ひろさちやの「狂い」のすすめとポケットに仏さまを読んで
書名が面白そうなのでひろさちやの著作を図書館で借りて読んだ。初めに「『狂い』のすすめ」を借りて読み、次いで「ポケットに仏さまを」を借りた。
この2冊は、大体内容は同じである。同じ材料を使って見た目や味付けを変えた料理のようなものである。元になっているのは、仏教思想でそれにキリスト教や他の宗教をちょっスパイスとして入れてある感じだ。
釈迦の教えをやさしく説いたものだと思えばいいのかもしれない。
ひろさちやの書物の特徴は、やさしい文章である。前にも書いたが、文章をやさしく誰にでも分かりやすく読みやすく書くことが出来る人は素晴らしいと思う。
ひろさちやもその1人に挙げることができよう。
ところで、彼の幾つかの論点の中から「努力をするな」を取り上げたい。日本人は「努力」というコトバが大好きで、小さい頃から耳にタコが出来るくらいに教えられたきたに違いないと言う。その通りである。
日本人は、「頑張れ。」「倒れるまで頑張れ。」「頑張れば誰にでも出来る。」などと言う。
私も、仕事柄教え子たちに頑張ることを教えてきた。頑張る=努力する→よい結果が得られる。今売れっ子の茂木健一郎も勝間和代も努力することの大切さを説く。
それに対し、ひろさちやは「努力なんていらない。仏もそう言っている。」というのだ。世間がどう言おうと気にするな、頑張る必要は無いと言う。
これを読んでいて、ふと竹中平蔵のことを思い出した。彼は、小泉内閣の大臣になった頃、その著書(幻冬舎刊)の中で、「努力したものが報われるのは当然だ。」と言っていた。あのアメリカのウオール街の貪欲な連中と同じことを言ったのだ。「非正規社員やフリーターやアルバイターなどは努力が足りないからそうなってので自己責任である。」と言った。
あの頃口を開けば、みんな「自己責任」と言っていた。そこでいう努力とは、頑張るとは、会社のために尽くし業績をあげるとか、高級公務員や研究者として業績をあげるとかいうことであって、一般の人がいくら頑張っても、努力をしても、それは努力や頑張りとは評価されないのであった。
石川啄木の「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」に詠まれた働くことは頑張りとは評価されないのだ。
ひろさちやは、努力は人それぞれにより異なるから世間で一律の物差しを使って測るべきではないと言っている。
最近、香山リカの「しがみつかない生き方」という本が売れているようだ。本屋で立ち読みをしたら、どうやらひろさちやのような論点で書いているらしいことが分かった。キャッチフレーズは、「勝間和代になるな」であるが、自分らしく自分を大切にして生きなさいと言っているのだと思った。ひろさちやがいう世間の物差しで計らない生き方である。
ひろにしろ香山にしろ、世間的な、大臣が偉いとか社長が偉いとか高級官僚が偉いとか、逆にフリーターや派遣社員などはダメ人間だとかいうような考えを持つなと言っているのだ。
自民党・公明党内閣のときに、指導要領が改訂され、1~2割程度の指導的エリートとその他の労働層に分ける教育に変わった。8割以上の人間はどうでもよいとされたのだ。派遣社員などは人件費ではなく、資材などと同じ物として処理されていることからも明白である。
努力や頑張りが認められるのは一部のエリートだけということの間違いに気がつき騙されないようにすることが大事である。

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