芸能

2018年5月22日 (火)

第33回橘座公演 桂小南独演会

 毎年春と秋の2回行われる「橘座公演 桂小南独演会」が、5月19日(土)に愛知産業大学工業高校たちばなホールであった。

 私はこの橘座公演を楽しみにしていて、いつも聴きに行っている。地元大須の人たちの協力もあって無料で行われるのが凄い。
 
 今回は桂小南で落語芸術協会に属していて、昨年9月に三代目桂小南を襲名したばかりである。私は小南の落語を聞くのは初めてだった。
 
 上方落語だと思っていたら、初代と先代は上方落語を東京で演じたらしいが、3代目桂小南は埼玉県春日部市の出身だ。最初に演じた「そば清」という落語の中で脱線をして春日部の小・中学生時代のことを話して笑いを取っていた。
 
 「そば清」は上方落語であらすじは、
 
 江戸。そば屋で世間話をしている客連中は、見慣れぬ男が大量の盛りそばを食べる様子を見て非常に感心し、男に対し、男が盛りそばを20枚食べられるかどうか、という賭けを持ちかける。男は難なく20枚をたいらげ、賭け金を獲得する。

 悔しくなった客連中は、翌日再び店にやってきた男に30枚への挑戦を持ちかけるが、またしても男は完食に成功し、前日の倍の賭け金を取って店を出ていく。気の毒がったひとりの常連客が、「あの人は本名を清兵衛さん、通称『そばっ食いの清兵衛』略して『そば清』という、大食いで有名な人ですよ」と、金を奪われた客連中に教える。

 悔しさがおさまらない客連中は、今度は50枚の大食いを清兵衛に持ちかける。清兵衛は自信が揺らぎ、「また日を改めて」と店を飛び出して、そのままそばの本場・信州へ出かけてしまう(演者によっては、清兵衛は行商人として紹介され、信州へ商用で出かけたと説明する)。

 ある日、清兵衛は信州の山道で迷ってしまう。途方にくれ、木陰で休んでいると、木の上にウワバミがいるのを見つけ、声が出せないほど戦慄する。ところがウワバミは清兵衛に気づいておらず、清兵衛がウワバミの視線の先を追うと、銃を構える猟師がいるのが見える。ウワバミは一瞬の隙をついてその猟師の体を取り巻き、丸呑みにしてしまう。

 腹がふくれたウワバミは苦しむが、かたわらに生えていた黄色い(あるいは赤い)草をなめると腹が元通りにしぼみ、清兵衛に気づかぬまま薮のむこうへ消える。清兵衛は「あの草は腹薬(=消化薬)になるんだ。これを使えばそばがいくらでも食べられる。いくらでも稼げる」とほくそ笑み、草を摘んで江戸へ持ち帰る。

 清兵衛は例のそば屋をたずね、賭けに乗るうえ、約束より多い60枚(あるいは70枚)のそばを食べることを宣言する。大勢の野次馬が見守る中、そばが運び込まれ、大食いが開始される。清兵衛は50枚まで順調に箸を進めたが、そこから息が苦しくなり、休憩を申し出て、皆を廊下に出させ(あるいは自分を縁側に運ばせ)、障子を締め切らせる。清兵衛はその隙に、信州で摘んだ草をふところから出し、なめ始める。

 観客や店の者は、障子のむこうが静かになったので不審に思う。

 一同が障子を開けると、清兵衛の姿はなく、そばが羽織を着て座っていた。例の草は、食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである。

 桂小南は噺の一部を変えていたが、そばを食べる仕草をいろいろと演じうまいものであった。

 仲入りのあとは「お楽しみ」ということで題名が知らされていなかったが、帰宅後ネットで調べたら「甲府い」という噺であった。初めて聴く噺だった。

 「甲府い」あらすじ

 《「甲府い」あらすじ》

 甲府から仕事を得るために江戸に出てきた善吉。法華宗の信者でもあった善吉は、「仕事を得て一人前になるまでは故郷に帰らない」と願をかけてきたものの、財布をすられ一文無しに。

 行き倒れ寸前のところで、豆腐屋にあった卯の花を盗み食いしてしまい、店の若いもんにとっちめられてしまう。

 そこに出てきた店主。訳を聞くと可哀想になったうえ、店主もまた法華宗。人手が足りなかったこともあり、善吉を働かせることにした。

 店は法華豆腐とあだ名される人気店。特に人気なのが、ごまがたっぷり入ったがんもどきだと言う。店主から「豆腐ぅー、ごまいり、がんもどき」という売り声を教えられ、それを言いながら、一生懸命売り歩いた。

 あっという間に3年が過ぎ、気づけば善吉は立派な豆腐屋の一員に。
店主も、その妻も、善吉の誠実な人柄に一目置いていた。

 二人にはお花という一人娘がおり、善吉を婿に迎えるのが良いのではないかという話があがる。お花も、善吉の話をすれば顔を赤らめる始末なので、話はすぐにまとまった。

 豆腐屋の養子に入った善吉。善吉は早くに両親を亡くし、甲府にいた叔父に育てられた。その叔父に結婚の報告をしたいから5、6日暇をもらいたいと申し出る善吉。ついでに、願掛けをしてきた身延山へもお参りしたいという。

 翌日、早速荷物をまとめ、お花と二人、いつもと違う綺麗な服装に身をつつんだ爽やかな若夫婦が、甲府に向かって街道を歩いて行く。

 それを見た町人は、いつもと違う二人の様子に驚き「二人してどこへ行くんだい?」と声を掛けた。善吉はいつもの売り声の調子で答える。
甲府いー」
続いてお花がお参り、願ほどき」

 桂小南は声が大きいがマイクの加減か大きくても発音が明瞭でないところがあった。また、体を前に折って低くして話すのが特徴のようだ。

 「開口一番」は三遊亭遊七で女性であった。女性の落語家は珍しいのでよかった。

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2017年12月14日 (木)

M1グランプリを観たがついていけない今の漫才

 M1グランプリを録画しておいて観た。4300組ほどのエントリーがあって、9組が選ばれ、さらに敗者復活戦から1組が加わって10組で準決勝戦をして、3組が決勝に勝ち残るというやり方であった。

今年は和牛、ミキ、トロサーモンの3組が残って結果はトロサーモンが4票、和牛が3票を獲得し1000万円とハワイ旅行を手にしたのはトロサーモンであった。1000万円もさることながらこれで箔が付き仕事が増えるだろうからそちらの方が有難いであろう。

  M1グランプリは毎年観ている。今年はこれまでで一番面白いと審査員が評していたが、最近の漫才はどこが面白いのか私にはさっぱり分からない。

 最終組に残った上記の3組をもう一度観てみたが、やはり面白いとは思はなかった。その後で「お笑い演芸場」の大木こだま・ひびきの昔からやっているネタの漫才を観たが、いわゆるしゃべくり漫才というやつで言葉で笑いをとっていて面白かった。

  私はエンタツ・アチャコの漫才からずっと漫才を観ているが、昔の漫才は話芸がよくて面白く見られた。関西の漫才も東京の漫才も面白かった。

  東京では、青空千夜、一夜、青空球児・好児、春日三球、照代、コロンビアトップ・ライト、獅子てんや・わんや、人生幸朗、生恵、Wけんじ、B&B,星セント・ルイス、内海桂子・好江、松鶴家千代若・千代菊、爆笑問題、あした順子・ひろし・・・・。

  上方では、エンタツ・アチャコ、ミスワカな・島ひろし、ミヤコ蝶々・南都雄二、秋田Aスケ・Bスケ、オール巨人・阪神、おぼん・こぼん、かしまし娘、太平サブロー、シロー、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・こいし、都蝶々、横山やすし、西川きよし、宮川大助・花子、・・・・。

 漫才は言葉を使って二人の掛け合いで笑いを誘う芸である。昔の漫才には洒落とかダジャレとかオチとか言葉による面白さがあった。ところが昨今の漫才は奇をてらったり、 大げさな動作などで笑いをとろうとしている。

 その上しゃべるテンポが非常に速い。だから録画をして聞いても聞き取れないことがよくある。会場でライブで聞いている人たちは面白いのが伝わるのか、笑い声が聞こえる。でも、テレビで観ると全然面白さが伝わってこないのだ。今の漫才はテレビには向いていないのかも知れない。

 その点落語はテレビで観る話芸である。ラジオで聴いても面白いものもあるが、仕草が見られないのでテレビで観るべきである。

 漫才はこの辺りでもう一度原点に帰って、二人の掛け合いによる言葉の芸を磨いてほしいものだ。落語は古典として保存され継承されているが、漫才にはそうしたものはなく、消えていく芸である。それが常に新しいものを追求しなければならない宿命なのだろうが、話芸として聞くに堪えるものを創りだしてほしい。

 

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2017年8月31日 (木)

第67回 日本舞踊稲垣流豊美会を観た

 第67回日本舞踊 稲垣流 豊美会の公演が8月27日に金山の日本特殊陶業会館ビレッジホールであった。知人の御嬢さんが名取なので券を頂いて観に行った。

 11時半開演だが1時間ほど遅れて入場した。ちょうど第一部が終わったところでよかった。会場に入ると前の方の席には物が置かれていた。下手側に花道があり、その向こうの席には数人座っていた。それでそちらの席は特別席か尋ねたら、一般席だと言ったのでそちらに行った。花道で遮られて一旦外に出ないと行けないのでそちらは空いているのだ。

 第2部は古典の部で、長唄、常盤津、清元などの踊りであった。

1.小唄  扇かざして、  .長唄 松の緑  引っ込みはセリを使っていた。

2.長唄 菊づくしは子どもたちが上手に踊った。

 面白かったのは3の常磐津 釣り女であった。狂言を元にして作られたもので、大名が太郎冠者を連れてある神社へ嫁取り祈願に出かける。その夜夢にお告げが現れる。眼が覚めると釣竿が1本落ちている。その釣竿で嫁を釣れということだと察し釣竿を出すと、何と美女が掛かる。太郎冠者が持っていた酒で祝言の盃を交わす。

 太郎冠者が、自分も嫁が欲しいからと釣竿を借りて釣ると、醜女が掛かる。太郎冠者は嫌だというが、女は結婚を迫る。

 狂言仕立てでセリフも入るが、踊りも部分もありうまくできていた。太郎冠者の演技は勝れていた。

 4. 俚奏楽 雪の山中  5.長唄 鶴亀  宝船  6.筝曲 鶴寿千歳  

 7. 長唄 松の寿  8.小曲 灯籠流し と続いた。

 9は、稲垣舞蝶さんの「藤娘」で見事な藤の花が舞台いっぱいに垂れ下がっている中で踊っ

 た。最初は藤の花を持って黒の衣装で踊り、衣装を青に換えて踊った。その後また衣装を換えて踊った。20分もある長い踊りであったが、見事に踊った。

 10.常盤津 祭りの花笠  11.傀儡師 の2つはベテランと見うけた。祭りの花笠は花道から登場した。 

 12.お染久松は幼稚園児と1年生のコンビで、花道から登場した。可愛い仕草に会場から「可愛い!」と言う声が上がっていた。

 第2部のトリは、家元の稲垣友紀子さんら3名の踊りで、さすがに見ごたえがあった。会場からもいいねと言う声が聞こえた。

 2部は3時間半もあったので観疲れたから第3部は観ずに帰った。今年は金山のビレッジホールを使ったのでセリや花道があり、気合の入れ方も違ったように感じた。舞台装置が大きくて豪華であった。

 私は日本舞踊を観る機会はないので、日本的な伝統文化に触れる良い機会であった。Sさんに感謝である。

 案内のチラシに演目の下に演者の名が入ってなかったのが残念であった。来年は入れてほしいと思う。

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2017年5月24日 (水)

第31回橘座公演―柳亭市馬独演会

 21日に第31回橘座公演があった。「柳亭市馬独演会」である。東京に行ったとき末広亭でもらったパンフレットには柳亭市馬は落語協会会長だと書いてあった。

  午後一時開演の開口一番は弟子の柳亭市坊が務めた。まだ若い落語家だ。落語では演題はめくりに書かないし、口でも言わないが、有名な「たらちね」であった。もともとは上方落語で「延陽伯」と言っていたものを、江戸に持ち込んで「たらちね」として演じられたのだ。

   ある長屋に住む独り者の八五郎。大家さんに呼ばれ、「店賃の催促かい?」と勘ぐりながら戦々恐々伺ってみれば、何と縁談話。相手の娘の『年は二十』で『器量良し』、おまけに『夏冬のもの(季節の衣類・生活道具)いっさい持参』という大盤振る舞い。

  独り者には願ってもない縁談、しかし話がうますぎる。不審に思った八五郎、大家さんに問いただしてみると、やはりこのお嬢さん『瑕』(きず)があった。

  厳格な漢学者の父親に育てられたせいで『言葉が改まりすぎて、つまり馬鹿丁寧になってしまい、言うことが何が何だかわからなくなった』。かく言う大家も、先だって彼女に道で出会った途端『今朝は土風激しゅうして、小砂眼入(しょうしゃがんにゅう)し歩行為り難し』とあいさつされ、仰天したらしい。

  初対面の八五郎が名前を尋ねると「自らことの姓名は、父は元京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴を夢見て妾(わらわ)を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でしときは鶴女(つるじょ)。鶴女と申せしが、それは幼名、成長の後これを改め、清女(きよじょ)と申し侍るなり

  単に名前を聞いただけなのに、両親の出自から自らの誕生秘話、幼名と改名に至るまで、全部漢文調でよどみなく並べ立ててのけたから大変である。八五郎はますますわけがわからなくなってくる。

  つまり江戸っ子の八五郎と嫁になった娘とのやりとりの滑稽さを笑いとした落語である。本当は長いのだが端折って話した。

  次は市馬の「お楽しみ」で、前半は師匠の柳家小さんにまつわるエピソードをいろいろ語って笑いをとった。長いのでそれで終わるかと思ったら、「粗忽の釘」という有名な落語に入った。

  この落語は末広亭に行ったとき聞いたが、そのときは米丸に時間をとられて、桂枝太郎の持ち時間が短くなって、かなり端折って話された。今回は前振りが長かったもの末広亭で聞いたのよりは長く演じた。

  もともとは 宿替え』(やどがえ)という上方落語の演目の一つ江戸落語では粗忽の釘』(そこつのくぎ)の名で演じられている 長屋慌てものが引越しをする際のドタバタを描いた作品で、全て演じ通せば長時間のネタとなるが、途中を省略、もしくは打ち切って時間調整をすることが可能な演目である。

  引っ越した長屋で女房に箒を掛ける釘を1本打ってくれと言われ、大工の亭主はいやいや8寸の瓦釘を打つ。ところが壁を突き抜けて隣家に出てしまう。それで謝りに行くが、最初はお迎えに行ってしまう。そこで女房との馴れ初めを話す。家を間違えたと知り、隣家へ行く。そのやり取りを面白く語って笑わせる。

  お仲入りの後は、市馬の「二番煎じ」であった。

 原話は、1690年元禄3年)に江戸で出版された小咄本『鹿の子ばなし』の「花見の薬」。これが同時期に上方で改作され、『軽口はなし』の「煎じやう常の如く」になり、冬の夜回りの話となった。

 はじめは上方落語の演目として成立した。東京へは大正時代に5代目三遊亭圓生が移したといわれる。

 江戸のある町内の番小屋で夜回りの人たちが酒やししの肉などを持ち込んで禁じられている酒盛りをする。そこへ役人がやってきて見つかってしまう。酒を土瓶でかんして飲んでいたのでそれは風邪薬だという。役人は風邪を引いているから飲ませろという。そして一人で飲んでしまう。たまらない町内の人たちは「もうありません」と言うと、役人は一回りしてくるから、「二番煎じを用意しておけ」というオチである。

 この噺は酒を飲むしぐさや肉やネギを食べる仕草がふんだんに演じられそれが見どころの一つとなっている。さすがに市馬は上手に演じていた。柳亭市馬は噺を語る時いつも笑顔をたやさないのもよい。

 落語は言葉で笑いをとるようにストーリーが巧みに作られていて面白い。また、演者によって違うから同じネタを何度聞いても面白く聞ける。橘座のお蔭で一流の落語家の噺を聞くことが出来るので嬉しい。

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2017年3月 7日 (火)

大須演芸場へ行く

 花橘というグループのSさんに誘われて3月3日の雛祭りの日に大須演芸場へ行ってきた。このグループが演芸場に行く目的は笑うことが健康によいというので笑いを求めてのことだそうだ。演目を見ると、落語が多いので私も参加することにした。

  11時開演ということで、バスと地下鉄で行き10時20分ごろ演芸場に着くと前で待っている人たちがいた。中に入るとグループで予約をしてあった。でも、右列の後方で団体予約してあるのに後ろの方なのでがっかりした。

  開演10分前に、マッハ金太郎というマジシャンがマジックをやった。番組外のサービスのようであった。簡単なマジックだがおしゃべりで笑いをとっていた。

  前座は林家染吉で上方の林家であった。南山大学卒業だという。落語研究会出身なのかもしれない。上手に話した。

  次が二つ目の林家はな平で9代目林家正蔵の弟子だそうだ。東京系の林家である。学習院大学卒業だという。最近は大学出身の落語家が多いようだ。小話をつないだ落語?であった。

  3番目は地元名古屋のよしもと所属のオレンジの漫才で名古屋弁を使っていた。

  4番目は落語で林家たけ平で林家こぶ平(現正蔵)の弟子だから東京系の林家である。東海大学出身だそうだ。小話や短い噺で上手に笑いを取っていた。

  ここでお中入で20分の休憩であった。

  5番目は、講談で旭堂鱗林という大阪系の女性講談師であった。名古屋出身だそうだ。講談で何を語るのかと期待していたが、世間話のようなものを話して終わったのでがっかりであった。

  6番目は紙切りの林家正楽でもちろん東京系である。40年ほど前にこの人(当時小正楽)の紙切りを末広亭で見たとき、似顔を切ると言ったので手を上げたら切ってもらえた。その作品は額に入れてずっと大事にしている。

  正楽は客の注文に応じて切ることを始めた人である。私は狙っていて大きな声で手を上げたら当たったので、「ひな人形」と言った。そして内裏様とおひな様を巧みに切ってくれた。

 トリは上方の林家菊丸で、本格的な人情落語の「幸助餅」を語った。数々の賞をもらっているだけあって上手であった。「幸助餅」は以前にも聞いたことがあるが、とても構成のよいすぐれた落語で、笑うところはあまりないが、心に響く噺である。

 1時半まで大須演芸場で寄席を楽しんだ。この日は万席のようであった。再建した大須演芸場の繁盛が続くとよいと思った。

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2015年11月11日 (水)

大須演芸場で寄席を楽しむ

 大須演芸場は一時は廃止という話もあったが、経営者が替わって引き継ぎ、リニューアルしてオープンした。

  大須大道町人祭りのとき、演芸場に入ったが、寄席は見たことがなかった。それでいつか行きたいと思っていた。Hさんの誘いで渡りに船と出かけたのだ。

  第一部は11時の開演ということで、10時半に演芸場前に着いた。Hさんが待っていて、今日は満員で立ち見しかない。11時ごろになったら立ち見の券を売ってくれるそうだと言った。

  みなさんは前売りの券を持ってきているらしく、どんどん入って行った。係りの人に聞いたら、立ち見は2000円にするがもう少し待って欲しいと言った。11時10分前ぐらいに午後の部の券はまだ少し残っていると言った。でも出直すのは大変なので、立ち見で見ることにした。

  立見席の人は15人ほどいた。中に入ると満席だったが、立ち見の人はどこで見てもよいというので横の前の方に行った。この日満席なのはトリに大助・花子が出るからであった。みなそれを目当てに来ているのだ。聞くところでは、大助・花子はスケジュールが詰まって、なかなか出演してもらえないのだそうだ。大阪が本拠地だから日帰りで来たのだろう。

  太鼓が鳴ってしばらくすると幕が開いた。開口一番は地元で活躍する林家まめ平の落語、「転失気」であった。古典の有名な落語だが元気よく演じていた。

 2番目は、オレンジというコンビの漫才で結成10年ぐらいと言っていたように思う。「エンタの神様」に出たと言っていたが、知らなかった。面白く笑わせていた。

 3番目は、雷門幸福の落語で、新作落語のようで日常のことをもとに笑いを取っていた。雷門だから獅篭と同門なのだろう。でも、若くはなかった。

 4番目は笑組の漫才で芸歴30年と言っていた。面白かったが中身は覚えていない。

 その後仲入りで、立ちっぱなしであったので、外に出て「天丼」を食べに行った。戻って来るとすでに落語が始まっていた。仲入りは15分ぐらいだったようだ。演者はかなり年配の噺家で、林家源平といい、演目は「蝦蟇の油」であった。蝦蟇の油は大道芸にもいつも来ている人がいて聞いたことがあった。ただ落語だからストーリーがあって笑いを取っていた。

 源平とまめ平は林家だから、林家一門なのかなあと思った。

 最後は客席を満員にした大助・花子であった。テレビで何度も聞いたことがある、大助が倒れた話や二人のなれそめなどの話などを組み合わせたもので、ネタには新鮮味はなかったが、おそらく何百回、いやもっとそれ以上に話してきた持ちネタだから、息が合っていて、笑いの取り方もうまく、特に間が絶妙であった。笑って涙がでて来た。

 やはり生はいいと思った。テレビで見るのとは、伝わり方がまったく違うのだ。20分ほどの時間であったが、立っている疲れも忘れて見ていた。

 大須演芸場は入場料は3000円(前売り2800円)だが、この日のように盛況の日が多いといいと思った。大助・花子のように客を呼べる芸人を毎回1人連れて来ることができるとよいと思った。

 雷門幸福が、以前は客が2~3人ということもあったと言っていたが、この日は立ち見が出る満員で、芸人たちもやりがいがあったと思う。

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2015年7月23日 (木)

也留舞会狂言を鑑賞

 知人のYさんが出演する狂言グループの発表会、「也留舞会」の案内をもらったので、見に出かけた。海の日の20日、午前十時開場としてあったので、並ぶことを覚悟で早めに家を出た。暑い太陽が照りつけていた。

  会場の名古屋能楽堂に9時45分ごろ着くと、意外にも並んでいる人は2人しかいなかった。その人に聞くと、やはりたくさんの人が並ぶと思って早く来たのだと言った。10時の開場時刻には15人ぐらいであった。

  中に入ると正面の最前列中央左の席に座った。後で分かったのだが、演じる人が、左前に出てきて演じることが多いので、その席がよかったのだ。

  開演の10時半になっても観客は100人もいなかったように思う。いくらでもよい席があるのになぜか後ろの方にいる人もいた。下手正面には4人しかいなかった。

  也留舞会の案内は昨年ももらったのだが、他の予定と重なって見に行くことができなかったので楽しみであった。というのは狂言はあまり見たことがないからだ。能、狂言、文楽など古典芸能は余り見たことがない。

  今回は発表会だから、下記のように第一部8演目、第2部9演目もあった。途中1時過ぎから2時までの昼食タイムを除いて4時間半もあった。私は興味があったので最後まで観た。狂言のストーリー立てや演じ方などを知るまことによい機会であった。

  言葉は現代人の我々になじみのない文語で、なかには現代語と異なった発音もあったが何とか聞き取ることができた。

  私は落語が好きだが、落語は演者は座ったままで、動かずに噺のなかで人物を巧みに動かす「動」だが、狂言は逆に、舞台を線で動きながら演じるが、演じ方や言葉は「静」だと思った。表情や動作は抑制されているのである。

  落語と狂言の共通点は、オチがあることと常識の外れた面白さを描くことだと思った。狂言の場合多くは主人公と相手との滑稽噺である。

  出演者は小学3年生、5年生、6年生や大学生から高齢者までいた。時々セリフを思い出せない人もいて後ろの黒子が教えていた。長いセリフは覚えるのが大変である。でも、みなさんは一生懸命に演じていて楽しむことができた。

  出演者のなかに格別発声のよい人がいたが指導者のようであった。朗々と響く素晴らしい声の出し方であった。

  演目の中に狂言小謡とか狂言小舞とかもあってよかった。次に演目を書いておく。

第1部  

  引括、  盆山、 竹生島参、  薩摩守、  清水、  雷、  地蔵舞、 

  蟹山

第2部

 重喜、  口真似、  魚説法、  貝尽、  番匠屋、  尼崎、  雷、  鐘の

 音、  長光、

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2015年6月 2日 (火)

橘座公演 林家菊丸襲名披露公演

 5月30日に、楽しみにしていた第27回橘座公演があった。今回は林家染丸一門の林家染弥が菊丸を襲名した披露の公演であった。13名いる林家染丸一門から染二、染左、愛染と師匠の染丸が来演した。

 開口一番は林家愛染の「ミカン屋」であった。今でいうニートの男に親戚の者が紀州から到来のみかんがたくさん来たから売りに行って来いという。ところが元値の1円で売ってしまう。それで売り方をこんこんと教えてまた売りに行かせる。この男は教えられたとおりのことをしゃべりながら売る。そのやり取りが笑いを誘うのだ。

 次が林家染左で、「豊竹屋」という落語。文楽の浄瑠璃語りを趣味とする男が日常の生活を浄瑠璃の節にのせてしまう。そこへ口三味線の上手い男が来て一緒にやろうという。その掛け合いの面白さを見せるものである。

 3番目は一番弟子の林家染二で「茶屋迎い」という噺であった。商家の息子が茶屋へ行って帰ってこないので主人は、小僧から手代、番頭と迎えに行かせるがラチがあかない。結局自分が手代に化けて行く。ところがばれてしまう。茶屋の女将は結婚前に好きあった女であった。そこで話している内にお互いが今も気があることが分かり仲良くなるという噺だ。

 20分ほどの仲入りのあと、襲名披露口上があった。染左が司会をして高座には林家菊丸を挟んで師匠の染丸と兄弟子の染二が上った。そこで染丸が最近脳梗塞を患ってうまくしゃべれないことが分かった。呂律の回らない舌で簡単にしゃべった。そして菊丸本人もしゃべった。

 後半は染丸の出演であるが、うまく話せないので染左が助けて「絵ばなし」をした。スケッチブックに絵が描いてあり、その絵が何を意味しているかというクイズのようなものであった。ただみんな小話になっていてオチがついていた。

 1枚目の紙に小石と幟と松の絵が描いてある。京から九州に行った夫に妻が出した手紙だという。その意味は、「恋しいから上りを待っている」ということだ。それに対して夫が書いたのは、火の見やぐらのそばで男が立っている絵だ。カギは火の見に半鐘がないことだ。その意味は「金がないから上れない」だそうだ。

 「種や」という噺は、種やが種を売っている。1枚目には目が二つ描いてある。「芽が出ます」と掛けたものだ。2枚目には歯が見えた口が描いてある。「葉がでます」という意味だ。3枚目は鼻が描いてある。「花が咲きます」という意味だ。4枚目には顔が描いてある。「買おか」という意味だ。

 噺家は呂律が回らなくなったらどうしようもない。早く回復されることを祈る。

 最後は菊丸で、「幸助餅」という噺だ。大黒屋という米屋が相撲の谷町として雷という力士が駆け出しの頃から支援をしてついに財産をなくしてしまう。妹が茶屋に身を置き30両の借金をするがその金を持って出たときバッタリと雷に会う。そこで雷に30両をやる羽目になる。叔父が来て金を返してもらおうとするが、雷は返さない。

 仕方なく茶屋の女将に借金を頼むとまた30両貸してくれた。それを元手に昼夜働いて3年後幸助餅という餅屋で大成功をする。そこへ雷が現れて餅を1個買いたいという。幸助はお前のような奴に売る餅はないくれてやるという。すると雷は30両出してこれでどうだという。

 そこへ女将が現れて、雷が30両を女将に託していたことや幸助餅を広めて買ってくれていたことなどを話す。それで幸助は雷の本当の人間性を知り仲直りをするという人情噺である。それを菊丸は熱演した。

 菊丸というのは大名跡で115年ぶりの襲名だそうだ。現菊丸は四日市市の出身で大須演芸場にも出たことがあると話していた。

「林家菊丸」の画像検索結果「林家菊丸」の画像検索結果

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2014年11月19日 (水)

第26回 橘座公演―春風亭小柳枝独演会

 第26回 橘座座公演が愛知産業大学工業高校であった。今回は「橘町町名拝領350年記念ということで、岐阜聖徳学園大学名誉教授の安田徳子氏の「橘座の成立と変遷」という講演があった、その後に落語の公演があった。

  安田名誉教授は、安田文吉教授の奥さんであった。この日の朝のテレビで安田文吉教授が出ていた。

  橘座は現在の愛知産業大学工業高校のある場所にあったのだ。「寛文4年、(1664年)11月、2代目尾張藩主光友の命により、名古屋の南端、美濃路沿いにあった千本松原が切り開かれ、橘町と命名された。ここの住人に古鉄古道具の専売が認められた。この新開地住人への藩主の優遇処置として、願いによってその裏に芝居地が下し置かれ、常芝居が認可。さらに、芝居が不繁盛の時、芝居を休業した時、無利息の借金も認めた。」と古文書にあるという。

  その後、7代藩主宗春時代の芝居王国到来の最初は、享保16年8月15日の京下りの大芝居一座であった。宗春も観賞した。元文4年(1739年)正月、宗春が失脚、芝居は全面禁止となった。

  享和以降、文政元年を頂点に名古屋芝居は繁盛を極め、その後も天保の改革の規制も短期間で、東西の芝居が規制にあえいでいた時期も活発な活動をしていたが、橘町芝居は幕末の政変で影響を受けたか、沈滞した。

  明治3年7月に橘町での芝居興業を許可し、芝居小屋を2か所に建てた。また寺社境内での芝居は禁止となった。

  江戸時代、若宮神社やお寺など芝居をするところは最盛期には60ぐらいあったそうだ。しかし、幕府の規制や禁止によりすたれたときもあった。

  講演の後、落語の公演が行われた。前座は春風亭昇太の弟子の春風亭昇吾の開口一番で、ナンセンス落語で笑いを取った。

  春風亭小柳枝の落語は、2番あり、最初はチラシには「2番煎じ」となっていたが、以前に誰から演じたことがあるというので、急きょ入れ替えられた。長屋に住む器量よしの娘が殿様に見初められ、側室となり、世継ぎを生んだので、兄が殿様に呼ばれる。しかし、町人の兄は侍言葉が分からず、頓珍漢なやり取りをするというもので、結局妹のおかげで出世したという噺であった。

 この噺の前振りで、面白いことを言った。「カタカナのトという字に一を加える。上に加えると『下』となる。下の者は一が邪魔して上の者が見えない。下に加えると『上』となり上の者は下が見えない。」というようなことを話した。うまく言い表しいると感心した。

  お中入りの後の噺は、有名な「文七元結」であった。腕のいい左官がばくちに溺れ、着るものもないくらいになる。娘のお久は家出をしてしまう。行った先が吉原の女郎屋で女将に呼び出される。女将から説教をされるが、1年の期限をつけて50両貸してくれる。

  帰る途中、橋の上で身投げをしようとする若者を見て止める。若者は掛け金をもらってきたがスリに取られてしまったと話す。事情を聞いて50両を若者にやる。

  若者は文七といい、店(鼈甲屋)に帰って金を差し出すと、主が金は返ってきたという。文七が囲碁に夢中になって金を忘れてあったというのだ。

  主は文七を連れて吉原の店に行き、左官の住所を聞いて左官の家に行く。そして礼を言い50両を渡そうとすると、左官は50両はやったものだから受け取れぬと変な意地をはる。そこで金が返った祝いだと言って50両を渡し、酒も渡す。その後で酒の肴もどうぞと言う。

  酒の肴は?娘のお久である。何と鼈甲屋の主が身請けをしてくれたというのだ。そして何年か経って、その若者は元結を商売にし、めでたくお久と結ばれるという人情噺である。

  江戸っ子の左官も、女郎屋の女将も、鼈甲屋の主もみな気風のいい、情の厚い人間として描かれているいい噺だ。小柳枝はそれぞれをうまく演じ分けて話していた。

  橘座で落語を聞くのは年に2回の大きな楽しみである。来年は誰の落語が聞けるのだろうか。今から楽しみにしている。

 

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2012年10月31日 (水)

第22回橘座公演「春雨や雷蔵独演会」

 年に2回、春と秋に開催される愛知産業工業高等学校の橘座公演が楽しみで案内を頂いたので出かけた。

 案内の葉書には「春雨や雷蔵」とあったが、私はその名前を知らなかった。テレビでも新聞でもこれまでに見たことがなかったのだ。落語家は400名以上いるといわれるから知らない人がいても無理はない。

 橘座公演は開場まえより並ぶので用心をして早めに行ったら、この日は雨なのですでに開場していてかなりの客が入っていた。持っていった本を読みながら13時の開演を待った。

 意外にも開演時にも席は少し残っていた。”春雨や”をやはり知らない人がいるのだと思った。

 前座は古今亭半輔という若手で、なんでも介護士から落語家になったのだと自己紹介していた。元気のよい話し方で有名な「初天神」を演じた。

 ◎初天神の落語http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/hatsutenjin.html

 春雨や雷蔵の第1席は、「天災」でこれも以前に聞いたことがある古典落語だ。心学の先生と八五郎のやり取りが面白い落語である。人生の教訓にもなっている。あらすじは下記で見られる。

 http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/05/post_ba6c.html

 中入り後は俗曲で桧山うめ吉が三味線を弾きながら歌った。彼女の日本髪は自分の髪の毛で、自分で毎日結うのだそうだ。人間文化財みたいな人だ。私は都都逸は分かるが、小唄、端唄、新内などの違いを知らない。調べてみたら次のように書いてあった。

 「日本音楽の分類用語明治初年の新造語で,雅楽に対して民謡端唄長唄,義太夫などの三味線音楽や,流行歌(はやりうた),箏曲など庶民の音楽を指した。明治中期以降は,寄席で演じる音曲代名詞となった。代表曲は《深川》《奴さん》《大津絵》《かっぽれ》など。1950年代になって,端唄,うた沢,小唄など小歌曲の総称として,放送局が便宜的に用いたこともある。」

 うめ吉は可愛い声で小唄や端唄を歌った。最後に瓜と茄子の踊りを踊った。寄席での「うめ吉」は下記で見られる。

 http://www.youtube.com/watch?v=cVkt6h5Te0E

 春雨やの2席目は、「寝床」であった。大店の主人が大の浄瑠璃好きで、語るのをだれかに聴いてもらうためにご馳走を用意して長屋の者を集める。しかし、ひどい声なので誰も聴きに来たくない。それでも番頭に何とか集めさせたが・・・・というこれも有名な落語である。

 Youtubeで今は亡き桂枝雀の寝床をたっぷりと見ることができる。

 http://www.youtube.com/watch?v=1fQ_nl1Y-HU

 ちなみに春雨や雷蔵は下記で芸歴などを見ることができる。何度か賞を受賞している。

 http://www.geikyo.com/profile/profile_detail.php?id=70

 春雨や 雷蔵

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