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2020年2月 6日 (木)

昭和・平成前半の頃の教育現場

 「ニュースパス」を見ていたら、「昭和生まれが経験した学校の"常識"『教室で先生が喫煙』『真夏に休憩せずに部活していた』」という記事があった。それに触発されて書いた。
 

 私が教員になったころは、たしかにたばこの好きな教員は教室で煙草を吸っていた。職員室で煙草を吸うのは当たり前で、そこここで紫煙がたち上っていた。私は煙草は吸わないが伏流煙をいつも吸わされていた。
 

 「先生がチョークとか黒板消し投げたりしてた」これも私が中学生高校生の頃よく目にしていた。教員になっても投げつけている教員がいた。
 

 戦後でも体罰に関する考えは戦前を踏襲していて、5年生の頃、復員した教員が「鉄拳制裁」というあだ名で恐れられていた。私も一度叩かれそうになったが叩かれなかった。

 頭をコツンとやるのは誰もやっていて、おでこをパチンとはじく教員もいた。女の先生でも長い物差しでパチンとやる人がいた。

 体罰は容認されていて父母からも何も言われなかった。というより「先生厳しくしてやって下さい」と体罰をやるように言う父母も多かった。

 廊下で立たせるとか、水の入ったバケツを持って立たせるというようなこともあったし、罰に廊下の雑巾がけを50回などというのもあった。

 体罰について厳しく言われるようになったのはいつ頃からだろう?私の記憶では退職する間際まで体罰があったように思うのだが。

「給食残せない。昼休みでも授業始まっても食べ終わるまで食べさせられる」さすがに授業が始まっても食べている子どもを見たことはないが、私もある女の子に厳しくしたことがあって、今でも思い出すと胸が痛む。
 

 ただ、私は自分食べられる量を盛り付けてもらうようにさせていた。私が退職まじかになって、クラスに甲殻類アレルギーの子がいて驚いたことがある。それまでは食物アレルギーについては全く聞いたこともなく、子どもたちも好き嫌いは別として何でも食べていたからだ。

 「予防接種の注射針が使いまわし。よく無事だったと思う」というのがあったが、校医が毎年注射をすることがあったが、注射針はアルコールで消毒して確かに使いまわしていた。使い捨てになったのはずっと後のことだと思う。

 昔は熱中症などという言葉はなく、真夏の日差しの中で顔も体も真黒く焼くのがいいとされていた。だから炎天下でも部活も認められていた。ただ、水分を摂ると疲れるという理屈で、水分補給が制限されていた。今では信じられないようなことであった。
 

 今でも忘れられないのは、バレーボールの試合について行ったとき、指導教官が試合の前に昼食を食べさせなかったことだ。私は時間も十分にあるし、食べさせた方が力が出ると思ったのだが、その教師は「食べると力が出せない」と言っていた。
 

 昔は今と違って信じられないようなことが教育現場で当たり前のこととしてまかり通っていたのだ。

 

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