突然頭に浮かんだ手毬歌
先日のことである。突然子どもの頃の手毬歌「一番初めは一宮・・・」が頭に浮かんだ。小学校の低学年の頃近所の女の子たちがゴムまりをついて遊んでいた。その時歌っていたまりつき歌がいくつかあるが、その中の一つである。
ただ、歌詞は3番までしか思い出せないので確認のためにネットで調べた。その歌詞は、
一番はじめは一宮
二また日光東照宮
三は佐倉の宗五郎
四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つは成田の不動様
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さん
十で東京明治神宮
これほど心願かけたのに 波子の病は治らない
ゴウゴウゴウゴウ 鳴る汽車は 武男と波子の生き別れ
二度と会われぬ汽車の窓 泣いて血をはく不如帰
この歌は全国各地で歌われ、歌詞もいろいろあるようだ。私が育った南紀新宮で覚えたのは上の歌詞とほぼ同じであった。
小学校高学年の女の子たちは、上手に毬をついて最後にスカートの中に入れていた。
Wikipediaによると、「明治後期から昭和時代にかけて、全国で歌われていた手まり歌・お手玉歌のひとつである。
曲は明治時代に日本軍隊の指導のために来日したフランス人が作曲した軍歌「抜刀隊」のメロディーを借用したものであるが、リズムは手鞠歌によく見られるピョンコ節になっており、メロディーも歌いやすいように変えられていることがある。」とあった。
10のあと突然歌詞が変る。私が覚えていたのは、「ゴウゴウゴウゴウ 鳴る汽車は 武男と波子の生き別れ」の部分だけである。どうしてこのような歌詞が現れたのかについて、Wikipediaは「徳富蘆花の小説『不如帰』をモチーフにしている。本来は10行目までで終わりになっていたのが、1908年(明治41年)前後から『不如帰』が劇として各地で上演されることが多くなったのを受け、舞台を鑑賞した年かさの女児が、後を付け足したものと思われる。」と説明している。
何時の頃からかマリつきの遊びを見なくなった。私の子どもの頃は盛んに遊ばれていたものだが。
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