大地震の経験
元日の能登半島地震から2週間が経った。毎日テレビや新聞では被害の状況が報道されている。海底が隆起するなど地殻変動の大きな地震であった。輪島では朝市の街が消失した。未だに家屋の被害の全容が掴めていない。
17日には阪神淡路大震災から29年が経った。新聞には能登半島地震と共にという約4000個の祈りの紙灯篭の写真が載った。阪神淡路大地震は私の教員生活が終る直前であった。
戦時中、戦後とも新宮市に住んでいた私自身の大地震の経験としては、1回目が1944(昭和19)年12月7日午後1時に発生した東南海地震海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震である。国民学校3年生でちょうど授業中であった。地震が起こると担任の先生が机の下に隠れろなどと指示をだした。ところが一人の子が教室を飛び出して階段を下りていったが、転んで転がり落ちて行った。
地震が収まると運動場に集まり下校したが、途中倒壊している家があった。二階建ての家は二階部分が下に落ちているのがあった。幸い我が家は少し壊れただけであった。戦時中なのでこの地震は秘密にされたという。
戦後の昭和46年12月21 日 4 時 19 分、和歌山県潮岬沖約 78km、深さ約 24km を震源とするマグニチュード 8.0 の大地震が起きた。
夜なかに寝ていると大きな揺れが来て一旦布団にもぐりこんだが危ないと思って小さな庭に飛び出した。神倉山という山の方を見ると、山が光で輝いていた。
地震が収まると近所の人たちと近くの畑に避難した。布団を持ち出して土の上に敷いた。幸いこの地震では家は一部壊れただけで近所の家も1軒が半壊になっただけであったが、確か街の方は火災で焼けたと思う。私の小学校の講堂は避難所となった。
その他三河地震や福井地震なども経験している。
今怖れているのは南海トラフ大地震だ。いつ来てもおかしくないと言われており、今回の能登半島地震との関連性などの記事もある。
もし、名古屋市で南海トラフ関連の大地震が起きたらどう対処するのか。行政は対策を用意しているのだろうか。能登半島の小さな市町村でも大変なのに名古屋のような大都市だと大混乱は必至である。
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今回もまた、水が無い、食料が無い、電気が来ない等々が2週間過ぎても続いた地区があった。
阪神淡路、東日本、熊本と巨大地震は繰り返され、台風による大規模災害も毎年のようにどこかで起こる日本であるにもかかわらずである。
老大家扱いをされる某女流作家は、災害のたびに行政の支援を当然のように考える国民を批判して「甘えるのもいい加減にしてほしい。自分が生き残るための水や食料を1週間分以上準備しておくのは当然のことである」調のお説教を雑誌などでたびたび並べていた。
たしかに準備するに越したことはない。しかし備蓄してあった家が押しつぶされてしまえば、押し流されてしまえば、あるいは外出中に巻き込まれて自宅へ帰れなくなれば「自助」もへったくれもないことは子供でもわかること。
能登半島はもともと地形的に往来がしやすい土地ではなく、それに加えて地震の影響で海岸線が激変し、主要道路も寸断されてしまったため現状確認が極めて困難、などという理由というか言い訳も聞こえている。
しかし能登地方では近年震度5前後の地震が続いていて警戒されていたはずである。山が崩れ道路が地割れを起こした時にどのように救援活動を進めるかのシミュレーションを関係部局が積み重ねていなければならなかった。防災服を着ることだけは好きらしい岸田首相は担当大臣に指示していたのか。
2015年に鬼怒川が決壊し埼玉県で大災害が起きたのが原因かどうかはわからないが、あの後こちら神奈川県では自衛隊なのか警察なのか海上保安庁なのかヘリコプターが市街地上空で訓練と思える旋回飛行を頻繫に繰り返している。極めてうるさいが災害に備えてではないのか?
投稿: たりらりら | 2024年1月19日 (金) 18時05分