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2018年2月

2018年2月28日 (水)

「平熱が高いリスク」という記事

 健康は最大の関心事の一つである。Nifty newsに「英医学専門誌『平熱が高い』場合のリスク報告 体温高くなる毎に1年死亡リスク増加か」というタイトルの記事があった。

  私は平熱が低く、前にも書いたことがあるが、だいたい35.5度前後で、普通の人の36.5度より1度も低い。体温が低い人はガンなどになりやすいから、体温をあげようということを書いた本は何冊も出版されている。

  私も何冊か買って読んで、生姜がよいというので食べたりもしたが、結局は体温は上がらない。3日ほど前も風邪かなと思う兆候があり、身体の節々が痛かった。体温を計ったら37.3度であった。下腹が気持ち悪く、下痢をしたので、ノロウイルスかも?と思ったが、百草丸を飲んでおいた。

  夕食も食べたくなかったので食べずに、水だけをたっぷり飲んで、ルルを3錠飲んで8時前に寝た。ときどき起きたときにはコップ1杯の水を飲んだ。

  次の朝、気分は少し改善していたが、ウオーキングには行く気がないので休んだ。体温は36.7度だが、脈拍が111もあった。夕方には回復したが用心をして早めに寝た。体温は36.3度であった。

  次の朝体温を計ったら35.7度になっていた。自分の平熱に戻ったようであった。そういう訳で私は体温が低いのだが、風邪でもひかないと体温が上がらない。

  これも前にも書いたことだが、体温が低くても、布団に入れば5分もしないうちに体が温まってくるからいいのかなと思っている。

  そういう訳でDiamond onlineの記事は私の眼をひいた。英国での研究は体温が高いことと死亡リスクの関係についてのものだ。体温が高くなるのもよくないようだ。

  低体温やといわゆる標準の平熱との関係はどうなっているのか知りたいところではある。

※記事(一部を除いてコピペ)

 常に平熱が高い場合、がんの発症や肥満を助長する可能性があるらしい。先日、英国の医学専門誌「BMJオンライン版」に掲載された報告から。

 研究者グループは、2009~14年に米国の大学病院の外来を定期的に受診した18歳以上の患者、およそ3万5000人(体温の測定回数はトータル24万3506回)のデータを用い、体温計で測った体温とその他のバイタルサイン、健康指標との関連を検討。

 対象者は、ウイルスや細菌に感染しておらず、抗菌薬による治療も受けていない、体温が正常範囲にある、という条件で選ばれた。平均年齢は52.9歳、女性が6割、非白人が4割だった。また、対象者の平均体温は36.6度(35.3~37.7度の範囲)だった。

 体温とさまざまな指標との関連を検討した結果、体温は加齢とともに低下し、10歳年を取るごとに0.021度低くなることが示された。疾患との関連では、がん患者の体温は0.02度高く、またBMI(体格指数)が1増えるごとに、0.002度上昇することも分かっている。

 これだけでは数値が小さすぎて、何ら健康に影響はないように思える。しかし、年齢や人種、併存疾患などの変数を補正し、平熱と1年死亡リスクとの関連を調べたところ、体温が0.149度高くなるごとに、1年死亡リスクが8.4%増加することが示されたのだ。

 研究者らは「平熱は1年以内の死亡リスクを予想する指標になるだろう」としている。これといって思い当たる原因がないのにもかかわらず、平熱が高い人は、一度は医師に相談し、場合によっては精査する必要がありそうだ。

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2018年2月27日 (火)

スーパープレゼンテーション「長寿の秘訣」が興味深かった。

 私は別に長寿を願っている訳ではないが、22日のスーパープレゼンテーション「長寿の秘訣」が興味をそそり録画をして観た。

  The secret to living lonnger may be your social life. Your genes are not your fate. 長生きの秘訣は人との関わり!?遺伝子で運命は決まらない というタイトルであった。プレゼンテーションをしたのはスーザン・ピンカーという女性の発達心理学者であった。

  ピンカー氏は世界的に知られた長寿の島、イタリアのサルデーニャ島を訪ねて長寿の秘訣を探ったのだ。この島は100歳を超える人の比率がイタリア本土の6倍、北アメリカの10倍だというのだ。

  ピンカー氏によると、長寿は脂肪の少ないグルテンフリーの食物とか、プラス思考で楽天的な生活をするというような一般に考えられていることとは関係がないという。

 この島についてはこれまでも日本のテレビで何度か取り上げられたことがある。その時は「きれいな空気」、「きれいな風景」、「オリーブオイル」「地中海の豊富な魚料理」などが長寿の元だと言っていた。

  ピンカー氏はそうしてことより、何といってもサルデーニャ島の人たちは人と人との関係が密接で、じかに会って交流することが多いのがいいのだというのだ。

  島の中の街の造り自体が人と出会う機会が多いようにできていて、人々は絶えず他の人とあって談笑したり、いろいろなことをしたりするのだという。

  今はインターネットが発達しSNSなどを通じて人と接触するがそういうものは効果がないという。人々が互いに顔を見て肌を触れ合って交流するというリアルな生活が大事なのだというのだ。

 現代社会では日本だけでなく、発達した西欧諸国でも、人と人とのつながりや交流が薄くなってきている。食事をしているときにスマホをいじるとか目の前にいる人と話をするのにもスマホを使うなどのことが増えて問題になっている。こうした現象に彼女は警鐘を鳴らしている。

 Susan Pinker reveals how in-person social interactions are not only necessary for human happiness but also could be a key to health and longevity.

 How social, face-to-face interactions are critical not only for our happiness but also for our survival, and how technology can isolate us from these life-saving bonds. As she writes: "Neglecting to keep in close contact with people who are important to you is at least as dangerous to your health as a pack-­a-­day cigarette habit, hypertension or obesity." 

 

 

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2018年2月26日 (月)

「迷惑メールに返信したら・・・・」という記事

 迷惑メールが多すぎるのでアドレスを変えたという知人が何人もいる。私の場合は、たまにスマホに入ってくるだけだが、すぐに削除している。

  先日はこんなメールが来た。「あなたに1900万円贈呈します」というものであった。「私は最近大金を儲けたので税金対策のため贈るのです。嘘でない証拠にすぐに送ります」というようなことを長々と書いてあった。送信者は女性の名であった。

  このメールは削除したなかったので、先ほどこのメールを探したがどこにも見当たらなかった。送信者が私のスマホを操作して削除したのであろうか?削除したところにも、ゴミ箱にもなかった。奇妙な話だ。

  ネットを見ていたら、「迷惑メールに記者が返信してみたら・・・潜んでいた二重の罠」という記事があった。西日本新聞の記事である。以下にコピペした。

 携帯電話やスマートフォンに届く「迷惑メール」。マジレス(真剣に返事)してみたらどうなるのか。読者に代わって、特命取材班がやってみると、

 登録してないアドレスでメールが来ましたけど私の知ってる人ですか? 私、優子といいますけど…

 昨年末、記者のスマホに届いたメール。アドレスの@の後は「docomo.ne.jp」で一見、普通のアドレスだ。

 「送っていません。何かの間違いではないですか」と返すと、すぐに返事が。

 ごめんなさい、知り合いじゃなかったんですね。なんだったのかな。不思議な縁ですし、よかったらメールしませんか?

 カフェで働く佐々木優子、22歳と名乗った。趣味はオンナ磨き。顔写真も添付されている。やりとりを続けていると、父親にスマホを勝手に見られる、という悩みを打ち明けてきた。

 親にバレちゃったら会うことも出来なくなっちゃう。。。プロフ(自己紹介サイト)に連絡してくれませんか? 遊ぶ約束とかもそっちでしたい

 サイトにつながるURLが添付されている。クリックしてみようかな…。         

詐欺サイトに誘導される危険性も

 「お金目当てのケースが多い。やめた方がいい」。迷惑メールに詳しい中央大の岡嶋裕史准教授(情報セキュリティー)にたしなめられた。クリックすると、詐欺サイトや、強制的にコンピューターウイルスがダウンロードされるページに誘導される危険性があるという。添付写真は「タレントやモデル、個人のブログなどネット上の写真を拾った」と考えられるそうだ。

 「どこに住んでいるの? 会いませんか?」。記者がそう切り出した途端、優子からの返信は途絶えた。

         「コンビニ支払い」悪用も

 いわゆる架空請求も新手が次々と登場している。

 「有料視聴分の未納料金をお支払い下さい」。米ラスベガスに本社を置くという「fc2サービス」を名乗る会社から、そんなメールが届いた。記者があるサイトで動画を5分間無料視聴した後、有料動画(1分100円)に移行する案内に了承、3日分の未払いが生じた。未納金は遅延損害金を含めて51万3600円。24時間以内に支払わないと法的手段を取る-とのこと。

 ただ、身に覚えがない場合、支払わずに済む方法があるという。手数料は2万円。指示通りに「合同受付」という会社に性別、在住都道府県、携帯電話番号を送ると、新たな指示メールが届いた。(1)コンビニのレジで「インターネット代金支払い」を申し出る(2)メールに記載した13桁の支払い番号を伝えて支払う-。

レジの画面を見て驚き

 取材班はコンビニ店員に、支払う直前までの手続きをしてもらった。支払先として表示されたレジの画面を見て、驚いた。ネット通販大手アマゾンの名が。

 これは「コンビニ収納代行」を悪用した新手の詐欺。送信元がネット通販で何らかの商品を購入、コンビニ払いを選んだ際に通知される支払い番号を伝えてきたというわけ。つまり、送信元の買い物代を肩代わりすることになる。手数料と言いながら、そこには「二重のわな」が潜んでいた。

         総務省「きりがない。対応には限界がある」

 送信元に電話番号を聞くと、拒否された。「これは迷惑メールですか」と単刀直入に聞くと、今度は脅迫めいた返信が来た。

 貴殿は約束を守らない恥ずかしい人間だと周囲に言いふらしますよ。人様に迷惑かけることばかりせず素早く対応しなさい。人としておしまいですよ

 やりとりは70通以上。送信元の「正体」は分からないままだった。

 総務省が相談業務などを委託する「迷惑メール相談センター」に提供された迷惑メールは2016年度、約1453万7千件。送信者が特定できれば警告できるが、「きりがない。対応には限界がある」と総務省の担当者は話す。

    ××

 3回にわたり報告する特命取材班の「迷惑メールを追う」。(中)では実際に迷惑メールに返信して見えてきた新しい手口を紹介し、(下)ではメールアドレスが取引される実態に迫る。

         ●SNSで調査報道の依頼を受付中!

 西日本新聞「あなたの特命取材班」は、暮らしの疑問から地域の困り事、行政や企業の不正告発まで、SNSで寄せられた読者の情報提供や要望に応え、調査報道で課題解決を目指します。ツイッターやフェイスブックの文中に「#あなたの特命取材班 」を入れて発信してください。

 

 

 

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2018年2月25日 (日)

第36回名東区コーラス交歓会を聴く

 2月23日に名東文化小劇場で「第36回名東区コーラス交歓会」があった。私は名東文化小劇場へ行くのは初めてであった。ネットで調べて地下鉄上社駅の上にあることが分かった。

 会場受付に着いたのは、9時20分ぐらいであったが、開場は9時45分だからそれまで待つように言われた。開演時刻は10時なので開場は10時30分だろうと見当をつけて行ったのだが、開演15分前だとは驚いた。プログラムのどこにも開場時刻は書いてなかった。

 45分になったので中に入ったら、出演者の席が指定されていて一般席は後ろの方であった。私は前の方にないかと思って前に行ったら、右の5列目に3つだけあった。会場はほとんどが出演者で一般の人は少なく、しかも男性は2~3人しかいなかった。

 定刻に始まって挨拶の後コンサートが始まった。最初は発声練習を兼ねて声だしで、そのあと「わがまち名東」という歌を歌った。初めて聴いたがなかなかいいメロディであった。

 コンサートは10時から13時半までが予定されていた。PTAコーラスが12校で後はコーラスグループが10グループで全部で22あった。

 私は最後まで聴く予定で行ったので全部聴いた。ほとんどのグループが少人数で6名とか7名とか8名のグループもあった。一番大きいのでも16名であった。

 高齢者ばかりのグループも2つあった。「名東区コーラス交歓会」なのに参加グループは女声コーラスばかりであった。それでも区の中でこういう発表の場があるのは大変いいことだと思った。我が昭和区にはそういうものはない。

 驚いたのは4グループを指揮する指揮者が1人、3グループを指揮する指揮者が1人、2グループを指揮する指揮者が1人いたことだ。

 プログラムに印を付けながら聴いたが、そのグループも上手であった。よく声の出ているグループがほとんどで、綺麗にハモッていたので感心した。PTAコーラスが多いので期待をしていなかったのだが、意外にうまかった。

 振りを入れたり、衣装に凝ったグループもあり眼でも楽しませてくれた。アカペラも2グループありとてもよかった。

 トイレ休憩なしなのがきつかったが、十分楽しむことができた。36回にもなるのにMさんのおかげて初めて知ったのだが、もっと早くから知りたかったと思った。

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2018年2月24日 (土)

トランプそっくり、安倍首相の朝日新聞「口撃」

 Yahooニュースに毎日新聞の「<首相>止まらぬ朝日「口撃」 間違い、哀れ・・・持論展開」という記事があった。国会で安倍首相か繰り返し朝日新聞を批判したことを取り上げたものだ。

  「安倍晋三首相が先月末から国会の答弁で5回、学校法人「森友学園」問題に絡んで朝日新聞批判を展開した。自民党参院議員のフェイスブックにも朝日新聞を「哀れ」と書き込んだ。首相が公の場などで特定の報道機関のバッシングを続けるのは異例だ。」

  13日の衆院予算委員会で、安倍首相は森友学園の籠池泰典前理事長が設置予定の学校名を「安倍晋三記念小学校」とする設置趣意書を出したとの籠池氏の証言を報じた昨年5月の朝日新聞の記事を取り上げたのだ。

  安倍首相は「全く違った。国民の間に安倍晋三記念小学校だったということが浸透している。しかし実際は開成小学校だった」と言った。

  設立趣意書で「開成小学校」の部分が黒塗りにされていたのが開示されたのを取り上げて、朝日新聞が以前に「安倍晋三記念小学校」と報じたのを「間違いだった」と言ったのだ。

 籠池理事長は、学園が以前、寄付を求める書類などに「安倍晋三記念小学校」の名を使っていたので朝日新聞の報道は間違っていない。

  これについて、橋場義之・元上智大教授(ジャーナリズム論)は、「首相は設置趣意書の校名が「開成小学校」だったという都合のよい部分を切り取って、声高に朝日新聞をおとしめている。校名は政府が黒塗りにしたものであり、籠池前理事長が以前「安倍晋三記念小学校」の名を使っていたのも事実だ。」と指摘している。その通りである。批判は見当違いである。

  安倍首相は執拗に朝日新聞を攻撃している。毎日の記事によると、「国会会議録によると、2017年末までの5年間にも首相は計7回、朝日新聞を批判している。NHK番組改変問題や慰安婦問題の記事などをやり玉に挙げた。この間に読売新聞、産経新聞、日経新聞、毎日新聞への批判は見当たらなかった。」

 朝日新聞は安倍首相から見ると政権批判の最右翼に見えるらしい。いくつかの週刊誌や雑誌も安倍首相の気持ちを忖度してか、朝日攻撃の記事を繰り返し載せている。メディアの役目は権力を批判することである。産経や読売のようにアメリカのメディアから「政府広報機関」と言われるようではダメなのだ。

 トランプや安倍首相のように一国のトップに立つものが率先して、気に食わないメディアを叩くというのは民主主義の破壊である。メディアが委縮してしまえばその後はどうなるかは戦前の日本を見ればよく分かることだ。

 朝日新聞よ、負けるな。良心を売るな。権力を監視し続けよ。

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2018年2月23日 (金)

「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」の情報

皆さま

森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」の醍醐です。

 ※ 醍醐聡先生は日本の代表的な会計学者、東京大学名誉教授(財務会計が専門)で確か税務大学校の校長職も歴任されたと筆者は記憶しています。竹山

 麻生財務大臣の妄言に対し、撤回と謝罪の申し入れ

 219日の衆議院予算委員会で、麻生財務大臣は、216日に当会が主催した財務省・国税庁周囲でのアピール行動について「立憲民主党の指導でやった」とか、「街宣車まで持っている市民団体は少々、普通じゃない」などと発言しました。 

「麻生財務相、抗議デモめぐる答弁を『訂正』」

  (TBS, 2018219日)

  http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3296330.html

いずれも事実に照らせば、論評に値しない虚言ですが、一閣僚による国会の場での発言であることから、名指しされた当会として毅然と対応し、麻生氏に発言の撤回と謝罪を求めることにしました。

 本日、13時半に、当会の3名(呼びかけ人の杉浦ひとみ、醍醐聰と事務局メンバーの渡辺力)が財務省に出向き、担当部署(地方課連絡調整係)と面会して、添付のような麻生財務大臣宛ての申し入れ文書を提出しました。

   また、衆議院予算員会の河村建夫委員長に対し、国会の品位を汚す発言をした麻生氏に対し撤回と謝罪を促すよう求める要求書を発送しました。

3月3日の「納税者一揆 第2弾」は麻生氏のネット右翼レベルの愚劣な発言に2倍返し、3倍返しの規模で納税者の怒りを突きつけたいと思います。引き続き、ご支援、よろしくお願いします。

(添付のチラシをお使いくださる方、ご一報ください。至急、発送します。)

 2.16行動への反響

 16日の行動に参加された、たんぽぽ舎ボランティアの奥内知子さんが2月20日配信のたんぽぽ舎メールマガジンに下記のような感想記を投稿されましたので、ご紹介します。

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  私たちはおとなしいヒツジではありません!

  | (ついでに言うけど、馬でも鹿でもありません!)

  | 2月16() 緊急デモ 「納税者一揆」に参加した。

  └──── 奥内 知子(たんぽぽ舎ボランティア)

  「納税者一揆」、素晴らしいネーミングだ。

 政治団体のデモでもない。労働組合のデモでもない。宗教団体、民間団体のデモでもない。「納税者」のデモ、つまり「誰でもデモ」、「みんなデモ」なのだ。人々は分かったのだ。このデモが自分たちのデモだという事を。多くの人が集まった。(1,500人) 

  人々の仕事は多種多様、いろんな組織や団体に所属している人もいれば、自分の所属がはっきり決まっていない人もいる。でも、どんな人でも「納税者」の中には確実に入る。誰でも納税者、みんな納税者、文句なしの立派な肩書。自信が持てる、主張できる肩書き。こんな力強い肩書があったのだ。

  今回の緊急デモに参加した人々は自分の立ち位置を意識し、自覚の上で行動を 起こした多くの個人だったと思う。

 「一揆」という表現には心底の怒りが感じられた。

   次回名刺を作る時は、「納税者、奥内知子」で作ります。

  当日のコールを幾つかご紹介。

  税金は誰のものだ!

  国民の財産だ!

  国民の財産に手を突っ込んだのは誰だ!

  検察は財務省を強制捜査せよ!

  「モリ・カケ」食い逃げ 許さんぞ!

  佐川は辞めろ!

  音声・録音 嘘はない!

  任命責任 麻生だろ!

  嘘つき大将 安倍晋三!

  昭恵夫人は 喚問だ!

  加計の孝太郎氏も喚問だ!

  (注)次回(第2回)は3月3日()午後、日比谷公園集合で開かれます。

     たんぽぽ舎有志も前回に続いて参加します。

  (目印は黄色のたんぽぽ舎のノボリ旗)

 

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2018年2月22日 (木)

モリ・カケ追及納税者一揆

 

友人から下のチラシが送られて来ました。東京では3月3日の「納税者一揆・モリ・カケ追及」の緊急デモが行われるというのです。このチラシはPDFで送ってきたので、blogに載せられません。それでiphoneで撮って写真にして載せました。東京ではこういう運動も行われていることが分かる資料です。参加したいのですがボランティアがあってできません。残念です。


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2018年2月21日 (水)

医者は無暗にCTなどの検査をするな!!

 私が診てもらっているかかりつけの医者、瑞穂区にあるH内科は、名古屋市立大医学部、名古屋大学、藤田保健衛生大学、愛知医科大学からの研修生を受け入れている。ということは医大教授と同等のレベルだと認定されているのだろう。

  前にもblogに書いた様に、インフルエンザにかかっている人からうつされたと思って医者に行ったのだが、インフルエンザの検査は何もせずに、胸部レントゲンと血液をとられ、さらにレントゲンに薄い影があるからCTを撮るように言われた。

  患者にしてみれば医者に言われたようにするほかないので胸部のCTを撮りに行った。結果は肺炎のあとがあることと甲状腺に膨らみがあるから、次回に甲状腺のエコーを撮ると言われた。

  風邪の方はインフルエンザであるかどうかわからないまま2日で治ってしまった。2週間あまりたってエコーを撮りに行ったが、袋に水がたまったようなもので悪い物ではないと言った。

  インフルエンザに罹った人に聞いたら、インフルエンザの菌は鼻の粘膜をとって調べると言っていた。そんな簡単な検査もせずにいきなりレントゲンだ、血液だ、あげくの果てはCTも撮ってこいとは何事だと思った。

  先日、新聞の広告に近藤誠医師の新著「私が受けない26のこと」というような題の広告が載っていて、その中に「CTはやらない」と書いてあった。

  それでCTの被爆についてネットで調べたら、大阪大学医学部放射線科のHPには、X線の被爆はごく僅かだし、CTの被爆も人体に影響はないから心配無用と書いてあった。

  念のために他を調べたら、「レントゲン、CTの被爆のリスク」という本を書いた崎山比早子さんへのインタビューがあった。それによると、CTの被爆はX線の被爆の150倍だという。

 日本は人口当たりのCT数は他国の3.7倍もあり、そのため簡単にCT検査が行われるのだそうだ。

 また、被爆による発ガンが他国と比べて突出して高く、発がん数の4.4%もあり、毎年1万人近くの人が死んでいるというのだ。

 私の医者はいとも簡単にX線やCTを撮るように言ったが、今になって医者の言いなりになったことを大変後悔をしている。必要性を問いただすべきであったのだ。今更どうしようもないから発ガンしないことを祈るのみである。

 私は日本の医者に言いたい。無暗にX線やCTを勧めるなと。そんな医者は医大生を教える資格はない。命を守る医者は命への危険を極力避けるべきである。

 X線やCTは危険ではないという大阪大学放射線科も同じである。私は崎山氏や近藤医師の方が正しいと思う。

 医者がX線やCTや検査をやりたがるのは、それによって金が儲かるからだ。医者はいくらでも簡単に金を儲けることができる。今回のエコー検査でも8000円の儲けであった。もう一つは、薬の処方である。薬を売ることで儲かるのだ。

https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/140805/

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2018年2月20日 (火)

女子500米スピードスケート

 日曜日夜は大河ドラマ「西郷どん」を見る。18日はその後女子500米スピードスケートがあることが分かっていたが、いつも9時前には布団に入る習慣なので実況を観ないで寝ようと思った。

 チャンネルを5に切り替えたら、スピードスケートをやっていた。日本の期待の小平選手は14組だったが、500米スケートは一組40秒位と計算して、寝ずに観ることにした。何と言っても結果が分かって再放送を観るよりもLIVEの方がいいに決まっているからだ。

 観はじめたのは5組からであった。進行が早いのですぐに小平奈緒選手の14組の番が来た。あとの解説ではスタートにちょっとミスがあったようだが、どんどんとスピードを増してオリンピック新記録でゴールをした。それを観てほっとした。

 小平選手は日本選手団の主将を務め、金メダルへの期待も大きかったと思うのだがよい成績でフィニッシュしたのだ。

 ライバルの韓国の李相花選手は後の組で、彼女はこれまでオリンピック2連覇だというので、どうなるかと思いながら観ていた。結局37秒を切ることができず、小平選手の金メダルが確定したので安堵した。

 フィギュアの羽生選手についで2個目の金メダルで、メダル数も長野オリンピックと並んだというのだ。小平選手自身1000米の銀メダルと2個を取った訳で期待通りであった。

 試合後韓国の李選手が泣いているところに行って、肩に手をまわしていたのでいい光景だなと思った。小平選手が李選手を称え、今でもリスペクトしていると伝えたことを後で知った。小平選手は李選手を親友だとも言っていた。

 小平選手を雇って支援した相沢病院とか、信州大学の結城コーチとか、石沢アシスタントトレーナーなどいろいろな人に支えられ、彼女自身もスケート王国のオランダに留学するなど、たゆまない努力があって優勝できたのだ。

 一流の選手は才能だけでなく、その才能を100%発揮するためにみんな凄い努力をしているのだ。オリンピックでメダルがとれなくても、そういう選手たちの物語の記事を読むと感動する。

 小平奈緒選手は31歳だが、あの年令での金メダルと銀メダル、そして世界で14連勝というのは本当に素晴らしい。寝ないでLIVEを観て感動を味わえてよかった。

「小平奈緒 画像」の画像検索結果

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2018年2月19日 (月)

改めて名古屋弁について考えた

 2月16日の朝日新聞「声」欄に「廃れる名古屋弁いくつ分かる?」という投書があった。そこに紹介されていたのは、次の言葉である。

  ・机を「つる」→これは教室を掃除するとき「机をつって」と言っていた。今でも

  使っていると思う。

  ・手を「ばりかく」→蚊に刺されたときなど「ばりかいたらあかんよ」などと言ってい

  た。

  ・ハエを「ぼう」→ハエを追う。昔はハエが多かったのでしょっちゅう使っていた。

  今は使われなくなったと思う。

  ・「じょおぶい」→体が丈夫とかじょうぶな(破れない)紙、じょうぶな紐などと使っ

  た。

  ・「なんだしゃん」決まった→何だか知らないけど、知らないうちになどで使ってい

  た。

  ・道具を「もーやーこする」→何かを使うときに「もーやーこしよ」と言っていた。今

  の子供は使っているのだろうか。

  ・人を「ちょーらかす」→からかうとかおだてるということで、私の祖母や叔父など

  がよく使っていたのを思い出す。今は使わないように思う。

  ・そんなこと「あらすか」→これも昔の人はよく使っていた。

  この投書の結びに、「さて、各年代の名古屋人のみなさん、いくつ正解でしたか?」とあったが、もちろん私は全部正解である。

  私は小学校年の時から、紀州新宮から夏休みになると、知多半島の横須賀にある母方の祖父母の家に「食い延ばし」に来ていた。少しでも食糧不足を補うためであった。そこで使われていたのは名古屋弁であった。関西弁から来た私には大変珍しいものであった。子どもだからすぐに覚えてしまい使うようになった。

  祖父母の家の近所にきれいな上町の名古屋弁を話す婦人がいて、毎晩風呂を貰いに来て 縁台で夕涼みをしては帰って行った。その名古屋弁を聞いて名古屋弁でもきれいなのもあるのだなあと思った。

  私の話し言葉はおおむね共通語だと思うが、アクセントは名古屋訛りである。東京育ちの婿の耳には違和感があるようだ。

 ところでこの投書に刺激されて、ネットで名古屋弁について調べてみた。ネットには「名古屋弁辞典」とか「500語集めたもの」などがあった。名古屋弁辞典は収録が少ないようだが、名古屋弁といってもたくさんの用語があるのだと思った。中には共通語だと思って使っていたものもいくつかあった。

 私がこともの頃の年寄りはみな完全な名古屋弁であった。私も高齢になったが名古屋弁は話していない。このままでは名古屋弁は廃れてしまうと思われる。

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2018年2月18日 (日)

素晴らしいワンツーフィニッシュ!!男子フィギュアスケート

 昭和文化小劇場で「芸能まつり」を観ていたらスマホに着信があった。何だろうと思って見ると、男子フィギュアスケートで羽生選手が金メダル、宇野選手が銀メダルを取ったという速報であった。係りの人にそのニュースを伝え、会場の皆さんに知らせたらと提案したが実現しなかった。

  芸能祭りを観たあと、八百鮮というスーパーに行ったら、店員が客と話していて、「私もずっとテレビを観ていましたよ。お客は1人も来なかったのですから」と言っていた。そうかみなテレビのLIVEに釘ずけだったのかと思った。私も家にいれば当然テレビを観たはずだ。帰ってから妻に聞いたらやはり観たと言っていた。

  ショートプログラムはLIVEで観たのでフリーを期待していた。17日のNHKお早うニッポンでは開始から15分間羽生選手の特番であった。ちょっとやり過ぎだと思ったくらいだ。他の金メダル期待日本人選手でもあれほどの扱いはなかったからだ。

  羽生選手は昨年怪我をして、その後治療に専念し、平昌オリンピックの団体選も出ずに個人戦に賭けていたのと、大方の不安をショートプログラムで見事に吹き飛ばしたのだから、金メダルへの期待が高まったのも無理はなかった。

  宇野選手もショートプログラムで3位につけて、メダルへの期待を膨らませた。当然金メダルも狙える位置にいた。私はスペインのフェルナンデス選手が宇野選手より上に行くと予想していたが、宇野選手が銀メダルと聞いて、日本選手が金・銀とワンツーフィニッシュをしたのが嬉しかった。

  羽生選手の金メダルは当然素晴らしいが、宇野選手の銀メダルも素晴らしい。羽生選手はソチに次いで66年ぶりの連覇をし、日本の金メダル第1号に輝いた。それに華を添えるようにオリンピック委員会は1000個目の金メダルだと発表した。心から本当におめでとうと言いたい。

  ショートプログラムが終わった時、リンクにクマのプーさんが大量に投げ込まれた。子どものスケーターが拾い集めていたが、あの光景は初めてであった。それほど羽生選手への祝福が大きかったのだ。

 あの大量のクマのプーさんをどうするのかとは誰しも思うことで、世界中から注目をされたというが、地元の人たちにプレゼントすると言ったそうだ。

 羽生選手はプーさんが大好きで、部屋の中はこれまでもらったプーさんで溢れているといいことだ。

 練習をしている羽生選手を観たとき、ちょっと痩せたと感じ、大丈夫かなあと心配であったが、精神的にも見事に成長していてた。朝日新聞によると、滑れない間、「いろいろなもので勉強してきた」「フォーム、イメージを固めていた」そして練習を再開したとき「イメージを氷上に移した」のだという。

 羽生選手は成功したことも失敗した時も細かくノートに記録するのだそうだ。またメディアに語りその記事を読むのだそうだ。凄い努力をしてオリンピック連覇を果たしたのだと知った。

 宇野選手も彼のやり方でやってきたのが実を結んだのがと思う。二人とも感動を与えてくれた素晴らしい選手だ。

 これを書いた時点ではフリーの演技を観ていないので、7時からの番組で観るのを楽しみにしている。

「羽生選手 画像」の画像検索結果

「宇野選手 画像」の画像検索結果

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2018年2月17日 (土)

今年も見事なシクラメン

 以前にも書いたことがあるが、私はシクラメンが好きで毎年育てている。今見事な花をつけているシクラメンは鉢植えのを買って来てからもう5年以上になると思う。シクラメンを安く売っている八百屋で400円ぐらいで買ったように思う。

  買ったときは花はそこそこに咲いていた程度であった。それが今年は写真のように数千円の花に匹敵する見事な咲ぶりである。

  このシクラメンだが、1昨年は見事な花を咲かせたが、昨シーズン(2016年)は葉柄がひょろ長くてそのせいか花もあまりよくはなかった。今シーズンはダメだろうと思っていたら、大きな葉がたくさん出て、葉柄も普通であった。

  昨年11月頃になっても花は咲かず、立派な葉だけが増えて行った。12月中ごろであったかつぼみを付け始め、数がどんどん増えて行った。そして大きな花をつけた。

  つぼみが次々に出て来るのでみごとな花となった。シクラメンは葉が大事なようだ。大きくて葉がたくさん出るとつぼみもよく出るようである。

  それにしても前年度によくなかったのが、どうして今シーズンはよくなったのか私にも分からない。嬉しいのは買ってから5年以上も毎年夏を超すことに成功していることだ。

 シクラメンの夏を越させるのは2つぐらいやり方があるようだが、私は夏は水を一切やらず、9月まで涼しいところに置くようにしている。9月半ばぐらいになると、土を入れ替えて肥料をやっている。

 10年ぐらい前まではシクラメンの夏越しができず、素人には無理だと思っていたが、一度成功してからは毎年ほぼうまくいっている。今のシクラメンも今シーズンが終わったら夏を越してくれることを願っている。

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2018年2月16日 (金)

電話での通話が減っているらしい

 Yahooニュースを見ていたら、電話による1日当たりの通話回数と通話時間に触れた記事があった。それによると固定電話も携帯電話も共に通話回数や時間が減って来ているというのだ。

  ベルが電話を発明して以来長く固定電話の時代が続いた。子どもの頃磁石式の電話が金持ちの友人の家にあって凄いなと思ったものであった。交換手が出て相手とつないでくれるのであった。交換手は女性の花形職業であったように思う。

  そんな頃は電話を利用するというのは一般の家庭ではほとんどなかったと思う。またどうしても必要な場合は電話がある家に行って借りていた。

  磁石式の電話が自動でつながるダイヤル式の電話になったのは何時頃のことか記憶にはない。しかし電話がだんだんと普及し黒いダイヤル式の電話機が家庭に置かれるようになった。我が家にはまだ黒電話が残っている。停電の時端子に挿せば使えるので便利だが停電がないので押入れに眠ったままだ。

  黒電話を設置したのは結婚してしばらくしてからであった。父が「そんな贅沢なものを買って!」と文句を言った。でも、嬉しかったなあ。設置をするのに10万円もする債権を買わなければならなかったが。

  携帯電話というのが出て来たのはいつ頃だろう?おそらく40年ぐらい前だと思う。知人が大きな箱のような電話機を自動車に積んでいたことを思い出す。

  小型の携帯電話ができて携帯電話専門店が現れたとき、そんなものが商売になるだろうかと疑問に思ったものだ。だが予想に反して携帯電話が普及して行った。そして私もついに携帯電話を買ったのであった。大須のパソコン店で買った時のことを覚えている。8年ぐらい前の話しだ。

  携帯電話の改良はとても速く、スマートフォンが出て更に加速した。私がiphone5sを買ったのは5年前である。今の機種6sは2台目だ。

  スマートフォンはパソコンを持ち歩いているようなもので大変便利である。世界中とつながり、しかもアプリを入れておけば無料である。それにメッセージの交換ができるから電話で話すことも少なくなった。

  電話で話す必要があるときは、スマホを使う。5分以内無料のスーパーカケホにしてあるからだ。固定電話は電話番号を届ける書類のためにあるようなものだ。

  そういう訳で私自身も携帯電話で音声通話をすることは余りない。ましてや固定は1分9.3円かかるから滅多に使わない。だから話を戻して、通話時間や回数が減ってきたというのは納得できる。

 先ほどの記事によれば、以下のようである。

  ・1日あたりの平均通話回数は加入電話で1.4回、携帯電話・PHSで0.8回。

  ・1通信あたりの通信時間は加入電話で1分55秒、携帯電話・PHSで2分39秒。

 ・1日あたりの平均通信時間は加入電話で2分37秒、携帯電話・PHSで2分14 

   秒。

 スーパーカケホで5分間は無料はちょっと短い気がするが、必要な通話はできる。上の数値でみると5分もあれば十分ということになる。

 今やスマホは電話用というよりも、動画を見たり、SNSでつながったり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、辞書や百科事典などとして検索したり、必要な情報の検索をしたり、ナビとして使ったり・・・・多種多様な使い方ができる、私など高齢者なのに使いこなしていると言われることがあるが、とんでもない。ごく一部の機能を使っているだけである。

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2018年2月15日 (木)

葬儀って、何だ―⑧―補遺

 朝日新聞に2月4日、2月11日の日曜日に「弔いのあり方」という記事が掲載された。まだあと2回続くようだ。

  葬儀は「こじんまり」とやりたいというのが多い。やはり費用がかかることとへの不満があると考えられる。

  2月4日付の記事では「経済産業省の特定サービス産業動態統計調査から算出した2000年以降の葬儀1件当たりの平均費用は140万7千円~152万1千円の範囲で推移している。」という。非常に高額な費用が要ることが分かる。

  私の母は13年前に亡くなったが、生存中に自分の葬儀費用として300万円を用意していた。母はどこにも旅行に行かず、美味しい物を食べに行くことをせず、つましい生活をして貯めたのであった。母の唯一の見栄?は葬儀に世間並の費用を使うことであり、もう一つの配慮は私たち子どもに葬儀費用で迷惑をかけないということであった。

  記事によると「定産業実態調査によると、14年の葬儀業者の年間売上高は推計1兆3700億円にのぼる」という。大変旨みのあるビジネスであるようだ。

  また、「お布施を除いた葬儀の費用について、15年に全日本冠婚葬祭互助協会がネットアンケートで調べたら、101万円~150万円が最多であった」という。残念ながらお布施については記載がない。是非調査をしてほしいものだ。

  葬儀をこじんまりとやりたいということで、家族葬が増えていて2/3は家族葬だと記事は書いている。新聞に出る訃報をみていても「近親者で営んだ」というのが多く、私たちの周りでもそういう人が多い。

  11日の記事では、明朗会計を謳う「イオンのお葬式」とユニクエスト・オンラインの「小さなお葬式」が紹介されている。

  イオンのお葬式で一番依頼が多いのは、49万8000円の「家族葬」で通夜、告別式、初七日などが含まれるという。その他に「1日葬」が34万8000円で、「火葬式(直葬)」が19万8000円である。

 「小さなお葬式」は「イオンのお葬式」よりそれぞれ5000円安くなっている。それにしても私の見るところではまだ高いと思う。もっともっと安くやれないものかと思う。

 ちなみに「イオンのお葬式」が紹介するお寺のお布施は、「火葬式」が4万5千円、「一日葬」が7万5千円、「家族葬」が15万円だそうだ。家族葬の場合、通夜、告別式、火葬場、初七日を含むのだろう。おそらく戒名料も含むと思われる。詳細はイオンに聞かなければ分からない。

 ただこれで見ても、私の妙心寺派の檀那寺はべらぼうであることが分かる。それは導師の坊さんから55万円と言われたことと、金額が余りにも高額であることだ。本願寺の坊さんでやった知人のKさんのように10万円なら納得がいく。

 とにかく人の不幸で金を儲けようという葬儀ビジネスの魂胆はいかにも浅ましい。

 

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2018年2月14日 (水)

開放型から閉鎖型に変わった日本の住居だが

 朝日新聞2月10日の朝刊に「住まいのかたち 人や自然とのつながりを」という記事があった。筆者は山極寿一というゴリラ専門の霊長類学者である。

  山極氏はゴリラのねぐらとの関係から日本の住まいについて論じている。その中で面白いと思ったのは、現在の日本の住宅が完全に密着・閉鎖型であると指摘した点だ。

  戦後の日本の家は劇的に変わったと言い、それは1964年の東京オリンピックを契機にしているという。私の記憶ではオリンピックよりも前に団地なるものが各地に造られ始めた。名古屋でも自由が丘などに市営の団地が造られた。6畳とキッチンと風呂と便所の1階、3畳と6畳の2階という狭い団地であったが、私などは羨ましく思ったものであった。

  その後個人住宅が建てられるようになったが、それにはプレハブ住宅が寄与したと思う。新建材という用語ができたのもその頃であった。戸建ちの住宅は2階建てであった。私も2階建て住宅に憧れたものであった。(今は住宅は平屋建てがよいと思っているが)

  私が家を建てたときは、プレハブではなく木造を選んだが、外材やベニヤを多用した安普請であった。ただアルミサッシが普及して、開口部はすべてサッシで気密性が高かった。

  山極氏は言う。「現在、日本の住宅はマンションに代表されるように、周囲とのコミュニケーションを一切考慮せずに設計され、なるべく密閉できるようになっている。大気汚染ばかりでなく、花粉や虫の飛来、動物の侵入、騒音を防ぐ必要性が高まったためでもある。また、近隣の人々が顔見知りではないため、安全対策が重要になったせいでもある」と。

 確かに騒音はかなり防げるし、網戸が虫の侵入を防いでくれる。取り壊した古い家には青大将が住んでいたり、ネズミが天井を駆け回っていたがそれもなくなった。

 私が子どもの頃は開放型の住宅で、障子と襖と木の雨戸で壁は土壁であった。冬になると隙間風が何処からともなく入ってきた。それでここはと思うところを新聞紙を張って防いだのであった。

 玄関など入口には鍵をかけることは外出時以外はなかった。夜でも鍵をせず、夏などは雨戸も障子も開けて寝たのであった。そんなふうだから一度泥棒に入られたことがあった。

 どこの家でもみな開放的であったから、子どもも大人も近所の家に上がり込んで遊んだり話をしたりしていた。私たち子どもは近所の人たちで共同で育てられたようなものであった。

 ところが戦後閉鎖型の住宅が増えて行くにつれて、人と人のつながりや交流が無くなって行った。

 我が家の近辺も同じである。新しく越して来た人とは滅多に顔を合わすこともないし、挨拶もすることがない。僅かに昔から住んでいて子どものつながりがあった人とたまに話すくらいである。

 閉鎖型の住居ではかつてのような助け合いとかコミュニケーションはないのだ。他人とつながるのは、趣味のグループなどに入るかSNSしかない。

 こうしたことはドイツやイタリアや英国などでも同じなのであろうか。知りたいものだ。

 

 

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2018年2月13日 (火)

「老年的超越」というのを初めて知った―②―

 「老年的超越」の具体例が載っていた。幸せ感の高い超高齢者が抱く気持ちとしてつぎのようなものがあるという。

  ・ひとりでいるのも悪くない。

  ・「以前のようにできない」ことを悔やまない。

  ・よいことも悪いこともあまり考えない。

  ・周囲の人への感謝。

  ・十分に生きたという感覚

  「年を重ねることがなぜ、幸せ感につながるのか。加齢に伴って心身の能力が落ちていくことを否定的に受け止めすぎないよう、心の状態が自然と変化していくのではないかとすいそくされている」と記事は書いている。

  慶応大学医学部百寿総合研究センターの広瀬信義特別招聘教授らの調査では、100歳以上の長生きをする人は、好奇心が旺盛、社交的、きちょうめんと言った特徴があったという。これらの性格は、老年的超越に直接には結びつかなくても、長寿をとげることをとおして幸せ感につながっている可能性はあるという。

  逆に幸せ感を阻む要因はあるのかというと、これも明確ではないが、東京都健康長寿医療センター研究所の増井幸恵研究員(高齢者心理学)は、「老いることを不幸ととらえて『いつまでも自立していなければ』と思いがちな人は、老年的超越は得られにくいいようだ」とみているそうだ。

  この分野の研究はまだ十分でなく、分からないことが多いという。慶応大学の新村秀人専任講師(精神神経科)は「老年的超越は、求めて得られるものではない。まずはそういう状態があるのを知ることが大切なのではないか」と言っているそうだ。

 私も高齢者でいつのまにか昔なら長寿と言われる年になった。これから日々さらに高齢に向かう訳だ。何歳まで生きられるか不明だが、それは未知の世界でもある。高齢が進むと「老年的超越」の境地に巡り合えるかもしれないと思うと嬉しくなる。年を取ることは避けられないことだから自然に任せるのがよいように思う。

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2018年2月12日 (月)

「老年的超越」というのを初めて知った―①―

 2月7日の朝日新聞の「老いとともに」という欄に「衰えても幸せ『老年的超越』」という記事が載った。リードを読むと「90歳を超えるほどの高齢になると、それまでのように心身の若さを保つのは難しくなる。でも、、そんな人たちの間で、以前とは違う『幸せ感』を抱くよもうになる人が少なくないことが分かってきた」と書いてあった。

  私は何歳まで生きられるか・・・こればかりは生きてみないと分からない。80歳を超してからは身体的能力の衰えと記憶力の衰えを感じるようになったし、さらに何かをやることが面倒だと感じることが多くなった。

  もちろん今でも朝4時から5時の間には起きて、雨や雪が降らないがぎり早朝のウオーキングに出かけている。だが、歩く速度がだんだんと遅くなってきた。以前にblogに書いたときは60分ぐらいだったように思うが、最近は64分から65分ぐらいはかかるようになった。自分ではいつものペースで歩いているつもりなのにである。

  でも、毎朝、いつ歩けなくなるだろうかと思いながらも、歩くことが出来るのは幸せだと思ってウオーキングを続けている。

  高齢になればなるほど体力や認知機能が衰えるのは自然のことであり、避けようがないことでもある。60歳台の頃はそれほどの自覚はなかったが、80歳を超えてからはいつどうなるか知れたものではないと思うようになった。

   この記事によると、「老年的超越」という指標で示される幸せな感覚の度合いは、高齢の人ほど高い傾向があるのだという。その調査は大阪大学権藤恭之准教授(心理学)たちが兵庫県と東京都で、70、80,90歳の合計2200人を調査して分かったというのだ。70歳、80歳、90歳と右肩上がりで「幸せ感」が増して行くグラフが載っていた。

  老年的超越とは、高齢期に高まるとされる「物質主義的、合理主義てきな世界観から宇宙的、超越的世界観への変化」のことで、スエーデンの社会学者が唱えたのだそうだ。

 宗教的なものがどう影響するかについては説明がないが、超高齢の人は、ひとりでいてもさほど孤独を感じす、できることが減っても悔やまないようになり、周囲への感謝の気持ちが高まりやすいという。「成功」や「達成感」を重視する若い頃とは異なる、穏やかな幸福感だそうだ。

 この記事では超高齢を何歳とは特定していないが、多分90歳以上だろうと思われる。私の母は93歳で亡くなったが、知人や親せきに100歳を超えた人がいないので100歳を超えるということはどういうことが想像も出来ない。

 「ベッドにほぼ寝たきりでも『昔を回想するだけで楽しい』という人もいる。健康を失ってしまっても幸せでいることはできる」と権藤准教授は話しているという。そう聞くと年を取ることも嫌ではなくなる。

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2018年2月11日 (日)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年回顧―⑨―

 

治安維持法で検挙され、精神障害になり、拘禁精神病と診断された人たち。これらの人たちがまぎれもない治安維持法の犠牲者である。

 拘禁精神病と呼ばれる精神障害は、単に拘禁という物理的条件からくるものではない。それは、特高の過酷な取り調べ、転向の強要などの身体的、精神的侵害、そして、自分の信念と肉親の情愛との相克、葛藤、愛するものの裏切り、といった精神的苦悩の限界状況に由来する。このような状況におかれれば誰にでも起こりうる精神障害である。

 千代子は、人間の良心と自由に対する権力の弾圧へ、からだを賭して無言の抗議をした。

 彼女の高等女学校時代の恩師で、アララギの歌人土屋文明が、1935年、雑誌『アララギ』に寄せた短歌三首を紹介する。

まをとめの、ただ素直にて行きしを、囚へられ獄にき、五年がほどに

こころざしつつふれしをとめよ、新しき光の中におきて、思はむ

 高き世をただめざす をとめらここにみれば 伊藤千代子がことぞかなしき

 伊藤千代子はじめ戦争に反対して斃れた先駆者の志を継承し、どんな困難であっても平和を守り抜かなければならない。戦争に反対し、平和のために闘って斃れた伊藤千代子たちのこころざしを正しく受け継ぎ、戦争の過ちを再び繰り返さない拠りどころとしなければならない。

 おわりに

ベラルーシのノーベル賞作家のスベトラーナ・アレクシェービッチが、過酷事故を起こした東電福島第一原発を視察した後の講演で「日本には抵抗の文化がない」と言っていたことが気になっていた。

確かに日本の農村地域に残る「横並び思考」を踏まえれば、その通りだと思えるが、日本の歴史・文化を辿るとそうとは言えないのではないかと思う。日本には「抵抗の文化」はあった。乏しい歴史知識でも、中・近世の土一揆、一向一揆、百姓一揆は、江戸時代を通じて約3200件も起きている。明治政府に対する自由民権運動。そして米騒動があげられる。

 個人としては、公害反対闘争の先駆者田中正造がいる。新藤謙「国家に抗した人びと」(寺子屋新書)によれば、海軍大佐でありながら、永久平和を願い軍備撤廃をめざした水野公徳。風刺精神を極限まで高めて川柳をつくりつづけた鶴彬。トルストイの思想に共鳴し、兵役拒否を貫き通した翻訳家・北御門二郎。陸軍参謀本部で軍部への怒りを日記に綴った作家・中井英夫。内心の自由を求め、ひたすらに思想と学問を深めていった歴史学者・家永三郎らが紹介されている。

 最後に、手前味噌となるかもしれないが、赤岩栄(1903~1966)をあげたい。日本基督教団の牧師。牧師をしながら共産党入党宣言をしたこととから教団内の大きな問題になった。詳しくはウィキペディアなどを参照してほしい。

 赤岩栄は上原教会の牧師をしていたが、小生の父はそこの教会員であった。父は赤岩栄を尊敬しており、赤岩栄は両親の結婚式の司式もしている。父は鉄道省の電気信号技師で、ATⅭ列車制御装置の先駆的研究をしていたが、教会の修養会などのお世話もしていたという。

父は山口高校時代に学生運動をするなど当時としては過激派であったため、東大は思想的に難しいかもと、親戚からのアドバイスを受け、京大の電気通信科に入学した。父は小生3歳の時に他界しており。直接感化されたことはないが、そうした父のDNAのかけらを引き継いでいるのかもしれない。

 赤岩栄は、晩年は、バルト神学を捨てて、ルズルフ・ブルマンの非神格化論の神学に影響されて、人間イエスを探求し、イエスを自ら実践する方法を探った。1966年に「キリスト教脱出記」(理論社)を出版し、正統なキリスト教信仰を廃して、内部からの鋭い問題提起とキリスト教批判とを行った。社会活動としては、全国生活と健康を守る会連合会(全生連)第3代会長などを務めている。

 《参考文献》

 『さよなら!福沢諭吉』第4号(2017年11月 発行世話人 安川寿之助)

 二宮厚美『終活期の安倍政権』(2017年11月 新日本出版社)

 鷲巣力『加藤周一を読む』(2011年9月 岩波書店)

藤田廣登『時代の預言者―伊藤千代子』(2005年7月 学習の友社)

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2018年2月10日 (土)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年回顧―⑧―

伊藤千代子

平和憲法を蹂躙して、治安維持法的なものがいつまた復活するか分からない状況が日本を飲み込もうとしている。

このような時代状況から、かって戦争に反対し平和のために闘って斃れた先駆者の思想と行動を学び、戦争の過ちを再び繰り返さないためのよりどころとしなければならない。

 昭和初期、1928年から34年にかけて、治安維持法で検挙、投獄された人たちの中に拘禁精神病と呼ばれる精神障害に罹患した人たちがいた。

 伊藤千代子はその中の一人である。千代子が過ごした大正末期から昭和初期、1920年代は、日本の軍部ファシスト政府が、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニと呼応して、15年戦争に突入する前夜であり、それに抵抗する民主化運動が急速に高まりつつある時期であった。

 千代子は、1928年(昭和3)年1月、東京女子大4年生の時、卒業を間近にして思想上の指導者である浅野晃氏と結婚。日本共産党に入党している。党中央事務局の事務局長水野成夫のもとでリポーターとして活動していた。

 全国の日本共産党員とその同調者と目された人たちが、3月15日一斉に検挙された3・15事件である。彼女も、民主化運動に対するファシズム政府の大弾圧で滝野川警察に逮捕された。この日検挙された人は全国で3千6百人にのぼった。この弾圧の拠り所になった法律が治安維持法である。

 千代子が警視庁滝野川署に逮捕されたとき、取り調べにあたったのは警視庁特高のM警部であった。Mは、後に殺された小林多喜二の拷問を指揮し、宮本顕治日本共産党議長に拷問を加えている。彼の取り調べはすぐ暴力をふるうことで有名だった、ひどい取り調べを受けた後、市谷刑務所に送られた。ここはまた、粗末な食事、不衛生な監房、病人に対する不親切など非人間的な取り扱いで有名だった。

 千代子は、体がかなり弱っていたのに、獄中ではいつも自分のことより他の同志のことを心配し、当局や看守の不当な扱いに対して勇敢に戦っていた。

 11月7日のロシア革命記念日には、激しい暴圧と厳しい監視の中で、獄中の同志たちと連絡をとり、起床のボーを合図に、女子舎房から刑務所中に「同志よ固く結べ」の歌声を響きかせた。また「帝国主義戦争絶対反対」などのスローガンを唱和し、3・15の記念日には、「赤旗(せっき)」の1番をほかの女囚と合唱したりして、看守連中をあわてさせた。

もちろん、懲罰は覚悟の上であった。当時の特高警察は、殴る、ける、たたくなどの暴力をふるい、若い女性には衣服を脱がせて裸にするなどの辱めでショックや動揺を与える「身体検査」を行うなど、病人でも容赦しない卑劣かつ残酷なやり方で取り調べをしていた。

 1929年3月ごろから、水野成夫氏ら、当時の共産党の指導者の一部が、市谷刑務所の獄中で、天皇制打倒といった治安維持法に触れる主義、主張を撤回し、党の解体と新しい党を樹立する運動をはじめ、この運動に加わった者が、それぞれ自分の主張を書いた「上申書」を警察に提出した。その中に、千代子の夫浅野氏もいた。

浅野晃氏は自分の上申書を、もし千代子が目にすることがあれば、きっと大きな衝撃を受けるにちがいないと思い、担当の検事に自分の上申書は千代子に絶対見せないでほしいと頼み込んだ。検事も見せないと一応の約束はする。しかし、取り調べの際、千代子に転向を迫るのに利用しようと、夫が解党派の一人であることを千代子に告げた。約束を破って、浅野氏の上申書を千代子に読ませた。

 千代子が精神に変調をきたしたのは、浅野氏の上申書を読んでから間もない1929年8月1日ころからである。急性の激しい錯乱状態に陥る。千代子の思想上の指導者であり、最愛の同志であり、夫である浅野晃氏の裏切りが、千代子に与えた衝撃がどんなに大きいものであったか推測に難くない。

 千代子が東京府立松沢病院第4病棟に収容されたのは発病から2週間以上たった8月17日であった。

 

因みに、上申書を書いた水野成夫氏、浅野晃氏ら解党派は、千代子がなくなった翌年、1930年にみな釈放となり、市谷刑務所から出所するが、日本共産党から除名された。

 

1929年9月24日、千代子は亡くなった。24歳2か月の短い生涯であった。その死は治安維持法と特高による虐殺に等しい、非業の死であった。

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2018年2月 9日 (金)

興味深い「さようなら福沢諭吉」明治150年を回顧―⑦―

 

しかし、政府は何らの対策も取らず、見捨てられた人々は1900年に第四回の押出しを余儀なくされた。被害民たちを利根川に架かる橋のある川俣で警官隊が待ち伏せして弾圧。100余名が逮捕され、51名が兇徒聚衆罪の罪名で起訴された。

正造は、議会で「関東の真中へ一大砂漠を造られて平気でいる病気の人間が、殺さないようにしてくれいという請願人を、政府が打ち殺すという挙動に出でたる以上は、もはや自ら守る外は無い。一本の兵器も持っていない人民に、サーベルを持って切りかかり、逃げるものを追うというに至っては如何である。これを亡国で無い、日本は天下泰平だと思っているのであるか。」と政府を追及した。

 それでも、時の政府が戦争に力を注ぎ、住民を守ろうとしないため、1910年10月、正造は「亡国に至るを知らざればこれすなわち亡国の儀につき質問書」を提出し、議会を捨てた。その年の12月、天皇直訴に及んだ。直訴は死罪の可能性もあり、正造は自らの命に引換に世論の喚起を狙ったのであった。幸いか不幸か、その直訴は天皇警護の警官隊によって阻まれ、正造自身は狂人として即日釈放された。

 正造の直訴を受け、一時期世論は足尾鉱毒問題に沸騰したが、それも時の経過とともに忘れられていった。

 荒廃した水源地は洪水をますます加速させ、渡良瀬川の堤防は度々決壊するようになったが、国や県はそれを修復するどころか、むしろ意図的に破壊した。そして、鉱毒溜めの池を作るため、栃木県谷中村(450戸、2700人の住民が住んでいた)を水没させることにした。現在の渡良瀬遊水地がそれである。

 1904年には日露戦争が始まり、挙国一致で戦争になだれ込んでいった。正造はその年、水没されようとしている谷中村に入村し、住民と寄り添う道を選んだ。

 住民たちは一戸また一戸と谷中村を離れていったが、19戸の住民はあくまでも国の無法に抵抗つづけた。しかし、ついに1907年、国が土地収用の強制執行を行って、住民の家屋を破壊した。それでも、住民たちは水没を免れた高台に仮小屋を建てて、抵抗を続けた。正造は以降1913年死を迎えるまで、水没させられた谷中村と、その住民に寄り添って過ごした。

 その後も、足尾銅山は政府の庇護の下、稼働を続けた。鉱石の品位は低下し、産銅量は低下、一時は命脈を絶たれる寸前となった。しかし、戦後の朝鮮特需で息を吹き返し、その後の高度成長の波に乗って、国内の他の鉱山からも運び込み、さらには外国からの鉱石も運び込んで稼働を続けた、そして1970年にベトナム特需で年間36万㌧を超える銅を生産して最盛期を迎えた。

 その足尾銅山も今では閉鎖となったが、鉱毒はその後も堆積場に野ざらしになって放置されたままとなり、福島第一原発事故が起きた東日本大震災の時には、源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒が流出した。今後も、長い年月に亘って、堆積場の崩壊によっていずれまた渡良瀬川の汚染が起きるであろう。

 正造は、死を迎えた朝、見舞客に対していった。

 「お前方大勢来ているそうだが嬉しくも何ともない。みんな正造に同情するだけで正造の事業に同情してきているものは一人もいない。おれは嬉しくない。行ってみんなにそういえ。」

 そして、正造は言う。

 「対立、戦うべし。政府の存立する間は政府と戦うべし。敵国襲い来たらば戦うべし。人侵入さば戦うべし。その戦うに通あり。腕力殺戮をもってせると、天理によって広く教えて勝つ者との二つの大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れてもやまざるは我が道なり。」

 足尾鉱毒で始まり、四大公害を経、そして今なお発生する公害、さらには沖縄を含めた基地問題など、全ては同根である。それを貫いているものは、国を豊かにするという思想である。そのもとで企業を保護し、住民は切り捨てるという構図が続いてきて、福島原発事故を経た今もその構図は全く変わっていない。しかし、「民を殺すは国家を殺す也」と正造が指摘した通り、住民を見捨てる国が豊かであるはずがない。正造は言う。

「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」

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2018年2月 8日 (木)

興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑥―

 

田中正造

 足尾は関東平野の北限に連なる山間の地である。山々から流れる沢は、渡良瀬川となって関東平野に流れ込む。

 その足尾で銅が発見されたのは1600年頃のことで、当初は徳川幕府直轄の銅山として稼業し、一時は年間1500㌧の銅を産出し、当時開国していた唯一の外国であるオランダに向けて輸出もしていた。

明治時代に入って足尾銅山は再度隆盛を極める。日本は日清、日露の戦争を戦い、世界の列強に伍そうとして、そのために明治政府は富国強兵、殖産興業を基本原理として、産業の近代化に邁進した。とりわけ、銅は海外での需要が多く、日本にとっては外貨を獲得するための主要な輸出商品となり、産出した銅のほとんどすべてが輸出された。足尾銅山はその基礎として開発、利用された。

 しかし、その陰で、足尾銅山からは、亜硫酸ガスが大量に放出され、付近一帯の山々は禿山となり、製錬の残さは100万平方メートルを超える堆積場を次々と埋め尽くし、保水力を失った禿山に雨が降れば簡単に洪水となって堆積場を襲い、銅を主成分として、鉛、カドニュームなどを含んだ鉱毒が渡良瀬川下流に流れた。そのため、1885年には渡良瀬川での魚の大量死が始まり、87年には渡良瀬川の魚類は死滅した。

 田中正造は栃木県佐野市の庄屋の家に生まれ、栃木県県会議員、議長を経、1890年に初代帝国議会の衆議院議員になった。直ちに、鉱毒被害の追及をはじめ、1891年には「足尾銅山鉱毒加害の儀につき質問書」を議会に提出し、政府を追及した。

 しかし、政府は足尾銅山を保護するだけで、住民を救済する方策をとらなかった。被害は拡大し、1892年には洪水で著しい被害が出た。加害者の古川鉱業は被害民と第1回の示談を行い、わずかばかりの金銭を支払った。

 1894年には日清戦争が始まり、政府は戦費調達のために足尾銅山の庇護を続けた。鉱毒による被害は増える一方となった。その当時、渡良瀬川は、江戸川となって東京に流れ込んでいたが、鉱毒が東京に流れ込むのを嫌った政府は、1894年に埼玉県関宿で渡良瀬川を銚子に流れる利根川に付け替えた。

 1896年に再度の大洪水が起こり、渡良瀬川、利根川、江戸川流域一府五県4万6千町歩に鉱毒被害が拡大した。疲弊しきった農民・漁民は、1897年、二度にわたって、東京に向けて「押出し」をし、救済を訴えた。

 正造は、押出しに向かう人々と呼応して、議会で、追及を続けた。苦難のどん底に突き落とされた住民は1898年に三回目の押出しに及んだ。そのとき正造はまだ帝国議会の議員であり、押出しに向かう住民を保木間で迎えて、以下のように演説し、押出しを思いとどまらせた。

「一つ、正造は日本の代議士にして、またその加害被害の顛末を知るものである。故に衆に先立って尽力すべきは正造当然の職分である。諸君がすでに非命に斃れるを見る。正造は諸君たちに先んじて死を決しなければならない。もう一つは、現政府は幾分か政党内閣の形をなすもので諸君の政府であり、また我々の政府である。(中略)政府が事実をはっきり認識しながら、なお鉱業の停止をしないならば、そのときは、もはや諸君の行動を止めない。進退を共にする。先頭に立って行動する。」

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2018年2月 7日 (水)

興味深い「さようなら、福沢諭吉」 明治150年を回顧―⑤―

 《補論》

  加藤周一『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』に学ぶ

 『鴎外・茂吉・杢太郎』と『日本文化における時間と空間』には、日本社会に残る超越的価値観の希薄性ないし弱さに対する加藤周一の「悲観論」を集約する。

 最後まで「気がかりにした日本の思想的特徴」である。「悲観的気がかり」を構成するキーワードとは、「超越的・普遍的価値観の欠如ないし希薄性(「鴎外・茂吉・杢太郎論」と「いま・ここ主義」(「日本文化における時間と空間論」)である。

「いま・ここ主義」とは「超越的・普遍的・絶対的価値観の希薄性」の裏側にある思考様式、世界観、エートス、文化的特質等のことである。

「いま・ここ主義」の一つの意味は現在中心主義をさす。現在中心主義とは、過去と未来とを現在を中心にしてつなぐのではなく、切断するということである。 過去・現在・未来の時系列の歴史的・論理的つながりを断ち切ることの第一の帰結は、過ぎたことは水に流すこと、特に都合の悪い過去を忘れ去ることである。(過去の戦争責任、「森友加計疑惑」、福島原発のメルトダウン事故など)

第二は、未来に対して、過去や現在を引きずらないこと、いわゆる「未来志向」に立って、その時その時の風に任せること。

 加藤周一は「済んだことは水に流す」の対句を、端的に「明日は明日の風が吹く」といっている。

過ぎたことを水に流す例として、ドイツ社会は、『アウシュビッツ』を水に流そうとしなかったが、日本社会は『南京虐殺』を水に流そうとした。

「明日は明日の風が吹く」式の思考を示すものとして、「1941年12月8日の東京市民の表情は愉しそうでした」、真珠湾攻撃の日に「日本人の顔が明るいのは、数年後に何が起こり得るかを考えずに暮らすことができるから」と説明する。

 加藤周一は「日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある」と指摘した。

「いま・ここ主義」にいう「ここ」とは、空間における「ここ」という部分的スペースを指す。「ここ主義」とは「部分(強調)主義」と言い換えられる。全体の計画や設計、見取り図、又は世界観や統一的様式があって部分が決まるのではなく、逆に部分が先にあって、結果として全体がつくられていくということである。

「いま・ここ主義」による無責任、なし崩し的変化、大勢順応主義とは

 第一は、過ぎたことは水に流して生まれる過去の忘却、そして、この不都合な過去の忘却に基づく無責任体制である。(2013年9月、東京オリンピック誘致演説において、安倍首相が福島第一原発の汚染水漏れ問題について「状況は完全にコントロールされています」

 第二は、「建て増し方式」(9条加憲論、アベノミクス第一の矢)

 第三は、大勢順応主義の傾向である。大勢順応主義とは、普遍的・超越的価値観が弱く、「いま・ここ主義」の風潮が強いところで起こる大衆的現象、すなわち「集団の成員の大部分が特定の方向へ向かう運動」のことである。

「いま・ここ主義」の強いところでは、過去・現在・未来を貫く視点や原理が弱く、普遍的・超越的価値観が希薄のために、人々を特定の方向に同調させる圧力が作用すると、大勢を集める流れがつくりだされ、たちまちのうちに大勢順応主義が大衆的現象となる。

 

概要、①鴎外らには普遍的・超越的価値観が希薄であったこと、②普遍的・超越的価値観が希薄性は日本文化を貫く「いま・ここ主義」と裏返しの関係にあること、③「いま・ここ主義」に起因して、a.無責任体制、b.なし崩し的変化、c.大勢順応主義の三つの傾向が生まれ、これが現在の日本にも根強く残っていること、これら三点である。

 

 

 

 

 

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2018年2月 6日 (火)

興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年を回顧―④―

  第二は、三人が絶対的・普遍的価値観ないし心情(=信念)をついに持ち得なかったことである。絶対的・普遍的価値観とは、例えば良心的兵役拒否といった絶対的平和主義のエートスのようなものである。

 絶対的・普遍的価値観は、時勢・時流に流されることのない不動の価値観や規範、大勢に逆らってでも堅持する揺るぎなき信念、時代の変化を超越した価値観のようなものである。加藤流では、この絶対的・普遍的価値観は超越的価値観と言い換えられる。超越的というのは、各個人が属する集団だとか、同世代・時代、大状況から超越的である、という意味であり、諸個人が自律性を保つための拠点になり得るような価値観のことを指す。ひらたくいえば「ぶれない価値観」である。

 加藤周一は、集団主義において強くあらわれる、大勢順応主義や時代迎合主義から各個人が自由になるには、この集団や時勢から超越した絶対的・普遍的価値観に依拠する必要がある、ということを再三強調した。

 鴎外等が経験した戦争中には、国民の多くが戦争に動員され、大勢は軍国主義に傾き、国を挙げて戦争に翼賛する体制が築き上げられた。この動きに抵抗したり、逆らって「反戦」を貫くことは容易なことではなく、よほどの信念・確信に支えられない限り、怒涛のような軍国主義の流れから自由になることは出来なかった。

 そこで、加藤周一は戦前の天皇制軍国主義の体勢に流されない視点として各自の有する超越的・普遍的価値観の重要性を指摘しつつ、同時に、鴎外ら三人はかかる絶対的・普遍的価値観を持ち得なかったとしたのである。

 戦前の場合、天皇制国家の軍国主義に対して「反戦」を貫き通すことのできる思想・価値観を提供したのは、もっぱらマルクス主義とキリスト教の二つであったといっても過言ではない(この二つが外来のものであり、土着のものではなかった)。

 第三は、三人が民衆の立場に立てなかったことである。鴎外らは、時代のエリートであって、階級的には支配層に所属していた。鴎外は天皇制官僚制の一員として権力中枢に近いところにいたし、杢太郎は帝国大学の教授、茂吉も私立病院の院長として、エリート層に属していた。民衆の一員だったわけではない。

 だが、戦争になると、最もその犠牲を被るのは、一般の大衆、民衆である。戦争の最前線でその犠牲者、被害者となるのは、専ら民衆、庶民である。別の視点でいうと、戦争に対して最も鋭く、敏感に反応するのは、民衆だということである。当世風のいい方では、戦争の当事者意識は民衆の立場に立ってこそ持ち得るし、理解できるものである。だが三人は、この当事者意識に欠けていた。

 以上三点、すなわち①戦争の社会科学的認識の欠如、②戦争に対する超越的・普遍的価値観の希薄性、③民衆的視点の欠落の三点が、鴎外・茂吉・杢太郎が共通して反戦的立場・思想を貫くことのできなかった理由である。これが加藤周一の講義のポイントであった。

 

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2018年2月 5日 (月)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―③-

鴎外・茂吉・杢太郎

今から二十数年前、加藤周一がNHK教育テレビ番組「人間大学」講座「鴎外・茂吉・杢太郎」において、12回にわたって話した(1995年1~3月)。

 鴎外・茂吉・杢太郎の三人が共通して、日清・日露から太平洋戦争にいたるまで、日本が当事国となった戦争に対して、決して反戦の姿勢を貫くことがなかった。三人が戦争に反対しなかった理由、又はしえなかった理由、その「謎」に対して、加藤周一は明快な説明をした。

 鴎外・杢太郎は、明治後期以降の日本の侵略戦争に積極的に加担したというわけではないが、反対の態度を鮮明にしたわけではなく、茂吉にいたっては、太平洋戦争を熱狂的に賛美し、明らかに天皇制国家によるアジア侵略を鼓舞する立場にまわった。これは、いったいいかなる理由によるものか。

 まず森鴎外、斎藤茂吉、木下杢太郎の三人に共通するのは、戦前の代表的な文学者、医師すなわち医学研究に従事した科学者、そしてヨーロッパ留学の経験者、といったところであった。戦前日本の場合、医学等の自然科学は、主に欧米の「輸入学問」に依存していたから、彼ら三人はベルリン(鴎外)、ウィーン(茂吉)、パリ(杢太郎)の留学経験を積んで、文学面のみならず、科学研究面においても日本では最前線にいた。彼ら三人は共通してインテリゲンチャとしてはエリートに属した。

 加藤周一が問題にしたのは、かくも優れたエリート知識人が、なぜ戦争に反対しなかったのか、反戦の立場に立ち得なかったのか、その理由である。加藤周一がたてた問いを現在の日本にあてはめていえば、現代日本のノーベル賞級の知識人たちの中で、もし安保法制や安倍改憲に反対しない人がいるとするならば、それはいったい何故なのか、いかなる理由によるものか、という問いである。

 加藤周一によれば、その理由は三点である。

 第一は、三人ともに戦争に対する社会科学的認識に欠けていたことである。日清・日露からアジア・太平洋戦争にいたるまで、近現代の戦争を貫く共通の性格は、言うまでもなく植民地侵略・獲得戦争という性格である。あるいは、帝国主義戦争であった。

 三人が反戦の立場をついにとりえなかったのは、中国・朝鮮をはじめとするアジア諸国に対する日本の帝国主義的侵略戦争の本質を見抜き得なかったことに起因する。

加藤周一のいう社会科学的認識とは、戦前の場合、具体的にはマルクス主義による戦争分析・認識のことを指す。それは、戦前の場合には、「社会科学=マルクス主義」という捉え方がほぼ一般的であったということと(例えば丸山眞男は「戦前においては、簡単に言えば社会科学イコール、マルクス主義だった」と回顧している(加藤周一『加藤周一対話集第二巻 現代はどういう時代か』かもがわ出版、2000年)、日本にあっては、実際に帝国主義的侵略戦争、植民地獲得戦争を正面から分析した社会科学は主としてマルクス主義陣営だったからである。

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2018年2月 4日 (日)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―②―

 

「祭天」とは、天を祀ること、天とは自然のことである。「祭天」とは自然崇拝のことである。「古俗」とは、昔からの習俗という意味である。

  日本中の神社を見てみると、和歌山県の那智大社は、那智滝をご神体とする神社、月山神社、出羽神社、湯殿山神社を合わせた出羽三山のように、月山・湯殿山・羽黒山という、山をご神体とする神社など、驚異的な自然を崇拝する例が非常に多い。

 一方、菅原道真を祀る天満宮(天神様)、徳川家康を祀る東照大権現のように、亡くなった人を神として祀ることがある。

 このように、本来の神道は、滝や山、あるいは、亡くなった人の霊を信仰の対象にするものであった。

明治政府はそれまで「天照大神」を崇拝する天皇家固有の神道だったものを「国家の宗」として、新たに「国家神道」をつくり上げたのである。

 この国家神道で、天皇は天照大神の子孫であり、生き神様であるとされた。国家神道の形成と、明治憲法の制定を基盤として、教育勅語が日本人の心を縛るものとなった。

「近代天皇制」を「明治時代にできた新興宗教」と言われる所以である。この新興宗教を信仰することを国民は強制され、洗脳された。明治政府は憲法や教育勅語だけでなく、「讒謗律」「新聞紙条例」「出版条例・出版法」「集会条例」「不敬罪」などで国民の言論の自由を奪い、身も心も縛り、侵す「天皇制国家」を作り上げた。

 

「近代天皇制」は長い歴史を持つ神道とは別物の「国家神道」を基盤に据え、天皇を現人神と崇める。

その国家神道の中心に据えられた天皇は、1945年の敗戦後、連合国軍によって、国家神道が廃止されると、1946年にいわゆる「天皇人間宣言」で自己の神格化を否定した。

 その時点で、近代天皇制は消滅したはずが、「洗脳」の影響は現在も残っている。

現在の「象徴天皇制」は、アメリカが日本を統治するために考え出した制度である。日本の敗戦後、戦勝国の間ではヒットラー、ムッソリーニと同様に、天皇にもその戦争責任を取らせるべきだという意見が強かった。ヒットラーは自殺、ムッソリーニはパルチザンにとらえられ処刑され、その遺体はミラノの広場で逆さ吊りにされた。翌年の6月の国民投票(1272万対1072万)によって、イタリア国民は王政を廃止し、国王一族を国外追放した。

 

ロシア、イギリス、オランダ、オーストラリアなどは天皇裕仁の処刑を強硬に求めた。しかし、戦勝の二年も前から戦後の日本統治の研究をしていたアメリカは、天皇を残しておいた方がアメリカにとっては日本を統治しやすいと考えた。

天皇を象徴としたのは日本ではなくアメリカが決めた。日本人はアメリカに与えられた「象徴天皇」の象徴の意味をあいまいにしたまま現在まで過ごしてきた。

 

石川県の高校教師(美術・書)である中谷成夫『一万円札の福沢諭吉』(2014年「文芸社」)の中で、福沢諭吉を、「若いときは民主主義、人間平等を鼓吹したとされるのですが」、後半生の20年間は、「隣国の朝鮮や支那への侵略を熱烈に主張する」「強烈な帝国主義者であり軍国主義者であり」「昭和にいたる暗い軌道を敷設する役割を果たし」、「結果的に昭和20年の日本の敗北にいたるアジア侵略へのレールを敷いた人物」と評価し、福沢が「最高額紙幣の一万円札の顔」に相応しくない人物であると結論付けている。

慶應出身者を含めて、『学問のすすめ』『福翁自伝』『文明論乃概略』なら、少し読んだことのある日本人はいるが、誰でも福澤を知っている日本人が、実は福澤の著作を読んでいない。

 日本人は『すすめ』『概略』『自伝』などは読んでも、肝心の福沢が直接社会に向けて一番多く発信した『社説、漫言、その他の論説』は読んでいない。ところが、『福沢諭吉全集』の中で一番多いのは福沢が経営していた「時事新報」紙(その後継紙が「産経新聞」)に福沢が掲載したこの『社説、漫言、その他の論説』である。

 福澤が「ヘイトスピーチの元祖」と言われるほどにアジア諸国民を蔑視し、「強兵富国」のアジア侵略路線を先導し、その近代化の道のりが1945年8月の日本の敗戦・破綻につながったことは、誰の目にも明らかになる。

 

『福沢全集』の福沢の『社説、漫言、その他の論説』に目を通せば、福沢の真実の姿を素人でも見落とすことがない。

日本人の福沢についての誤解は、まず日本人が福沢の著作をほとんど読まないできたためであるが、「戦後民主主義」時代の日本の研究者が、アジア蔑視、アジア侵略戦争の先導者福沢を、偉大な「民主主義の先駆者」と読み誤り、数々の福沢諭吉神話(じつは「丸山諭吉」神話)を創作してきたためである。

 丸山眞男の丸山福沢論の代表作『「文明論乃概略」を読む』(岩波新書)は致命的な誤読である。

 丸山眞男らは、戦後日本の民主化の啓蒙と推進のために、天皇制軍国主義者、帝国主義者の福沢を「民主主義の先駆者」という神話の主人公に仕立て上げ、福沢諭吉を1万円札の肖像まで押し出した。

 しかし、神話にもとづく啓蒙によって、現実の日本社会を変革することは出来ない。丸山らに代わって今、日本で福沢諭吉を最高にもてはやしているのが、日本の戦争国家への道を暴走している安倍晋三を筆頭とする石原慎太郎、平沼赳夫ら「極右」の政治家であることに注視する必要がある。

 

 

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2018年2月 3日 (土)

興味深い「さよなら 福沢諭吉」 明治維新から150年を回顧―①―

 今年は明治維新150年である。それに関連したニュースなどがいろいろ出て来るであろうことは前に書いた。

 先日友人から送られてきたのは、「さよなら、福沢諭吉」という小冊子の内容がよいのでワードにしたというものである。ワードにしたのは戸田しろうという方である。

 福沢諭吉と言えば、中学・高校などの歴史で必ず「学問の勧め」が紹介され、冒頭の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり」という文が有名で私なども暗記してしまったくらいである。

 その福沢は西洋から民主主義の考えを取りいれた人だと思われているが、実はそうではなく天皇中心の国体を推し進めた人物であったということだ。私も以前に福沢について間違ってとらえられていることを取り上げたことがあった。

 明治維新150年の年に福沢の本当の姿を見るべきだという論考は面白いし有意義である。

――  明治維新から150年を振り返る

はじめに

 2018年の幕開けとともに私たちは歴史の節目を迎えた。2018年1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から150年目の年です」と切り出し、明治維新を称賛した。菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。

 日本の近代化の出発点と言われている明治維新を振り返り、その後の歴史を辿ることは意義あることである。

 そこで、明治維新以来今日にいたる歴史の中で日本人に影響を与えた人物、福沢諭吉、田中正造、森鴎外・斎藤茂吉・木下杢太郎、伊藤千代子の生きざまとその思想を取り上げた。

(1)福沢諭吉

 福沢諭吉は、日本では最高額紙幣の顔となるほどの著名人である。慶應義塾大学の創始者であり、幕末・明治初頭に三度洋行して、『西洋事情』『学問のすすめ』等のベストセラーを書き、また「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という、『すすめ』冒頭言葉で知られている。

 けれども、『すすめ』冒頭には確かに「天は人の上に造らず…」と書いてある、だが福澤はこれを、「・・・と云えり」と単なる伝聞として記し、後に続く文に先立つ譲歩節として置いただけである。

 天皇制についても、福沢諭吉は、明治8年(875年)の『文明論乃概略』までは、「我が国の人民は数百年の間天子の存在を知らず、ただ、伝説のように言い伝えてきただけである」「鎌倉時代に入り人民が皇室を知らなかったことは七百年に近い」

「国君といっても同じ人類である。偶然の生まれで君主の位にいる者か、または、一時の戦争に勝って政府の上にいる者にほかならない。どうしてこのような輩の命令にしたがって、我が一身の徳義品行を改めるものがあるだろうか」

「政治と天皇を尊び祭り上げることを、一つのものとする考えで世間を支配することとなったら、日本の未来はない」などと言っている。

 ところが、福沢諭吉は明治15年(1882年)の『帝室論』、明治21年(1888年)の『尊王論』では、突然、「我が帝室は日本人民の精神を収攬する(集める)中心である」「我が大日本国の帝室の尊厳神聖の得は高い。我々臣民としては帝室を尊ばなければならないことは万民の知るところである」などと、それまでとは正反対に、天皇を祭り上げることを言い始める。

 どうして、突然それまでとは違うことを言いだすのでしょうか。福沢諭吉は、実利を重んじる人間であって、実利を得るためには言うことを平気で変えてしまう。福沢諭吉は、日本を欧米諸国と同じ国民国家としての形を作るためには、天皇を中心に据えることが役に立つと考えて、天皇崇拝を推し進めたのである。

『帝室論』には、

 我が国の皇統は外国に比べるものがないほど長い。これを活用すれば場合によっては大きな効能があるだろう。

 ② 国體論は行政の順序を維持するためには大いに便利である。

 ③ 君臣の儀、上下の名分、は文明の方便である。

と書かれている。

 天皇を利用したのは明治維新を成し遂げた薩長土肥と公家たちも同じで、15歳の少年である天皇を「玉(ぎょく)」として担ぎ上げ、天皇の権威を利用した。その天皇にそれまでの代々の天皇がもっていたものとは全く別の権威を与え、自分たちはその権威を利用することにした。我々が天皇を崇めるのだから、人民も天皇を崇めろ。そして、そこでひっくり返して、その天皇に地位を与えられた我々は偉いのだ。として自分たちに権威を与えるのである。

 彼らは、1889年に明治憲法(大日本帝国憲法)を発布し、天皇に国の主権を与えた。

 天皇に形の上で主権を与えておいてその天皇を操って自分たちが実質的な権力を行使するという彼らにとっては大変便利な憲法である。

 明治政府はそれだけでは足りず、翌1890年に「教育勅語」(「教育に関する勅語」)を発布した。

「明治憲法」は政治的に日本人を縛るものであった。しかし、「教育勅語」は日本人の心まで縛るものとなった。

「教育勅語」の肝は

 ① 天皇には忠義、父母には孝行を尽くせ。「忠」「孝」は日本の国体(天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方)の精髄である。

 ② いったん戦争となったら国に身を捧げ、天地と共に永遠に続く皇室を助けるべし。の二つである。

 明治憲法にも、第3条に、「天皇は神聖にして侵すべからず」と書かれているので、それだけでも日本人の心を束縛するものであるが、この「教育勅語」こそ、「国家神道」と相まって日本人を天皇に心の底まで縛り付けるものとなった。

 明治政府は新政府樹立後すぐに「国家神道」の政策に取り掛かる。明治4年に「神社が国家の宗(祖先を尊びること)である」と宣言し、官幣社などの神社制度,神官職などの神官制度を定めて、日本中の神社を政府の統率のもとに置く。

 明治政府が成立する以前の本当の神道とは、「祭天の古俗」であった。

 

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2018年2月 2日 (金)

小中学校の集団ワクチン注射を止めたら高齢者のインフル死亡が増えた?

 Yahooニュースに次のような記事があった。「小中学生のワクチン集団接種 をやめたら、インフルエンザ で亡くなるお年寄りが増えた。なぜ?」

  インフルエンザワクチンの集団接種と高齢者のインフルエンザ死亡増加とどんな関係があるのかと興味をそそられた。

  この冬はインフルエンザが大流行し、A型とB型が同時進行しているのも珍しいことだという。厚生労働省が1月26日にまとめたインフルエンザの発生状況によると、全国の推計の患者数は約283万人で、調査を始めた1999年以来最多となった。学級閉鎖や学年・学校閉鎖になった保育園、幼稚園、学校の数は、21日までの1週間で7536カ所にのぼっているというのだ。

  今から31年前に当たる1987年までの11年間だけだったが、小中学校でインフルエンザワクチンの集団接種が義務づけられていて、大半の子どもが学校で接種を受けていた時代があった。

  私も保健室に子どもを並ばせて予防接種を受けさせた覚えがある。ついでに教員も接種をしてもらった。子どもに移すといけないからだ。

  それが無くなったのは、ワクチンを接種した後に高熱を出して後遺症が残ったと、国に損害賠償を求める訴訟が相次いだからだ。そこで、こうした社会情勢を背景に政府は法律を改正し、1987年に保護者の同意を得た希望者に接種する方式に変更、 1994年には、打っても打たなくてもいい任意接種に変わったという。

 同時にワクチンそのものの効果を疑問視する声も広がり、かつて100%近かった小中学生の接種率は、90年代、極めて低くなったというのだ。

  東京都内のある小学校を24年もの間、インフルワクチンの接種状況と学級閉鎖との関連を観察してきた慶応大の研究によると、ワクチンが集団で接種されていた時期、希望者だけに接種した時期、そして任意接種になった時期、再び増えてきた時期など5期に分け、その間の接種率と学級閉鎖の数の推移を比べたら、ワクチンの接種状況との相関性が明らかになったそうだ。

 大半の子どもが打っていた4年間の学級閉鎖の日数は1.3日。それが緩和されると接種率の低下と反比例する形で8.3日、20.5日と増えていく。1996年には、この学校の児童の接種率は0.1%まで下がった。

  集団接種をやめて接種率が下がると、その分インフルエンザになる子どもが増えるし、逆に上がると減ることが分かったのだ。

  それだけでなく、意外なことが分かった。それは小中学生の集団接種の停止は、接種を受けた小中学生だけではなく、もっと小さい幼児やお年寄りにも影響を及ぼしていたことだった。

  子どもへの集団接種が始まると、インフルエンザで亡くなるお年寄りの数(超過死亡)は減った。そして、集団接種がなくなったあたりから再び増えたのだ。

  子どもにワクチンを打つことが、子どもたち自身の発症や重症化を抑えていただけでなく、インフルエンザで亡くなることの多い高齢者の発症をも抑える役割を果たしていたことが分かるというのだ。

 小中学生への集団接種が、社会のほかの集団にも与える影響は「間接予防効果」(集団免疫)と呼ばれ、各国のインフルエンザ対策に大きな影響を与えた。

 一定割合の集団にワクチンを打つ取り組みを続ければ、それは接種を受けた本人や集団に免疫をつけるだけでなく、やがてその社会全体に免疫をつけることになるのだという。

 面白い研究である。最近はインフルエンザワクチンなどやらなくてよいという主張をする近藤誠医師のような医者もいる。確かに人によっては副作用で苦しむ人もいるだろう。私もこの数年はワクチンを打っていない。しかし、集団接種が社会的予防効果をもたらすとしたら、再考が必要かもしれない。

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2018年2月 1日 (木)

心打つ、翁長沖縄県知事夫人の名護市長選応援演説

 2月4日投票の沖縄県名護市長選挙は大接戦で予断を許さないようだ。市長選挙応援に立った翁長知事夫人の演説が友人から送られてきた。是非拡散したいものである。

  ――久保(あけび書房)です。沖縄の知人からのメールを要約転送します。

 昨日告示2月4日投票の名護市長選挙についてです。

 今日付けの稲嶺ススム後援会ニュース 「1票、1票を争う大激戦」

 名護市長選挙に向けての1・12集会での翁長県知事夫人のスピーチ

  「ぜひ全国のみなさんに読んでほしい、聞いてほしい。なんでここまで沖縄が頑張れるのか。その魂の飢餓感とでもいう原点がここにあります。

  私たちが、絶対まけられない、諦めるわけにはいかない、その理由がここにあります」との知人のコメントです。

 心揺さぶる翁長樹子さんのスピーチ 2018.1.12

 沖縄県知事の家内の樹子でございます。翁長がグアムの方に出張に行っておりますので代理という事で参りました。なにぶん素人で、マイク前にすると上がってしまって、うまくできるか本当に自信ないんですけど頑張って務めさせてもらいますのでよろしくお願いいたします。

  結婚して36年目でしょうか、政治家の女房として33年目になりましたけど、いやぁ、しかし、志位委員長と同じ壇上でご挨拶する日が来るなんて本当に夢にも思いませんで、本当に光栄に存じております。どうかよろしくお願いいたします。(会場拍手)

 3年前の知事選挙、翁長が現職の方を相手に、本当に有難いことに10万票の差を持って挑戦をさせていただきました。正直、圧倒的だったと思っております、あの差でホッとしたんです。これでもう辺野古の問題は決着がつくんだと。

 名護市長がNOと言ってる、県知事もNOと言った人間が当選した。何ですか、この3年間冗談じゃないですよね、皆さん。

 

 政府は、しょっちゅう言う、「何の問題もない」と。どこにいったい民主主義があるんですか? どこにあるの?私たちの自治権は? 人権どこにあるんですか?それが何ともない事なの?冗談じゃないと3年間、怒り続けて参りました。(会場拍手)

 正直苦しいです。夫がいつも苦しい顔をしているのを見るのは辛い、女房は。本当ですよ、あんなに明るくて、いつもいろんなことがあっても、家に帰ってくるときには玄関先でそう言った苦しいのをおいて、ただいまって笑って帰ってくる人が、この3年間、笑わないんですよね。

 ちょっと時間があったらすぐ部屋にこもっていろんな法律の本をひも解いたり、しょっちゅう勉強して歩くの。

 言ったセリフが「こんだけ学生の頃勉強していたら俺は東大だった」って(会場笑)いやー本当に必死に勉強しているんです。それなのに政府は言うことをコレッポチも耳を傾けてくれない。こんな苦しいこと、悔しいことはないです。

 でも負けるわけにはいかないですよね、皆さん。70年前の戦争で、私たちおじいおばあたちはもう命からがら、必死の思いで何とか生き延びて、私たちに命を継いでくれたんです。

 両親と私たちの時代は米軍統治を経て、人権もなくて、憲法にも守られずに苦しい時代を過ごしました。私たちは今もフェンスの中にいる・・・。その時代を何とかくぐり抜けて、やっと復帰して、やっとこれで憲法に守ってもらえると思ったら、政府はあの方達です。聞いてもくれない。

 沖縄県民には人権がないと言わんばかりの方達が、あらん限りの権力を持って押さえつけようとしてる。

 じゃぁ、負けて諦めるのか、どうですか皆さん、諦められますか?(会場「諦めない!」)

 そうです。諦められないし、必ず私たちはおじいおばあがやったように必ずこらえて押し返して、 先の子供達にはもっといい沖縄を残したい。(会場拍手「ナトンドー!(そうだ!)」)

 頑張るしかないです私たちは。心折れないで下さいよ。大丈夫ですか?頑張りましょうね!(拍手)

 ひとつ、これは選挙です。相手候補の方と稲嶺さん比べたら、Wスコアで勝っても本当におかしくないです。当たり前、それが。

 しかし相手候補には申し訳ないけど、稲嶺さんの相手は実は相手候補ではないです。 国が政府があらん限りの力でもって抑えにかかってくるんです。

 皆さん。簡単じゃないです、これに打ち勝つのは。私たちの心の中にちょっとでも「まあ何とか勝つでしょう」なんて気持ちがあったら結果は厳しいです。心に刻んで、みんなで必ずこの選挙を勝って、私たちのこの闘いを必ず成就して、私たちのこの気持ちを必ず日本政府に認めさせる、沖縄の現状を国民に知ってもらう、それしか私たちには道がありません。

 頑張りましょうね。必ず勝利を。頑張りましょう、最後まで。どうかよろしくお願いします。

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