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2018年2月 8日 (木)

興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑥―

 

田中正造

 足尾は関東平野の北限に連なる山間の地である。山々から流れる沢は、渡良瀬川となって関東平野に流れ込む。

 その足尾で銅が発見されたのは1600年頃のことで、当初は徳川幕府直轄の銅山として稼業し、一時は年間1500㌧の銅を産出し、当時開国していた唯一の外国であるオランダに向けて輸出もしていた。

明治時代に入って足尾銅山は再度隆盛を極める。日本は日清、日露の戦争を戦い、世界の列強に伍そうとして、そのために明治政府は富国強兵、殖産興業を基本原理として、産業の近代化に邁進した。とりわけ、銅は海外での需要が多く、日本にとっては外貨を獲得するための主要な輸出商品となり、産出した銅のほとんどすべてが輸出された。足尾銅山はその基礎として開発、利用された。

 しかし、その陰で、足尾銅山からは、亜硫酸ガスが大量に放出され、付近一帯の山々は禿山となり、製錬の残さは100万平方メートルを超える堆積場を次々と埋め尽くし、保水力を失った禿山に雨が降れば簡単に洪水となって堆積場を襲い、銅を主成分として、鉛、カドニュームなどを含んだ鉱毒が渡良瀬川下流に流れた。そのため、1885年には渡良瀬川での魚の大量死が始まり、87年には渡良瀬川の魚類は死滅した。

 田中正造は栃木県佐野市の庄屋の家に生まれ、栃木県県会議員、議長を経、1890年に初代帝国議会の衆議院議員になった。直ちに、鉱毒被害の追及をはじめ、1891年には「足尾銅山鉱毒加害の儀につき質問書」を議会に提出し、政府を追及した。

 しかし、政府は足尾銅山を保護するだけで、住民を救済する方策をとらなかった。被害は拡大し、1892年には洪水で著しい被害が出た。加害者の古川鉱業は被害民と第1回の示談を行い、わずかばかりの金銭を支払った。

 1894年には日清戦争が始まり、政府は戦費調達のために足尾銅山の庇護を続けた。鉱毒による被害は増える一方となった。その当時、渡良瀬川は、江戸川となって東京に流れ込んでいたが、鉱毒が東京に流れ込むのを嫌った政府は、1894年に埼玉県関宿で渡良瀬川を銚子に流れる利根川に付け替えた。

 1896年に再度の大洪水が起こり、渡良瀬川、利根川、江戸川流域一府五県4万6千町歩に鉱毒被害が拡大した。疲弊しきった農民・漁民は、1897年、二度にわたって、東京に向けて「押出し」をし、救済を訴えた。

 正造は、押出しに向かう人々と呼応して、議会で、追及を続けた。苦難のどん底に突き落とされた住民は1898年に三回目の押出しに及んだ。そのとき正造はまだ帝国議会の議員であり、押出しに向かう住民を保木間で迎えて、以下のように演説し、押出しを思いとどまらせた。

「一つ、正造は日本の代議士にして、またその加害被害の顛末を知るものである。故に衆に先立って尽力すべきは正造当然の職分である。諸君がすでに非命に斃れるを見る。正造は諸君たちに先んじて死を決しなければならない。もう一つは、現政府は幾分か政党内閣の形をなすもので諸君の政府であり、また我々の政府である。(中略)政府が事実をはっきり認識しながら、なお鉱業の停止をしないならば、そのときは、もはや諸君の行動を止めない。進退を共にする。先頭に立って行動する。」

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