それまでに1942年4月12日にB25、16機による本土初爆撃が行われた。東京、横浜、名古屋、神戸など6都市が爆撃された。その後軍事施設をターゲットとする爆撃が繰り返された。

 それが都市への無差別爆撃に変わり、1942年3月10日の東京大空襲となった。未明に約300機のB29が東京の下町に2000tの高性能焼夷弾を投下して、焼き尽くした。100万人が住居を焼かれ、10万人が死に、11万人が傷ついたと言われる。

 続いて12日には、我が名古屋にも288機のB29が来襲し死者519人を出した。14日には、大阪を279機のB29が襲い3115人の死者を出した。17日には、307機が神戸に爆撃を加え、死者が2598人出た。

 B29による執拗な爆撃が続き、それは地方都市へも広がって行った。

 私は、当時小学校4年生で、和歌山県新宮市に住んでいた。陸の孤島と言われた僻地であった。ところが、本州の最南端紀伊半島の串本を目指してサイパン島などから飛来したB29が毎夜上空を飛んで名古屋方面や関西方面に行ったのである。

 NHK第一ラジオは、その度に「中部軍管区情報。敵のB29○○機が××方面に向かっている・・・」という情報を流した。

 上空を通過するB29の低周波の不気味な爆音がブーンと唸って耳に入るのであった。その度に、防空壕に飛び込んだのだ。

 ある夜、防空壕に入っていると爆音が近く辺りが明るくなった。入り口から首を出すと、空には糸を引いて雨のように落ちていく光があった。焼夷弾などが投下されたのだ。

 標的は駅から太平洋に近い熊野地という地域であった。その地域の住宅は焼かれてしまった。

 後で聞くと、何でも、空襲の帰りの飛行機が焼夷弾などを減らすために投下して行ったのだということであったが、日本中の都市が全て無差別攻撃されたのだから荷物減らしにしても意図的なものであったに違いない。

 都市には、住宅が密集し、一般の市民が生活をしていることを知りながら平気で空襲をし焼き払う行為は戦争犯罪である。しかし、戦勝国アメリカは咎められることはなかった。そして、日本人もアメリカの行為に抗議をする人は少なかった。

 原子爆弾の投下のみが大きく取り上げられているが、アメリカの無差別爆撃も同じ重さで糾弾されて然るべきだと思う。

 「米戦略爆撃調査団報告書」によれば,太平洋戦争を通じ,アメリカ軍が日本本土に投下した爆弾・焼夷弾の総重量は161,425トンで,その内訳は6,740トン(海軍航空隊),7,109トン(極東空軍),147,576(在マリアナ第20空軍のB29)で,その空襲は353回にわたり,延べ51,903機に及んだという。(この部分は引用)

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