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日記・コラム・つぶやき

2023年12月 7日 (木)

急がねど八十八年

「いそがねぞ五十九月日のはやくして をしむまもなきとしのくれかな」

 この短歌は我が祖先の一人山内恵尊の詠んだ歌である。達筆で書かれた短冊は伯母が私にくれたものである。

 これをもじって「いそがねど八十八月日のはやくして おしむまもなきとしのくれかな」である。

 昨年数えの88歳で名古屋市から祝い金をもらったが、今日は満88歳になった。江戸時代は人生五十年もなかったかもしれないが、現代は人生百年時代である。88歳はまだ若いと言えるかもしれない。でも、88歳までよく生きてきたとは思う。

 過ぎてみればあっという間であった。60歳定年まで、38年間勤めたが、定年後38年経ってしまった。定年後の人生はボランティアの日本語教師がメインで今も続けている。

 現役の時は毎日児童のために懸命に働いた。児童言語教育研究会に属して国語教育を日夜研究し実践してきた。生涯平教員であったが、児童と共にあることを誇りとしていた。研究会の仲間もみな同じであった。

 30代、40代のときは十二指腸潰瘍で入院したり、痔で入院したこともあったが、40代半ばからはランニングを始め、50代からウオーキングに切り替えた。以来今日まで続けているが、その距離は地球1周半以上となった。今思うとそれが健康維持に役立ったのだろう。

 あとは英語会話クラブを作って仲間と40年ほど勉強を続けた。71歳で男声コーラスを作ってはや17年になった。趣味のマジックも40年ほど続けている。

 ブログを始めて9年になるが毎日書くことを続けている。脳を使うのでボケ防止になっていると思う。

 直腸ガンが見つかって、この先どのくらい生きられるのかは分からないが天命に従うしかないと思う。

 平凡な88年であったが、戦争を経験し、戦後の物のない生活を経験し、その後バブル、テレビ、新幹線、パソコンやインターネット、そしてスマホなど大きな変化の時代を過ごすことができた。

 戦後は日本は平和が続いているのが有難いことである。

 

2023年12月 3日 (日)

突如浮かんだビビデバビデブー

 1日の朝ウオーキングから帰って体を洗っていたら、突如、「ビビデバビデブー」という歌が頭に現れた。以前にも書いたことがあるが、古い歌が突如頭に現れることがあり、今回もそれであった。

 だれが歌っていたのか、何時頃覚えたのか、さっぱり記憶にないが歌はほぼほぼ覚えていた。
ネットで調べたら、歌詞はいろいろあるようだが、次の音羽たかし(和田壽三ディレクター)版が有名だという。1952年5月に江利チエミの歌でキングレコードからリリースされた。江利チエミが歌っていたように思ったがその通りであった。
 

  サラガドゥらメチカブラ
  ビビディ バビディ ブー
  うたえ踊れ楽しく
  ビビディ バビディ ブー
 

  サラガドゥらメチカブラ
  ビビディ バビディ ブー
  さあさみんな元気に
  ビビディ バビディ ブー

  すべてこの世は嫌なことなど
  さらりすててほがらかに
  ビビディ バビディ ブー

  サラガドゥらメチカブラ
  ビビディ バビディ ブー
  うたえ踊れ陽気に
  ビビディ バビディ 
  ビビディ バビディ 
  ビビディ バビディ ブー

 『ビビディ・バビディ・ブー』(Bibbidi-Bobbidi-Boo)は、1950年のディズニー映画「シンデレラ(Cinderella)」で歌われた劇中歌。

 ドレスを破られ泣いているシンデレラのもとに、妖精のフェアリー・ゴッドマザー(Fairy Godmother)が現れ、シンデレラにドレスやガラスの靴、馬車などを与えるシーンで歌われる。

 私はこの映画を見たことを覚えている。でも、歌が歌われたのは覚えていない。おそらく、その後江利チエミが歌ったり、「NHKみんなのうた」で歌われたので覚えたのであろう。

「ビビディ」や「バビディ」、「サラガドゥーラ」や「メチカブーラ」は、すべて魔法の言葉なので、日本の「ちちんぷいぷい」などと同じく、これ自体に固有の意味はないという。

2023年11月30日 (木)

朝ドラ「ブギウギ」梅丸劇団も監視下に

 27日のNHK朝ドラ「ブギウギ」は、戦局が険しくなった昭和15年に梅丸劇団に官憲が指導に入ることが描かれた。3人の警察官が劇団の指導をするというのだ。

 指導というのは「監視」のことである。劇団の人気歌手の福来すず子が派手なアクションで踊りながら歌うのはいけないとされる。また長いつけまつげも禁止される。

 すず子は3尺四方の四角の中で、直立で歌うことを強制されるが、鈴子は歌の途中で四角から飛び出し踊りながら歌い始める。監視の警察官は笛を吹いてすぐにやめさせる。そしてすず子は警察に呼ばれる。

 戦争を遂行するために娯楽まで規制されるという時代になったことを鮮烈に印象付けたのがよかった。

 28日のブギウギでは、派手な衣装を着て出歩くブルースの女王萩田りつ子(淡谷のり子)を劇場の前で愛国婦人会の女性たちが取り囲んで、そんな恰好は戦地で闘っている兵士に申し訳ないからいけないと抗議する。萩田は「これが私の戦闘服}だと言う。

 「挙国一致」だとか「欲しがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」など国策標語が作られた。梅丸劇団の舞台でも国策標語が並べられている。そうした標語は私もよく覚えている。すべては戦争遂行のためで国民の生活は徹底的に抑圧された。物がないので配給切符が配られ、その範囲でしか物を買えなかった。

 言論のみならず娯楽も規制され、自由のなかったたあの時代には絶対に戻してはならない。

2023年11月28日 (火)

どうする 公的年金 実質目減り

 26日の朝日新聞に「公的年金 実質目減り」という記事があった。来年度の公的年金額は、物価上昇を反映し、2年連続でプラスとなりそうだが、将来世代の年金のため、今の年金を抑制する措置も2年連続で発動する見通しで、物価ほどには年金が増えず、実質的には目減りすることになるというのだ。

 私は60歳定年で以来28年間ほど年金暮らしである。ただ、妻は専業主婦だったので共働きの人の様な年金はない。私が就職した頃は男が働いて妻を養うというのが男の甲斐性のように言われていた時代で、今では考えられないことである。父もそのように働いて来たし、それが当然だと思っていた。

 友人や同僚には共働きの者もいたが、定年後はダブル年金で暮らしているので羨ましく思うこともある。

 私の感じるところでは、退職時の年金が最高額で、以後年々減ってきているという印象である。28年間で50万円は減った。 その間バブルもあったが年金暮らしには関係ない。

 来年度年金が増えても、物価上昇で帳消しになるというのはやるせないがどうしようもない。物価が上昇しないように祈っているしかない。

 歳を取ると食品以外には衣服などを買うことはほとんどないのがよいことだ。食品はスーパーで割引値段の物を買うことが多くなったがそうやってしのぐしかない。

 年金生活にはデフレが続いたのがよかったと思う。

2023年11月21日 (火)

急な寒さ、そして紅葉

 18日の夜は寝ていて時々とても寒く感じた。それで1時過ぎにトイレに起きたときパジャマを冬用の厚手のものに替えることにした。それまでは長袖の薄手のパジャマを着ていたのだ。

 掛け布団を冬用の厚手のものにしなくてはと思った。それで19日の夜からそうすることにした。

 ついこの間まではとても暑かったのに、立冬を過ぎで寒さを感じるようになった。ダイニングキッチンでは立冬の頃からガス暖房機を出して使っている。リビングはエアコンなので、ときどき暖房にしている。

 テレビニュースでは名古屋地方の紅葉はこれからだと言っていた。寒さが始まったので例年より遅れていた紅葉が月末にかけて見ごろとなるであろう。でも、自動車がある頃は紅葉を見に行っていたが免許を返納してからは見に行っていない。テレビで放送される紅葉を観るだけだ。

 水曜日の昼に吉田類さんの「日本百低山」という番組があるが、先日は見事な紅葉の山を登っていた。

 日本語教室の学習者のベトナム人の女性のリーさんは、一人で電車やバスを乗り継いで香嵐渓へ行って来たと言っていた。日本語がかなりできるとはいえ、ネットで調べて一人で見に行くなんてすごいと思い褒めてあげた。

 その話をもう一人の女性のズンさんに話したら、「私も行く!」と言っていた。ベトナム人の男性のリンさんはお母さんが来ているので、京都に行って来たと話した。とても楽しかったが紅葉はまだ早かったと言っていた。京都と紅葉は例年、11月下旬である。

 ベトナムには紅葉がないので日本の紅葉を見てみたいのだろう。

2023年11月12日 (日)

取り残されていた我が家の生ごみ

 金曜日は生ごみの収集日である。家の近くにいるカラスにゴミをさばかれるのでゴミ収集車が早く来てくれるといいといつも思っている。ゴミ収集車は以前は8時45分ごろに来ていたが、この頃は遅いことが多く、早くて9時15分ぐらい、遅いと9時45分ぐらいのこともある。

 10日の金曜日もいつものようにゴミを入れた袋に広告の紙を巻いて、その上に緑色のネットをかけて2リットルの水を入れたペットボトル2本で抑えて置いておいた。それでもカラスはさばいていくのである。

 時々様子を見ていたが、雨が降っているからかカラスの鳴き声は聞こえたが、ごみをさばきには来なかったようだ。
ところが9時半ごろ見に行くと、生ごみはそのままになっていた。近所のゴミはみな収集してあった。我が家のゴミだけが残されていたのだ。

 それで環境事業所に電話をしてゴミが持って行ってないことを話した。事業所のスタッフは住所を確認した後「改めて取りに行きます」と言った。「そんなことができるのですか」と尋ねたら、時間は分からないが取りに行くと言った。

 有難いと思ったが、カラスのことが心配であった。それで時々ゴミを見に行った。

 3時半ごろ見に行くとゴミは持って行ってあったのでホッとした。カラスにもやられていなかった。

 どうして我が家だけが取り残されていたのか不思議だが、後で取に来てくれることが分かったのでよかった。

2023年11月 5日 (日)

桜山近辺が変っていた

 久しぶりに桜山方面へ行って驚いた。新しい飲食店ができていたり、古い店がなくなっていたりした。とくに桜山交差点の昭和郵便局の西側の辺りは、クリニックが4軒も入ったビルがあったり、楽器店がなくなったり、昔からあったコーヒー店がなくなったりしていた。

 不思議なのは、桜山には名古屋市立大学病院があるのだが、その前の大通りやその北と南の通りにはクリニックがいっぱいあることだ。市大病院のような大きな病院の近辺にどうしてクリニックが乱立するのだろうか。
市大病院に来た患者がクリニックを見かけてふらっと立ち寄るのをきたいしているのだろうか。

 市大病院のような大病院は紹介状なしで行くと診察料が高い。それで近くのクリニックで紹介状を書いてもらい市大病院に行くのだろうか。

 私は以前八事日赤に行ったとき、近くのクリニックで紹介状を書いてもらったので、紹介状代を払っても安くなったことがあった。

 でもクリニックにしてみれば患者が診察を受けに来てくれなければ儲からない。一体どんなメリットがあるのか知りたい。

 それにしても桜山近辺が変ったのは驚きであった。そんなに長く桜山に行っていなかったということでもないのだが。

2023年10月24日 (火)

急に寒くなった

 22日の朝、5時前に家を出ていつものようにウオーキングに出かけた。東の空を見ると金星がいつもより輝いていた。今朝は空が澄んでいるのだなと思いながら空を見渡すと、いつもはあまり見えない星がたくさん見えた。そして上を見るとオリオン座があった。オリオンを見るのは今年初めてであったが、例年より早く見られたようだ。西の空を見ると木星が輝いていた。木星も明るい星だがいつもより明るかった。

 この日は天気予報では気温が大きく下がると言っていたので、昨日まで履いていた短ズボンを長ズボンに替えて正解であった。

 歩いていると手が冷たかった。明日からは手袋も用意しなければいけないと思った。でも、風はなかったので気持ちよく歩くことができた。

 シャワーを浴びる時暖房を点けた。また、出た後は洗面所にも暖房を点けた。シャワーから出た後はシャツの上に上着を着た。上着を着るのはこの秋になって初めてのことであった。

 日中は外はよく晴れて風もないようであったが、外出はしなかった。この日は名古屋まつりの2日めであったが、それを思い出すのが午後になってからだったので見に行くことができなかったのだ。

 ついこの間まで物凄い暑さで冷房をつけていたのに、暖房が欲しいくらいになった。ガス暖房器具を出さなければならないかもしれない。いつもは11月に入ってから出していたように思うのだが。

 今年の異常気象には驚かされることばかりだ。

2023年10月21日 (土)

大須の変貌に驚く

 CDを買うために大須のアメ横に行った。昔は大須によく行っていたものだがこの2年ほどは行ってなかった。上前津駅から歩いて行ったが、TATOOの大きな看板がでていた。赤門通の角にはおにぎりの専門店があり、若者たちが店の前で食べていた。

 新天地通りに入ると、いろんな新しい店があった。ドン・キホーテも進出していた。万松寺というお寺だと思うが、寺がにぎにぎしく変わっていた。そこから少し行くと、下の写真のような大きな店ができていら。でかいぬいぐるみの様なものがいっぱいあった。何の店かと思った。両側の店もたたずまいが変っていた。

 アメ横についていつもCDを買う愛曲楽器に行ったが、店の展示がすっかり変わっていた。CDのコーナーは見当たらないので店主に聞いたら、隅っこにあった。でも、50枚パックとケースが置いてあるだけであった。

 それで2階のツクモに行くことにした。アメ横商店街の店も変わっていた。ギターを売る店などもあった。

 ツクモに行くと、店内はすっかり変わっていた。CD売り場がどこに在るか分からなかったので、スタッフに尋ねたら隅っこにあったがCDはマクセルのケース付き20枚パックがあるだけであった。以前はいろんなCDがあったのでスタッフにどうしてCDを置かないのか聞いたら、「CDは人気がないから」と言った。愛曲楽器にもCDがほとんどなかったのも同じ理由だろう。ケース入りのCDは欲しかったものなので1パックを買った。

 帰りにドン・キホーテの店を覗いた店は地下にあった。かなり大きい店で、至る所に「安い!」と張り紙がしてあった。買いたいものが見つからなかったので店を出た。

大須と言えば戦前は最もにぎわったエリアであった。一時さびれていたが、アメ横が進出するなどして若者が来るようにない、今や名古屋きっての商店街である。その商店街が2年ほど見ない間にさらに変わっていたので驚いたのであった。疲れていたので他を見るのはやめにしたが、新天地通りを見ただけですっかり変わっていたので他も同じだろうと思った。

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2023年10月20日 (金)

快く道案内してくれた人

 17日に3か月ぶりに愛知国際病院に行った。この病院に行くのは3回目である。最初の時は娘夫婦がついて行ってくれた。そのとき彼らは黒笹の駅から地図アプリを使って行ったので、近道であったが藪の中や牧場などを通る道であった。

 2回目は一人で行ったのだが、タクシーで行った。

 そして3回目。黒笹の駅に降りると、私は近くのスギ薬局に行き店員に道を尋ねた。店員は前の道をまっすぐに行き、信号があるのでそこを左に曲がっていけばよいと教えてくれた。

 その通りに行くと250mぐらいの所に信号があった。そして大きな愛知国際病院の案内板があって、→で方向を示し、約800mと距離が書いてあった。意外に近いのだと思いながらその方角へ歩いて行った。どころが数百m歩いたところで森と道があり、どの方角に歩いて行ったらよいのが分からなくなった。

 仕方がないので愛知国際病院に電話をして尋ねた。男のスタッフがでた。森があるとか、池があるとか、建設会社があるとか、こちらのいる場所を話したのだが、分からないようであった。

 そこに1人の中年の女性が歩いて来た。それで電話を切らないまま、思い切ってその人に道を尋ねた。その人は「一緒に行きましょう」と快く言ったくれた。電話を切ってその人についていた。

 歩いた来た道は自動車の通る広い道で森の中を通っていた。上り坂で少ししんどかった。女性は牧場の方を通り道もあると言った。私はその道を通ったことがあるが、忘れてしまったと話した。

 歩いて行くと三差路があり、そこにも愛知国際病院の看板が立っていた。しばらく行くとホスピスが見えて来た。女性は「すぐそこです」と言ったので、私は礼を述べて先に行ってもらった。女性は足の遅い私に合わせて歩いていてくれたのだった。そこからはスタスタと歩いて行った。

 愛知国際病院に着いて歩いて来た道を振り返ってみると、何とも簡単な1本道であった。看板が2か所にあり、車の通る広い道を歩いてくればよかったのだ。初めての時藪の中の道を歩いたのでその記憶が広い道を歩くのを躊躇させたのであった。

 病院に着くと、受けつけの女性スタッフ電話のことを話し、地図を書いて「こんなに簡単な道をどうして教えられないの?」と言った。スタッフは伝えますと言った。

 愛知国際病院はネットには黒笹駅から徒歩15分としているのだが、道順を示してないので分かりづらいのだ。次回からは間違いなく歩いて行けると思った。

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