興味深い「さよなら、福沢諭吉」 明治維新150年回顧―⑧―
伊藤千代子
今平和憲法を蹂躙して、治安維持法的なものがいつまた復活するか分からない状況が日本を飲み込もうとしている。
このような時代状況から、かって戦争に反対し平和のために闘って斃れた先駆者の思想と行動を学び、戦争の過ちを再び繰り返さないためのよりどころとしなければならない。
伊藤千代子はその中の一人である。千代子が過ごした大正末期から昭和初期、1920年代は、日本の軍部ファシスト政府が、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニと呼応して、15年戦争に突入する前夜であり、それに抵抗する民主化運動が急速に高まりつつある時期であった。
千代子は、1928年(昭和3)年1月、東京女子大4年生の時、卒業を間近にして思想上の指導者である浅野晃氏と結婚。日本共産党に入党している。党中央事務局の事務局長水野成夫のもとでリポーターとして活動していた。全国の日本共産党員とその同調者と目された人たちが、3月15日一斉に検挙された3・15事件である。彼女も、民主化運動に対するファシズム政府の大弾圧で滝野川警察に逮捕された。この日検挙された人は全国で3千6百人にのぼった。この弾圧の拠り所になった法律が治安維持法である。
千代子が警視庁滝野川署に逮捕されたとき、取り調べにあたったのは警視庁特高のM警部であった。Mは、後に殺された小林多喜二の拷問を指揮し、宮本顕治日本共産党議長に拷問を加えている。彼の取り調べはすぐ暴力をふるうことで有名だった、ひどい取り調べを受けた後、市谷刑務所に送られた。ここはまた、粗末な食事、不衛生な監房、病人に対する不親切など非人間的な取り扱いで有名だった。千代子は、体がかなり弱っていたのに、獄中ではいつも自分のことより他の同志のことを心配し、当局や看守の不当な扱いに対して勇敢に戦っていた。
11月7日のロシア革命記念日には、激しい暴圧と厳しい監視の中で、獄中の同志たちと連絡をとり、起床のボーを合図に、女子舎房から刑務所中に「同志よ固く結べ」の歌声を響きかせた。また「帝国主義戦争絶対反対」などのスローガンを唱和し、3・15の記念日には、「赤旗(せっき)」の1番をほかの女囚と合唱したりして、看守連中をあわてさせた。もちろん、懲罰は覚悟の上であった。当時の特高警察は、殴る、ける、たたくなどの暴力をふるい、若い女性には衣服を脱がせて裸にするなどの辱めでショックや動揺を与える「身体検査」を行うなど、病人でも容赦しない卑劣かつ残酷なやり方で取り調べをしていた。
1929年3月ごろから、水野成夫氏ら、当時の共産党の指導者の一部が、市谷刑務所の獄中で、天皇制打倒といった治安維持法に触れる主義、主張を撤回し、党の解体と新しい党を樹立する運動をはじめ、この運動に加わった者が、それぞれ自分の主張を書いた「上申書」を警察に提出した。その中に、千代子の夫浅野氏もいた。
浅野晃氏は自分の上申書を、もし千代子が目にすることがあれば、きっと大きな衝撃を受けるにちがいないと思い、担当の検事に自分の上申書は千代子に絶対見せないでほしいと頼み込んだ。検事も見せないと一応の約束はする。しかし、取り調べの際、千代子に転向を迫るのに利用しようと、夫が解党派の一人であることを千代子に告げた。約束を破って、浅野氏の上申書を千代子に読ませた。
千代子が精神に変調をきたしたのは、浅野氏の上申書を読んでから間もない1929年8月1日ころからである。急性の激しい錯乱状態に陥る。千代子の思想上の指導者であり、最愛の同志であり、夫である浅野晃氏の裏切りが、千代子に与えた衝撃がどんなに大きいものであったか推測に難くない。
千代子が東京府立松沢病院第4病棟に収容されたのは発病から2週間以上たった8月17日であった。
因みに、上申書を書いた水野成夫氏、浅野晃氏ら解党派は、千代子がなくなった翌年、1930年にみな釈放となり、市谷刑務所から出所するが、日本共産党から除名された。
1929年9月24日、千代子は亡くなった。24歳2か月の短い生涯であった。その死は治安維持法と特高による虐殺に等しい、非業の死であった。
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