興味深い「さようなら福沢諭吉」明治150年を回顧―⑦―
しかし、政府は何らの対策も取らず、見捨てられた人々は1900年に第四回の押出しを余儀なくされた。被害民たちを利根川に架かる橋のある川俣で警官隊が待ち伏せして弾圧。100余名が逮捕され、51名が兇徒聚衆罪の罪名で起訴された。
正造は、議会で「関東の真中へ一大砂漠を造られて平気でいる病気の人間が、殺さないようにしてくれいという請願人を、政府が打ち殺すという挙動に出でたる以上は、もはや自ら守る外は無い。一本の兵器も持っていない人民に、サーベルを持って切りかかり、逃げるものを追うというに至っては如何である。これを亡国で無い、日本は天下泰平だと思っているのであるか。」と政府を追及した。
それでも、時の政府が戦争に力を注ぎ、住民を守ろうとしないため、1910年10月、正造は「亡国に至るを知らざればこれすなわち亡国の儀につき質問書」を提出し、議会を捨てた。その年の12月、天皇直訴に及んだ。直訴は死罪の可能性もあり、正造は自らの命に引換に世論の喚起を狙ったのであった。幸いか不幸か、その直訴は天皇警護の警官隊によって阻まれ、正造自身は狂人として即日釈放された。
正造の直訴を受け、一時期世論は足尾鉱毒問題に沸騰したが、それも時の経過とともに忘れられていった。
荒廃した水源地は洪水をますます加速させ、渡良瀬川の堤防は度々決壊するようになったが、国や県はそれを修復するどころか、むしろ意図的に破壊した。そして、鉱毒溜めの池を作るため、栃木県谷中村(450戸、2700人の住民が住んでいた)を水没させることにした。現在の渡良瀬遊水地がそれである。
1904年には日露戦争が始まり、挙国一致で戦争になだれ込んでいった。正造はその年、水没されようとしている谷中村に入村し、住民と寄り添う道を選んだ。
住民たちは一戸また一戸と谷中村を離れていったが、19戸の住民はあくまでも国の無法に抵抗つづけた。しかし、ついに1907年、国が土地収用の強制執行を行って、住民の家屋を破壊した。それでも、住民たちは水没を免れた高台に仮小屋を建てて、抵抗を続けた。正造は以降1913年死を迎えるまで、水没させられた谷中村と、その住民に寄り添って過ごした。
その後も、足尾銅山は政府の庇護の下、稼働を続けた。鉱石の品位は低下し、産銅量は低下、一時は命脈を絶たれる寸前となった。しかし、戦後の朝鮮特需で息を吹き返し、その後の高度成長の波に乗って、国内の他の鉱山からも運び込み、さらには外国からの鉱石も運び込んで稼働を続けた、そして1970年にベトナム特需で年間36万㌧を超える銅を生産して最盛期を迎えた。
その足尾銅山も今では閉鎖となったが、鉱毒はその後も堆積場に野ざらしになって放置されたままとなり、福島第一原発事故が起きた東日本大震災の時には、源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒が流出した。今後も、長い年月に亘って、堆積場の崩壊によっていずれまた渡良瀬川の汚染が起きるであろう。
正造は、死を迎えた朝、見舞客に対していった。
「お前方大勢来ているそうだが嬉しくも何ともない。みんな正造に同情するだけで正造の事業に同情してきているものは一人もいない。おれは嬉しくない。行ってみんなにそういえ。」
そして、正造は言う。
「対立、戦うべし。政府の存立する間は政府と戦うべし。敵国襲い来たらば戦うべし。人侵入さば戦うべし。その戦うに通あり。腕力殺戮をもってせると、天理によって広く教えて勝つ者との二つの大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れてもやまざるは我が道なり。」
足尾鉱毒で始まり、四大公害を経、そして今なお発生する公害、さらには沖縄を含めた基地問題など、全ては同根である。それを貫いているものは、国を豊かにするという思想である。そのもとで企業を保護し、住民は切り捨てるという構図が続いてきて、福島原発事故を経た今もその構図は全く変わっていない。しかし、「民を殺すは国家を殺す也」と正造が指摘した通り、住民を見捨てる国が豊かであるはずがない。正造は言う。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」
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