「あの世」について
朝日新聞9日朝刊の「寂聴 残された日々」というエッセイは「書き通した『百年』」という題で書いている。
九州の大雨に触れた部分で「テレビに映る町を埋める大水や、屋根の吹き飛ばされた人家を見ると、平安時代の大雨の民衆の姿を見ているようで、気が遠くなる」と書き、そのあとに以下の分が続く。
「ふと気が付くと、こんな時、すぐ電話で便りを問いあった親しい身内やなつかしい友人のほとんどが、今はいない。彼等の命は果たしてあの世とやらで、互いにめぐりあえているのであろうか。やがてそちらへ行きつく自分は、先に行ったなつかしい人たちに、果たして逢うことが出来るのだろうか。
出家して、47年にもなるが、正直なところ、あの世のことは何一つ理解出来ていない。親しい人、恋しい人はほとんど先にあの世に旅立ってしまい、あの世からは、電話もメールも一切来ない」
寂聴さんが「あの世」について触れたこの部分を読んだとき、「アッ!?」と思った。寂聴さんは出家して47年の天台宗の僧侶である。京都の寂庵に住んで、作家活動の傍ら全国を飛び回って大衆に説法をしている。私は1度も聞いたことはないが、大変人気があるようだ。
おそらく仏教に基づく講話をしているのであろうが、その中で「あの世」のことも話しているのではないか。なぜなら「あの世」は仏教にとって中心の命題だからである。
日本の仏教ではどの宗派も死ねば「あの世」に行けると説いているはずである。「彼岸」というのは「あの世」のことである。
宗派の違いは「あの世」への行き方の違いであると私は解釈している。例えば天台宗から出た法然や親鸞などは「南無阿弥陀仏」を唱えることによって「あの世」に行けると説いた。
俗説では「あの世」は「極楽浄土」とされ、仏教伝来以来天皇や貴族は極楽浄土に「往生」出来ることを願って東大寺や宇治平等院のような大きな寺院を建立した。
「あの世」について寂聴さんが何も知らないと書いているのは興味深いが、実は誰にも分からないのである。死後の世界があるにしても「現世」に戻った人がいないからだ。
「あの世」つまり「極楽浄土」に「往生」できることは人々の願望なのである。苦楽の多い「現世」から解放されて、死後は永遠に極楽で生きながらえることが出来ることを信ずることによって、「現世」での心の安寧を得るのだ。
釈迦は「あの世」については語っていない。「涅槃」つまり「悟り」の大切さを説いたと理解している。寂聴さんは「悟り」を得ていると想像するのだが。
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今多くの寺が住職がいない無人寺や一人で複数の寺を掛け持つ住職が増えて、葬式も家族葬が増え、回忌法要をする家も少なくなって、墓を守る人がいなくなり墓終いをせざるを得ないという話もよく耳にします。あの世にあるという極楽も地獄も、生きているこの世にこそあるのだというのも納得します。
何を信じるかは信仰の自由であり人それぞれですが、それで安らかな心で過ごせるならいいのかも。
昔は死後の世界に希望を持たなければ生きてゆけないほど現生の生活があまりにも過酷だったとも思えます。葬式仏教と言われたお寺も後継者がいないことや檀家の数が少なすぎて食べてゆけないのと、檀家の寺離れが加速しているようですね。時代の流れと言えばその通りですが、亡くなった人の想いを大切にすることもまた大事なことだと思います。私自身はずっと無信心ですが、亡くなった親の気持ちは大切に受け継ぎたいと思います。もちろんお金集めだけが目当ての宗教やカルト宗教、票集めだけが目当ての政教分離に反する宗教には興味がありません。
投稿: danny | 2020年7月13日 (月) 09時17分