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2018年11月13日 (火)

タイ旅行―⑦―

 11月4日朝この日も6時15分ごろ出発というので、4時半ごろに起きて、朝の行事を全て済ませた。前日の経験から5時45分ごろに食堂に行ったら入ることができた。お粥や野菜や果物、ヨーグルトなどを食べた。

  ホテルに迎えに来たバンに乗って20分ごろ出発した。もう一つのホテルに寄って男性客を3人乗せた。

  今日は映画「戦場に掛ける橋」で有名なクワイ川の鉄橋を見に行くのだ。市中を走って行くとまた王様やお妃など王室関係の大きな写真が道路に沿って立っていた。

  高速道路に入ったと思うのだが、日本のとは違っていて一般道路みたいであった。見渡す限り平坦な土地が続いていて、バンコク周辺は大平原なのだと思った。

  道路沿いにはトヨタやマツダやホンダなど日本の自動車の店があった。タイに来てトヨタの車が目立った。ガイドの話しでは70%は日本車だということであった。とにかく日本車が多く走っている。誇らしい気分になった。バンももちろん日本車であった。

  走ること3時間余り、遠くの方に山が見えてきた。タイにも山があるのだと思った。山の形が面白い形をしていた。

  カンチャナブリに着くと、まず「戦争博物館」に行った。博物館というから立派な建物を想像していたが、何と細い竹で囲まれた簡素なものであった。この小屋は当時の捕虜の住居を忠実に復元したものだという。竹の壁に写真や絵が掛けてあった。写真は鉄橋建設に関係した古い白黒写真であった。褌一つの裸で働かされていたようだ。

 この博物館はDEATH MUSIUMと呼ばれていたが、残酷な印象を与えるためDをJに置き換えてJEATH MUSIUMと呼ばれている。Japan,Engrand,Austuralia & America,Thailand,Holandの頭文字。

 写真は捕虜やタイ人によって撮影されたもので、その写真も工事の後期には、証拠が残ることを恐れた日本軍によって禁止された。絵は生き残った捕虜経験者やインタビューをした作家や友人などによって描かれたものだという。

  泰緬鉄道は1942~43年にかけて日本軍によって作られたもので、別名を「DEATH RAILWAY」と呼ばれている。それはこの鉄道建設に携わった約3万人の捕虜や10万人以上のアジア人強制労働者のうち、約1万6千人の捕虜、10万人のアジア人労働者が、過酷な労働や疫病などのもとで死亡したからである。

 全長415km(タイ側263km、ビルマ側152km)にわたる鉄道は、当初完成に5年を要すると言われたが、日本軍は人海作戦で僅か15か月で完成させた。現代の技術をもってしても不可能と言われるはやさであった。死者の数からみても如何に過酷であったかが分かる。

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                      カンチャナブリ

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                        街への入り口

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                JEATH(国旗の頭文字)博物館入口

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                         博物館

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