教育・生涯学習

2009年10月29日 (木)

緊急のお知らせ―昭和男爵コーラス出演中止―

 11月1日(日)午前11時から、名古屋市昭和区の昭和生涯学習センター祭りに出演する予定であった我が昭和男爵コーラスの出演が取り止めとなりました。

 理由は、ピアニストの先生が急病になられたからです。代わりのピアニストを急遽探しましたが、この時期はピアニストはみなさん予定が詰まっていてダメでした。

 以前にこのblogでお知らせしてありましたので、ひょっとして当日に聴きに来てくださる人がいらっしゃるといけないと思い緊急のお知らせを書きました。

 3月からずっとセンター祭りのために練習を続けてきましたし、今回は女声コーラスのスイートポテトとジョイントできることを楽しみにしておりました。それだけに参加できなくなったことを大変残念に思っております。

 こういう事態になることは夢にも思っておりませんでした。団員が一人ふたり欠けてもやれますがピアニストや指揮者が欠けるとどうにもなりません。涙を呑んでの中止となりました。

 昭和男爵コーラスは、名古屋市の生涯学習センターなどの市の施設で練習している男性コーラスとしては、Only Oneです。しかも、現時点では、平均年齢が67歳ぐらいであることも珍しいことです。「世界で一つの花」ではありませんが、Only Oneを誇りにこれからも練習を続けていきます。

 次の機会には是非私たちのコーラスを聴いていただきたいと切に願っております。

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2009年10月16日 (金)

教員免許更新制廃止を歓迎

 安倍内閣の目玉として実施された「教員免許更新制」が、民主党連立政権で廃止される見通しとなった。諸手を挙げて賛成する。

 私は、リタイアして長く、今後も教員免許を必要とはしないが、現職の教員であれば、10年後との免許更新は大変だろうと思う。

 そもそも安倍元首相は、学校が荒れているのは教員の指導技量の低下によるものと決め付け、責任を教員ひとりに押し付けたものであった。

 学校が荒れてかれこれ20年近くになろうかと思うが、最初は高校や中学で荒れていたのが、小学校にも現れるようになり、低年齢化して行った。そして幼稚園や保育園でも落ち着かない子どもが増えていった。

 生徒や子どもが荒れたのは何も教員の質が低下したのが原因ではない。子ども自体に心の変化が起きたのだ。全国的に同じように発生しているのが何よりもの証拠である。

 子どもの変質を招いたのは、地域の変化や家庭の変化や経済の影響やテレビやゲームなどの影響や食物の影響や・・・・いろいろと複合的に影響しあってのことであると思う。

 いつの頃からか、モンスター・ペアレントという言葉で表される身勝手な自己中心の父母が全国的に増加し学校を悩ませるようになった。

 こうした一連の動きの中で、安倍元首相は、教員さえ叩きなおせば学校はよくなると考えたのであろう。教育再生会議なるものを作ってその提案という形をとり教員免許更新制度を作ったのであった。

 しかし、この制度は大変不評であった。それで鳩山内閣では廃止を打ち出したのだ。

 同じ日の朝日新聞に、「医師免許の更新制度をつくれ」ということが「私の視点」欄に載っていた。諸外国では、医師免許に関しては免許の更新が主流なのに日本だけはないのだそうだ。

 私も、教員免許更新制度ができるときに、医師や弁護士などはそのままで何故教員だけ?という疑問を抱いた。

 私の現職教員のときは、研究会や指導会が毎年行われたし、自主的に研究をした。私の場合は、自分で費用を負担して研究会に参加したり、書籍を買って勉強したりすることを退職するまで続けた。生徒のために少しでもよい教育をしたいと思っていたからである。そういう教員も一律に免許更新で管理をしようというのである。

 私は、教員免許更新制度を作った真の意図は、教員を文部科学省の思い通りに管理し、物言わぬ教員を作るためであったと思う。

 先ず教育界を洗脳し、そして憲法改悪、自衛隊海外派遣に道を開くというのが安倍元首相の描いたシナリオであったに違いない。

 それを打ち砕く意味でも今回の決定は歓迎すべきものである。

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2009年8月29日 (土)

29周年を迎える昭和英会話クラブ

 私の所属する昭和英会話クラブ(SEC)は来年1月に創設以来満29年になる。もともと、名古屋市の昭和区にある昭和社会教育センター(現在は生涯学習センター)が出来たときに、英語会話講座が開かれたのがきっかけである。

 英語講座は2期続いて12月に終わったのだが、そのとき43名いた学習者の中から自主講座を作って継続しようといいう声が出て、23名ほどで発足したものである。

 最初の講師はJulia・Sopalskyというアメリカ人女性で、センターが紹介してくれた。以来、英語会話講師は一貫して外国人を要請してきた。そのことは規約にも明記してある。

 そもそもセンターに英語会話講座が出来たのは、近い将来に英語コミュニケーション能力が必要になる時が来ると予想されたからである。

 参加学習者の中で英語を話せる人はほんの僅かであった。殆どの人は私も含めて全くの素人であった。

 しかし、定員一杯集まったということは、それだけ将来の海外旅行などを想定した需要があったということであろう。

 そういう訳で昭和社会教育センターを会場にして、1981年1月21日に昭和英語会話クラブがスタートしたのである。

 以来、インストラクターも会員もいろいろと入れ替わったが、29年間も継続してきた。私も含めて創設以来の会員が3名いる。合唱クラブのようなものは別として、英語会話のような学習でこんなに長く続いているのは余りないのではないかと思う。

 一回、一回の積み重ねで気がつけばいつの間にか長い歴史を作っていたのだ。

 もし、愛知県や名古屋市に私たちのような歴史を持つ外国語学習のクラブがどのくらいあるか知りたいものである。

 このblogを読まれた方でご存知の方は、コメントに入れてもらうかniftymailアドレス宛に教えて欲しいものである。

ST issues Aug. 14, 2009

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2009年5月11日 (月)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―⑧―

 

19)いくつかの大事だと思われること

    短いセンテンスで話す

センテンスが長いと格好良いと思いがちであるが、会話でも文章でもセンテンスは短い方が相手に分かりやすいのである。接続詞はなるべく避けてセンテンスを完結させるようにするとよい。

    母語からの直接的な翻訳はしないように気をつける

日本語の単語を思い浮かべて、それを英語に翻訳して話そうとするとそれに対応する適当な単語や表現が見当たらず四苦八苦することが多い。日本語と英語(外国語)は別の言語だから等号で結ばれるような関係にはないと思うべきである。だから説明的に表現したり、別の言い方を工夫したりすることが求められる。

 「花冷え」とか「春の嵐」などの英語や他の外国語の対応句はないはずだ。

    間違いを恐れない

外国語を話す場合、日本人は文法的間違いを恐れる傾向がある。とにかくどんどんと話すことにトライすることが大事である。私が知る限り、英語を学ぶ日本人でも、日本語を学ぶ外国人でもおしゃべりな人は上達が速い。

また、間違えたときは、しまったと後悔するので脳に強力に定着しやすいのだ。

脳科学者の茂木健一郎さんは、NHKのプロフェッショナルで次のように話している。

「後悔しているとき特に活発に働いているのは眼の奥にある「眼窩前頭皮質」だということが分かった。そこは環境の変化に適応する適応力を司る場所だったのだ。

 後悔することは環境に適応し自らを成長させることである。後悔をするということは次からは後悔しないように工夫することなのだ。

 後悔は”反省”(単なる振り返り)ではなく、後悔をすることにより、脳の中では”現実”(実際に起こったこと)と”想像”(もしこうやっていたらこうなっていたのに)の比較がされるのだという。あれやこれやと比べながらどうすればよかったのか、これからはどうするとよいのかなどを思い巡らせるのだ。

 そのときに”くやしい”とか”悲しい”とかのネガティヴな感情が起こり失敗の経験が脳に強く刻まれる。そして、その失敗を繰り返さないための適応力が向上すると考えられている。」

 私の経験でも、英会話クラスで間違えてしゃべって、家に帰る途中とか布団に入ったときとかに突然、「ああ、あの時はこういえばよかったのだ」と思いつくことよくある。間違えて後悔することは大事なのだ。

④ 忘れることを恐れない

 英語に限らず、年齢を重ねるたびに物事を覚えることができなくなり、覚えていたことをとっさの場合に思い出せないことが多くなる。新しい単語やイディオムを覚えようとしても、そのときは覚えたつもりでも次の日になると忘れてしまっている。

 

 思い出すことでも同じである。先日もこんなことがあった。population人口)と言おうとして、popularityと口に出てきてしまったのだ。覚えているはずのことが出なくなり、次の日辺りにひょいと思いだすのだ。

 

 結局は、繰り返し繰り返し対象言語に触れることしかないのだと思う。子供が母語を覚えるのもそれに日常茶飯に触れているから自然に覚えて行くのだ。相撲取りも同じである。

⑤ 体験的に見つけたこと

その一つは、 シャドウイングができるようになるまで繰り返し聴くことである。私は毎朝ウオーキングをしているが、その時に同じ中国語のテープばかりを聴いたのだ。するとある時自分がテープを聴きながらシャドウイングをしているのに気づいた。同じテープを聴き続けているうちに自然にシャドウイングができるようになっていたのだ。同じことを英語でも試してみたら、やはりシャドウイングができた。

つまり、外国語のテープを聴くにしても、同じものを繰り返し聴きシャドウイングができるようになるまで続けることが大事だということだ。

 

 その二は、授業の録音をして次の日に聴くことである。これはICレコーダーを買って最近になって英語会話のクラスの録音を始めた。そして次の日のウオーキングのときに聴くのだ。するとインストラクターが教えてくれたことなどがよくわかることを発見した。授業のときだけだと忘れてしまうことがもう一度聴くことによって確認されるのだ。もし、若ければ一度聴きかえすだけでも覚えられるかもしれない。復習が大事だということを今更ながらに知ったのである。

20)日本語学習のやさしいところ

 私は中国語も勉強したが、こちらは発音では「四声」が難しく、発音のたびに頭の中で「これは一声?二声?」というように、チェックをしなければならない。「声調」を間違えると全く駄目だからだ。声調さえなければと思うのである。

 

 その点日本語は声調は無いし、アクセントさえあいまいである。学者の研究によると、アクセントのない所の方が多いのだそうだ。これは外国人が日本語を学ぶ場合の大きなメリットである。

 

 中国語では、聴き取りが最も難しい。理由は、日本語にない音がいろいろとあること、同音意義語や声調が同じ単語があること、単語の種類や数が多いこと、故事成語がよく使われることなどである。

 

 そこへ行くと、日本語は母音が5つしかないし、音も120程度である。英語にいたっては発音は単語の数だけ覚えなければならないのだ。

 

 中国語の易しいところは、読むことである。日本人にとっては漢字が共通している部分が多いので、簡体字と簡単な文法さえ覚えてしまえば新聞を読むことは可能である。通常1年間ぐらい中国語を勉強すれば何とか新聞を読めるようになると言われる。

 

 同じように中国人が日本語を学習する場合、漢字に関しては非常に有利である。

 

 外国人が日本語学ぶ上でもう一つの利点は、平仮名の存在である。

 日本の小学校では、1年生に作文を書かせるときに、「話すとおりに書けばいいんだよ。」と教える。何故か?一年生では5月までに平仮名の読み書きができるように指導することになっている。平仮名さえ書けるようになれば、漢字を知らなくても文章は書けるのだ。また、一年生では、お話タイムを作って簡単なお話を口頭でさせるので、作文のときにも話したとおりに平仮名で書けばいいということになるのだ。

 同じことは外国人にも当てはまる。平仮名さえ書けるようになれば、覚えた日本語を書くことができるのだ。

 

 英語の場合はそうはいかない。単語の綴りを覚えないといけないからだ。

21)英語の指導について

 日本では2010年から、小学校でも英語の学習が始まり、4年生以下は年に20時間、5年以上は35時間の勉強をすることになった。また、高等学校では英語教師は英語で授業をしなければならなくなった。

 

 その点に関して、先の川崎さんは、次のように提案をしている。

 「生活に密着した英語の導入を図るには、英語による指示をパターン化する「指示英語」の定着を図る必要がある。」と。

 

 私もかねてから小学校も含めて学校で英語を教えるとすると「指示」や「受け止め」の英語を教師が身に付ける必要があるだろうと感じていた。留学経験がない者にはどのようにすればよいのかと思っていた。確かにさまざまな場面を想定してそれに見合った指示や受け止めの英語の例文を覚えることは有効であろうと思う。

 これはネイティヴでない教師が外国語を教える場合には言えることであろうと思う。

22)日本語教師に望まれること

外国人に日本語を教える場合にインストラクターに必要なことをメモ風に書いておきたい。

    日本語の標準の発音が明確にできること。

    文字を筆順も含めてきれいに正確に書けること。

    その場にあった指導法がとれること。

    文法、語法などの知識。

    日本の文化、生活習慣についての知識。

    どうしても媒介言語を使いたいときは間違った使い方をしないように気をつける。

 

終わりに

 日本では、英語偏重がまかり通り、NHKは英語番組だけを増やしているし、文部科学省も小学校からの英語教育を実施する。

53日の朝日新聞によると、ベネッセによる中学校英語教員対象の調査では、英語教育が変わっても「英語を話せる日本人は増えない」と考えていることがわかったという。英語を話せるというレベルをどう考えるのかも前で述べたように問題であるからこれだけでは何ともわからない。

 

 今や英語は世界共通語のような存在となって英語を話せないと何かにつけ不利な状況が生まれてきている。アメリカ人やイギリス人など英語を母国語をする連中がのさばる勢いである。アメリカ人は英語しか知らない人が多いと聞く。英語が通用するから英語で十分だと考えているのだろう。

こんなことでいいのだろうか?と危惧する。世界にはいろんな言語があるからそれを尊重することがまず大事である。ドーデの「最後の授業」ではないが、母国語をきちんと話すことは大事なことである。母国の言葉や文化を学んで守りその上で外国の言語や文化を学ぶことが肝要であろう。英語はその中のひとつである。

それに英語にもいろいろあるのだからそのローカル性を認めて行くことが大事だと思う。日本人は日本的英語でいいのだ。堂々と日本英語を貫き相手が分からなければ分かる努力をしろというぐらいの気概が必要だ。

また、日本に来る外国人は日本語ぐらい勉強してから来たらどうかと言いたい。

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2009年5月10日 (日)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―⑦―

 

16)文法について

文を作るとなると問題は別である。

日本語は、助詞や助動詞の助けを借りて文を作っていくので(膠着語)、語順は必ずしも重要ではない。語順を入れ替えることも可能である。

 

 ところが、中国語ではそうはいかない。品詞によって単語の置かれる場所が決まっている(孤立語)からだ。英語も語順を変えることはできない。英語は語が変化する(屈折言語)。

 

 文を作るには文法が必要だ。ところが外国語を学習するのに文法の勉強は必ずしも必要がないという考え方もあるようだ。

 

 日本では、明治以来外国語を指導する方法として、文法と訳読が重視されてきた。それは最近まで続いた。私が学生時代はまさに文法・訳読法であった。

 

 中学校のとき同志社大学出身の玉置という女性教師が文法を教えてくれたのだが難しくて文法が大嫌いであった。高校に入ると何と彼女も高校に転勤してきてまた文法を担当した。悲劇は続いたのだ。私は訳読も苦手で結局英語は落ちこぼれであった。

 

 英語会話の勉強を始めたら、ダイアローグが中心で取り立てての文法はなかった。英語会話の勉強をすることで自然に英文が書けるようになったし、英字新聞も読めるようになった。だから、文法は中学校で習う程度でもいいのではないかと思う。会話によって使い方を勉強すれば文法が自然に身につくのではないかと思う。

 

 母語話者は生まれてから自然にコトバを覚えて行くのだ。日本語の場合、文法を取り立てて勉強するのは中学一年からである。日本人は、学校の国語の試験で仮に動詞や形容詞の変化で0点をとっても、生活には何の影響もない。日本人なら間違えることなく日本語の会話ができるのだ。

17)聴き取りと発音

音の聴き取りと発音はについてどうか。これはネイティヴの発音を聴いて真似をするしかない。残念ながら日本では先ほども書いたように発音は殆ど無視をされてきた。読めるようになればそれでよしとされたからだ。

 

 だから学校の英語教師でさえ発音はおろか会話のできない人が殆どであった。高校のときに、西村という東大出の先生がいたが、この先生はいつも「私はクイーンズイングリッシュの発音免状を持っています。」と言って自慢していた。それは例外であった。

 

 英語会話番組を聴くようになって、テープに録音をしておいて通勤の自動車の中では必ず聴くようにした。今は、CD,DVD,ICレコーダー、インターネット等さまざまな聴く手段があるのでいい時代になったものだ。電子辞書では、発音もしてくれる。

 日本人が外国語の発音に苦労するのは日本語が特殊な言語で共通する音の数が少ないからであろう。中国語にはf, l ,r, wの音があるから日本人より有利である。

 

 私の場合、英語会話の勉強をしてきたので、中国語の発音にも役立った部分がある。発音については前掲の書には、「発音に興味を持って真似をすること」(p.174)と言っている。

18)生活習慣や発想の違い

外国語を習得する場合、その人の民族や国民性による生活習慣や発想の違いは大きな影響力を持つと考えられる。

その国に行ってその国の人と交わって自然に身につけられれば一番いいのだが、なかなかそうは行かない。日本に来ている外国人でも日本人の習慣を理解しそれに合った日本語を身につけるのは容易ではない。相撲取りの場合は、どっぷりと日本人の中に浸かって起居を共にするから外国人力士の日本語会話は非常にうまいが、一般の人ではそうはいかない。ブラジルの日系二世、三世でも純粋外国人と同じ状態である。

私たちが英語を習得する場合通常は日本にいて学習するので殊更むつかしいのだ。英語の勉強だけでなく文化的背景や生活習慣まで知るといいのだが、ネイティヴと言ってもイギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語・・・・などさまざまなものがあるのでどれを知ればいいのか迷ってしまう。(8)に引用してある川崎さんが、「英語には標準語がない」とうのはこのことか?

ただ、大きく分けて、西洋的と日本的というような大まかな違いを知ることから始めるのもよいであろう。

コトバには文化が色濃く反映されているのだ。

「外国語学習の科学」p.24には、次のような例が紹介されている。

「日本語を学習している外国人が非常に不思議に思うのが、ある種の自動詞です。

 ・お金がかばんに入っている。

 ・財布が見つかった。

 ・ビールは冷えている。

 なぜかと言うと、多くの言語ではこれらの表現は自動詞では表せません。」

私たちが何気なく使っている日本語もそれを学ぶ外国人から見れば“どうして?”というようなことがあるのだ。

その逆も当然ある。

例えば英語の場合、能動形で話されることが多い。ところが日本語では受身表現もよく使われるので受身で英語を話す人がいる。(←この文を英語に翻訳してみるとよいだろう)

また、日本語式に主語や目的語を略して話してしまうこともよくある。が、英語では主語や目的語は必須成分である。

外国語を学ぶことは、その言語を使う人々の文化を学ぶことでもある。私は、日本語を教えるボランティアをしているが、最近は上級コースを受け持っているので、コトバの背景にある日本文化や生活習慣をも話したり、逆に相手の国の文化や生活習慣について聞くことが多い。学習者の国籍が複数の時にはそれぞれの違いが見られて興味深い。そうしたことがお互いの国際理解につながるのだと思っている。

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2009年5月 9日 (土)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―⑥―

 

14)進歩の法則――量より質への転化

 外国語に限らず、運動でも習い事でも全てに当てはまる「進歩の法則」がある。それは進歩は階段状に起きるということである。

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  aからbまでは、経過時間を表す。これについて今売れっ子の勝間和代氏は、411日の朝日新聞be「人生を変えるコトバ」というコラムで次のように書いている。

「努力は、かけた時間によって測定できる」という見出しで、

 

“この言葉は私のオリジナルです。この考えにたどりついたのは38歳のときです。”

 “もちろん、努力すれば、すべてが何とかなるわけではありませんが、努力なしでは何も始まりません。そのためには「努力」という言葉を生活に積極的に取り入れ、そのプロセスを楽しむ仕組みを作らなければなりません。(下線は筆者のH.Sの付け加え)

 そして、努力を客観視するための測定方法が「時間」なのです。「○○については何年間やってきた」と言えます。“と。

 

 言葉を習得するには、母語であれ、外国語であれ、一定の時間が必要である。毎日母語の中で生活をしていれば自然に母語を身につけることができる。しかし、日常言語以上のものを身につけるには学校などで学習する必要がある。それも学習時間によって達成度が変わってくる。

 

 前にも書いたように、外国語の習得には一定の時間が必要である。それは学習内容や学習の濃密度によっても異なってくるが、それが努力であり、勝間流に言えば時間で測定できるというのだ。

 

 次に、A地点からH地点までの図であるが、これは進歩が階段状に行われることを示したものである。

 

 外国語の学習、芸事の習得、さまざまな運動能力の向上・・・・どんなことでも、やり続けることによって少しづつでも向上する。それをたゆみなく続けていると、あるとき突然次の段階に飛躍するときが来る。自分で努力を続けていてもなかなか進歩を感じないこともあるが、辛抱強く継続をしているとあるときに飛躍が自覚されるのだ。それまでの自分と違ったものを発見したり、感じたりするのである。

 

 例えば、一生懸命にラジオを聴いたりテレビを見たりして英語の勉強をしていると、ある日突然に、それまで聴き取れなかったことが聴き取れるようになったというようなことはよく聞くことである。

 

 いわゆるスランプというのは、頑張っても進歩が感じられない状態をいうのだが、指導者はその間もたゆまずに練習や学習を続けるようにいう。その間にも私たちの脳の中では着実に変化の積み重ねが行われているのだ。それがあるとき突然に次の段階に飛躍して見える(気づく)状態になるのだ。スランプは次の飛躍への蓄積期間であると考えればよいのだ。

飛躍した後はまた徐々に向上して行くがそれは上の段階でのことである。

“継続は力なり”というが、外国語の習得も同じである。たゆまない努力(かけた時間)とそこで起きる飛躍(次の次元へ移ること)こそが進歩の要である。外国語の学習者も指導者もこの法則を心得ておくことは極めて大事である。

この“飛躍”のことを弁証法では、「量より質への転化」という。それまでの要した時間は量であり、飛躍により別のレベルになることは質がそれまでと変わったことを意味する。進歩はいつも量より質への転化によって行われるのだ。

15)単語の数を増やす

 外国語の習得に当たっては、語彙を増やすことが不可欠である。最初の一語から始まって学習を続けて行く中で単語の数を増やそうといろいろ工夫する。

 私が高校の頃には、「赤尾の豆単」という掌に入るサイズの単語記憶用の辞書があった。その中に収録されている単語を覚えれば大学受験はOKと言われたものだ。

 

 私の高校同級生に東大に合格した者がいたが、彼はいつでもどこでも「豆単」を開いて覚えていた。そのぐらい努力したのだから東大にも入れたのだろう。

 

 しかし、単語を覚えるには単語だけを覚えるよりも文脈の中で使用法と共に覚える方が大事だと思う。その意味で会話学習とか本を読むとか新聞を読むとかラジオを聴いたりテレビを見たりと言ったことを通じて単語を記憶し語彙を増やして行くのが一番望ましいやり方だと思う。

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2009年5月 8日 (金)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―⑤―

 

10)アウトプットの限界

アウトプットについては、前掲の書には次のように指摘している。

「注意すべきことは、多くの実験研究が行われているにもかかわらず、アウトプットそのものが言語能力の向上につながった、という結果が余りでていないことです。『話せるようになるには、話す練習をすればよい』という考え方は、一見理に適っているようですが、研究結果を見ると必ずしもそうではありません。」(p.149

「アウトプットそのものは、新しい言語材料、言語知識の習得には役に立たない、言い換えると、自分のすでに知っている知識を使って何かをする、ということにすぎない、という当たり前の事実が案外見落とされている場合が多いので、その点は注意して置くべきでしょう。」(p.149

アウトプットは、蓄えてある言語知識を引き出し、文に構成して外言化して行くことに意味があるのだ。それを繰り返すことにより自然に口をついて発話される状態に持っていくことができよう。

ただ、話したり書いたりする場合でも辞書で調べるとか人に尋ねるなどして新しいコトバや表現法や言語知識を得ることもあるのことは頭に置いておくべきである。

 

 次に、アウトプットの場合、母語によって話すことを選び、考え、文を構成し、外国語に置き換えて発話するという過程をとることが多い。特にレベルの低いうちほどそうなる。よく「英語(対象言語)で考えよ」と言われるが、実際は至難の業である。対象言語で考えられるようになるにはかなりのハイレベルにならないと無理である。

 

 日本人が英語を使う場合、冠詞とか前置詞などはいつまでたっても迷うし、間違えやすい。外国人が日本語を勉強するとき、助詞や敬語など躓くのも同じことである。

 

 更に母語の国の文化や習慣が外国語の発話に干渉して間違いを引き起こすこともある。日本語では、「ぼくはコーヒーだ。」というような言い方はごく普通だが英語ではI am coffeeではおかしな表現になる。

 

 日本語は主語があいまいな言語だが英語ではそうはいかない。(日本語には主語はないという学説もあるくらいだ)その逆もあって、アメリカ人が日本語を話すときに、やたら主語を入れると変な日本語になるであろう。

11)インプットもアウトプットも大切

 会話など別の人とコミュニケーションをする場合、「聴く」、「話す」の両方が行われる。会話はよくキャッチボールだと言われるが、相手の言うことをよく聴いてそれに対し適切な応答をしなければならない。だから聴いてわかる能力だけでなく、話す能力も大事である。インプット能力とアウトプット能力の両方の向上が必要なのだ。

 

 最近は、電子辞書が発達して、外国語に翻訳して発音までしてくれるものもあるらしい。確かに便利であろうが、自分で聴く耳を持ち、話すことができたらその方がいいに決まっている。

12)外国語のビギナーが注意すべきこと

 ただここで注意が要るのは、外国語の勉強を始めて間が無く、インプット量が少ない場合である。

 「学習者の外国語能力がまだ不十分なうちに無理に話させると、結局学習者は母語に頼って、その母語の文法に適当に第二言語の語彙をくっつけて、変な外国語をしゃべる、という危険性があります。それをどんどん続けて行くとそれが固まってしまうということがあります。」(P.16

 

 外国人に日本語を教える立場の人は心しておくべきことであろう。

13)外国語学習に要する時間の問題

 外国語の習得には学習時間が必要である。TOIECで760点を取るには何時間の勉強をせよとか、日本語一級に合格するには何時間の勉強が必要だなどと言われる。その時間をどのように確保するのかが問題で、二つのやり方が考えられる。

 

 一つは、短期集中型である。日本に来て大学に入る学生は、通常6ヶ月間日本語を勉強し、日本語で授業を受けられるレベルになることを要求される。

昔、私が留学生から直接聞いたのだが、彼らは朝起きてから夜寝るまでひたすら日本語だけを勉強したそうである。彼らの書いたものを読んだが、立派な日本語になっていた。

 

 毎日授業が6時間、自習が6時間として、一日12時間、30日×6ヶ月で何と2160時間にも達するのだ。

 

 私の場合は、長期継続型の道を選んだ。ラジオ講座を三つ聴いて50分、それに多少プラスしても一日70分、一年間で420時間である。ただ、のんべんだらりとやったので効果は少なかった。

 

 日本人の英語の学習時間は学校だけで考えると、中学校三年間で516時間程度、高校もその程度だから6年間の合計で1040時間ぐらいと推定される。

 

 その間にどれだけの単語やフレーズや文法がインプットされるのであろうか。知りたいものである。

 

 次に、私が1993年に書いたものから参考までに引用する。

 

 深井宏一氏は、「使える英語への最短コース」(198311月、アルク社)の中で、

「現在の自分のリスニングによる英語の理解度は殆どゼロだと思う人が、一応英語圏の中学生が理解する程度の英語が聴いてわかるようになるには、5000時間ぐらい、『注意力を集中して聴く』ことだと考える。」

と書いている。一日1時間では、13年間かかるそうである。

 

 TOEICでは、英語の学習にかけた時間とTOEICのスコアは比例するということを証明していると言われている。あやふやな記憶だが100点上げるのに700時間?必要とか。

 

 来日1年間で日本語検定1級をとった中国人と韓国人を知っている。二人とも、日本語学校に通うほかに、朝から寝るまで日本語漬けになったそうである。おそらく4000時間以上の勉強をしたものと思われる。(ただ、日本語1級をとっても話す能力はそれほど高くはならない。おそらく読解や単語や漢字の知識が中心なのだと思う。)

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2009年5月 7日 (木)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―④―

 

7)外国語習得に関する要素

外国語の習得についての一般論としては、目的言語との関係で次のようなものが関わって来ると言われる。

◎適性・資質→進歩が速い人とあまり進歩が見られない人がいる。

◎興味・関心→言語だけではなくその背景の文化にも興味や関心を持つこと。

◎動機付け→外国語を学習する自分なりの強い動機を持つこと。

◎開始年齢→12歳臨界期説(12歳以後に始めると遅い)(P.38

◎母語の活用→母語の知識を生かす

◎母語の干渉の除外→ 外国語は頭の中で母語で考え翻訳して発話されることが多いので母語の影響を受け     る。

◎言語間の距離

日本人は英語が苦手であるが、それは英語と日本語が遠い関係にあるからだという。日本語と近い関係にあるのは韓国語である。スペイン語とイタリア語は非常に近い関係にある。

日本語は大抵の言語とは遠い関係なので日本語を勉強する外国人にとっても外国語を勉強する日本人にとっても困難を伴うのだ。

8)インプットはいつでもどこでもできる

外国語を習得するには、前にも書いたように、インプット(聴く、読む)とアウトプット(話す、書く)の両面がある。

まず、インプットとしての「聴く」ことは誰にでも何処にいてもやりやすい学習行為である。日本では、英語に関していえば、ラジオ、テレビ、映画、DVD,CD,テープなど「聴く」ための手段がいろいろ用意されている。日本に来て日本語を学習する外国人についても同じことが言える。

やさしいことから始めて行くのは当然のことである。「コトバのシャワーを浴びろ」と言った人がいたがその通りだと思う。私も英語会話の勉強を始めて、ラジオ講座をテープに取り、通勤の車の中やウオーキングのときなどに必ず聴く様にしていた。

「読む」ことも、テキストを読むことから始めて、レベルに応じてやさしい本を読んだり、新聞を読んだりするように心がけることだ。今はインターネットで幾らでも外国語を読むことができる。大事なことは国弘正雄氏が言っているように、只管朗読(シカンロウドク→ひたすらに声に出して読む)で、声に出して読むことが有効であろう。

また、読書によって新しい知識と共に言語が増強される。つまり、コトバの網が豊かになるのだ。

9)インプットの問題点

明治以来日本の外国語教育は長い間文法・訳読中心主義で行われてきた。そのために読めても話せないという偏った日本人ができてしまった。

先日友人と話をしていたら、友人が「僕が高等学校の頃“山崎の英文解釈”という本を必死になって勉強したことがある。おかげで前の年に赤座布団だった英語が表彰されるほどになった。」と言った。

“山崎の英文解釈”は当時有名な参考書であったが、内容が難しいことでも有名であった。私などは、買うことは買ったが数ページで投げ出してしまった位の本だ。それを最後まで勉強し切った友人は大したものだが、それで読解力はついたとしても、会話力が付くわけではない。残念ながら彼は英語会話はできないのだ。

つい10年ほど前までは、英語教師でも話せない人が殆どであったのだ。東大や早稲田といった優秀な大学の学生でも英語会話となると駄目だと言われていた。

私は、英語落ちこぼれであったが、英語会話の勉強をしたことにより、いつのまにか英字新聞が読めるようになった。また、当時は英作文というのがあった。私は英作文が大の苦手であった。それがいつの間にか英文も多少は書けるようになった。

そういう訳でインプットと言っても文法・訳読法では駄目だと考えている。

これを書いている間の425日の朝日新聞「私の視点」欄に、生活に密着した表現学ぼう」という投稿が載った。筆者は川崎美恵さん(語学コンサルタント)である。

イギリスでボランティアとして働きながら生きた英語を身につけようとしたのだが、面接で「貴女の英語力なら問題ない」と言われたのに現場では全く通じなかったのだそうだ。

その原因として彼女は2点を指摘している。 

 一つは、日常生活で使われている英語表現を殆ど知らなかったということであると言う。

 

 この点に関しては、私も英語会話の勉強を始めて以来痛切に感じてきたことで、未だに解決されていない。何故かというと、日本にいる限り日常言語に接することがないからだ。TV,ラジオの語学番組は標準的なパターンでテキストが作られているし、書物でもそうである。その意味では現地に行って現地の人の中で生活するよりよい方法はない。よい見本が相撲取りである。外国人力士は現地の生活にとっぷりと浸かって生活するので日常言語をすっかり身につけているのだ。

 もう一つは、英語には標準語がないということだという。日本人が英語が苦手なのはこの2点にあると言うのだ。

 

 英語に限らず外国語の習得という点では、現地の生活に入り込んでそこで使用されている言葉や表現法を学ぶのが本当は一番よいのであろう。

 

 このことに関係して、面白いエピソードがある。私が、かつてカナダをバックパックで旅行したときのことである。バンクーバーにある大学の寮に泊まったことがあるのだが、日本から英語留学に来ていた学生たちと話す機会があった。学生たちは、私が外国人の中に入っていって積極的に話すのを見て感心したと言ったのだ。 彼らは1年とか2年とか留学しているのだが、日本人学生同士で付き合うので英語で話す力が付かず英語を話すのが億劫だと言う。これは典型的な日本人のパターンではないかとそのときに思った。現地で生活をしていても現地人の中に入らなければ何ともならないのだ。

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◎庄内緑地公園のアヤメ

 見ごろはこれからです

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2009年5月 6日 (水)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―③―

 

5)内言活動・外言活動とコトバの網

また、前掲の書にはどこにも触れられていないが、言語活動には、内言活動と外言活動がある。

内言とは脳内で行われる言語活動であり、外言とはそれが視覚や聴覚によって確認できる言語活動である。そして、外言活動は必ず内言活動を伴っているのだ。おそらく瞬間的に内言活動が行われ、それが外言として外に出されているのだ。

我々は、外言によって初めて自分の言語活動を知覚できるのである。

※学者によっては、内語、外語と使っている。

私が学んだ国語学者の大久保忠利先生は、脳の中にインプットされた言語を「コトバの網」という比喩で述べている。そして、コトバの網を強化することが大事であるというのだ。

その場合、コトバの網の強化とは単に言語知識の増強、増量を言うのではない。大事なことは、さまざまな豊富な体験をすることにより、コトバの網が強化されるということである。

これを母語の習得に当てはめてみれば、子供は成長過程で多様な経験をする中で感性や考え方や生き方や・・・を豊かにするだけではなく、自分自身の言語をも豊かにしているのだ。

6)言語習得の到達レベル

言語の習得という場合、対象言語の到達レベルをどこに置くかという問題がある。これは極めて難しい問題である。漢字の場合は常用漢字が2000字辺りに設定されていて数量化されているが、読書力、作文力、会話力などの表現能力については設定が不可能であろう。

そのせいか、母語にしろ外国語にしろ、言語の到達レベルをどこに置くかということについても、前掲の書では触れられていない。ただ、バイリンガルとかネイティヴとか言っているだけである。

一体、バイリンガルというのは母語の他に外国語がどの程度のレベルの人を指すのであろうか。また、ネイティヴという場合どの程度の言語能力を持った人を指すのであろうか。

        ネイティヴの場合

 まず、ネイティヴについて考えてみよう。

例えば、中国語がネイティヴの中国人なら話したり聴き取ったりすることは誰でもするであろう。だが、読んだり書いたりとなると、十分な教育を受けていないがために新聞を読めない人や手紙を書けない人がいる。一方で外国人でも中国語の新聞を読んだり、中国語で手紙を書いたりはできるのに中国語をうまく話せなかったり、聴き取りがきちんとできない人が幾らでもいる。

また、話すことにしろ聴き取ることにしろ、その人がコトバの網として持っている言語量(知識)によって差がある。

パソコンを知らない人はパソコン関係のコトバを殆ど知らないであろう。一般の人は専門家の知っているコトバを知らない。また、専門家は自分の専門分野のコトバには詳しいが関係ない分野のコトバは知らないであろう。

私はゴルフをやらないし、興味もないのでゴルフ用語は全く知らないと言っていい。

そのように、人は自分の専門外や興味や関心がないことについては知らないのでそれに関係したコトバも知らないのである。

日本語辞書には6万語とか8万語とか辞書によって膨大なコトバが収録されているが、国語学者でもその全部を知っているわけではない。

そういう訳だからどの程度のコトバを知っていて、どの程度使えればよいのかは明確ではない。

例えば英語の場合TOEIC900点ならネイティヴだと認められると言えるのであろうか。或いは、難しいといわれる通訳試験に合格すればよいのであろうか。そうでないことは常識である。

ネイティヴの言語能力についての基準など無いのである。新聞を読めなくても母語話者はネイティヴなのだ。

② バイリンガルについて

次に、バイリンガルについて考えてみたい。

外国語の習得を目指す場合、その到達目標をどこに置くかは個人個人によって違いがあるし、違っていて当然である。

一般的には、

    大学入試に受かるには・・・。

    アメリカの大学に留学するには・・・。

    外交官になるには・・・。

    商社の海外駐在員になるには・・・。

    通訳になるには・・・。

などなど、具体的な事例に基づいて目標値(到達レベル)を立てるしかないのではないか。

学習するカリキュラムを作るにしても、指導するに当たっても、それぞれの目標を設定しそれを効果的に達成するように作られなければならないのは言うまでもない。

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2009年5月 5日 (火)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―②―

 

(二)外国語習得論

1)外国語習得論を書く動機

上に書いたように、私は、英語会話と中国語を自分で勉強し、日本語を外国人に教えている。

323日に書店に行った時に、たまたま「外国語学習の科学」――第二言語習得論とは何か(白井恭弘著、岩波新書)を見つけた。第二言語習得論という副題に興味をそそられて買った。

それを読み終った後、自分の経験を踏まえながら外国語学習について考えてみたいという気持ちが沸き起こった。それでこれを書き始めたのである。

2)言語習得の両面

言語の習得には、二種類ある。一つは母語の習得(日本では獲得という)と、もう一つは外国語の習得である。不思議なことに母語の習得には普通失敗がない。しかし、外国語の習得は殆どの人が大変に苦労をする。

言語の習得行為には、インプットとアウトプットがあると言われている。インプットは「聴く」と「読む」で、アウトプットは「話す」と「書く」である。

前掲の書によると、アメリカの南カリフォルニア大学のスチーブン・クラシェンは「言語習得は、母語も外国語も言語内容を理解することのみによって起こる」という「インプット仮説」を唱えたという。(p.94)彼はアウトプットは言語習得とは無関係だと主張したのだ。

 

 赤ちゃんの場合、母親や周りの人々の話しかけによるインプットのみである。その内にインプットされて脳内に記憶されたものが喃語として発話されるようになる。文字を覚えて本が読めるようになるまではもっぱら聴くことによるインプットのみである。幼児期に母語の単語や簡単なフレーズの意味や発音、聴解、文の仕組み、文法、作話力などを自然のうちに身につけてある程度の母語を覚えてしまう。

残念ながら私は何歳までにどのくらいの母語を覚えるのかというデータを知らない。

3)インプットとアウトプットの関係

ところで前掲の書を読んで啓発されたのは、「アウトプットはインプットの範囲を出ることはない」ということである。

これまでただ漠然と、言語の習得には、読む、書く、聴く、話すの四つの能力を高めることが大事だと思っていた。また多くの参考書にもそのよう書いてあった。だから言語の四能力を如何にして高めるかが鍵であると考えて実践してきた。

ところがこの本を読んで、先ず、インプットとアウトプットに分けて考えることが大事であると知った。そして、アウトプットはインプットした量の中でしか行えないということがわかった。

確かにアウトプットでは新しい言語を手に入れることはできない。ただできることはインプットしたことを強化し自動化することだけである。(自動化とは言語を無意識的に使える能力のこと)

その観点から言うと、アウトプットも大事であることが分かる。インプットによって対象言語の単語、慣用句(イディオム)とその意味、発音、発話法などをどんどん取り入れていくことができる。が、それだけでは対象言語を完全に習得できるわけではない。アウトプットによって定着を図らねばならないのだ。

4)言語の無意識的行為と意識的行為

人間は遠い昔に言語を獲得した。今もアマゾンの奥地で原始的生活を守っているヤノマミ族は人口僅か150人程度のいわば絶滅危惧種であるが、彼ら独自の言語を持っている。おそらく狩猟や自然物採取や自然現象、彼らの宇宙観(シャーマニズム)、日常生活などに必要な言葉だと想像される。

我々現代人は原始人に比べると遥かに大量の言語を使うようになっている。しかし大事なことは、人間の活動には言語が非常に大きく関係しているということである。

人間の言語行為であるが、母語話者(ネイティブスピーカー)は、言語を操るときに日常会話などでは殊更考えることなく無意識的に行っている。生まれてから獲得した言語能力をいわば無意識的に扱うことができるのだ。

 言語を使用する場合、意識的に使用する場面と無意識的に使用する場面がある。今私は文章を綴っているが、この作業は極めて意識的に行っている。そして、それを脇から見ているもう一人の自分(無意識)があるのだ。これは自然的(無意識的)に話す場合にももう一人の自分がいるのである。それによって発話の作業は絶えずチェックをされているのである。

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2009年5月 4日 (月)

ごく普通のシニアが書いた「経験的外国語習得論」―①―

  

経験的第二言語習得論

20095263日憲法記念日に

愛知国際プラザ日本語ボランティア らら

 はじめに 

 この論文はごく普通のシニアが書いたものです。ですから、ある意味で、一般の人には参考になるのでは?と思っています。

(一)外国語、外国人との関わり

1)英語会話学習の動機 

 私が英語会話の勉強を始めたのは42歳のときである。その年に娘が中学校に入学したので、それを機会に英語会話の勉強をしようと決心したのだ。私の予想では、娘は若いから私に追いつき追い抜くだろうが、どこまでやれるか試してみようということであった。

学生時代時代は英語落ちこぼれ、卒業後は20年も英語と無縁であった私が英語会話を始めた理由は他にもある。近い将来に外国から日本に来る人が増えるであろうし、金がない自分でも海外旅行ができる時代が来るかもしれないと予想したことだ。

それから早や31年になる。

その間に、予想通り、外国人が日本を大量に訪れるようになったし、自分も海外旅行に行くという夢を実現することができた。

2NHKラジオ番組の利用

初めはNHKのラジオ講座を利用して勉強した。当時は、英語会話、基礎英語、続基礎英語の三つしかなかった。何しろ英語の勉強は大学卒業以来であったので、基礎英語でさえ新鮮であった。英語会話の方はレベルが高かったが基礎英語、続基礎英語と共に毎朝聞いた。

3)英語会話クラブを創立

一年たった頃だったと思うが、昭和社会教育センターが開館し、英語会話の講座ができたのでそれに申し込んだ。幸いにも定員40人の中に入れてもらえた。講師は向陽高校の英語教師で授業は英語で行われた。それは初めての経験であった。

初めの授業でNice to meet you. というのがあった。恥ずかしながらと言うべきか、私はその表現を知らなかった。受講者の中には、英語会話がある程度できる人もいてその人たちはうまく答えていた。Nice to see you. との違いを教えて貰った。これは強烈な記憶となって残った。それ以外のことは全て忘れてしまったがこのことだけは記憶にあるのだ。

その講座は後期もあり8ヶ月続いて終わった。その時に参加した人たちの中から、折角だから続けようという声が出て20名ほどの人たちで自主講座を立ち上げた。それが昭和英語会話クラブ(SEC)で、以来今日まで何と28年以上も続いているのである。

4)中国語をNHKTV講座で勉強

私は、退職前の58歳頃に中国語の勉強も始めた。こちらは息子が中国に語学留学したので、それを機に中国語の勉強をしようと決意したのだ。どうせかなわないだろうがどのくらいやれるか試してみようと思ったのだ。

中国語はNHKTV番組を利用した。始めたときには初級と中級の二つに分かれていたのに2年後には縮小されてしまった。NHKには中国語番組を減らさないよう何度も要望したが聞き入れてもらえず、腹が立って中国語の番組を見るのを止めてしまった。NHKは以来英語の番組ばかりを増やして今に至っている。

5)日本語ボランティア

退職後1年たった頃、私は、愛知国際プラザの愛知県国際交流協会が主催する日本語ボランティア養成講座を受講した。幸いにも300名余りの希望者の中から運よく抽選に当たったのであった。

元々私の退職後の希望は外国に行って日本語を教えることであった。そのためにアルクの日本語教師養成通信講座を在職中に受講していた。そしてオーストラリアで日本語教師になるべくいろいろと努力したのだが実現しなかった。

それならと中国に伝を求めて日本語教師になろうと考えた。よい知らせが来たのだが、丁度その頃愛知国際プラザでの日本語ボランティアが決定したので、中国に行くことは諦めることにした。

以来日本語ボランティアも早いもので10年ほどになる。

―つづく―

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2009年4月26日 (日)

小学校からの英語教育―ボランティアを活用したら?

 24日朝のNHKTVによると、来年から小学校での英語教育がスタートし、4年生以下は年に20時間、5,6年生は35時間が充てられるそうだ。

 今年からすでに先取りの試行が始まっていて、英語の苦手な先生たちは俄かに英語会話の学習を始めたという。

 小学校で英語をどのようにやるかについては、文部科学省が参考例をだしているようだが、裁量は教師に任されているらしい。

 小学校にもAET(英語補助教員)が来るようだが全部をカバーするわけではなく担任が英語を教えることが中心になるようだ。

 私は英語会話の勉強を40歳を過ぎてから自分で続けて来た。私が勤めていた頃はまだ英語を小学校で教えるという機会は全くなかった。だからあくまでも自分の趣味として英語の勉強をしたのだ。

 パソコンもそうだが、英語についても時代より前を行き過ぎる傾向がある。必要とされるときがきても役立てるチャンスがないのだ。今現職ならパソコンも英語も喜んで教えられる。もったいない話だ。

 小学校で英語を教えることに関してはよいか悪いかの判断は今のところは情報がないのでできない。

 ただ英語を教えることに困るのならリタイアーした人やかつて商社マンであった人や主婦などで英語が堪能な人が幾らでもいるので、そういう人をボランティアとして来て貰ってやってもらえばよいと思う。

 カナダなどでは学校はボランティアを積極的に活用していると帰国子女の親から聞いたことがある。日本の学校もボランティアを登録しておいて活用するとよいのだ。

 私は外国人に日本語を教えるボランティアをしているが、この分野でもボランティアの希望者はありすぎて困るぐらいいるのだ。まして地域の学校ともなればやりたい人はいるのではないかと思う。

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ドーハの悲劇のサッカー場

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2009年4月24日 (金)

学級委員がない学校が50%も!これで本当の教育ができるのか?

 今朝のNHKニュースによると、鳥取県の湖南という小中一貫校では、モデルケースとして学級委員長に当たる「室長」というのをクラスに作ることにしたのだという。

 何しろ鳥取県では20年来学級委員長のようなものがなかったのだそうだ。40代の女性教員は5年生の担任だが、教員になって初めてのことで戸惑ったという。それで、どのようにして決めたらいいのか先生たちはいろいろと議論をしたらしい。

 結局その先生の場合は、立候補制にした。幸い立候補者が5人いたようだ。候補者はみんなの前で抱負を述べ、無記名の投票をした。

 開票は、担任が行い、子どもを傷つけるといけないという”配慮”から、得票数の発表は行わなかったのだ

 先ず、驚いたのは、学級委員のような制度がない学校が全国に50%もあるらしいことだ。

 戦前はクラスに級長がいてそれは担任の任命によるもので大変な名誉とされた。担任が任命するからそこには情実が働く場合もあった。有力者の子弟が級長になることがよく見られたが世間もそれに対して表立っては何も言わなかった。

 私の家は有力者ではなかったが何故か級長になったことがある。多分担任が公正な人であったのだろう。

 戦争が終わって教育が改革されて、級長というのは廃止され、代わって学級委員長のようなものができた。

 それはずっと続き、私が教員になって退職するまで学級委員は存在した。愛知県の場合、クラスに男女一人ずつの委員を選んでいた。

 選挙は立候補や推薦が普通で、開票は選挙管理委員を決めて行い、全員の面前で黒板に開票の経過を書いていった。正という字を書くのだが、開票を見るのは当人にとってもクラスの者にとっても非常にスリリングな時間でであった。

 時にはデットヒートになったり、同数で決選投票に持ち込まれることもあった。

 また、立候補ができるので、稀には得票数がゼロという場合もあった。ゼロというのは本人が自分の名を書かなかったからだ。自分に一票を投じることを禁じていたのではない。自分に投票することは基本のキの権利であるからだ。

 選挙によってどんな結果がでようともそれで誰かが傷つくようなことはなかった。

 民主主義とはひとり一人が同じ権利を持ちそれを行使できることである。同時に構成員としての義務も果たさなければならない。

 学級委員などの選挙を経験することによって子どもたちは民主主義のあり方を経験して学ぶのだ。

 鳥取県などの場合、子どもたちから民主主義を学ぶ機会、経験する機会を奪っていたことになる。それこそ文部科学省がお好きな道徳の勉強にもなるではないか。

 選挙の開票を担任が行い、その上開票結果の開示を行わないというのも由々しきことである。いったい担任が不正を行わない保証があるのか?開票結果を伝えることが子どもの心を傷つけることになるのか?

 選挙管理委員をつくって子どもたちが開票し、投票結果をクラスのみんなが確認するのが大事なプロセスなのだ。それを通して子どもたちは選挙とは何かと学ぶことができるのだ。 

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2009年4月 9日 (木)

パソコンとワードプロセッサーに使った金

 最初にワードプロセッサーを買ったのはエプソンの機種で、幅が5cmくらいの液晶画面がついていて、表示される文字の色は青であった。そんな、今から思うと玩具みたいなワープロでも確か16万円以上だったと思う。

 2年ぐらいすると、液晶画面が少し広くなり、文字も黒いワープロが出てきた。東芝やシャープの機種が人気であった。シャープのワープロを買ったが、18万円ぐらいだったと思う。

 その後も、シャープのワープロを16万円で買い替え、更に13万円で買い替えた。ワードプロセッサーの進歩も目覚しくカルクというエクセルのようなものまでつくようになった。 ワードプロセッサーには締めて60万円ぐらい使ったと思う。しかし、仕事柄ワープロは大変役に立った。pc

 最後のワープロを使っている間にWINDOWS3.1が発売されたのでそれを機にパソコンを買うことにした。wobbly

 パソコンもエプソンの機種を買った。98マルチとかいうNECのと同じようなもので価格が安かった。それでも41万円もした。ソフトも入れると45万円にもなった。

 この頃のパソコンはまだMS-Dosを色濃く引きずっていてDosの勉強もしなければならなかった。

 それを2年ほど使って、東芝のパソコンを35万円で買った。印刷機はCanonの薄くて小型の印刷機が発売されたので、45000円で買った。

  次に買ったのが、gatewayのPCで、20万円だったように思う。この会社は矢場町に店があったのだが、Gatewayの日本撤退でなくなった。

 その次は、iiyamaが売り出したもので、12万円。これは友人が買ってよかったと言ったので買ったのだ。iiyamaも結局はPCから撤退した。

 次は、e-machineで12万円。

 次も、emachineで11万円。

 そして現行機種のGatewayで105000円。Gatewayはemachineを買収して日本に再上陸したのだ。

 PCはこれまでに7回も買って、合計で150万円近く支払った。

 どうしてこんなにも買ったのかというと、PCは日進月歩で性能が向上し、逆に価格が安くなったからだ。それでまだ使えてもつい新しいのが欲しくなったのだ。

 今、30万円も出すと、すごい大型液晶画面がついたスペックの素晴らしい機種が買えるが、とてもそんな高い金を払う気にはなれない。

 思えば最初にエプソンの98互換を買ったとき、よくも41万円も出して買ったものだと思うのだが、その頃はそれが安い方だったのだからどうしようもなかったのだ。

 性能から考えると、エプソンが子どもの三輪車で現行の機種はハーレイダヴィットソンに匹敵するだろう。

 次に買うときには、更に性能がよいものを更に安く買うことができるはずだ。来年には、Windows 7が売り出されるというから、またぞろ”買いたい虫”が動き出だすかもしれない。coldsweats01

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2009年2月 7日 (土)

NHKは中国語学習を軽視するな

 NHK教育テレビの中国語学習番組で中国語の学習を始めたのは15年ほど前だ。その頃は、中国語初級と中国語中級に分かれていて、それぞれ20分間の放送があった。初級が榎本英雄先生、中級が山下輝彦先生であった。

 ところが、2年後には、初級と中級が一緒になって25分になってしまった。しかも、25週分を1年間に2回放送するというものであった。

 その頃は改革開放が進み始め、中国が大きく発展するだろうと予想された頃であった。世界で12億以上(現在は13億)の人が使う言語であり、隣国の言語であり、将来の発展が予測される国の言語である。それにも拘らず、NHKは中国語番組を縮小したのだ。

 私は、中国語学習番組の拡充を求めたが、全く無視された。そればかりか、その後は英語学習番組がどんどんと増えていった。

 私は、e-mailで何度も中国語学習番組の拡充を訴え、NHK名古屋のプロデューサーの一人にも訴えたが、なしの礫であった。

 NHKが英語偏重であることは、誰の目にも明らかである。英語番組は毎日あるし、日に5種類もある日さえある。

 一方、その後中国の発展は目覚しく、今や国際政治や経済の分野で中国は世界をリードする存在となった。にもかかわらず、NHKは中国語の学習番組を縮小したままなのだ。

 NHKは、昨年から通年でやるようにしたから問題ないと考えているらしいが、とんでもないことである。

 NHKは中国語学習の初級、中級、上級を作り、それぞれに30分を当てるべきである。

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