興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑤―
《補論》
加藤周一『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』に学ぶ
『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』には、日本社会に残る超越的価値観の希薄性ないし弱さに対する加藤周一の「悲観論」を集約する。
最後まで「気がかりにした日本の思想的特徴」である。「悲観的気がかり」を構成するキーワードとは、「超越的・普遍的価値観の欠如ないし希薄性(「鴎外・茂吉・杢太郎論」と「いま・ここ主義」(「日本文化における時間と空間論」)である。
「いま・ここ主義」の一つの意味は現在中心主義をさす。現在中心主義とは、過去と未来とを現在を中心にしてつなぐのではなく、切断するということである。 過去・現在・未来の時系列の歴史的・論理的つながりを断ち切ることの第一の帰結は、過ぎたことは水に流すこと、特に都合の悪い過去を忘れ去ることである。(過去の戦争責任、「森友加計疑惑」、福島原発のメルトダウン事故など)
第二は、未来に対して、過去や現在を引きずらないこと、いわゆる「未来志向」に立って、その時その時の風に任せること。
加藤周一は「済んだことは水に流す」の対句を、端的に「明日は明日の風が吹く」といっている。
過ぎたことを水に流す例として、ドイツ社会は、『アウシュビッツ』を水に流そうとしなかったが、日本社会は『南京虐殺』を水に流そうとした。
「明日は明日の風が吹く」式の思考を示すものとして、「1941年12月8日の東京市民の表情は愉しそうでした」、真珠湾攻撃の日に「日本人の顔が明るいのは、数年後に何が起こり得るかを考えずに暮らすことができるから」と説明する。
加藤周一は「日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある」と指摘した。
「いま・ここ主義」による無責任、なし崩し的変化、大勢順応主義とは
第一は、過ぎたことは水に流して生まれる過去の忘却、そして、この不都合な過去の忘却に基づく無責任体制である。(2013年9月、東京オリンピック誘致演説において、安倍首相が福島第一原発の汚染水漏れ問題について「状況は完全にコントロールされています」
第二は、「建て増し方式」(9条加憲論、アベノミクス第一の矢)
第三は、大勢順応主義の傾向である。大勢順応主義とは、普遍的・超越的価値観が弱く、「いま・ここ主義」の風潮が強いところで起こる大衆的現象、すなわち「集団の成員の大部分が特定の方向へ向かう運動」のことである。
「いま・ここ主義」の強いところでは、過去・現在・未来を貫く視点や原理が弱く、普遍的・超越的価値観が希薄のために、人々を特定の方向に同調させる圧力が作用すると、大勢を集める流れがつくりだされ、たちまちのうちに大勢順応主義が大衆的現象となる。
概要、①鴎外らには普遍的・超越的価値観が希薄であったこと、②普遍的・超越的価値観が希薄性は日本文化を貫く「いま・ここ主義」と裏返しの関係にあること、③「いま・ここ主義」に起因して、a.無責任体制、b.なし崩し的変化、c.大勢順応主義の三つの傾向が生まれ、これが現在の日本にも根強く残っていること、これら三点である。
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