英語が世界共通語になると思考も奪われる?!
朝日新聞2月3日の朝刊「日曜に想う」欄に「バベルの塔 ふたたび?」という大野博人論説委員の記事があった。
バベルの塔は知っていたが、その塔の建設を阻むために神はそれまで一つであった言語をバラバラにした。それで共同作業が無理になり建設は挫折したと旧約聖書に書いてあるというのだ。
もともと人間の言語は一つだったというのは神話の世界の話しで、人間の世界の発達からみればそんなことはあり得ないということが分かる。
ところが21世紀になって英語が世界共通言語のような役割を果たすようになり、日本でも中国でもその他の国でも幼少の頃から英語を学ばせるようになり、学校教育の大事な学習項目と位置付けられるようになった。
人類は「英語」という一つの言語に収れんしていくかのようである。つまり、神の怒りを買う以前の状態に戻ろうとしているかのようだ。
「言語伝達手段説」というのがあり、言語の一番の働きは「意思の通達」だというのだ。しかし、この考えは大事な点を忘れさせている。それは言語は「思考・判断・認識」を担うということだ。
我々の脳の中では絶えず無意識のうちにも思考し、判断が下され、認識されるが、それは言語を使って行われるということである。その結果を伝達するのも言語である。大事なのは思考・判断がさきにあり、伝達は後だということだけで、両方の働きが大事なのだ。
記事では、お東京大学副学長の石井洋二郎氏の次の言葉を引用している。
「言葉はコミュニケーションツールであるとともに思考そのものです。日本語なら考えられることが、英語では考えられないということがあります。外国語なら日本語と違うことを考えることもできます」
言語にはそれぞれの文化的背景や世界観があると大野論説委員は書いているが、だからこそ英語民族と日本語民族はそれぞれ独自の思考・判断・認識をするのである。
私のような英語がうまくない者は日本語で考えて英語に載せて話そうとする。英語的発想が苦手なのだ。
旅行英語のような簡単なことなら伝達手段としてだけでよいが、ビジネスや政治や学問などが絡んで来るとそうは行かない。
英語が世界共通語とされると英語的発想や思考や判断が求められることになろう。そのとき我々のアイデンティティそのものまで英語に支配されてしまうのではないかという危惧を感じるのである。
神が罰として多様な言語を人間に与えたのは正解であったのではないか。英語に支配されないことを考えて英語を学ぶことが大事なのではないかと思うのだ。
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2月21日は「国際母語デー」なのだそうです。ユネスコという美名にはどことなく胡散臭さを感じてしまうのですが、言語と文化の多様性を推進するという目的はまっとうなものと言えます。
これからの時代、日本の人口の1割くらいは外国語、とりわけ英語が自由に使える必要があるでしょう。総理大臣、外務大臣、経産大臣などになるには必須でしょう。
そう考えて、日本でありながら教育のすべてを英語で行なう幼稚園に入れるために目の色を変える親が増えるのも当然かもしれません。
ただしそこには今日の記事に書かれている重大な視点が欠けていることも確かです。
さらには、100年後にエスペラントは消えていても英語はさらに広まっていると簡単に考えている人が多いに違いありませんが、そんな保証などどこにもないのです。
だからこそ日本語を含めて多様な言語を使い続ける必要があるのです。
投稿: たりらりら | 2019年2月 7日 (木) 20時51分