8日(土)の朝日新聞beに「ポタリング」という記事があった。「ポタリング?」って何だろうと思って読んでみた。自転車で散歩することであった。記者が元プロライダーの山田大五朗さんのガイドで博多の街をマウンテンバイクで回った体験を書いたものであった。
ネットで調べたら、「ポタリングとは、目的地を特に定めることなく自転車で散歩するようにゆったり走ることを意味します。 のんびり過ごす、ブラブラするという英語の「Putter」から派生した和製英語で、省略して「ポタ」とも呼ばれます。」と説明してあった。
beの記事によると、スポーツ自転車には、ロードバイク、クロスバイク、マウンテンバイクの3種類あるそうだ。ママチャリや普通の自転車ではいけないのかと思ったが何も書いてなかった。ネットによると「サイクリングとは自転車で走ること全般を表した総称です。そのため自転車でゆったり走るポタリングはサイクリングに含まれます。」とあった。
また「スポーツバイクに限らず、ママチャリやミニベロ(小径車)などどんな自転車でもポタリングは可能です。」と書いてあった。
beの記事ではスポーツ車がよいように読み取れるが、どんな自転車でもよいのだ。要するに自転車散歩なんだから。目的があっても無くても関係ないそうだ。
そういうことかとポタリングについて納得したので、買って間もない愛用の電動アシスト自転車でポタリングに出かけることにした。10日の成人の日は素晴らしい天候で、青空が広がり、風もなく暖かい日よりであった。こんな良い日に出かけない手はないと2時過ぎに家を出て、気ままに走って行った。
目的地があった方がいいと思い、千早にあるイオンタウンに行くことにした。正月に娘夫婦が行ったら丸善書店があったと言っていたのでそれを見たいと思ったのだ。
そこまでの道はなるべく通ったことがない道を走った。永六輔氏が「知らない横丁を曲がればそれは旅」という名言を残しているのを思い出した。車道を走るときは自動車に気を付けた。歩道を走っていて、一度予期せぬ段差にぶつかり、転倒しそうになった。知らない道を走るのはいいものだ。まさに旅であった。
イオンタウンまでは20分かかった。1階で東北物産展をやっていた。丸善書店は2階にあった。そこで「ニュースなカラス 観察奮闘記」という本を見つけた。鳥類研究者の樋口広芳氏の著作であった。
イオンタウンの中を少し見て、物産展で福島の赤唐辛子沢庵と山形のさくらんぼ羊羹を買った。あとで秋田の「いぶりがっこ」も買えばよかったと後悔した。
帰りは大通りを走った。マックスバリューへ立ち寄り帰宅した。初めてのポタリングであったが、電動アシスト自転車ならちょっと遠くへでも、坂があるところへでも行けるので、これからもポタリングを楽しもうと思う。
14日の朝日新聞に新型コロナウイルス禍の影響で3密を防ぐために自転車通勤が増えたという記事があった。記事によると自転車のシェアを進める会社もできたという。
専用アプリで駐輪場の場所や使える台数を確認でき、車体のQRコードを読み取ってロックを解除するのだそうだ。ITもこんな使い方があったのかと感心する。
使用料は最初の10分間は100円で、その後は1分で15円かかる。30分借りた場合、400円ということになる。駐輪場をどんなところに設置してあるのか知らないが、家かの近くに駐輪場があればよいがそこへ行く歩く時間、会社の近くに返す駐輪場があるかどうか、そこでの歩く時間も見ておかなければならない。便利さやコストはどうなのか、20代~40代に利用者が多いという。新しく自転車を買って通勤に使う人もいるだろうが、そのばあいも自転車を保管する場所か必要だ。
自転車は確かに便利で、私は学生時代から自転車を愛用してきた。名古屋を横断してアルバイトに行くとき、学校に行くときなどいつも自転車で駆け回った。就職してからも自転車で通勤し、片道1時間ほどでも自転車で行った。
65歳になって敬老パスが貰えるようになり、地下鉄が使えるところへは電車で行くようになったが、近場は今でも自転車を使っている。でも、以前の様にどこにでも自転車で行ってやろうというエネルギーはなくなった。最近は電動アシスト自転車をよく見るので、そろそろ1台買いたいと思うことがある。
私の自転車は退職後は8000円ぐらいで買っていた。その後値上がりしたので11000円程度になったが、安い婦人乗り自転車である。1回買うと4年や5年は乗れるから、年に2000円ぐらいのコストである。
名古屋市は保険が義務になったので自転車もカバーする損害賠償保険に入っている。車両代と含めて年に3800円ぐらいだから安いものである。保険が掛けてあるからと言って乗るときは慎重に運転している。この歳になると速く走る体力がないのでノロノロ運転である。
スーパーで食料品などをたくさん買ったときは、段ボール箱に詰めて荷台に括り付けて運ぶ。もちろん前かごもついている。同じ婦人乗り自転車でもシティーサイクルというのは荷台がついていないので買わない。そういう自転車に乗っている人を見ると使用価値が少ないのにと思う。
親戚の叔母は歩くのは不自由であったが、95歳で亡くなるまで自転車で動き回っていた。歩けなくてもペダルさえ漕げれば死ぬまで乗れるのだと知った。
何といっても自転車はエコロジーである。排気ガスが出ないから環境に優しい。それに自転車の乗ることで健康にもよい。
開田高原の後、中山道の奈良井の宿に向かった。奈良井の宿は19号線を通るときいつも通過したが、中山道に残る江戸時代の街並みを見たことはなかったので、楽しみであった。奈良井へ行く19号線の両側の山はどこもかしこも見事な黄葉であった。
19号線に平行して奈良井川が流れ、その向こうにJR中央線が走り、その向こうに重要伝統的建造物保存地区の街並みがあった。説明のよると、奈良井の宿は木曽路の中でも最大の難所、鳥居峠の北に位置し、土豪奈良井氏が居館を構えていた。交通のかなめとなる宿として繁栄した。徳川家康によって 中山道の宿駅が定められ、幕府関係者など公用旅行者や参勤交代の大名通行のために人馬を常備し、要請に応じて提供したり、通信の業務を果たした。その街並みが住民の努力で保存されたので、昭和53年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
バスは手前の権兵衛橋を渡った駐車場に入り、バスを降りて街並みへ歩いて行った。一見して江戸時代に戻った雰囲気で、奈良井駅まで続く街並みであった。見物時間は70分ほどと短かったが、私はゆっくりと歩いて左右の建物を見て歩いた。表札に「○○屋」という屋号が付いていた。帰りに立ち寄った店の主人に尋ねたら、この辺りは職人が多く、屋号を付けていたが、ない家も屋号を付けるようにしたのだと言った。
通りには観光客は少なかったが、外国人もちらほら歩いていた。彼らはどうやって知って来たのだろうと思った。両側の家は、土産物店の他に民宿や旅館も見られた。店は檜物細工、塗り物、塗り櫛、塗り箸などの木工製品が多かった。近世よりそれによって生計を立てていたのだ。木曽谷の住民に尾張藩より下賜された白木御免木6000駄中の1/4、1500駄が奈良井に充てられていて生産量は群を抜いていたのだそうだ。
百草丸を売っている店も多く、百草丸本舗という店があったので、尋ねたら、創業者の出身地だそうだ。現在の会社は木曽福島の方にあるという。私も百草丸を愛用し旅行には携行している。よく効くと思っている。
所々に、清水を飲めるところがあった。たいていは寺や神社の入り口であった。曹洞宗、臨済宗、本願寺の寺があった。木曽の大橋の近くまで行き渡ろうと思ったが、遠かったのでやめて引き返した。
途中でソフトクリームを売っている店があり、「さるなしのソフトクリーム」としてあった。その店に入りソフトクリームを食べた。1個300円であった。「さるなし」というのはどういう植物かと聞いたら、キウイの元祖で、日本や中国にある「さるなし」という果物が、ニュージーランドに行ってキウイになったのだという。初めて知った。「さるなし」は日本に今もあるが、最近では野生は少なく、栽培していると言っていた。
「そば茶」というのを売っていたので、珍しいので買った。蕎麦で作ったのだそうだ。帰宅してそば茶を飲んだら香りがつよく独特の味わいがあった。蕎麦の実も食べられ健康にもよいと感じた。
時間があれば中村屋などの建物の中に入って見学したかったが、できなかったのが残念であった。奈良井の宿に行くまでに有名な南木曽の街並み保存地区があるが、奈良井の宿もそれに劣らぬよい景観であった。
12日にvita主催の恒例のバス旅行に参加した。今回の目的地は木曽の開田高原と奈良井の宿であった。朝、8時に出発した。名古屋から東名、中央道を通って、中津川から国道19号線に下りて開田まで走った。19号線は車があったころよく走ったが、久しぶりであった。見覚えのある風景が懐かしかった。
開田高原には40年ぐらい前に、教育の勉強会の夏の合宿でよく行ったが、その時は一番奥の西野であった。今回は手前の開田高原観光案内所などがある末川へ行った。11時過ぎに昼食を摂る「つたや季(とき)の宿 風里(かざり)」という変わった名の旅館へ着いた。木でできた旅館でテーブルなど木でできた和食のレストランでの食事であった。
特別に注文したコース料理で、残念ながらお品書きはなかったが、写真のような料理が出た。レンコンを摺って作ったものとか、サツマイモをもとに作った小さなサツマイモとか、紙に包んで焼いた地元の鱒とか、いろいろと手の込んだ料理が出た。メインは飛騨牛をテーブル鍋で煮るもので、野菜が何種類も入っていて汁がとてもおいしくなった。
刺身やサラダにかけるソースも凝った手作りのものであった。ご飯は炊きこみご飯で、デザートはブドウやブルーベリーなどを少しずつ盛り合わせてあった。
こんな山奥のところに、和食を提供する素敵な料理屋があるのは意外であった。
宿からは正面に御嶽が望まれた。残念ながら頂上付近には雲があってはっきりとは見えなかった。昼食後は外に出て散策をした。紅葉というか一面黄葉であった。宿の人に聞いたら、白樺やダケカンバ、カラマツなどだそうだ。今年の紅葉は気温の関係で10日ほど遅かったが、そのおかげで今紅葉が真っ盛りでよかったと言っていた。散策する道筋にも黄葉した白樺がたくさんあった。
近くには木曽馬の里があったが、時間がないので見に行けなかったのが残念であった。木曽福島からバスはあるようだが、車がないと行きにくいところであった。天気に恵まれて、御嶽や全山黄葉を見ることができてよかった。
次の朝は雨が降っていた。朝食の前に土産物を買いに行った。ホテルの店なので種類は少なく、値段が高かった。朝食は前の晩と同じダイニングルームであった。朝はフランス料理か和食を選択できたが、私たちはフランス料理にした。卵料理はゆで卵かスクランブルかオムレツから選ぶようになっていた。私はフランス料理だからと思ってオムレツを選んだ。飲み物はパイナップルジュースを選んだ。パンは例によって焼きたてであった。最後はホットコーヒーにした。
朝食後部屋に戻り荷物をまとめた。チェックアウトまで時間があるので、館内を見て回った。別棟の屋上にプールがあり、その隣が池であった。この池は冬季には凍結するのでスケートリンクになるのだ。朝早いからかプールには誰も来ていなかった。山の傍にあるのでプールからの眺めがよかった。
ダイニングルームの隣の大広間を見た。結婚式などにつかうようであった。天井画があり、東照宮のような彫刻が欄間の辺りにあった。金谷ホテルの中には、至る所に東照宮を模した精緻な彫刻があり、眠り猫もあるという。ダイニングルームの主任に頼むともう一つの大きなダイニングルームに案内してくれた。その部屋にも立派な天井画があった。やはり彫刻で飾られていて、その中に東照宮の眠り猫のレプリカがあった。
この日は雨なので二荒神社や輪王寺を見に行くのはやめて、11時のシャトルバスで東武日光駅まで送ってもらった。浅草終点の東部日光線で北千住まで行き、JRに乗り換えて東京駅へ行くことにした。最初に乗ろうと思った特急列車は運悪く満席で買えなかった。それで次の臨時特急きりふりにした。
出発まで1時間半もあった。婿が湯葉を食べたいと言ったので、駅前の日光ホテルの隣の湯葉料理のレストランで食べることにした。私は湯葉丼にしたが予想外によい味であった。食べている間に雨が降り出したが、食べ終わるとやんだ。
臨時特急きりふりは座席の間隔が狭くて窮屈な感じであった。北千住までは2時間であった。北千住は大きな駅であった。特別のチケット売り場があったので、名古屋までの新幹線切符を買った。自由席は座れないといけないので指定席にした。1万2900円であった。
台風10号の影響をずっと心配していたが、新幹線は正常に動いていたのでホッとした。名古屋へは18時28分に着いた。雨が降っていたので鶴舞まで行ってタクシーで家に帰った。1330円であった。
今回の日光旅行は婿が金谷ホテルに招待してくれた。由緒あるホテルに泊まってよかった。3回目の日光東照宮もこれまでと違いゆっくりと回ることができ、家康の墓所も見て初めて来た気分であった。
朝食のオムレツ
屋上にある温水プール
スケートリンクになる池
フィットネスの部屋
プールからの眺め 建物は金谷ホテル
プールからの眺め
眠り猫のレプリカ 目が少し空いている
ダイニングにある天女の彫刻
湯葉丼
終点 東部日光駅
部屋でしばらく休憩したあと、シャワーで汗を取った。体がさっぱりした。それからギャラリーへ行って金谷ホテルの創業以来の写真を見た。金谷ホテルは明治6年に造られたのだが、交通の不便であったであろう明治に洒落たホテルを造り、そこには多くの外国人が訪れていた。
ホテルの廊下にもホテルを訪れた有名人の写真が飾ってあったが、東北地方を旅行し旅行記を書いたイザベラ・バードの写真から始まって、夏目漱石や大西洋横断飛行をしたリンドバーグ、エレノア・ルーズベルト、湯川秀樹など内外の著名人が宿泊したことが分かる。
本館の隣に昔の面影を残す旧館がありその中を見に行ったが、客室だけであった。ホテルの庭に森があって散歩道があったが、驚いたのは注意書きであった。「山ヒルがいるので気を付けるように」とあちこちに書いてあった。後で支配人に聞いて分かったのだが、福島の原発事故で150キロ圏内の日光辺りの鹿が獲られなくなり数が増えたのだという。その鹿に山ヒルがくっついて来るのだそうだ。
細い道を気をつけて歩いた。下に降りると大谷川に出たが、一面に川霧が立っているのは変わりがなかったが、あのきれいな川の水が土色に濁っていた激しく流れていた。上流で大雨が降ったに違いない。婿は川まで下りて行ったが、私は「鉄砲水が来るかもしれないから川に近づかないように」と注意した。私は山ヒルに食われなかったが、婿は次の朝足に山ヒルが食いついているのを見つけた。
ディナーはダイニングリームで18時からであった。私たちは18時に行った。外がよく見える席を取った。ディナーはフランス料理のコールで魚料理と肉料理があった。肉料理にも魚がつくというのでそれにした。メニューは下の写真を。私はビーフ、霧降高原フィレ肉のステーキ、婿はポークでひみつ豚のモッツァレラにした。「ひみつ豚ってなんだろう・」と思った。金谷ホテルのパンは焼き立てを出すと言っていたが美味しかった。
ディナーの後、バーへ行った。60才ぐらいのバーテンダーが一人でやっていた。何でもシングルモルトのウイスキーが200種類くらいあるということで壁いっぱいにボトルを並べてあった。
最初に氷室の氷の塊にマッカラン18年物のオンザロックを飲んだ。婿がもう1杯と勧めたので、隣の席の人が美味しいと言ったラフロイグ10年を飲んだ。婿は飲めないのでコケモモのミックスを飲んだ。バーテンダーは20年もやっていると言ったが、しゃべらない人で面白くなかった。
婿の説明によると日光には氷室に蓄えた氷があり、それを使って作るかき氷で有名な「日光コーヒー」という店があると言った。探しながら歩いていくとその店があった。
店の前に順番を記帳するノートが置いてあった。店の女性が「1時間ぐらいの待ちです」と言った。「順番が来たら携帯電話でお呼びします」と言った。店の中には空いた席が3つあった。婿が何とかならないかと聞いたが、携帯に知らせるの一点張りであった。雨が降っているのでどこかを歩くのが嫌で店の中に立っていた。
疲れてきたので隅の椅子に座ったら店員にそこは予約席だと言われた。客が来るまで座ってもよいではないかと思った。客は他に行っていて携帯に連絡があると戻ってくるのでテーブルは空いたままであった。かなり経って3人が来て6人のテーブルに座った。さらに時間が経って4人の席に2人が来た。少したって4人の席に2人が来て店内は満席となった。30分あまりたって4人席の二人の客が出て行った。そこへ2人の客が呼ばれた。
結局小1時間待たされてやっと席に着くことができた。4人席であった。天井が吹き抜けでどこからか風が来るちょっと寒い席であった。カキ氷を食べる気にはならなかったが、珍しいかき氷だというので宇治金時を注文をした。他の客は食事をしている人もいれば、コーヒーとかジュースとかを飲んでいる人もいた。
ウエイトレスが水を運んできたときに、その女性に言った。「店の前かどこかに待つ人のための椅子を置くこと。4人のテーブルだがみんな2人が多いのでテーブルを2人用にして、3人とか4人来たらテーブルをくっつければよい。また携帯に呼び出すのはよいにいしても遠くまで行っていて戻ってくるのに時間がかかる」とアドバイスをした。
この店はインターネットなどで知られているらしく、繁盛していて、客が来ては店の外の順番待ちノートに名前を記していた。私たちが店に入る前から外でずっと待っている外国人女性が二人いたがその人たちは辛抱強く1時間も待っていた。
このカフェは古民家を改造した感じで木造で梁などがむきだしであった。テーブルも古い裁縫台を転用したようであった。雰囲気としては5月にNHKハルさんのカフェで紹介された西荻窪のカフェに似ていた。しかし、西荻のカフェは外に椅子が置いてあり、テーブルは2人用のものが基本で4人のときはくっつけていた。私がウエートレスにアドバイスしたときに、その店のことも話した。
ところで肝心のカキ氷だが、大きな器に細かく削った氷が盛ってあった。口に入れるとふわふわであった。ところがカキ氷は1分あまりすると半分ぐらい融けてしまった。融けるのが速くて味がついた融けた氷水を飲む感じであった。氷室の氷が売り物だが、値段は・・・・・何と1200円であった。人生で食べた一番高いカキ氷であった。
店を出ると雨が降っているのでホテルに戻ることにした。国道に出ると相変わらず渋滞が激しかった。大谷川に沿って歩いていった。川は全面的に川霧が立っていて見事な光景であった。
神橋まで来ると風鈴がぶら下がっている神橋を渡りたかったが、300円と書いてあったので諦めた。急な石畳の坂を上ってホテルに戻った。
若い女性の係りが荷物を持って部屋へ案内してくれた。インターンシップ中だと話した。部屋のドアの鍵は鍵を回して開ける旧式であった。部屋は3階の11号室で窓からは右手にシックな旧館が見られ、下は芝生や林やプロムナードが見られた。そのむこうに遠く男体山などが望まれた。
部屋は改装されたようだが、ところどころに以前のものが装飾的に使われていた。机は木製の古いものであった。外の緑あふれる景色と相まって落ち着ける部屋であった。
鳥居をくぐって進むと東照宮境内に入り、拝観受付のある山門をくぐった。歩いて行くと右手に象を描いた彫刻のお堂があった。想像で作った象という。左手に神厩舎という神馬を入れる建物があり、有名な「三猿の彫像」があった。サルは他にもいくつかあったが、「見ざる、言わざる、聞かざる」の部分がよく知られている。作者は左甚五郎といわれるが定かではない。
鳥居をくぐって行くとあの有名な陽明門だ。陽明門に来るのは3回目であった。豪華絢爛で精緻な彫刻が施され、「日光を見ずして結構というなかれ」と言われている。東照宮の建物はこれ以外にも精緻な彫刻を持っている。唐門の前を通り、東回廊で眠り猫を見た。この猫は修復されたがそのとき修復師が目があることに気づきその通りにした。でも、目が開いているのはおかしいという意見が多く、眠っている目にされたという。眠り猫は小さい。その裏側に雀の彫刻があるのだが、行きには気づかずであった。
その後家康公墓所のある奥社御宝塔へ向かった。最近公開されるようになったのだ。竜道という石段を登っていくのだ。全部で270段あると書いてあった。ふうふう言いながら一段ずつ登ったら、どこかの女性たちが私のほうを見て「頑張ってる」と感心していた。その女性たちもしんどかったようだ。
そこからまもなく御宝塔前に出た。自動販売機があって婿がお茶を買ってくれた。ベンチが置いてあったのでそこに座り、冷たいお茶を飲んでほっとした。そばに冷たい山の水が出ている水槽があり、婿はそこで顔を洗って気持ちがいいと言っていた。270段の石段を登って着て自販機があるのは有難かった。
建物の前では次々に来る人の流れを止めないために神官が「右へ進んでください」と誘導していた。それでそちらに進んだ。建物の裏側に御宝塔があった。一回りして元のところに戻った。
帰りは下りだから割合よかった。小さな子供や赤ん坊を抱いた女性なども登っていて驚いた。竜道を下りると眠り猫があるところに来た。婿が雀の彫刻を教えてくれたので見ると雀が遊んでいた。猫の嫌いな雀が遊ぶのは平和なことを表しているのだとか。
その後右手に進み拝殿に入った。中には50人ほどの人が座って説明を聞いていた。私たちは外で待っていた。堂内に入る人数を制限しているのだった。10分ほどで中に入れた。一番前に座った。説明によると、一番前の畳は80万石の大名が座れ、その次から10万石ずつ減っていくのだそうだ。説明が終わると言われるとおりに合掌をした。
終わって一段下の本殿に行ったが、その部屋には御三家や御三卿しかはいれなかったそうだ。そこを通って下のところに戻った。回廊を回って陽明門に戻った。小便がしたかったのでお札を売っている人にトイレの場所を聞いた。仁王門の近くにあった。雨が降り出していたので、しばらくそこで雨宿りをした。目の前に五重塔があった。
その後婿がカキ氷の有名な店に行きたいと言ったので輪王寺を見るのはやめて右手の間道へ向かった。地図によるとその方が近かった。
想像の像
三 猿
陽 明 門
陽 明 門
眠り猫
雀
奥社宝搭
14日の朝4時半ごろに起きた。東京は曇りであったが、日光の天気はどうなのか気になった。タクシーは6時20分に迎えに来た。三鷹駅から新宿へ行った。新宿で東武日光行きに乗り換えた。「日光1号」という特急で成田線と同じホームから出た。この列車は成田エキスプレスの車両を改装したもので、華厳の滝や中禅寺湖をイメージしたブルーシートで座席の間隔が広くゆったりしていた。ちなみに奇数車両のシートは紅葉をイメージした橙色だ。シートは成田エキスプレスのグリーン車と同等だそうだ。東武日光駅まではちょうど2時間である。
7時36分に発車した。日光1号はJR線を走り、途中栗橋で東武線に入るのだ。また栗橋では電流の交直切り替えがあった。沿線は栃木県近くまでは住宅が続いていたが栃木に入ると田園風景が見られ、遠くのほうに山並みも見られた。下今市で鬼怒川方面と東武日光方面に分かれていた。
東武日光駅には9時36分に到着した。曇りだが暑かった。金谷ホテルの送迎車が来たので10時の出発まで車に乗せてもらった。ホテルへ行く客は私たち2人だけであった。
その日中禅寺湖へ先きに行った方がよいか運転手さんに尋ねたら、道路が来るまで渋滞してほとんど走れないくらいだから時間がかかることを覚悟しなければならないと言った。それで中禅寺湖へ行くことは諦めた。
ホテルまでの道も車が続いていて時間がかかった。10時40分ごろにホテルに着いた。ホテル正面のローマ字のKANAYA HOTELは明治6年の創業当時からのものであった。回転式のエントランスから入るとロビーは狭く、フロントも小さくて創業以来のものだと思われた。ベンチが置いてありそこでチェックインが済むのを待った。
ホテルに荷物を預けて、外に出ると傘が置いてあったので有難かった。まだ雨は降っていなかったが、折りたたみ傘よりすっとよい。東照宮へ向かった。ホテルから道路まではかなりのきつい勾配の石畳の道であった。途中に星の宿というホテルがあり、ステーキハウスがあるのが不思議であった。
道路に出ると車で渋滞していた。左へ曲がって歩いていくと赤い橋が川に架かっていた。後で分かったのだが「神橋」という東照宮へ行く重要な橋であった。橋には風鈴が吊るしてあり風鈴祭りとかいてあった。その橋を渡るには何と300円払わなければならないのだ。誰も渡っていなかった。
私たち観光客は手前の橋を渡った。川は岩がいっぱいで傾斜があり急流であった。驚いたことに川霧が発生してとてもよい眺めであった。みんなは写真を撮っていた。橋を渡るとメーンロードで車が渋滞していた。信号があったが車が止まっているとき横断していた。
東照宮の石碑が立っていて上り口だと分かった。人々が列をなして急な石段を登っていた。日光開山の勝道上人の像が立っていた。大きな道に出た。歩いていくと大きな御堂があり、さらに行くと石段の上に金堂があった。金堂を過ぎて大きい鳥居が見えた。東照宮の石碑が立っていた。鳥居への道は人の列が続いていた。雨が降っているのにずいぶんの人出だと思った。
日光1号
日光金谷ホテル
神橋と大谷川の清流
日光の開山 勝道上人像
金 堂
東照宮鳥居
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