開放型から閉鎖型に変わった日本の住居だが
朝日新聞2月10日の朝刊に「住まいのかたち 人や自然とのつながりを」という記事があった。筆者は山極寿一というゴリラ専門の霊長類学者である。
山極氏はゴリラのねぐらとの関係から日本の住まいについて論じている。その中で面白いと思ったのは、現在の日本の住宅が完全に密着・閉鎖型であると指摘した点だ。
戦後の日本の家は劇的に変わったと言い、それは1964年の東京オリンピックを契機にしているという。私の記憶ではオリンピックよりも前に団地なるものが各地に造られ始めた。名古屋でも自由が丘などに市営の団地が造られた。6畳とキッチンと風呂と便所の1階、3畳と6畳の2階という狭い団地であったが、私などは羨ましく思ったものであった。
その後個人住宅が建てられるようになったが、それにはプレハブ住宅が寄与したと思う。新建材という用語ができたのもその頃であった。戸建ちの住宅は2階建てであった。私も2階建て住宅に憧れたものであった。(今は住宅は平屋建てがよいと思っているが)
私が家を建てたときは、プレハブではなく木造を選んだが、外材やベニヤを多用した安普請であった。ただアルミサッシが普及して、開口部はすべてサッシで気密性が高かった。
山極氏は言う。「現在、日本の住宅はマンションに代表されるように、周囲とのコミュニケーションを一切考慮せずに設計され、なるべく密閉できるようになっている。大気汚染ばかりでなく、花粉や虫の飛来、動物の侵入、騒音を防ぐ必要性が高まったためでもある。また、近隣の人々が顔見知りではないため、安全対策が重要になったせいでもある」と。
確かに騒音はかなり防げるし、網戸が虫の侵入を防いでくれる。取り壊した古い家には青大将が住んでいたり、ネズミが天井を駆け回っていたがそれもなくなった。
私が子どもの頃は開放型の住宅で、障子と襖と木の雨戸で壁は土壁であった。冬になると隙間風が何処からともなく入ってきた。それでここはと思うところを新聞紙を張って防いだのであった。
玄関など入口には鍵をかけることは外出時以外はなかった。夜でも鍵をせず、夏などは雨戸も障子も開けて寝たのであった。そんなふうだから一度泥棒に入られたことがあった。
どこの家でもみな開放的であったから、子どもも大人も近所の家に上がり込んで遊んだり話をしたりしていた。私たち子どもは近所の人たちで共同で育てられたようなものであった。
ところが戦後閉鎖型の住宅が増えて行くにつれて、人と人のつながりや交流が無くなって行った。
我が家の近辺も同じである。新しく越して来た人とは滅多に顔を合わすこともないし、挨拶もすることがない。僅かに昔から住んでいて子どものつながりがあった人とたまに話すくらいである。
閉鎖型の住居ではかつてのような助け合いとかコミュニケーションはないのだ。他人とつながるのは、趣味のグループなどに入るかSNSしかない。
こうしたことはドイツやイタリアや英国などでも同じなのであろうか。知りたいものだ。
« 「老年的超越」というのを初めて知った―②― | トップページ | 葬儀って、何だ―⑧―補遺 »
「面白い話題」カテゴリの記事
- 文化庁の言葉の使われ方の調査(2024.09.21)
- 「彼の誰」と「誰そ彼」(2024.08.24)
- アゲハチョウと柑橘の木(2024.08.17)
- エノコログサの群生地があった(2024.08.05)
- 2匹重なり合ったセミの脱皮(2024.08.04)
コメント