8月15日終戦の日
8月15日は76回目の終戦の日である。終戦記念日でもなく、敗戦の日でもなく、終戦の日というニュートラルな名付けである。
日本軍部の過信による無謀な、武士道精神にももとる卑怯なハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったが、広大な国土と豊富な資源と巨大な工業生産力を持っている米国相手では、横綱に幕下が闘いを挑むようなものであった。勝ったのは最初のうちだけですぐに負け始めてしまった。
天皇が現人神とされ、天皇に逆らうことは不可能であった。マスメディアも大政翼賛の名のもとに戦争を賛美する役目を担わされた。
鬼畜米英と叩き込まれ、欲しがりません勝つまではと銃後の民は我慢を強いられた。新聞やラジオは連日我が日本軍の赫赫たる戦果を大本営発表の名のもとに伝えた。大人はどうであったか知らないが、我々子どもは戦果のニュースを信じ、日本軍を誇りに思った。
思えば太平洋戦争を少しでも経験した者は僅かとなった。私が国民学校1年のときに太平洋戦争が始まり、20年の敗戦まで4年間の戦争を体験した。
サイパン島が米国のものになってから日本本土にB29が飛んでくるようになり、私の住んでいた新宮市は陸の孤島と呼ばれた田舎であったが、近くに最南端の串本町の潮岬があり、そこを目指してB29が飛来した。そして夜も昼も上空を爆音を響かせながら飛んだ。
空襲警報が発令されると、夜中に飛び起きて防空壕に飛び込んだ。我が家の小さな庭には父が造った防空壕があったが、名だけのものなので近所の空き地に造られた共同の防空壕を利用した。
学校の行き帰りにはいつも防空頭巾を携行した。以前にも書いたと思うが、そのうちに太平洋から艦載機が飛来するようになり、機銃掃射の音を聞くこともあった。米国は日本の都市をすべて空爆したから、我が新宮も例外ではなかった。帰途に就くB29が残った爆弾や焼夷弾を捨てていくのだという大人がいた。
そんな中でも我々小国民は意気軒高としていた。日本軍は勝つと信じ込まされていたからだ。それが真っ赤なウソであったことを知ったのは8月15日の敗戦の日であった。
以後平和がどんなに大切なものかを身に染みて知り、戦争は2度とやってはならないと思い、平和を守り事が大切だと考え行動してきた。東京や名古屋などの大都市のような悲惨な体験はなかったが、田舎町でも毎日が恐怖の生活であったことは間違いない。ささやかな戦争体験であるが、私も間もなく86歳。戦争を知る世代がどんどん少なくなっていくのはどうしようもない。自然災害と違い戦争は人間が起こすことである。今も世界では武器を使った争いが行われているところがある。国連は戦争をなくすためにつくられたと思うのだが、十分に機能していないのが残念であるが,一人一人が2度と戦争を起こさないと心に決めることが大切だと思う。
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