日記・コラム・つぶやき

2018年7月 2日 (月)

汗をかく暑い日がやってきた

 つい先日まで例年より涼しくしのぎやすいさわやかな秋のような気候だと感じていたが、やはり夏は夏で、汗をかくようになった。

 梅雨の合間の日光が照りつける中を20分ほど歩いたが、下着のシャツが汗で濡れてしまった。シャツを手で身体から離して風を入れると、ヒヤッとして気持ちよかった。

 家に帰るとすぐに顔を洗って、顔や首筋や腕などの汗を取った。そして冷蔵庫からノンアルコールビールの缶を取り出して、コップに注いで飲んだら、ビールの炭酸がジワジワっと喉を通り、暑さが飛んだ気持ちがした。

 アルコール分のないノンアルコールビールは、これまでほとんど飲んだことがなかったが、最近のノンアルコールビールは、ビールに近いテイストになっていて、これなら暑い日中に飲んでもよいと感じた。

 サイダーのような炭酸飲料は滅多に飲まない。それは糖分があるからだ。でも、ノンアルコールビールは糖質ゼロをうたったものがいくつかあり、炭酸飲料より良いのではないかと思った。

 車を手放したので、運転をすることはないが、日中にはアルコールの入ったものは飲まないようにしている。ビールなどアルコール類を飲むと、その後体がだるくなり、さらには眠くなるのだ。その点ノンアルコールビールはそういう気遣いはないのでよい。

 私は冬には強いが、夏は苦手になった。子どもの頃や若い頃は、夏が一番良いと思っていたのに、年を取ったら夏が苦痛に感じるようになった。

 買い物や用事で外に出ると、直射日光やアスファルトの照り返しで汗が出て不快になる。これまで比較的過ごしやすかったが、いよいよ夏本番になってきたようだ。

 ただ一つよいのは、晩酌のビールモドキが美味しく感じられるようになったことだ。ビールモドキというのは、第3のビールのことである。これまでは缶を1つだけで、焼酎などを飲んでいたが、これからは缶を2つ飲める。

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2018年6月25日 (月)

減り続ける老人クラブという記事を読んで

 19日の朝日新聞名古屋ページに、「減り続ける老人クラブ」という記事があった。リードには「高齢者が増える一方で、県内各地で活動する『老人クラブ」が減っている。60歳を過ぎても働き続ける人が多くなったことなどが原因とみられ、会員数の維持やクラブの存続が危ぶまれている」と書いてあった。

 「県老人クラブ連合会と名古屋市老人クラブ連合会によると、県内の老人クラブ数は、2008年の6468から昨年は5468に減少。会員数は年間1万人以上減り続け、2008年の48万3927人から昨年は37万5471人に減った」そうだ。

 私は60歳で定年になったが、我が町内にある老人クラブからの誘いはなかった。その頃は会員数も一定の数が確保されていて、市から補助が貰える程度の人数(たしか40人だったと思う)以上には増やさないで、仲間内で楽しくやろうということだったと聞く。

 以後も会員を誘うという動きななかったので、私が町内役員をやったとき、老人会のやり方はおかしいと指摘したことがある。我が町内の老人会は隣の町内会とで構成されていて、両方の町内から毎年5万円ずつ、つまり合計で10万円の補助を受けているのだ。

 市から補助を受け、町内からも補助を受けて活動をしている以上、毎年4月には老人会に入ってくださいと知らせるべきである。誰からも勧誘されず、老人会からの広報もなければ老人会の存在さえ知らない場合もあろう。実際知人の高齢者も知らなかったとか、誘われたことは一度もないと言っていた。

 こう書いたが、昨日の回覧板は老人クラブの勧誘であった。現在35名だと書いてあった。やはり参加者が減少しているのだろう。

 老人会の会長など役員は毎年同じ人がやることが多く、我が町内でも同じであった。それで気が合った会員だけで楽しくやろうということになるのだ。

 しかし老人会の会員数は近年減少していて市の補助金をもらうために会員を増やそうと苦労しているようである。

 私が一度だけ老人会に誘われたのは、別の町の町内の人からであった。会員数が減って補助金がもらえないので入ってくれないかというものであった。

 私はこれまでに老人会に入ったことは無く、入りたいとも思わない。老人会に入らなくても、コーラスとかマジックとか日本語教室とか英語会話とかカラオケなど「キョウヨウ、キョウイク」でいっぱいなのだ。

 そういうところは年代もいろいろあって、人もさまざまで楽しい。名古屋市も老人クラブに補助するより、文化活動を続けているクラブなどに補助をすべきだと思う。

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2018年6月20日 (水)

鯉が恋する時期

 17日の朝、いつものように山崎川沿いにウオーキングをしていた。田辺公園を過ぎて鼎小橋の辺りに来たらバシャバシャという大きな音が川から聞こえてきた。橋に行って川を覗くと、白い水しぶきが盛んに上がっていた。

 よく見ると、黒い大きな鯉が何十匹も群れていた。そして時々バシャバシャと水しぶきを上げているのだ。丁度繁殖の時期だと思った。

 鯉の産卵のことは知らないが、鮭の場合、メスの鮭が浅瀬で尻尾を使って穴を掘り産卵するとオスが精子をぶっかけるということなので、鯉も似たようなことをするのではないかと思った。

 鯉が集まっている場所は浅瀬であった。上から見ていて、どれがメスでどれがオスなのかは分からなかった。ただ動いてバシャバシャとやる鯉がいるので、多分それがオスなのだろうと想像した。

 昔揖斐川にシラハエを釣りに行っていたが、そのときウグイやシラハエのオスが婚姻色に変わるのを見ていた。鯉の場合は婚姻色があるのかどうか知らない。

 普段山崎川で見ている鯉は、1匹か2匹が静かに泳いでいるだけである。だから鯉はあまりいないと思っていたのだが、随分たくさんいることが分かった。

 鯉が集まっている傍にコサギが1羽いて、逃げて来る小魚を狙っているようであった。あれだけ派手にバシャバシャやると、小魚は逃げてしまうのではないかと思ったが、コザギはその周りを動き回っていた。

 この川で生まれて大きく育つ鯉はどのくらいいるのだろうと思った。大半は小さいうちに食べられてしまい、成魚になるのはほんの僅かだろうと思う。

 鯉が集まってバシャバシャやっているところを写真に撮ったので、モーニングのときYさんに見せたら、犬の散歩のときに檀渓橋の下で見たと言っていた。

 今は鯉が恋をする時期なので、山崎川のあちこちの浅瀬で逢瀬を楽しんでいるに違いない。

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2018年6月 7日 (木)

生垣のカイヅカイブキを剪定

 今週は梅雨に入りそうだということで月曜日は最後の晴れ間になるかもしれないと思った。それで思い切って生垣のカイヅカイブキの剪定をすることにした。

 我が家の小さな庭には道路に面してちょっとした生垣がある。50年ぐらい前に家を建てたとき塀ではなくカイヅカイブキを植えたのだ。その頃空気汚染による公害が広がっており、名古屋も例外ではなかった。それで多少でも酸素を出す植物で寄与したいと思ったのであった。

 その頃我が家の生垣はサンゴジュであったが、京都の妻の親戚に行ったとき、カイヅカイブキの生垣だったのを見て素敵だと思って一目ぼれしたのであった。それで家を建て替えるのを機に生垣もカイヅカイブキにしたのだ。現在のは2代目である。

 カイヅカイブキの生垣は、剪定をしてきれいに整えたものは素敵だが手入れを怠るとみっともないものになる。1年に初夏の頃と晩秋の2回の剪定が欠かせない。

 初め植えた頃は大きな剪定バサミを使っていた。若かったのでそれで十分であった。

 ところが定年近くなってきたら体力が衰えて、剪定バサミを使うのはしんどくなってきた。それで電動の剪定機を買った。最初のものは目方が重かったが、それでも手でやるよりはずっと楽だった。

 しかし後期高齢になると重いのが苦痛になった。幸いその頃軽いのが発売されたのでそれを買った。以来ずっと使っている。

 剪定機を使っても立ての面をやるのは大変である。我が家の生垣は地上より1mぐらい上にあるので、髙いところを剪定するには手を上に伸ばさなくてはならないからだ。

 剪定に要した時間は70分ぐらいであるが、やった後は手が震えて字を書くことやPCのキーを打つのが大変だ。

 昨年までは息子に手伝ってもらっていたが、亡くなったので自分でやるしかない。最初に「思い切って」と書いたのは、剪定をするのに覚悟を決めなければならないからだ。

 業者に頼めばいいのだが、何万円かかかるのでやれるうちは自分でと思ってやったのだ。何とかやれたのでホッとしている。

 私の知人で退職後剪定を勉強して仕事にしている人がいるが、よくこんな大変な仕事をやれるものだと感心している。今から秋のことを思うと気が重くなるくらいだ。

 近所にカイヅカイブキの大きな生垣がある邸宅があって、そこの主人は何時も上手に剪定をしていた。でも、数年前に生垣を塀に変えてしまった。多分剪定が大変だからであろう。

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2018年6月 2日 (土)

愛車に決別

 

 50年余り乗り続けてきた自動車に決別をした。最後に乗っていた車はトヨタのラウムで、実用的なのと燃費がよいので買ったのであった。


 買ったばかりの頃満タンで鎌倉まで往復をすることができた。また和歌山県の勝浦へ行くとき、満タンで瀞峡まで行き、帰りは奈良まで回って帰ってきた。
 
 手放したとき11年経過していたが、走行距離は僅か4万3000kmであった。後期高齢になってからは週に1~2度ぐらいで、遠出をすることもなく、ほとんど乗らなかったからである。そのためバッテリーがしょっちゅう上がっていた。
 
 乗らなくなったのは、交通事故が怖くなったからである。自分が事故を起こすのを警戒したのはもちろんだが、他人にぶつけられるのも嫌だったのだ。だからいつも慎重に運転していた。
 
 運転免許更新の時、高齢者にはテストがあるが、それは無事にクリアして免許をもらっていたし、ゴールド免許である。
 
 まだ運転できるとは思っていたが、娘や妻がやめろとうるさく言うこともあって潮時かなと思ったのだ。
 
 運転免許の期限は今年中あるので、そのときに車をやめるつもりでいたのだが、たまたまCafe Vitaのマスターにその話をしたら、それまで時々貸してくれと言ったので貸していた。
 
 5月になって自動車税の通知書が来て、35000円ほど払わなくてはならないことになった。それで、9月には任意保険も切れることだし、この際車をやめようと決心したのだ。
 
 車を買った自動車屋に尋ねたらまだ売れると言ったが、マスターが欲しいと言ったのでただで上げた。その代わり登録変更の手続きなどは相手にやってもらった。
 
 車庫には車がなくなって広いスペースができ淋しさを感じたが、だんだんと慣れてきた。車を手放してからは、車の広告を見たり、走っている車を見たりしても、もう自分には縁がなくなったのだと思う。
 
 自動車を所有すると、購入代金、保険、税金、車検、ガソリン代・・・・などかなり費用がかかる。私の試算では、小型車でも年間30万円以上はかかるだろうと思われる。幸い、名古屋は交通が便利だし、敬老パスがあるし、これからは必要なときはタクシーを利用すればよいと思っている。
 
 運転免許証の方は有効期限が切れる年末まで持つつもりだ。

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2018年5月27日 (日)

木で熟した我が家の大王グミ

 我が家の庭にある大王グミ。昨年はほとんどならなかった。今年も花は沢山咲いたが実はあまり見なかった。今年も昨年のようにならなかったのかと思っていた。

 月曜の夕方、念のためにグミの木を調べてみた。すると葉の陰にグミの赤いよく熟した実があるのを見つけた。3つか4つがかたまってぶら下がっていた。
 
 それで念入りに探した。するとよく茂った葉の陰にグミの実が下がっているのを見つけた。よく熟しているので手で触れるだけで落ちるのもあった。
 
 妻も出てきて一緒に探した。結局小さなザルに一杯収穫した。ハイモアできれいに洗って食べてみると、グミの渋みはなくとても甘かった。木で熟したので甘くなったのだ。
 
 3年前までは、大王グミがたくさん収穫できた。それで焼酎と氷砂糖で漬けてグミ酒を作っていた。いい香りのグミ酒ができた。グミ酒は今も少し残っている。
 
 昨年から急にならなくなって、今年も諦めていたのだが、思ったよりたくさん取れて嬉しい。珍しいので近所の安田さんにおすそ分けした。といっても量は少ないが。

 その後も妻が毎日5~8粒ぐらい収穫した。嬉しい誤算であった。
 
 我が家のグミは、無農薬、無肥料である。肥料をやらないから実がならないのだろうか。それともミツバチが少なくなって花粉を媒介してくれないのだろうか。
 
 私が子供の頃、山にグミの木があって、実がなっていたが、取ることはほとんどなかった。グミを食べるとお腹をこわすと言われていた。だから小さい実をちょっと口にしただけであった。

 我が家のは大王グミなので実が大きく熟すと甘いのだ。ただ今年はグミ酒を作れないのが残念である。もう少し収穫量が多いと作れるのだが。来年はどうなのか、たくさんなるだろうか。

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                   この倍ぐらい収穫

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2018年5月18日 (金)

犯人逮捕でよかった、新潟女児殺害事件

 

新潟市の小針小学校2年生の女児が下校途中に何者かに連れ去られ、殺害されるという事件。犯人は殺害後線路に遺体を置き電車に轢かせるという残忍極まることをした。

 
 事故で電車にはねられたように見せかけるつもりだったのだろうがそれにしても酷すぎる。
 
 この小学校の学区の人たちや新潟市近辺の人たちは犯人が捕まらないこの1週間、どんなに心配な毎日を送ったであろう。警察の捜査でやっと犯人が逮捕され、安堵したことであろう。
 
 犯人は近所に住む23歳の若者で、真面目な礼儀正しい人物であったと新聞に書いてあるが、そういう人物がなぜ関係のない女児を連れ去って殺してしまったのか、全く理解に苦しむ。
 
 女児なら誰でもよく、乱暴をした後バレルのを防ぐために鉄道事故に見せかけたのであろうか。それにしても学校帰りの女児が線路に入るということ自体不自然である。おそらく学校でもみだりに線路に入らないように指導をされているはずだ。犯人はそのことに思い至らなかったのであろうか。
 
 警察は犯人の動機を詳しく調べて2度とこのような悲惨な事件が起こらないようにしてほしい。
 
 いつの頃からか簡単に人を殺す事件が後を絶たない。13日にも千葉市のレストランで食事に来ていた家族が、奥さんの兄に刃物で殺傷されるという事件があった。6歳の女児が死んでしまった。
 
 この場合は、犯人は女児の伯父である。しかも、この人物は千葉市議を2期務めたというのだ。どんな恨みがあったのか不明だが、公職者を経験したような人物が殺人事件を起こすというのも理解ができない。
 
 人を傷つけたり殺したりしてはいけないということが分からない人間が増えているのだろうか。殺人をしたらそのあと逮捕されて、自分が苦しまなければならなくなるという想像力が働かないのであろうか。

 どちらの女児も大きな未来を奪われてしまったのだ。殺人者の身勝手な行動のせいで。人為的に他の人の未来を奪うことは許されない。犯人はどんなことをしても償うことはできないことをしてしまったのだ。

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2018年5月16日 (水)

「君たちはどう生きるか」が書かれた時代と吉野源三郎

 「君たちはどう生きるか」は1937年に新潮社より出版された。その頃の日本は1931年9月18日、関東軍が柳条湖で満州鉄道の線路を破壊し(柳条湖事件)、事件をきっかけに関東軍は満州全土の占領に乗り出した。そして犬養内閣の時満州国を作り上げた。

  1932年5.15事件で犬養首相暗殺。

  1933年国際連盟から脱退。軍部が力を強めていく。

  1936年2.26事件。

 1937年日独伊3国防共協定。

  1937年7月7日、盧溝橋事件→日中戦争へ

  「文芸春秋」3月号に吉野源三郎の長男の源太郎氏と池上彰氏の対談が載っている。それを引きながら以下を書く。

  吉野源三郎は1931年に、共産主義者であることを疑われて治安維持法違反で検挙、投獄された。吉野は志願兵で陸軍少尉だった(東大を出ているので将校になったのだ)ので、単なる思想犯ですまされず、軍事法廷にかけられた。一族はみな死刑になるものと覚悟していてという。親、兄弟,親戚までが憲兵から非国民扱いされたそうだ。「君たちはどう生きるか」の中にも「非国民」という言葉が出て来るように、この時代、国民を怖がらせ戦争への道を進む魔法の言葉であった。

  吉野は獄中で連日のように拷問を受けるが、決して仲間の名前をもらさなかったという。凄い信念の人だ。それはあの本の中にも窺うことができる。

  彼は自殺を試みるが、それは「余りにも過酷な取り調べが続くので「仲間を売ってしまうかも知れない。その前に死のう」と考えたのであった。幸いにも一命はとりとめた。

  その後、担当の軍医が人格者だったので、未来を見据えるように諭され、なんとか生きる気力をとりもどしたのだそうだ。

  軍事法廷では「私を信頼した人々を警察や君に売れというのですか。裁判長も軍人でしょう。仲間を裏切る人間を信用できるのですか」と必死の思いで問い直し、それが裁判官の軍人を動かして、1年半の獄中生活の後、奇跡的に執行猶予がついて出所したそうだ。

  この時代拷問は当たり前で、それに堪えて信念を貫いたのは余人ではできないことであると感動した。そして再びそのような忌まわしい時代に戻さないようにすることが大事だと痛感した。それは安部首相や日本会議などが、憲法を改悪し、戦力を強化し、治安維持法のようなものをつくろうとしているからだ。

  山本有三が日本少国民文庫を企画したのは、「軍国主義が勃興し、すでに”言論や出版の自由はいちじるしく制限される”中で、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめて少年少女だけは、時勢の悪い影響から守りたい」と考えたからである。

  吉野源三郎は山本有三から頼まれてその編集の仕事に携わったのであった。それは釈放後結婚をしたが、ろくな仕事にもつけずアルバイトで困っていた吉野を見かねてのことであったそうだ。

  本当は山本有三がシリーズの最終巻を書くことになっていたのが、病に倒れ、吉野に託されたのだ。憲兵に睨まれていて自由な表現ができない。悩みに悩んだ挙句、七転八倒してひねり出したのが「君たちはどう生きるか」だったそうだ。

  投獄され、自殺まで試みた吉野が「また検挙されるかもしれない」「いずれ自分の命はないかもしれない」という恐怖を抱きつつ、命がけで生み出した物語だったと思うと息子の源太郎氏は語っている。

  冒頭に挙げたように、日本が中国大陸に手を伸ばし、軍部の力が肥大化し、国民の自由や権利を奪って行った中で、ぎりぎりのところで良心に従い、将来ある少年少女たちに考えさせようとしたのは実に素晴らしい。

 

 

 

 

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2018年5月15日 (火)

パスポートを取り直して

 パスポートの有効期限がボツボツ切れると思って調べたら、なんと2年ほど前に切れていたことが分かった。妻のパスポートはこの4月で切れていて、そちらと勘違いしていたのであった。

  それにしてもオーストラリアへ行ったのが海外旅行の最後で、それから2年も経っていたのには驚いた。月日が経つのは速いということを今更ながら痛感した。

  まだ海外旅行に行くだろうからパスポートを取ることにした。旅券センターに電話したら、期限が切れたので新規取得になると言った。その場合、戸籍謄本か抄本が必要になると言われた。その他に身分を証明するものと古いパスポートが必要であった。

  金曜日の朝8時半に家を出て、地下鉄で名古屋駅に向かった。通勤時間帯なので電車は満員であった。旅券センターは高島屋があるJRビルの15階と聞いていたが、どのエレベーターで行くのかがわからなかった。1階のエレベーター乗場へ行って一番手前のボタンを押したら点灯したが、エレベーターは一向に来なかった。次のやその次のエレベーターのボタンを押しても点灯しなかった。

  いったいどういうことかと説明をよく見たら、この時間帯は2階から乗るようにと書いてあった。何とも不親切な分かり難い掲示であった。

 しかたなく2階へ行って乗った。15階で降りたが、旅券センターがどこにあるか分からなかった。見当をつけて歩いて行き警備員を見つけたので尋ねたら、右の方に行って左へ曲がるように言った。

  ところが右の方に行くとそちらは新しくできたビルへ行くのであった。ふと左を見ると、奥の方に「旅券センター」という表示らしいものが見えた。行って見ると旅券センターであった。何とも分かり難いことで不親切極まりないと思った。

  受付に行くと、写真を先ず撮るように言われた。bigカメラがやっている撮影所があった。料金は1000円なので驚いた。たった1枚いるだけなのに4枚で1000円である。なんというボロ儲けだろうと思った。旅券センター用の写真を一手に引き受けているので利益は半端ではない。

  自動車運転免許証の場合は運転試験場で写真を撮ってくれて焼きこんでくれる。旅券センターはどうして民間に委託するのだろうと思った。

  パスポートは5年が11000円、10年は16000円もするのだ。写真も込みの手数料にすべきである。その他に疑問に感じたのは、5年ものが高いことであった。10年の半額+1000円ぐらいでやるべきである。国土交通省は国民からふんだくって儲けようとしているのだ。

 交付申請書に見本を見ながら慎重に記入したが、分かり難いところがあったし、住所と氏名を2か所も記入しなければならず、煩雑であった。簡素化できるところはすべきである。

 窓口は20カ所ほどあったが、職員は6人しかいなくて20分余りの待ち時間があった。もう少し早くやれるように配慮が要ると感じた。

 私は年齢からいうと5年のパスポートでもよいのだが、10年のを取ることにした。5000円余計にかかるが、先のことは分からないので取るだけとっておこうと思ったのだ。

 

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2018年5月14日 (月)

身近の素敵な日本語単語

 「君たちはどう生きるか」を読んでいたら「有難う」の説明があった。「有難う」という言葉の意味については中学校の頃習った覚えがある。「有難し」つまり滅多にないことから来ている。私たちは日常「ありがとう」をよく使っている。何かを貰ったり、何かをして貰ったり、教えてもらったりすると「ありがとう」とお礼を述べる。それほどではなくても食事のとき何かを取ってもらうと「ありがとう」と口にするように、ちょっとしたことでも言う言葉である。

  本当に「有難い」ことからちょっとしたことにまで幅広く使われる言葉だが、「滅多にないこと」というところから来ていることを意識せずに「感謝」の気持ちを表す言葉となっている。

  中国語は「謝謝」であり、韓国語も「カムサハムニダ」と似たような言葉である。つまり感謝を表している。

  「ご馳走様」という言葉がある。食事など何かを食べた後に言う言葉だ。これは食べるものに多くの人が関わっていることから来ている。直接に料理を作る人だけでなく、その食材を求めるために人が関わっているし、食材を作る人もいろいろ関わっている。コペル君が「発見」した人と人のつながりがあるのだ。走り回ってくれた(関わった)人たちに対しての感謝の言葉である。日本独特の言葉である。

  食事をするとき、「頂きます」という。これも日本だけにある習慣らしい。この「頂きます」という言葉は、「命を頂く」という意味だと言われる。動物の肉や魚はもちろん命だが、野菜やキノコ類やヨーグルトのような細菌でも命を持っているのだ。それを食べることによって自らの命をつないでいるのである。だから命を頂くことへの「有難きこと」つまり「感謝」が「頂きます」なのだ。何と美しい言葉ではないか。

  その他に、やはり食事に関わった人々への感謝も含まれていると思う。食事を直接作った人だけでなく、その食材や調理の全てに関わった人や物があるはずだ。ここでも森羅万象全ての関わりがあるのだ。それがあって初めて食事ができることへの感謝である。

  私はこの他に「おかげ」を挙げたいと思う。「お蔭げ」は伊勢神宮の前にある「おかげ横丁」では伊勢神宮の神様のお蔭ということだが、私たちが「・・・のおかげ」という使い方をするときは神様ではない。ここにも「森羅万象のおかげ」という意味がある。つまり人だけでなく様々なものに関わっているということである。「お蔭で天気も良く楽しい旅行ができた」という場合、天候が関係している。

 ノーベル平和賞を受賞したケニアのマータイさんは、日本語の「もったいない」という言葉をいい言葉だとして世界に広めてくれた。よく使うのは食べ物とか物を無駄にしないということ、大事に扱うということである。食べ物を残して捨ててしまうのはもったいないとか、まだ使える物を捨てるのはもったいないとか言う。子どもの頃、米粒を茶碗に残すともったいないと言って注意された。米を作るのにどれだけの人が関わっているのかというのであった。だから例え一粒の米でも無駄にしてはいけないと言われたのだ。

 英語で言おうとすると「waste of money」とか「waste of time」などと言うが、「もったいない」一言で何にでも使える広い概念の言葉である。

 こうした日本語の言葉に共通しているのは、コペル君が「発見」した人や物や事のつながりである。日本人はそれを大事なこととして代々伝えて来たのだ。日本人の心の底にある共通の観念だと言ってもよいと思う。

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