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2018年5月16日 (水)

「君たちはどう生きるか」が書かれた時代と吉野源三郎

 「君たちはどう生きるか」は1937年に新潮社より出版された。その頃の日本は1931年9月18日、関東軍が柳条湖で満州鉄道の線路を破壊し(柳条湖事件)、事件をきっかけに関東軍は満州全土の占領に乗り出した。そして犬養内閣の時満州国を作り上げた。

  1932年5.15事件で犬養首相暗殺。

  1933年国際連盟から脱退。軍部が力を強めていく。

  1936年2.26事件。

 1937年日独伊3国防共協定。

  1937年7月7日、盧溝橋事件→日中戦争へ

  「文芸春秋」3月号に吉野源三郎の長男の源太郎氏と池上彰氏の対談が載っている。それを引きながら以下を書く。

  吉野源三郎は1931年に、共産主義者であることを疑われて治安維持法違反で検挙、投獄された。吉野は志願兵で陸軍少尉だった(東大を出ているので将校になったのだ)ので、単なる思想犯ですまされず、軍事法廷にかけられた。一族はみな死刑になるものと覚悟していてという。親、兄弟,親戚までが憲兵から非国民扱いされたそうだ。「君たちはどう生きるか」の中にも「非国民」という言葉が出て来るように、この時代、国民を怖がらせ戦争への道を進む魔法の言葉であった。

  吉野は獄中で連日のように拷問を受けるが、決して仲間の名前をもらさなかったという。凄い信念の人だ。それはあの本の中にも窺うことができる。

  彼は自殺を試みるが、それは「余りにも過酷な取り調べが続くので「仲間を売ってしまうかも知れない。その前に死のう」と考えたのであった。幸いにも一命はとりとめた。

  その後、担当の軍医が人格者だったので、未来を見据えるように諭され、なんとか生きる気力をとりもどしたのだそうだ。

  軍事法廷では「私を信頼した人々を警察や君に売れというのですか。裁判長も軍人でしょう。仲間を裏切る人間を信用できるのですか」と必死の思いで問い直し、それが裁判官の軍人を動かして、1年半の獄中生活の後、奇跡的に執行猶予がついて出所したそうだ。

  この時代拷問は当たり前で、それに堪えて信念を貫いたのは余人ではできないことであると感動した。そして再びそのような忌まわしい時代に戻さないようにすることが大事だと痛感した。それは安部首相や日本会議などが、憲法を改悪し、戦力を強化し、治安維持法のようなものをつくろうとしているからだ。

  山本有三が日本少国民文庫を企画したのは、「軍国主義が勃興し、すでに”言論や出版の自由はいちじるしく制限される”中で、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめて少年少女だけは、時勢の悪い影響から守りたい」と考えたからである。

  吉野源三郎は山本有三から頼まれてその編集の仕事に携わったのであった。それは釈放後結婚をしたが、ろくな仕事にもつけずアルバイトで困っていた吉野を見かねてのことであったそうだ。

  本当は山本有三がシリーズの最終巻を書くことになっていたのが、病に倒れ、吉野に託されたのだ。憲兵に睨まれていて自由な表現ができない。悩みに悩んだ挙句、七転八倒してひねり出したのが「君たちはどう生きるか」だったそうだ。

  投獄され、自殺まで試みた吉野が「また検挙されるかもしれない」「いずれ自分の命はないかもしれない」という恐怖を抱きつつ、命がけで生み出した物語だったと思うと息子の源太郎氏は語っている。

  冒頭に挙げたように、日本が中国大陸に手を伸ばし、軍部の力が肥大化し、国民の自由や権利を奪って行った中で、ぎりぎりのところで良心に従い、将来ある少年少女たちに考えさせようとしたのは実に素晴らしい。

 

 

 

 

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