落語論―堀井憲一郎著―を読む
私は、落語が好きで、東京に行くと必ず寄席に寄って落語を聞く。新宿末広亭など昼席もしくは夜席でも色物を交えてかなりの長い時間楽しめて料金も安い。
名古屋で落語を聞こうとすると、数千円はする。だからなかなか聞きにはいけないので残念である。
先日、図書館に行ったら、新刊書の書架に「落語論」(堀井憲一郎著、講談社新書)を見つけた。面白そうなので借りてきた。
読み始めてみるとユニークな落語論であることがわかった。いきなり落語はライブとして存在すると言うのだ。
引用する。
「言葉は落語の一部にすぎない。
落語について語る。
落語とは、ライブのものである。
会場に客がいて、その前で演者が喋る。それが『落語』である。
場。客。演者。
このどの要素が落ちても落語は成立しない。それが落語なのだ。」
オチまでついている。それはともかく私も賛成である。落語はやはりライブがいちばんである。もちろん音楽だって演劇だってライブがよいに決まっている。でも、落語はライブであるべきだということを思っていない人が意外に多いように思う。
子どもの頃は、粗末な真空管式ラジオで落語を聞いたものだ。その頃、有名な落語家であった、柳昇、円生、文楽、志ン生、金馬、歌笑・・・・。いろいろな落語家の落語をラジオで聞いて楽しんだ。田舎に住んでいたし、ラジオしか聞く手段がなかったのでから仕方がない。
テレビなら演者の仕草を見ることはできるが、ラジオだから演者の仕草を見ることができない。それでも噺しぶりや落語の筋(著者は落語にはストーリーはないというが)が楽しかった。
大人になってたまに落語をライブで聞く機会があると、楽しさは格別であった。だから落語はライブであるべきだという論には納得するのだ。
寄席に行くと、めくりがあって、縁者の名前だけが書いてある。いつも不思議に思ったいたが、落語というものは、演者が高座に上がって、その日の客の様子を見て、何を話すかを決めるのだとどこかで聞いて知った。
この本によると、落語の題名なんてないのだという。前の人が何をやったかを後の演者が知るために適当に名前をつけてあるだけだという。演題は符丁だというのだ。なるほどと思った。
落語には正しいテキストはないということも初めて知った。「・・・・のような噺」があって、それに演者が脚色をするもののようだ。だから演者によって噺が異なっている。古典落語とはそういうものだのだそうだ。
登場人物のキャラクターというのもないのだという。言われてみればそうかもしれないと思う。これも演者が好きなように脚色するのであろう。
落語にはたいていオチ(下げ)がある。でも、これも重要なものではないのだという。客に終わったぞという合図なのだそうだ。まあ、オチがあると余計に面白く感じるように思うのだが。
「目の前にいる客を何とかしたい、という気持ちが落語そのものなのだ。」だから落語を聞かせられるのはせいぜい100名から200名か適正な人数だという。「この人たちをどうにかしたい、という気迫と意識が落語をいろんな形にしていく。その落語家の発する"気”をどれぐらい受け取れるかが、落語のおもしろさなのだ。」と書いている。
林家三平などはその”気”だけでもっていたのかもしれない。それにしても”気”を受け取るのだとすればまた落語の聞き方も違ってくると思う。
ここまでは、まだ第1章の範囲である。この後の落語論を読むのが楽しみである。
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名古屋の松坂屋美術館で19日まで開催されている「迷宮への招待・エッシャー展」を見てきた。

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