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2020年1月 2日 (木)

NHK「偉人たちの健康診断 ベートーベン、第九誕生 難聴との闘い」がよかった

 70歳のときに合唱を始めて、合唱団の指揮者の紹介で、中川区制70周年の第九合唱団に加わって、初めて第九を歌って以来、第九を歌うのが楽しみになった。交響曲第九を作曲したベートーベンが、音楽家として致命的と思われる難聴に苦しみながら作曲を続け、第九を作って3年後に亡くなった。偉大なる作曲家ベートーベンの難聴について取り上げたのがNHKの「偉人の健康診断 ベートーベン、第九誕生 難聴との闘い」であった。

 ベートーベンは宮廷音楽家の父ヨハンの子としてドイツのボンで生まれた。父親の英才教育により13歳の時宮廷オルガニストになった。当時宮廷音楽家は貴族たちのために貴族の望む音楽を作り演奏する職人であった。その地位は低くコックなどと同じ使用人であったそうだ。

 ベートーベンはそんな音楽家に疑問を抱くようになった。ベートーベンが18歳の時フランス革命が起きた。それに触発されて「僕の芸術は僕と同じ貧しい人々の運命の改善に捧げなければならない」(親友ヴェーゲラーへの手紙)と考えた。そこでオーストリアのウイーンに行った。

 そして出版社と契約して楽譜を売るというやり方をにした。また、コンサートを開き、入場券を売って音楽を市民に開放した。コンサートでは5万円もする高い席もあったが、ほとんどは安い席で最低は3500円であったという。演奏会に革命をもたらしたのだ。貴族のための音楽から市民のための音樂へと転換させたのである。

 ベートーベンが難聴を発症したのは20歳代であった。将来を嘱望された演奏家であったが、作曲家として生きることにしたのであった。彼は難聴と闘わなければならなかった。ボンの彼の生家の博物館には、ベートーベンが使った金属製の補聴器が残っているが、難聴が進むにつれて大きく重くなった。

 ウイーンの隠れ家だった博物館にはピアノが残されているが、鍵盤の前に蓋がなく、直接音が聴けるようになっていて、その上を大きな反響板が覆っている。そこに頭を入れて音を聴いたのだ。

 難聴を治すために良いと言われたことはいろいろと試したそうだが、どれも役に立たなかった。ベートーベンは自殺を考えたが、踏みとどまった。弟に当てた手紙(1802年)で「僕は自分に課せられている使命を果たすまではこの世を去ることはできない」と書いている。

 難聴は年と共に悪化したが、それと共に高音を避け聞き取りやすい低音と中音を使うようになった。彼は「人の話し声は聞こえるが意味がさっぱりわからない」と言っていた。それを現代医学で検討すると「内耳の高音を聞き取る部分が壊れたからだ」という。病名は若年発症型両側性感音難聴ではないかと言われる。日本には約4000人いると言われる。

 その彼が最後の交響曲第九では超高音を使っている。どうしてそうなったのか。ベートーベンは第九の第4楽章に「合唱」を入れた。合唱の言葉によって音だけでは表せないメッセージを伝えたかったのだという。彼はシラーの詩を使った。

 その中に「時の流れが厳しく分かつものを喜びの神秘的な力が再び結ぶ」という1節がある。「時の流れが厳しく分かつもの」とは「身分や階級の差別のこと」だという。「喜び」とは「自由」のことで「自由」を使うと権力ににらまれるので「喜び」(Freude)を使っているのだという。

 第九の合唱の中で非常に高音の部分があり、ソプラノ泣かせでもあるが、バスでも高くて私など出せ音がある。それほどの高音を使ったのは全世界に呼びかけるためにあえて使ったのだという。さらにベートーベン自身が聴くことができなかったので理想とする音を使えたのだと解説していた。

 第九の合唱は体力がいるが、歌った後は気持ちがよい。自由と平等と愛のメッセージを自分自身や聴く人に訴える素晴らしい合唱である。

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