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2019年2月28日 (木)

墓をどうするかという問題―②―

 朝日新聞の記事によると、今のような墓石を建てるようになったのは江戸時代中期からだそうだ。「○○家之墓」という墓碑も天皇制を支えた家制度の道徳規範が行き渡る明治末期からだという。

  戦前は家制度で家督相続があった。その名残の古い習慣や意識が残っていたのが、家族の形や価値観が多様化するようになって変わってきたのだ。

  新聞の有名人死亡欄を見ていると、この数年「近親者で営みました」というのが多い。20年余り前までは有名人や地位や資産がある人たちは葬儀場や寺などで大きな葬儀をしたものであったが、それが無くなって来た。

  墓をどうするかという問題もそうした変化と時を同じくして起きて来ているようだ。日本最初の散骨は1991年「葬送の自由を進める会」が海で行ったのだという。

  「直葬」という葬儀を行わないやり方も増えて来ているようだが、火葬場で遺族が遺骨を一切拾わないという「0葬」というのもあると知って驚いた。「ゼロ葬」は宗教学者島田裕巳氏の名づけのようだ。

  親鸞は「自分の遺体は鴨川に流して魚に食べさせよ」と遺言したというが実際はどうだったのか?釈迦も葬儀とか供養とかは言っていないようだから弟子たちが勝手にやったことだろう。

  チベット仏教だったと思うが「鳥葬」の所もあり親鸞と同じ発想だ。ゴビ砂漠では砂に埋めて自然に風化させるのを見た。

  近頃では遺骨でペンダントや置物などを作るサービスあるとNHKでやっていたが、随分と変わって来たものである。

  墓の代わりに納骨堂が増えて来たが、安くても60万円以上150万円ぐらいとかなりの金がかかる。それでも全国で50万基もあると記事に書いてある。

  火葬場で遺骨を拾わないという考えには目が開かれた。葬儀の自由や直葬ぐらいまでは頭が回ったが遺骨は拾ってどこかへ納めるものと思い込んでいたのだ。

  考えてみれば遺骨を拾わなければならないという決まりはない訳で、海や山に散骨をするのなら同じことである。

  故人を祀るということに関しては、写真や遺品もある訳で、要は故人をどう接遇するかという問題である。つまり心の問題なのだ。心の中で故人のことを偲んでいればそれでよいのだともいえる。

  そうなると墓は無くてもよいもので、叔父や私のように断絶するのであれば墓も要らないのだ。高い永代供養料を払って納骨堂に入れたとしても、永代ではなく20年ぐらいだと言われる。名前だけが永代なのである。

  自分が元気なうちに死後をどうしてほしいか身内と話し合って決めておくことが大事だということである。

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