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2018年5月 7日 (月)

NHKスペシャル「大江戸でござる」が面白かった―②―

 江戸は一口に言えば、「濠」(水運)、「水道」、「埋め立て」が大規模インフラで、そのお蔭で世界一の大都市に発達できたようだ。その原動力になったのが「武士」だったというのだ。

  江戸幕府は、当時海だった場所をどんどん埋め立てて行ったのだ。埋め立てを担当したのは日本各地の大名である。江戸は空前の規模で埋め立てられ、起伏の激しい土地にうまく合わせながらお濠や水路を通していったのだという。

 熊本大学の今村直樹准教授によれば、天下太平の江戸時代では戦は少なく、戦って手柄をたてるよりは、江戸のお濠の建設などによって手柄を立てることが多くなったのだという。そのため、各地の大名達はお家安泰のため、競って江戸の開発を担当したのだそうだ。

 江戸幕府の統治能力の凄さを感じさせられる。高校時代日本史で大名の財力を削ぐために参勤交代をさせたのだと習ったが、それ以外にも「手柄」を立てさせるといううまい手で埋め立てや濠や水路工事をやらせ、大名の力を削いでいったのだ。

 それは、当時の侍にとって「天下普請(てんかぶしん)」と呼ぶ一大プロジェクトだったのだ。

 巨大事業「江戸建設」は大名達を苦しめることになる。第三代徳川家光のころになると、大名達は疲弊して行った。

  この事業は籤引きで担当地域が決められたそうだが、熊本藩の細川家は「幸橋」という最悪の場所を引き当てた。それで大変な苦労を強いられることになった。細川家はその顛末を詳細に記録していた。その記録によると現在のお金で50億円を超える出費を負わされたが、それでも天下普請は続いた。

  石垣の石にはそれぞれの藩の印が付けられている。細川家は伊豆から石を切り出して江戸まで船で運んだ。大変な苦労であったことが分かる。他の藩も同様であっただろう。

 やがて、濠は拡張され隅々まで水運が届き、市場には「材木=木場」「魚=日本橋」「米=小網町」などができ、江戸は大変な賑わいになったという。

 石造りの濠を基盤にした巨大物流ネットワークが江戸の町を世界最大の大都市「江戸」を誕生させたのだ。

 しかし、江戸の人口が急増した影響で深刻な飲み水など水不足に陥った。そこで作り上げたのが、地下に張り巡らされた木製の巨大水道ネットワークであった。オリンピックのための工事現場からは大きな木製の設備が出土したのだ。

  「懸樋(かけひ)=谷を越えて水を届けるシステム⇒水道橋」「升(ます)=低い場所から高い場所へ水位を上げつつ水を届けるシステム)」など独自の水道網システムを開発、水不足に対応した。 

 神田川の上に懸けられた、神田上水の水を渡すための水道の橋。 現在のJRの駅名にもなっている水道橋の地名は、この懸樋が由来になっている。

 ローマの水道は有名だが、江戸にも水道があったというのは驚きである。その水を引くために 多摩川の上流から起伏の激しい43kmもの上水路を、江戸まで引いたのだ。当時は重機などは無くすべて人力で掘られた。

 担当したのは水道奉行、伊奈忠治と忠克の親子であった。記録書「上水記(じょうすいき)」には伊奈親子が手がけた水道プロジェクトの詳細が記録されている。

 その時に作られた上水路「玉川上水」は今も利用され流れ続けている。この水は不毛の大地だった江戸の西側をも潤し一大農業地帯へと変え、江戸の住民の食料をまかなったのだ。ここで作られた農作物はさらなる江戸の人口増加に一役買ったのであった。

 浮世絵を見ると銭湯の絵がよく出てくるが、公衆浴場が作れるほどの水が水道網で運ばれていたというのは驚きである。埋立地では井戸は掘れなかったのだろう。それにしても100万都市大江戸は今なら世界遺産ともいうべきものだ。

 

 

 

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