朝日新聞フォーラム「先生忙しすぎ?解決のほうこうせいは」を読んで
教員の多忙が言われてずいぶん久しい。朝日新聞フォーラムでは「先生忙しすぎ?」と題して4回にわたって取り上げられてきて、7月1日は「解決の方向性は」というものであった。
そこで提案されているのは、「まずは授業以外の仕事仕訳から」というものである。学校現場の多忙を解消するには「教職員定数を増やすことが最も効果的」だと関係者は口をそろえる。しかし、少子化や財政事情が厳しい中実現へのハードルは高いと記事は指摘している。
以前にも書いたことだが60年ほど前に教員になったとき、一クラスは50人ぐらいいて、2年目は何と60人もいた。新卒の教員がそんな大人数を担当させられたのであった。
日本教職員組合は学級定数の削減を求めて、確か40人学級を掲げていたように思う。それが実現したのはいつのことであったか覚えてはいないが、ずっと後のことであった。
教員になった頃は学校にプールがなくて海水浴に行っていた。プールができると夏休みにはプール指導が加わった。
最初の頃は部活動もゆるやかで、やりたい先生がボランティア的に指導していたし、適当に切り上げていた。対外試合もあまりなかった。
教員は教職員特例法によって、残業手当は支給されなかった。裁判官と同じで働き方は自己裁量であったからだ。今でいう「高プロ」扱いだったように思う。「高プロ」と違うのは月給が非常に低かったことだ。
当時を思い出して今でもよかったと思うのは、勤務時間が「4時まで」であったことだ。だから4時になると自由であった。新卒で行った学校は田舎だったので、4時になると酒の好きな連中が集まってよく酒を飲んだ。囲碁、将棋、麻雀も盛んであった。
宿直があったので小さな学校では週に1~2回は宿直が回ってきた。若い教員は家庭持ちの人に代わってあげることも多かった。
運動会や学芸会などの後は学校でPTAの人たちと宴会をし、2次会は役員の家に行ったものである。
夏休みは出校日や日直以外は休みであった。保護者もそれを認めていて咎められることはなかった。その代り有給休暇は制度としてはあっても認められることはなかった。
教員の仕事は授業以外に給食指導、清掃指導、課外指導、事務処理など多岐にわたっていたが、自分の裁量で処理をすることができた。だから通勤の名鉄電車のなかでテストの採点をすることもよくあった。他校の校長と一緒になっても何も言われなかった。
今はそんなことは絶対にできないし、通知表を自宅に持ち帰って仕事をすることもできないが、昔は当たり前にやっていた。
しかし、今から思うと大変におおらかな時代であった。先生は聖職と言われ、まだ尊敬されていた。先生の言うことは信頼され聞いてもらえた。今ならセクハラ、パワハラにひかかるようなこともあったが、社会全体がセクハラ、パワハラにおおらかであった。
待遇の改善、働き方の改善などが進むに連れて次第に厳しくなっていき、おおらかさはなくなってギスギスして行ったと思う。私が退職する頃は学級崩壊や学校暴力が起きるようになっていた。
仕事仕訳としてプール指導や部活や登下校指導などを外部委託するのは賛成だが、給食指導、清掃指導や放課に子どもと遊ぶなどの子どもと触れることは外すべきではないと思う。
ただ、教科内容も英語とかプログラミングとか道徳とか増えて来て授業だけでも大変だろうとは想像する。
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