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« 高血圧は塩分摂り過ぎではない? | トップページ | 2017.12.13、「南京大虐殺80カ年」、2017年・証言を聞く東京集会レポ② »

2017年12月22日 (金)

2017.12.13、「南京大虐殺80カ年」、2017年・証言を聞く東京集会レポ①

 以下のレポートは、 集会に参加された竹山克則氏が纏められた労作である。友人が送ってくれたもので是非紹介したいと思い取り上げた。

 南京大虐殺の博物館へは、30年ぐらい前に初めて弟や子どもたち中国旅行をしたときに、どうしても見たいと思って訪れた。忘れられないのは私たちが日本人だと分かると周りの中国人たちの目が非常に冷たかったことである。

 日本軍の南京大虐殺などの暴虐といい、ナチのホロコストといい、アメリカの原爆や無差別爆撃といい、戦争の度に繰り返される大悲劇は今もシリア、イラク、アフリカ等で繰り返し起こっている。

 私たちは歴史をきちんと認識し、それを記憶に留めなければならない。その意味でもこの証言を読む機会があったことは有難いことであった。

★「南京大虐殺」とは・・・・・・1937年7月、中国・北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は中国との全面戦争を始めた。翌8月には上海で大規模な戦闘に発展(第二次上海事変)。日本軍は兵力を増派し、上海から首都・南京に急進撃し、12月13日に南京を占領した。日本軍は南京への追撃戦や、南京陥落後の掃討戦で、中国軍捕虜や非戦闘員を組織的に殺害し、住民から食料を略奮した。民家を放火、女性への性暴力も多発した。日本軍による組織的犯罪である。

★12月13日は南京大虐殺から80カ年、証言を聞く東京集会が、水道橋の全水道会館で18時半から開かれた。大会議室は中国から来た人たちも加わり、開場時間前から参加者で溢れた。主催は、「ノーモア南京の会」(代表、田中宏氏)。

★プログラムは、①陸玲(ルーリン)さんが、母親の李秀英が南京大虐殺中に受けた被害について証言、②孟国祥(モングォシャン)さんが、南京大虐殺事件に関する審判について講演、③田中宏さんが、山東省に任さんを訪ねての報告があった。南京出身という朱さんが通訳した要点を、ここに書き取った。

★司会は「ノーモア南京の会」の山田さん、「陸玲さんは12月8日に来日し、大阪、名古屋、静岡の集会で証言し、今日12月13日は南京大虐殺80カ年、東京証言集会に参加した」と簡単に紹介した。人民日報などの中国メディアも取材に来ており、場内での写真撮影、録音は許可のある人だけに限定された。

①===陸玲(ルーリン)さんが、「80年前の骨にまで刻まれた屈辱の歴史を決して忘れない」、母親の李秀英が南京大虐殺中に受けた被害について証言した===

◎私は陸玲と言い、南京大虐殺幸存者の次女です。私の外祖父は山東省の出身、子どものころから武術を学び、大人になると運送会社で用心棒をし、後に南京の警察署で働きました。母の李秀英は1919年2月南京生まれ。外祖母は進歩的な女性で、外国製品をボイコットし、民族工業を保護する学生運動を支持していました。このことは幼い母へ大きな影響を与えました。母が13歳の時外祖母は亡くなり、その時から母は弟や妹の世話や家事の負担を背負いました。

 父の陸浩然は1911年天津市生まれ。16歳の時、友人とともに南京へ丁稚に行き、学校に通い、卒業後は上海の政府機関で電報の送受信係に配属されました。1936年10月、17歳の母親は知人の紹介で父と知り合い、1937年3月に結婚しました。上海に住み、第二次上海事変のあと南京に戻り、外祖父の家に身を寄せました。11月に父は118師団とともに武漢に移転する際、南京を経由し母を連れていこうとしましたが、母はその時、身ごもっており、行けなかったので、おじの李振声を連れていくことにし、母のことは外祖父に保護を頼みました。

 1937年11月、南京で国際安全区が、そして、12月1日に国際赤十字会南京支部が設立され、外祖父と母は、安全区内の南京・五台山付近のアメリカ人が経営する学校の地下室(現在の五台山幼稚園)に身を隠すよう割り振られました。地下室は、男性用と女性用に分かれていたのです。

 1937年12月13日、日本軍は南京を侵略し占拠しました。南京陥落後、武器を持たない住民は残忍非道で狂気じみた日本軍による血なまぐさい大虐殺の餌食になり、国際赤十字会の保護を受けていた国際安全区内の住民も、この難から逃れられませんでした。

 12月18日、日本軍の一団は、母が隠れていた地下室の男性部屋に押し入り、たくさんの青年男性を無理やり連れ去り、隠れていた難民の夫や息子たちが連れ去られパニックになりました。

 12月19日午前、日本軍の一団が今度は地下室の女性部屋に押し入り、彼らは母を含む若い女性を無理やり連れ出し、車に乗せようとしました。その様子を見ていた母は、日本軍に連れ去られると強姦されるか、殺されると思い、自身の純潔を守るため死んでも屈しない覚悟で、頭を壁にぶつけ気絶してしまいました。日本軍は床に倒れた母を蹴り飛ばしましたが、母が身ごもっているのを見て、他の若い女性を連れ去ったのです。

 友人たちが、気を失った母を抱えて地下室に連れ戻し、唯一あった荷物用の台の上に寝かせましたが、夕方に三人の日本兵がまた地下室の女性部屋に押し入り、日本刀を捧げた士官と銃剣を持った二人の兵士は30歳くらいの女性を引っ張り出しました。

 士官は台の上で寝ている母を見つけ、他の人を追い出し、”娘さん“と声をかけ、母の服のボタンをはずし強姦しようとしました。驚いて目が覚めた母は、日本刀の柄がすぐ近くにあるのを見て、無造作にそれを引き抜き日本兵に命懸けで挑みました。日本刀を引き抜かれたことを知った士官は驚愕し、すぐに両手で刀を持った母の手をつかみ、大声で叫び、その弾みで母は起き上がり、もう片方の手で士官の襟をつかみ、壁の隅へ引っ張り取っ組み合いになりました。

 叫び声を聞いた二人の兵士は捕まえていた女性を離し、銃剣を抱えて母に突進、それを見た母は、士官の体を盾にしようと胸の前に持って行きましたが、突進してきた二人の兵士は左から一人、右から一人、母の足や顔を突き刺し殺そうとしました。左右の足を何十回も刺され、鼻と口は刺されて裂け、右目の下も刺されてめくれ、目がほとんど見えなくなりました。

 母は口の中の鮮血を日本兵に噴きつけ、命懸けで抵抗を続けたのです。ひとりで三人の日本兵相手に奮闘しましたが、出血多量で体力が続かず、士官を捕まえていた手の力がなくなり、動かなくなりました。日本兵は母のおなかを目がけて、ひと突きし、母はすぐに血だまりの上に倒れ瀕死の状態になりました。おなかの中にいた6カ月半を過ぎていた母の一人目の胎児は刺殺されました。

 三人のフル武装の日本兵は、国際赤十字安全保護区の地下室に押し入り、まだ19歳の6カ月の子を身ごもった武器を持たない女性を強姦しようとしましたが、思いがけず母の命がけの抵抗にあいました。友人たちは体中傷だらけで血まみれの母を見て、非常に敬服し、また非常に同情し嘆きました。

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