子どもの頃の遊び―④―
Dさんがメールで、子どもの頃やった遊びに「釘差し」があると書いてあった。それで、そういえば夢中になった遊びに「釘立て」があったことを思い出した。
私が子どもの頃住んでいたのは、9軒の借家が向かい合いで並んでいて、その間が路地になっている、ふくろ小路だった。だから子供が遊ぶには格好の場所だったのだ。
その路地のちょっと広くなったところで、私たちはラムネ(ビー玉)やシャッケン(メンコ)などをやったのだ。缶けりもそこでやった。路地の家と家の間に、人が通れるほどの間があり、隠れるのに好都合であった。
「釘立て」は10cmぐらいの釘を使って、地面に打ち付け釘を立てるのだ。各自のホーム(その頃はホームなどという英語は禁止であったが)を決め、釘が立ったら線を引いて結ぶのだ。互いに他の子を線で閉じ込めるように釘を立てていくのである。閉じ込められたら負けである。
また、うずまきを描いておき、その狭い幅の間を釘を立てながら進んで外に出るという遊び方もあった。
釘立てでは、5mmもないような狭いところへ釘を立てる技術を持つ必要があった。そのためにいつもどうやって、どのくらいの力で釘を打つかを工夫しながらやった。
夏になると、田んぼや野原に行ってヤンマとりをした。私が住んでいた南紀新宮では大人も子どもも夕方になると楽しんだものだ。
そのやり方は、以前にもblogに書いたが、習字の反故紙を小さく切って、それに豆粒ぐらいの石を包んで、木綿糸の両端に括りつけるのだ。
糸の真ん中あたりを利き手で持って、石をもう一方の手で持って、ヤンマが飛んでいる辺りに投げる。そうするとヤンマは餌が来たと勘違いをして降下して来る。糸がヤンマに絡んで石の重みで下に落ちて来るのである。
この取り方は、母方の実家がある今の東海市では誰も知らなかったので驚いたことがある。こんな面白い遊びを知らなかったのだ。
ヤンマには当然オスとメスがあって、オスは尻尾の付け根の辺りがブルーで、メスは緑色である。メスを獲った時は嬉しかった。なぜかというと、そのメスを笹の小枝の先に糸を結んで、その糸にヤンマを結んで頭の上で飛ばすのだ。そうするとヤンマのオスが見つけてさかり(交尾)に来る。交尾したところを捕まえるという寸法であった。これも実に楽しい遊びであった。
魚の「かいどり」というのも面白かった。小川の流れを小石でせき止めるのだが、真ん中を開けておき、そこにタモ(網)を仕掛けるのだ。上流からバシャバシャと歩いて行くと、魚が下流に逃げてタモに入るのだ。
田んぼや小川にはメダカがいっぱい泳いでいたが、私たちはメダカをバカにして誰も相手にしなかった。魚のうちには入れてなかったのである。
山の小川の流れに行き、石をどけると沢蟹がいた。でも、だれも沢蟹を取って食べるものはいなかった。あの戦前戦後の食糧難のときでさえである。大人になってバーで沢蟹が出たことがあって、食べられるんだ!と驚いたものだ。
これも以前に書いたことではあるが、熊野川には筏をもやってあって、その上に乗って手長海老を釣ったり、海老タモで掬ったりして獲った。でも、獲るのが楽しみでそれを家に持って帰り食べることはなかった。手長海老食べられることを知ったのは大人になって何十年もしてからのことだ。
今思うと食糧難の時代に食べられるものはまだまだあったのだ。
草を使った遊びもよくやった。一番よくやったのは「相撲取り草」と呼んでいた、花の部分が細長く5本ぐらいに分かれている野草で、その部分を結んで互いに引っ張り合って勝ち負けを競う遊びであった。
葉が3枚あり可愛いピンクの花をつける草の、茎の部分の皮を剥いて糸にし、それを互いにからみあわせて相手の葉をちぎるという遊びもやった。糸のようになったものに土をまぶすと強くなると思ってやった。
私の子どもの頃は、貧しかったが野、山、川、田んぼ、広場、路地など自然の中で飛び回っていろいろ工夫をして遊んでいた。懐かしい思い出である。
オス
※B玉について
ソーダ飲料のラムネ口に入っている玉をA玉と言い、瑕があってはならないのだという。傷やいびつがあるのをB玉と言って、遊びに使われたのだという。(これはOさんから聞いた話しで、テレビで言っていたそうだ)
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