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2017年12月23日 (土)

2017.12.13、「南京大虐殺80カ年」、2017年・証言を聞く東京集会レポ②

 日本兵が去ると、友人は外祖父を呼び、彼は全身血だらけの母を見て、娘がすでに死んでしまったのだと思い、大声で叫び、年配の友人と裏山へ行き、埋葬のための穴を掘りました。

 ところが、母は地下室から運び出される時、12月の凍てつく寒さの南京の風にあたると、口から泡をふき出し、まだ絶命していなかったのです。

 友人たちの助けを借り、祖父は母を南京・鼓楼医院へ連れて行き、アメリカ人外科医、ロバート・ウイルソンが母に応急手当てを施し、刺殺された腹部の胎児をとりだし、顔の傷を縫合し、両足の傷口に包帯を巻きました。

 その時、母の頭部は大きくむくみ、上唇は切れ、歯は抜け食べたり飲んだりすると鼻からすべて流れ出しました。 アメリカ人、ジョン・マギーは1937年12月22日の日記に、「鼓楼医院で、このような状況の人を見た。医師たちは彼女を救うため今治療を施している。」と書き、母が治療を受ける様子をカメラで記録しています。

 南京国際安全区国際委員会主席の*ジョン・ラーベ先生も母を見舞いに医院へ来ています。(*筆者註、映画、「ジョン・ラーベ」~南京のシンドラー~に描かれている当の本人。)

 母は鼓楼医院で70日間入院したあと、後鼓楼の難民区で半年過ごし、1938年末、父は南京大学の難民区で母を探し出しました。しかし、父は、若くて美しかった妻が、日本兵の残虐残行為で見る影もなく変わり果て、傷だらけになった様子を見て、再会できた喜び以上に、心の底から悲しみと憤りを覚えました。

 ジョン・マギー先生は自ら父に母を引き渡し、大勢の人が南京で虐殺された中、日本兵と命がけで格闘し、幸い生き延びた母を大切にするよう何度も父に言いました。

  1945年8月15日、日本は投降を宣言し、中国人民は抗日戦に勝利しました。1947年、南京軍事法廷が開かれ、南京大虐殺の主犯格である谷寿夫を公開の法廷で審理しました。母、李秀英は日本軍国主義が中国を侵略し、南京で30万人の同胞を虐殺した際の目撃者、被害者、生き証人として出廷し証言しました。  

 1955年、日本の「心に刻む会」の招きに応えて、同会が東京、大阪、仙台、盛岡、広島、長岡、新潟、松本、静岡などで開催した「アジア太平洋地区・戦争犠牲者追悼集会」において、南京大虐殺の史実を証言しました。

 南京大虐殺は中国人民、南京人民、そして、母と私たち家族のすべてに大きな傷を与えました。私は1942年に生まれた幸存者(生存者)の娘ですが、37か所もの刀傷を体に負い、顔も数カ所日本刀で切られた母が、身体や心に大きな傷を受け苦難に満ちながら気丈に生きてきたのを子どものころから見てきました。

  障害により母は労働能力を失い、死ぬまで働けませんでした。真相を知らない人たちは容貌の破壊に対し尋常でない視線を投げつけ、身体と精神が受けた傷は一生続きました。

 私の母は、強靭な精神を貫き、9人の子どもを育て上げただけでなく、自身が経験した血なまぐさい心に傷ついたあの歴史を何度も、各所で口述し、毎回自身の苦痛に満ちた記憶と、かさぶたになった傷痕をさらけ出し、南京大虐殺によって殺された同胞たちの無実を訴えました。彼女は幾度も平和集会の活動に参加し、歴史の常夜灯の明かりが消えないよう、歴史が渇望する世界平和を警告する大時計に響きを心に刻み、歴史を忘れず、戦争に反対し、平和を熱愛するよう人々に呼びかけました。

  2004年12月4日、母は病によりこの世を去りました。彼女は日本軍国主義を憎み、戦争を怖れ、37カ所の刀傷を負い、世界平和を待ち望みながら、私たちの前からいなくなりました。

  南京大虐殺の幸存者である李秀英が、日本の右翼作家・松村俊夫及び出版社の展転社発行人・相澤宏明を名誉棄損で訴えた案件で、日本の最高裁において、2005年1月20日、勝利判決が確定しました。母はこの日を待つことなく、亡くなりましたが、南京大虐殺の歴史的目撃者として、戦争に反対し、平和を熱愛し、人類の平和のために奮闘した姿を、私たちは忘れません。

 日本軍の中にも正直な日本人もおり、母は度々訪日し、自らの体験を語ることになり・・・・しかし、2004年に母は亡くなり、その思いを私が語り伝えています。

 日本政府は、(南京大虐殺を犯したことに)「一つだけの謝罪」ができず、母は死ぬ前に謝罪を聞くことなく逝ったのです。今日は限られた時間でしたが、以上が母の真実であり、それぞれに確たる証拠があるのです。以上。

★会場から質問があり。

QA1、虐殺人数に、両国で大きな差があるが?何度にもわたり地下室から連れ出し、その時々の統計もなし、また行方不明者もいる、正確な人数は分からないのです。

QA2、母親の体験を語られ、心に残ることは?母は仕事する能力を失い、父が一人で、政府の援助とで、9人の子どもを養った。1997年にも母が訪日、私は同道し講演に参加した。「歴史は簡単に変えられない」、史実を認め、過ちを改め、将来の道を拓く・・・・1938年から80年の歳月が流れ、いま母が生きていれば98歳。心理的な被害は抹殺できない。平和こそ、唯一の道だと思います。

 ==以上が陸玲さんの証言の内容==

★会場には、重慶、成都・楽山などから来日中の重慶大爆撃原告団(民間被害者の団体)・支援者ら30余名が出席、14日の東京高裁判決を控え、原告団の団長が簡単に挨拶した。私は重くて暗い気持ちで、この南京大虐殺証言集会に参加した。被害者に捧げる言葉がない。重慶大爆撃は明日が判決日、公正な判決を願っている。日本政府は被害を認め謝罪をせよ、できるだけ賠償もカネだけでなく、被害(加害)を認めることだ。註、「重慶大爆撃の被害者と連帯する会・東京」代表は、軍事ジャーナリストの前田哲男氏、「重慶大爆撃訴訟弁護団」の団長は田代博之弁護士。

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