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2017年8月

2017年8月31日 (木)

第67回 日本舞踊稲垣流豊美会を観た

 第67回日本舞踊 稲垣流 豊美会の公演が8月27日に金山の日本特殊陶業会館ビレッジホールであった。知人の御嬢さんが名取なので券を頂いて観に行った。

 11時半開演だが1時間ほど遅れて入場した。ちょうど第一部が終わったところでよかった。会場に入ると前の方の席には物が置かれていた。下手側に花道があり、その向こうの席には数人座っていた。それでそちらの席は特別席か尋ねたら、一般席だと言ったのでそちらに行った。花道で遮られて一旦外に出ないと行けないのでそちらは空いているのだ。

 第2部は古典の部で、長唄、常盤津、清元などの踊りであった。

1.小唄  扇かざして、  .長唄 松の緑  引っ込みはセリを使っていた。

2.長唄 菊づくしは子どもたちが上手に踊った。

 面白かったのは3の常磐津 釣り女であった。狂言を元にして作られたもので、大名が太郎冠者を連れてある神社へ嫁取り祈願に出かける。その夜夢にお告げが現れる。眼が覚めると釣竿が1本落ちている。その釣竿で嫁を釣れということだと察し釣竿を出すと、何と美女が掛かる。太郎冠者が持っていた酒で祝言の盃を交わす。

 太郎冠者が、自分も嫁が欲しいからと釣竿を借りて釣ると、醜女が掛かる。太郎冠者は嫌だというが、女は結婚を迫る。

 狂言仕立てでセリフも入るが、踊りも部分もありうまくできていた。太郎冠者の演技は勝れていた。

 4. 俚奏楽 雪の山中  5.長唄 鶴亀  宝船  6.筝曲 鶴寿千歳  

 7. 長唄 松の寿  8.小曲 灯籠流し と続いた。

 9は、稲垣舞蝶さんの「藤娘」で見事な藤の花が舞台いっぱいに垂れ下がっている中で踊っ

 た。最初は藤の花を持って黒の衣装で踊り、衣装を青に換えて踊った。その後また衣装を換えて踊った。20分もある長い踊りであったが、見事に踊った。

 10.常盤津 祭りの花笠  11.傀儡師 の2つはベテランと見うけた。祭りの花笠は花道から登場した。 

 12.お染久松は幼稚園児と1年生のコンビで、花道から登場した。可愛い仕草に会場から「可愛い!」と言う声が上がっていた。

 第2部のトリは、家元の稲垣友紀子さんら3名の踊りで、さすがに見ごたえがあった。会場からもいいねと言う声が聞こえた。

 2部は3時間半もあったので観疲れたから第3部は観ずに帰った。今年は金山のビレッジホールを使ったのでセリや花道があり、気合の入れ方も違ったように感じた。舞台装置が大きくて豪華であった。

 私は日本舞踊を観る機会はないので、日本的な伝統文化に触れる良い機会であった。Sさんに感謝である。

 案内のチラシに演目の下に演者の名が入ってなかったのが残念であった。来年は入れてほしいと思う。

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2017年8月30日 (水)

河口湖・西湖旅行―⑩―ホテル源吾

 今回の河口湖・西湖旅行では、宿泊にホテル源吾を使った。初めにも書いた様に、イギリス在住のDilumさんがネットで見つけ、私が電話で確認をし二人で相談をして決めたのだ。

  「源吾」という名前はホテルにはふさわしくない感じなので行くまではどんなホテルだろうと思っていた。

  行ってみたら、河口湖へ行く幹線道路沿いにあって、「乳ケ崎」というバス停がすぐ近くにあった。向かいに大きな「OGINO」というスーパーがあり、付近にはガストなどレストランがいくつかあった。

  ホテルは鉄筋3階建でお客も思ったより泊まっていた。イタリア人とか中国人など外国人も多かった。70代のオーナーと奥さん、娘さん、そして1人か2人のお手伝いさんの、いわば家族経営のようであった。

  オーナーは源吾という名前のような朴訥農夫という感じの人で「酒とタバコが飲めなくなったら死んだ方がまし」と言っていた。また、「英語はサンキューとグッバイとイエス、ノーしか知らん」と言っていた。それでもネットで外国から受け入れているのがすごい。

  料金は私たちが泊まったのは、2泊朝食付き3人で、税金など含めて34000円余でリーズナブルであった。朝食が大変ヘルシーな献立で、野菜、海藻、魚、味噌汁、卵焼き、納豆など十分であった。食事はテーブルの部屋と大広間とがあった。

  浴室は1階に大浴場があり、朝は6時~9時半まで、夕方は16時~22時半まで入れた。ただ難点はトイレが共同であることだ。

 他に良い点は、コーヒーとお茶がフリーで、夏場はかき氷もフリーであった。河口湖駅まで送迎をしてくれたのもよかった。

 Dilumさんもいいホテルだと言っていた。交通の便がよいしサービスもよく、宿泊料が高くないのでお勧めのホテルである。

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                      ホテル源吾オーナー
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                       一日目の朝食

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2017年8月29日 (火)

河口湖・西湖旅行―⑨―ミューズ館

 西湖の砂浜を見た後、西湖にさよならをして河口湖岸の「ミューズ館入口」でバスを降りた。湖の向う側に昨日行った場所が望見された。湖を見ながら歩いて行くと、「河口湖ミューズ館」があった。館の前にはきれいな花がたくさん咲いていた。

  ミューズ館は布人形作家与(あたえ)勇輝氏の作品を展示している美術館だ。私は以前に名古屋の高島屋百貨店で展覧会を観たことがあり、たいへん魅了されたのを覚えている。河口湖にその美術館があるのは知らなかった。

  他の二人に聞いたら見たいと言うので入ることにした。この美術館は周遊券での割引がなかった。ホテルで割引券を貰って来ればよかったと思った。一般は600えんだが、ここでもDilumさんは学生並みの540円の料金であった。

  館内には布で作った精緻な表情豊かな人形が展示してあった。昭和、大正などの衣装を再現してあり、子どもや娘さんなどの仕草がとてもよく表現されていた。与氏の人形は本当に癒しのにんぎょうである。

  奥にはビデオルームがあり、制作過程などを説明していた。頭部はどのようにして作るのかとか布の収集なども分かった。

 ※公式ホームページアドレス

 http://www.fkchannel.jp/muse/author/

 ミューズ館を出てバス停に戻った。少し時間があったので傍の喫茶店に入ったが、食べたいものがなかったので出て、次のバスで戻ることにした。

 ホテルに戻ると、預けてあった荷物を貰い、ロビーで無料のコーヒーを飲んだ。ホテルのオーナーに無料サービスのかき氷を頼んだら作ってくれた。甘い物好きの河村さんは煎じを3杯も掛けて喜んでいた。

 ホテルに同宿していた中国人の若いカップルが富士山に登るのだと言った。こんなに天気が悪いのに大丈夫かと心配であった。そのカップルと一緒にオーナーが河口湖駅まで送ってくれた。

 17時に河口湖駅を出る名鉄バスに乗った。途中富士宮近くで渋滞があり、名古屋のバスセンターに着いたのは30分遅れで9時50分ごろであった。

 今回は天気に恵まれず富士山を見ることができなかったのが非常に残念であったが、河口湖・西湖周辺は見るものがたくさん用意されていて、美術館だけでも6つぐらいある。その他にも楽しめるものがあるのだ。自動車で行けば回るのは楽だと思うが、2日間周遊券を1300円で買って回るのもよいものだ。バスは1時間に4本あるから、それほど待たなくてもよい。

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                        ミューズ館
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                       ミューズ館ガーデン

                   
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2017年8月28日 (月)

河口湖・西湖旅行―⑧―いやしの里と西湖の岸辺

 富岳風穴の次は「西湖いやしの里根場」へ行った。バス停付近に売店が並んでいた。Dilumさんたちは焼きトウモロコシを買った。私は隣の店で茹でたトウモロコシを買った。半分に割って交換をした。焼いたのは香ばしいが茹でた方が甘みがあると言った。

 トウモロコシを齧りながら入口の方へ歩いて行った。途中に見事なへちまがたくさんぶらさがっている畑があった。台湾の人たちは写真を撮っていた。

 入場料は350円だが周遊券で300円だった。中に入ると、白川郷のようなわらぶきの建物が並んでいた。特産品加工の建物で河村さんたちは土地の産物を買った。

 台湾の人たちが写真を撮っていたので一部の人と一緒に撮ってもらった。

 くつろぎ館でお茶を飲んだ。その建物の持ち主に聞いたら、いやしの里の建物は40数年前に建てられたものだそうだ。それ以前に「かぶと造り」の建物が並ぶ集落であったのが、昭和41年の台風で壊滅的被害を受けたのだと言う。

 合掌造りに似た建物が山の斜面に21棟あり大変風情を感じさせた。それぞれの建物に異なる展示物を置いてあった。

 砂防資料館、炭焼き小屋、水車小屋、ごろ寝館、匠や、火の見屋、見晴らし屋、紙や、陶と香、大石紬と布・・・。

 ぐるっと一周して、外に出た。バス停のところでもっていたパンを食べていたら、店の人が蜂蜜をくれた。それで河村さんは蜂蜜を1瓶買った。

 次は、Dilumさんが西湖の砂浜に行きたいと言ったので、バスに乗る時運転手に聞いたら、「12ケ岳登山口」で降りるとよいと言った。バス停からすぐにキャンプ場があって、多くの若い人たちが大きなテントを張ってキャンプをしていた。大きなテントはちょっとした家ぐらいの大きなものであった。若ければキャンプもいいだろうなと思った。

 西湖の砂浜までおりていって、写真を撮った。水遊びをしている親子がいた。西湖の水はぬるかった。

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                       大ひょうたん

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                        ごろ寝館

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                      台湾の女性と

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                         西 湖
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2017年8月27日 (日)

河口湖・西湖旅行―⑦―富岳風穴

 ホテルのオーナーが、「富士五合目は雲しか見られないよ」と言ったので、諦めて西湖へ行くことにした。バス周遊券を買ってあったのでその方がよかった。

 ホテル近くのバス停で待っていると緑色の大型バスが来た。西湖方面はバスが大きいのだ。バスに乗るとすぐに2人の女性が席を譲ってくれた。お礼を言って台湾の方ですかと中国語で尋ねたら、台湾からだと言った。前日から来ていて河口湖を巡ったと言っていた。 

  以前に台湾に行ったとき、よく席を譲ってもらったことを思い出した。台湾の乗り物lには高齢者や妊婦などに席を譲ろうと大きく書いてあった。台湾ではそういうのがかなり浸透しているのかもしれない。

  富岳風穴は周遊バスの終点で、そこからバスは一筆書きのように違う道を続けて戻って行くのだということが地図を見て確かめてわかった。乳ヶ崎から河口湖のふちを通って西湖へ行く。小さな湖である。

  富岳風穴で私たちが降りると台湾の人たちも降りてきた。やはり富士風穴に行くのだと言う。グループの中に大学生の女の人がいてDilumさんと英語で話していた。グループの中の1人の女性が日本語で話しかけてきた。少しできるのだと言った。

  バス停から風穴まではすぐである。青木ヶ原の中にあった。富士山が爆発したときのガスが抜けたという穴があった。その前の辺りの木の根のところに河村さんは持って来た2CCほどのご主人の灰を埋めた。

  河村さんが特許を売ろうとすると、ご主人がよく「青木ヶ原にいってやる」と言ったそうだ。だから青木ヶ原に遺灰を持ってきたのだそうだ。

  風穴に入る券を買うところでヘルメットの着用を勧められた。穴の天井が低いところがあって頭を打つと言うのだ。ヘルメットはたくさん置いてあった。私たちは勧めに従って被った。

  富岳風穴は天然記念物だそうだ。富士山が世界遺産になった条件の一つかもしれない。風穴に入って行くとひんやりした。少し行ったところで前頭部をしたたか打った。もしヘルメットをかぶっていなければ大変な怪我をするところであった。

  中は寒いのでDilumさんと河村さんは持っていた上っ張りを羽織った。私はそのままで進んだ。途中氷の山が堆積しているところがあった。寒いはずだと思った。まるで冷蔵庫の中に入ったみたいであった。一番奥には木の実や蚕の繭を保存しているところがあった。天然の冷蔵庫である。

 出て来るときにまた頭を打った。ところどころ天井が低いのだ。係りの勧めに従っておいてよかったと思った。

 外に出ると、台湾の人たちも出てきたところであった。少し話しながら歩いた。彼女らは次は「西湖いやしの里根場」に行くと言った。私たちは昨年白川郷を見たので似たようなものだと思ったが、Dilumさんが見に行くと言ったので行くことにした。

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                    風穴売店
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                     青木ケ原

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                     風穴入口

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                      天然氷

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                       溶岩

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                     出入り口
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                     出口近く




 

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2017年8月26日 (土)

河口湖・西湖旅行―⑥―灯籠流し

 オルゴールの森美術館を出るとまだ小雨が降っていた。バスは出たばかりでしばらく待った。次は灯籠流しの大石公園まで行くのだ。

 終点の河口湖自然生活館で降りたらそこに灯籠流しの会場があった。3時だったが受付に行くと、16時からだと言った。ホテルの主人が早めに行った方がよいと言ったので早く来たのだが、仕方がなかった。

 店が並んでいてその一つで団子を売っていた。大きな団子が3つついて350円だという。少し高い感じなのでやめた。自然生活館に入ると、カフェがあったのでコーヒーを飲むことにした。席はほぼ一杯であったが3人連れの家族が相席させてくれた。

 河村さんはその人たちにタラの木のことを話し始めた。話している内に関心を示し始めて熱心に聞いていた。その人たちは高橋さんと言って、浜松から来たのだと言っていた。16時に近くなったので受付に行ったら長い列ができていた。

 河村さんとDilumさんは灯籠流しをするセットをもらった。登録もなく無料であった。それを持って灯籠を組み立てるところへ行くのだ。

 半透明のプラスチックの板に書きたいことを書いて、船の形をしたハッポウスチロールの板に載せて四角の形を作り、中に小さなデジタルの明かりを入れるのだ。

 隣で台湾から来た人たちが灯籠に書いていたが、四面にぎっしりと書いていた。親戚の先の一人ひとりの名前とどうして死んだかなどであった。

 灯籠を作ると灯籠の受付に行った。今年は河口湖の水位が低いので自分たちでは流せないのだという。係りの人が代わりに流してくれるのだそうだ。湖水まで行けないのが残念であった。

 私たちはセレモニー会場まで戻ったが、そこここに置かれたベンチはみな占拠されていた。係りの人に聞いたらもうベンチは無いと言った。困っていたら、偶然カフェで一緒になった高橋さんが声を掛けてくれた。ベンチを確保して置いてくれたのだという。親切に感謝をした。

 頂いた名刺には「社団法人日本善行会浜松支部常任理事」と書いてあった。裏に、

 ~善は愛から勇気から~と書いてあり、昭和12年設立としてあった。「目的」は善行の表彰並びに善行精神の普及と実践活動を通じて、明るい住みよい社会環境づくりに努め、もって国の発展と国際親善に寄与する、とあった。全国で3500人余りの会員がいるそうだが、こういう会があるのは知らなかった。

 18時半からセレモニーが始まった。会場には大きなスクリーンが設置してあり、それに映していた。僧侶の一団が登場し、来賓が入場した。どうやら僧侶と言うのは真如苑の僧侶らしかった。

 オーケストラの演奏で始まり、その後「声明(しょうみょう)」をオーケストラの伴奏で唱えた。声明の途中のある文言のところに来ると会場の人々が唱和をした。それでこの灯籠流しは真如苑が主催しているのだと分かった。

 台湾や中国やヨーロッパなどからも灯籠ながしに来ているのできっと信者が参加しているのだろう。それを河口湖町と共催して一般の参加も認めているのだと思った。

 帰りのバスの関係で19時に会場を出て湖まで行った。暗くなったので沖の方に灯籠の灯りが浮かんでいるのを見ることができた。残念なことに富士は雲の向うであった。

 帰りのバスは河口湖駅まで直行で河口湖大橋を渡ったので早かったが、料金は別で470円であった。駅からはタクシーで帰った。料金は730円であった。

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2017年8月25日 (金)

河口湖・西湖旅行―⑤―河口湖オルゴールの森美術館

 ハーブ館を見たあと、「河口湖オルゴールの森美術館」に行った。バス停の前が美術館であった。

  入口の前にバラ園があったのでそちらを先に見に行った。バラはもうほとんど終わりかけていたのが残念であった。

  入口に行くとDilumさんが「私は音楽にはあまり興味がないから外で待っている」と言った。それで私と河村さんが見ることにした。入館料は1500円だがホテルで割引券を貰ってあったので1200円であった。

  券を買って中に入ろうとすると、Dilumさんがいた。プリンセスプランという、コスチュームを着て写真を撮るというのに興味があったようだ。たくさんのドレスが掛けてあったが、この日は天気が悪いので貸し出しはごく一部だけだった。90分1500円で一部のものしか着られないのでやめにした。そしてDilumさんも入館することに気持ちが変わった。券を買いに行ったら、大学の先生は学生と同じで1200円だったと言った。

  中に入ると、お洒落な洋風の館がいくつか建っていた。きれいな花も咲いていた。まず最初に「おとぎの国ミュージアムショップ」に行った。中はいくつかの部屋に分かれていて、小さなオルゴールから大きなものまでさまざまなオルゴールを陳列して売っていた。大変な数であった。河村さんは小さいのを一つ買った。

  1階を見た後2階に行った。そこにはオルゴール作り体験教室があったが、私たちはその前の一角で、券を買ったときにもらった、たくさんの〇を印刷した紙に穴を開けた。専用のパンチで穴を開け、全部開けるとその紙を器械に通して鳴らすのだ。私はきれいに穴が開かなかったので諦めた。

  そこを出るとカリヨン広場の噴水が踊っていた。そしてオルガンホールの人形が音楽を鳴らしていた。丁度ショーが始まったのであった。私たちもショーを観るためにその建物の地下に降りて行った。

  大きなホールで、司会者が大きなオルゴールの説明をして実演をしていた。演奏をしてダンスをするのだ。それが終わると反対側の場所で生演奏と砂絵の実演があった。河村さんが「犬のぬいぐるみをなくした」と言って慌てて出て行った。小さな可愛い犬を鞄に入れて持っていたのだが、前の館で落としたようだ。

  生演奏は、若い女性がバイオリンとピアノで「シンデレラ」という曲を演奏し、それに合わせて砂絵師の「砂絵」のパフォーマンスをスクリーンに映すのだ。面白い試みであった。

  それが終わると、Dilumさんと私はトイレに行くために「おとぎの国ショップ」に戻った。店員に犬のぬいぐるみのことを訊ねたらまだ分からないと答えた。

  外に出て河村さんを探したがいないので、スマホで電話したら入口にいると言った。すぐにこちらに来るように言った。

  落ち合って香水などの展示館に行った。香水は香水舎で見たのでサッと見て次の館ヒストリーホールへ行った。

  ヒストり―ホールにはオルゴールの歴史や種類や造りなどを説明してあった。1階にはちょっとした観覧席があってオルゴールの演奏を聴けるようになっていた。Dilumさんは化粧直しにトイレに行ったので私だけ2階に上がった。

  2階で扉に「演奏中」と札が貼ってあったのでそっと開けてみると、1階に大きなホールがあり2階まで座席があって人々が座って聴いていた。ステージには大きなオルゴールがいくつかあって司会者と歌手が説明をしていた。そしてオーケストラの演奏をするオルゴールに合わせてテナー歌手が朗々と歌った。オルゴールでオーケストラの音が出せることは知らなかったので驚いた。また手回しと自動演奏のオルゴールに合わせた歌唱もあって楽しかった。

 下に降りて行くと、Dilumさんたちがオルゴールの説明を聞きながら演奏を聴いていた。アクロバットの人形のオルゴールやテディベアのオルゴールなど5種類ほどあって面白かった。

 河村さんが落とした犬のぬいぐるみを届けてもらったと言って喜んでいた。どうやってここにいることが分かったのか知らないが、素晴らしいフォローで感心した。河村さんはスタッフたちにお礼に「百倍さん」というお守りを上げたら喜んでいた。

 昔家族で行った清里のオルゴール博物館よりオルゴールの森美術館の方がよいと感じた。

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                    ヒストリー館

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                   可愛いオルゴール

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                    オルガンホール

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                  オーケストラオルゴール

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                  オルゴールの中

 

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2017年8月24日 (木)

河口湖・西湖旅行―④―夕食、朝食、ハーブ館、香水舎

 露天風呂を出て帰路は下り坂なので比較的楽であった。赤い周遊バスで乳が崎まで戻った。

 スーパーOGINOに立ち寄って、夕食に食べるものを買った。近くにガストなどのレストランもあったが、スーパーで食べたい物を買う方がいいと考えたのだ。

 ビール類は名古屋では見かけない第3のビールがあった。サントリーのGRAND GOLDというブランドであった。値段も6缶で税込599円と安かったのでそれを買った。食品売り場で笹かまぼこやからあげやサラダやカニ蒲鉾などとおにぎりを買った。

 ホテルに戻ると、ビールを飲みながら食べて談笑した。一人当たり850円で安上がりであった。食後の果物は桃があった。1個を分けて食べたが、甘みはあったが堅い桃であった。

 次の朝、私は起きるのが早いので5時ごろに目が覚めた。風呂は6時からなのでその間が退屈であった。5時半ごろロビーに下りて今日行くところを調べた。5時50分ごろホテルのオーナーが風呂に入れると言ったので風呂に行った。

 割合大きな湯船と少し小さい湯船があった。髭を剃り、頭や身体を洗い湯船につかった。丁度良い湯加減であった。他の人は誰も入って来なかった。

 朝食は7時から用意されていた。女性は起きるのが遅かったので、7時40分ごろに行った。大きな広間に用意されていた。

 味噌汁、納豆、サラダ、おひたし、鮭の焼き物、ちくわ、半熟卵、海苔、昆布の佃煮・・・工夫されていてヘルシーな朝食であった。私はこういうところに来るとたくさん食べるのでご飯もお代わりをした。

 食べながら今日の行動を相談した。この日のメインは、夕方からの「灯籠流し」であった。それまでの時間をどう過ごすかであった。Dilumさんは富士の5合目までバスで行くことを提案したが、宿の人が行っても雲しか見られないと言っていたので、それは諦めた。16日と17日の2日間使える周遊券を買って、見たいところを見て回ることにした。

 Dilumさんが浴衣で行きたいというので、天気は良くなかったが浴衣に下駄で出かけた。

 先ずハーブ館バス停で降りて真ん前にあるハーブ館に行った。ホテルで割引券を貰ってくるのを忘れたのでそこにある割引券を貰った。

 ハーブ園にはあまり広くはないが、いろいろなハーブを育てていた。中でもラベンダーの種類が多かった。

 ハーブ園の隣に香水を集めた香水舎があったのでそこに入った。様々な香水や香水グッズを売っていた。河村さんは可愛い香水人形を買った。

 ハーブ館に戻ってDilumさんが食べたいラベンダーソフトクリームをカフェで買って食べた。ラベンダーの色と香りがした。

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                        16日朝食

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                        ハーブ館

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2017年8月23日 (水)

河口湖・西湖旅行―③―「天水野天風呂」

 ほうとう不動の店を出て案内所に戻る途中、露店で桃を売っていたので大きな桃を3個買った。1個300円だが疵物だからやすいのでよい方は1個600円だと言っていた。

  案内所でホテルに電話をしてもらうとすぐに来てくれると言った。この後どこに行くとよいかと尋ねたら、バスの時刻と地図のパンフをくれて、何カ所か教えてくれた。Dilumさんが温泉に行きたいと言ったので、そうすることにした。

  案内所の隣に迎えの車専用の10番の場所があってホテル源吾の車が来た。ホテルは幹線道路沿いにあって、真ん前に大きなOGINOというスーパーがあった。

  チェックインをして支払いをした。ネット予約の通りであった。部屋は2階にあり、富士山が見えるか尋ねたら、見えるときは正面に見えるが大きな木が邪魔をして全体は見えないと言った。

  「天水」という露天風呂に行きたいのだがどのバス停で降りるのかとオーナーに尋ねたら、3・バス停で乗って19で降りればよいと言った。私は「バス停の名を知りたいのです」と言ったが、何度聞いても同じ答えであった。バスのパンフで調べたら19は久保田一竹美術館だと分かった。

  バス停に行くと「3・乳が崎」と書いてあり、時刻表も出ていた。ホテルではバスは赤い色をした小型のバスに乗るのだと言った。河口湖周辺には赤色の「河口湖周遊バスと緑の西湖周遊バスがあるのだ。赤コース緑コース合わせて2日間乗り放題チケットがあり、1300円である。(パンフには1200円と書いてあったが実際は1300円)バスに乗降するときに買うことができる。

 3・乳が崎バス停から19・久保田一竹美術館までは片道340円であった。往復680円になるが、私たちは次の日に2日間に使える周遊券を買うことにしたのだ。

 バス停を降りると、目の前に「天水の湯」と看板に書いてあるホテルがあったので、そこだと思ったら違っていた。ホテルの人が「天水露天:風呂」を教えてくれたので雨の中を歩いて行った。かなりの急な坂で膝が悪いDilumさんと腰が悪い河村さんはそろそろと歩いた。

 「天水」の近くに「久保田一竹美術館」があったが、道路から離れたところにあり雨と暑さの中を歩くのは嫌なので、残念ながらそちらに行くことは諦めた。

 「天水野天風呂」に入ると、フロントで貴重品をどうするのか尋ねた。100円のコインロッカーがあると言った。100円割引券を持っていたので900円だが、ロッカー代が100円で合計1000円であった。いくら天然の温泉とはいえちょっと高いと思った。

 温泉は普通の浴室と露天風呂が3カ所あった。普通の浴室のシャワーで身体を洗い、露天の方に行った。一番下の広い湯に外国人が2人いた。

 最初に高いところにある湯に行ったらそこはぬるい湯であった。日本人の高齢者が1人いた。露天風呂だが雨除けの屋根が掛けてあるので雨には濡れなかった。

 外国人が真ん中の湯に移ったので、一番下にある大きな湯に入った。そこへ日本人の親子が3人入ってきた。父親は「タオルを湯に入れてはいけないよ」と教えていた。子どもたちは泳ぐ真似をしたりして楽しんでいた。浴室のシャワーで洗い流して外に出た。

 服を着て待ちあわせの大きな畳の部屋に行ったがまだ来ていなかった。二人ともゆっくりだからと思って待っていた。そのうち若い白人が2人出てきてベンチに座っていた。

 1時間以上待っていても出てこないので、ひょっとして先に帰ったのかと心配になり、フロントの人に尋ねたらまだ入浴中だと言った。そして見に行ってくれた。「もうすぐ出られるそうです」と言った。

 しばらくすると出た来た。いつものように風呂の中で他の人と話し込んでいたのだ。今回はシンガポールから来た学生だった。慶応大学の学生で先に出て待っていた女性のうちの一人と同級生だと言った。先に出ていた2人はフランス人だと言った。もう一人は早稲田だそうだ。シンガポールの学生は日本人のような顔で日本語も上手であった。

 私は、持っていたクロスアップ手品を演じて見せた。彼女らはどの手品にも声をあげて驚いていたので嬉しかった。持っていた念力の紙の手品をプレゼントした。

 Dilumさんは「友達になれてよかった」と言っていた。彼女の温泉が好きな理由は風呂の外に交流ができることにもある様であった。

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                       一番下の湯

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                        中と上の湯

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2017年8月22日 (火)

河口湖・西湖旅行―②―「ほうとう」を食す

 河口湖駅は富士急行の終点になっていて電車が止まっていた。駅前広場ではバスが次々に来ていた。

 案内所があったので入った。係りの女性が丁寧に応対してくれた。迎えに来るようにホテル源吾に電話をしてくれた。その後で昼食をこの近辺で摂った方がよいと気づき、再度電話をしてもらったら、まだ出てなかったのでよかった。2時ごろに迎えを頼むことにした。

 駅前で食事をするにはどこがよいか尋ねたら、「ほうとう不動」が美味しいと教えてくれた。「ほうとう」は山梨の特産のうどんである。以前NHKの「花子とアン」で花子の実家でほうとうを食べるところがあった。また妻が「おほうとう」と言って作ってくれたのも思い出した。だから是非「ほうとう」を食べたいと思った。

 ところが大のうどん好きの河村さんはあまり乗り気ではなかった。ほうとうはつるつると喉を通らないのでおいしくないというのだ。でも何とか食べる気にさせた。

 駅の向かいにある「ほうとう不動」の店の前には10人余りの列ができていた。中国人など外国人たちも並んでいた。なかなか列が進まなかった。やっと店の中に入ったが、そこでも席に案内されるまでかなり待たされた。

 待っている間に近くのテーブルの学生を見たら大きな鍋からほうとうを食べていた。美味しいか尋ねたら「おいしい」と言った。鍋の直径が30cmぐらいあり深さが20cmもありそうな鉄の鍋であった。

 河村さんとDilumさんは「あんなに多くては食べられないね」と言った。それで二人で一つ注文することになった。

 テーブルに案内された。二人で一つを注文してもいいか尋ねたら「そういう方がよくいらっしゃいます」と言った。量が多いので二人でシェアをする人がいるのだ。

 テーブルに就いてからも長く待たされた。店の中は満席であった。他のテーブルでかき氷を注文した人がいた。なんと普通のかき氷の3倍ぐらいある大きなものであった。二人でシェアをしていた。

 「ほうとう」が運ばれて来たときは店の前に並んでから50分ぐらいたっていた。きっと量が多いのと作るのに時間がかかるのだと思った。

 お椀と大きなしゃもじがついていた。それでお椀に小分けをして食べることにした。しゃもじで掬ってお椀に入れて冷めるまで待って食べた。味噌仕立てでいい味であった。いい味の元は中に入れた具の多さにもあると思った。

 まず、大きなカボチャが2切れ入っていた。カボチャはほうとうには必須だという。白菜もたくさん入っていた。インゲン、ピーマン、ニンジンなど野菜やキノコ類、山菜が豊富であった。出しは何で摂ってあるのか分からなかった。多分秘密であろう。

 私は一人で食べたので食べきれるか心配であったが、時間をかけて何とか食べ尽くした。入り分の代金は税込で1080円であった。美味しかったし栄養もあり満足した。

 「こんだけ食べたら夕食は簡単なものでいいね」と話し合った。妻の土産に味噌付「ほうとう」を買った。

 ※ほうとうとは?

  中国の唐の時代、汁に入れた麺を「不托」と呼び、後に「はくたく」と呼ばれるようになった。日本では平安時代の倭妙抄に「はくたく」の名が見られ、枕草子にも「はうとうまいらせん、しばしとどまれ」とあり、平安貴族も愛好した様子が窺える。

 その後、武田信玄公が戦時食としたものが甲州風として受け継がれた。ごんぱち(捏ね鉢)でこねて熨しん棒で伸ばして切りそろえ、富士山麓の味噌と山菜を添えたほうとうは、富士5湖名物となった。(ほうとう不動箸袋より) 

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2017年8月21日 (月)

河口湖・西湖旅行―①―高速バス

 河村さんのご主人が5月に亡くなられて初盆なので、英国在住のDilumさんから河口湖で催される灯籠流しに行こうと提案があった。

 Dilumさんは昨年Markと一緒に日本に来たとき、河口湖へ富士山を見に行き、灯籠流しのことを知ったのであった。残念ながらそのとき河口湖では富士山は見ることが出来なかったそうだ。それで富士山も見たいので河口湖へ行こうと思ったのだそうだ。

 Dilumさんは、英国からインターネットで河口湖周辺のホテルを探し、私もネットで調べた。英国と日本の間でMessengerを使ってやり取りをした。灯籠流しが行われるのは大石公園なのでそこまでの交通なども考慮しなければならなかった。

 Dilumさんが、ホテル源吾を見つけたので、私がホテル源吾に電話をして場所や宿泊の条件などを確認した。そしてDilumさんが英国からネットで予約をした。2泊朝食付きで1人11340円(税サ込)であった。 

 河口湖への交通については私が調べた。鉄道を使うと早いのは3時間余りだが運賃が1万4000円ほどかかるのことが分かった。それ以外は4時間以上かかって10000円以上で、結局名鉄高速バスが一番安いことが分かった。しかも、時間は4時間余りである。河口湖駅まで3600円であった。往復でも7200円と安い。それでバスで行くことに決定した。

 名鉄高速バスはバスセンターから現地まで直行である。朝7時10分にバスセンターを出発し、現地には11時20分ぐらいに到着するのだ。途中新東名高速の掛川で20分のトイレストップであった。切符は高速バスセンターで2か月前から予約ができる。それで6月15日の朝電話で予約をした。

 最初、バスセンターまで切符を買いに行かなくてはならないだろうと思っていたら、電話で予約をしておけば当日朝6時40分からでよいということであった。

 ところが出発の数日前にバスセンターを確認に出かけたら、切符はいつでも販売することが分かった。それでその場で切符を買った。切符さえ買っておけば、当日朝は出発に遅れないように行けばよいのだ。

 8月15日バスセンター開場と同時に中に入るとDilumさんたちも来ていた。バスは7時10分に出発した。座席は予約が早かったので前から2列目であった。

 都市高速に入り、伊勢湾湾岸道を通って豊田南まで行き、新東名高速道路に入ることが分かった。新東名を通るのは初めてなので道路の様子を注視しながら乗っていた。

 掛川でトイレ休憩のとき、河村さんは大好きなうどんを食べに行った。私は土産物店を見ていたが、品ぞろえが一風変わっていて、安いアウトレット商品なども置いてあった。帰りに買おうと思ったら、店の人が帰りはここには来ませんと言った。河村さんはアウトレットの煎餅を二袋抱えて戻ってきた。

 富士宮から139号線に入って河口湖へ向かい途中若干の渋滞はあったが11時半ごろ河口湖駅に着いた。

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                     河口湖駅
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2017年8月20日 (日)

NHKスペシャル「731部隊の真実」を観て

 8月13日に放映されたNHKスペシャル「731部隊の真実」を観た。以前に組曲「悪魔の飽食」のことを書いたが、そのときネットで調べたら、731部隊は作られたものだとかウソだとかいうサイトがたくさんあり、森村誠一の「悪魔の飽食」もでっち上げだというような批判がされていた。

 今回のNHK「731部隊の真実」では、731部隊がでっちあげではなくて「真実」として取り上げられていた。もとにした資料は旧ソ連によるハバロフスク裁判を記録したテープであった。このテープの存在が72年ぶりに発見されたのだ。

 その他に京都大学や北海道大学に残されていた資料を発掘したり、731部隊に14歳の少年兵として徴用されていた三角氏の証言なども交えて作られていた。

 731部隊は旧満州国のハルピンの広い敷地に置かれていた。その建物とか物品等は8月9日のソ連参戦により、証拠を隠滅するために破壊したのであった。現在残っているのはビルの残骸だけである。

 三角氏は、731部隊に関係した医者や科学者たちが帰国したあと、他の少年兵と共にガソリンで囚人を焼き骨も拾って始末をさせられたという。

 731部隊には全国から医者などの優秀な科学者が集められて研究に参加していた。京都大学の11名、東京大学の6名の他に全国の大学から多くの研究者が集められていた。

 派遣した大学には巨額の研究費が政府から支給された。また731部隊の研究者にも多額の金が支給されたのだ。

 テープに録音された証言によると、チフス菌やペスト菌などを囚人に食べ物と一緒に食させたり、身体に振りかけたりして発病させていた。

 囚人というのは「匪賊」と呼ばれた中国人たちである。戦争がはげしくなるに連れて「匪賊」がどんなに凶悪なものであるかを人々に刷り込ませる情報が新聞やラジオでばらまかれた。日本人はそんな奴らは徹底的にやっつけてしまえと思うようになったのだ。私は子どもの頃読み物などで「匪賊」というのが満州にいることを知り、とんでもない怖い連中だと思いこんでいた。

 多くの学者たちも、匪賊だから人体実験に使ってもよいと罪悪感をなくしていったようだ。陶器製の爆弾にチフス菌やペスト菌などを詰めて空中で破裂させばらまく爆弾が作られた。その爆弾は昭和16年から17年に3回使用されたという。また村にばらまくこともされた。 

 人体実験に使用された人の中には女性や子どもやソ連人も一部含まれていた。

 731部隊で人体実験に携わり研究をした関係の科学者は戦後罰せられることはなかった。それは731部隊で得られたデータを米軍に提供することと引き換え罪を問われなかったのだ。そして彼らはその後医学界などを引っ張る存在になった。多くの医者を送り込んだ和田正三京大医学部長は医学界の重鎮となった。チフス菌などの人体実験をした田部井氏は細菌学の権威をなった。

 凍傷の研究をした吉井寿人は死ぬまで自分は何も悪いことをしていないと言っていたそうだ。

 テープには柄井氏の話しが記録されていて、彼は痛切に反省をしている。残念なことに8年の刑期を終えると自殺をしてしまった。

 生き残った研究者たちは731部隊でした研究については何も語らず、研究の道を進んだ。本来なら歴史の貴重な証人として証言をしておく責任があったのに。ハバロフスク裁判のテープの証言はそうした医学者たちの下で働いた人たちが証言をしているのだ。

 ※次のサイトに詳しく出ている

   http://lite-ra.com/2017/08/post-3392.html

 

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2017年8月19日 (土)

恩田陸著「蜜蜂と遠雷」―音楽の天才の凄さ

 新聞で恩田陸著の「蜜蜂と遠雷」の広告を2度見てこの本が直木賞と本屋大賞をダブル受賞したことを知った。最初「蜜蜂」と「遠雷」という無関係のものをくっつけた題名に興味をもったが、広告を見て国際音楽コンクールを通じて主としてピアノ音楽を描いたものであることに惹かれた。

 以前に原田マハの絵画に関する小説を2冊読んだことがあり、音楽を舞台としてどのように描いてあるのか、絵画はまだ具象であるが消え去る音楽をどのように描くのかを知りたいと思った。それで書店を巡ってこの本を見つけて買った。

 手に取ったら厚さが3cmぐらいあったのでびっくりした。買う前は厚させいぜい2cmぐらいと予想していたのだ。読み終わったときページを見たら508ページあった。

 読み始めたが、視力がアンバランスで、右目でしか焦点を合わせられないので読むのが一苦労であった。以前はページの右上から左下にかけてブラウズして読むことができたのに、今はそれが出来ないのだ。だから読み終わるのに3週間余りも要した。

 読み始めてすぐ面白いと感じた。主要登場人物の1人の風間塵という異色の少年や栄伝亜夜という少女とマサル・カルロとの最初の出会いのエピソードなどだ。

 風間塵の設定が面白い。養蜂家の父を持ち、ホフマンという世界的なピアニストに指導を受け秘蔵の弟子なのだが、ピアノが家にないのでピアノがあるところで弾かせてもらっているのだ。しかし、音感が非常に素晴らしく、自分でも調律ができるのだ。ステージで弾く前に周りの物の反響まで計算に入れるのだから本当にそんな人がいるのか?と思ってしまう。

 栄伝亜夜という20歳の女性は屋根を打つ雨だれの音にも音楽を感じてしまうという音感の持ち主である。マサル・カルロスは子どもの頃亜夜と出会ってピアノを始めるのだ。それが芳ケ江国際コンクールで再び出会う。マサルはジュリアード音楽院の学生で幅広い音楽で才能を発揮している。

 この他にコンクールのコンテスタントとして、普通の市民生活をしながら音楽をやっている高島明石という人物がからむ。

 コンクールの審査員が13人いる中で、嵯峨三枝子というピアニストとマサルの指導者のナサニエル・シルバーバーグがこの小説の重要人物である。

 浜松国際コンクールを元にした芳ケ江国際コンクールは、2週間にわたる長丁場のコンクールで、第一次予選300人のコンテスタントの中から第2次に残れるのは24人で、第3次まで残るのは12名である。その中からオーケストラとの共演をする本選に残れるのは6名に過ぎない。

 このコンクールは国際的にも知名度を上げて来ており、注目されているコンクールである。そこでの出場者の中で上記の3名に焦点が当てられて物語が進むのだ。

 この小説を読んでプロの音楽家(この場合はピアニストだが)というものが天才とは言えどんなに凄いものかが分かった。

 楽譜を読んだだけでも演奏できるとか、即興での演奏ができるとか、たくさんの曲を暗譜しているとか、それだから演奏を聴いて批評したり学んだりできるのだとか・・・・そういうことが分かった。

 私のような音楽音痴は演奏会を聴いてもただ聴いているだけである。それ以上のことは何もない。演歌とかポピュラーソングを聴いてうまい、下手が分かる程度である。

 楽譜はもちろん読めないし、音楽の才能がゼロに生まれたことが残念でならない。かろうじて合唱はやっているがそれだけである。音感もリズム感も拍感もゼロに近い。

 この小説では、登場人物を内面からと他者の眼で描くことによりコンクールと音楽を描いている。その筆致は素晴らしい。よくもこんなにいろいろな言葉を駆使して表現できるものだと感心する。ただそれが余りにも詳細なので読むのは大変であるが。

 作者の恩田氏は浜松国際コンクールに4度通って構想を考えたそうだが、それにしても音楽を描くにはその曲についても、音楽についても理解する才能がないとできない。

 この小説を読む副産物としてコンクールの内幕や参加者の心理などを知ることができる。

 

 

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2017年8月18日 (金)

新聞史を折って形が変化

 夏休みの遊びとして新聞紙1枚でも広告の紙でもやれる「新聞紙で折る形の変化」を楽しむ一種の折り紙を紹介する。

 人に見せながらやるように説明した。

(1)現 象 1枚の新聞紙で折った兜が舟やシャツに変化して、最後は日の丸になる。

(2)準 備 新聞紙1枚(4ページ分)

(3)やり方(下の図を見て)

 大きな新聞紙(二つ折りの新聞紙を見せる)。二つに折って(下から上に織り上げる)。

 もう1度折つて(横に折る→4分の1の大きさになる)。それを広げて(半分の大きさに広げる)

 三角に折り上げて(①下から中央の折り目に向けて折り上げる)。反対側も折りあげて(折り上げる)。三角ができました(と言って見せる)。
 

 上を折り下げて(長方形の部分を折り下げる)。裏側も折り下げて(反対側を向こう側に折り下げる)。兜ができました(②できた兜を見せる)。

 兜ができたら頭に被ります(被って見せる)エッヘン、オッホン。

 兜の向きを、前に向けると、フランス人の帽子の帽子(前に動かして被る)。

 帽子を取るとグラスに早や変わり(手で広げてとがった部分をもつ)。ワインを入れて(入れる真似)、ワインを飲みます(飲む真似)ゴク、ゴク、ゴク。

 両端を持って、左右に引つ張ると(左右に引く)、真四角ができました(③真四角の形になったのを見せる)。

 真四角ができたら、三角に折りあげて(④両側を折り上げる)。入れ物ができました(下を持つて広げて見せる)。ポップコーンを入れて(ポップコーンを入れる真似)おいしく食べましょう(食べる真似)ムシャムシャムシャ。

 真ん中を持って、左右に引っ張ると(縦の折目のところイを持って左右に引く)、チュウリップができました(⑤ とがった所ウエを動かしてみせる)。〔咲いた、咲いたチュウリップの花が・・。と歌う〕。

 チューリップを引つ張ると(花の形の部分ウエを左右に引く)。お舟に早変わり(⑥舟の形を見せて動かす)〔海は広いなおおきいな・・・と歌う〕。

 お舟の片方をハサミで切ると(⑦ハサミで片方の舶先を切る)。モーターボートになりました(モーターボートのように動かして見せる)。

 舶先を切って、③舟べりを下におろし、とがつた部分を円く切る(⑨三角のところを丸く切り取る)。

 短い方の下クケを持ち、両手で広げると、Tシャツができました(⑩Tシャツの形を見せる)。

 Tシャツの裾コを持つて、両手で広げげて、二つに折ると、長袖に早変わり(⑪長袖のシャツを見せる)。

 長袖の両袖を、ハサミで切ると、ランニングに変わつた(袖のない形を見せる)。

 ランニングの裾を、両手で広げて、赤い紙を当てると、日の丸になりました(日の丸を見せ

 〔白地に赤く日の丸染めて。・・〕を歌つて終わる)

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2017年8月17日 (木)

ゴカイの血液が代替血液になるか?

 Yahooニュースを見ていて面白い記事を見つけた。釣り餌につかわれているゴカイが人間の血液の代替血液としての可能性があるというのだ。

  発見したのはフランスの研究チームで、ゴカイの血液に類まれな酸素運搬能力があることを見つけたというのだ。それを人間の血液の代用物として活用することで、人命を救ったり、手術後の回復を速めたり、移植患者の役に立ったりする可能性があるというのである。

  私は昔釣りに凝っていたころ海辺の釣りに出かけるとき、釣り餌屋でゴカイを買って餌にして釣っていた。ミミズとヤツデの合いの子みたいで血液で赤い色をしていた。ゴカイが外国にもあるのは知らなかった。

  研究したのはフランスの生物学者グレゴリー・レイモン(Gregory Raymond)氏である。彼は「ゴカイのヘモグロビンはヒトのヘモグロビンの40倍以上の酸素を肺から各組織に運ぶことができる」「また、すべての血液型に適合できるという利点もある」と話している。

  ゴカイの中のヘモグロビンは血中に溶けて存在し、ヒトのように赤血球に含まれているわけではない。だから血液型が問題とならないのだ。しかもその成分は、ヒトのヘモグロビンとほぼ同じだという。

  あのゴカイにそんなすぐれたはたらきがあったとは。血液型を問わないというのもすばらしい。

 レイモン氏率いるチームは2015フランス西部ブルターニュ(Brittany)地方の海岸線にある養魚場「アクアストリーム(Aquastream)」で、毎年130万匹以上のゴカイを生産しているという。

 医療の世界がゴカイに関心を持つきっかけは、2003年に欧州で狂牛病が大流行し、世界中でHIV(ヒト免疫不全ウイルス)がまん延したことで血液の供給に影響が出始めたことだったそうだ。
 
 2006年には大掛かりな研究が行われ、ゴカイの可能性が実証された。酸素を豊富に含んだゴカイの血液が人体に安全なことが証明されれば、敗血性ショックに対処でき、移植用臓器の保存にも役立つ。

 2015年、この代用血液の臨床試験が始まった。2016年、ゴカイのヘモグロビンはフランス西部ブレスト(Brest)の病院でヒトの腎移植10例に使用された。現在フランス全土で60人の患者がこの臨床試験に参加している。

 もうすでにフランスでは臨床試験までおこなわれているのだ。レイモン氏は「ゴカイから抽出した細胞外ヘモグロビンの特性は、移植した皮膚の保護や骨再生の促進に役立つばかりか、万能血液の誕生につながる可能性もある」と述べているそうだ。

 ゴカイなぜそんなにも多くのヘモグロビンを蓄えているのか。それは満潮時に海の底に沈んでいる間に多量の酸素を蓄え、干潮で水から出ても8時間以上も生き延びることができることにある。

 この研究が進んで安全に人間の血液の代替が可能になれば、大勢の移植患者を救う可能性があり、凍結乾燥されたゴカイの血液が、通常の輸血用血液の重要な代替品となり、戦場や災害現場で役立つ日が来るであろう。海に囲まれた日本ではゴカイの養殖は容易である。大きな産業に育つかもしれない。(AFP=時事記事を参考に)

「ゴカイ 画像」の画像検索結果

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2017年8月16日 (水)

戦時中の庶民の圧迫された暮らしをメディアに取り上げてほしい

 8月になると広島や長崎に原爆が投下された日や終戦の日があるので、メディアは原爆や戦争に関連した番組や記事を特集する。それはそれで大切なことだと思う。

 だが、戦争は他国への加害や自国の被害だけでなく、日本国民自身が当時の政府や軍部によって強制された生活によって、自由や人権が失われたり、圧縮されたということがある。

 戦争によって物資が不足し、配給に頼る貧しい暮らしや米国軍が日本に迫って来るにしたがって米軍機による爆撃など恐怖の日々が続いた。しかし、その他に天皇を現人神として崇めることを強制されたり、赤紙ひとつで徴兵されたり、学生が工場に動員されたり、小学生でも授業をやめて奉仕作業をさせられたり、皇国婦人会に組み入れられて、主婦もさまざまな勤労奉仕をさせられたりしたのであった。

 「一億火の玉」とか戦争末期には「一億玉砕」などということが叫ばれ、竹やりで米兵を殺すなどという馬鹿げた訓練が真面目に行われた。

 戦争の初めの頃は「欲しがりません勝つまでは」我慢を強いられ、「壁に耳あり、障子に目あり」など互いに監視する隣組組織も作られた。「とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、回してちょうだい回覧板 助けられたり助けたり」という明るいメロディの歌がある。今に残る回覧板は戦時中のものであったのかと思う。

 安倍首相の悲願は憲法を改悪し、できれば戦前に回帰することだと言われる。その点では小池東京都知事も全く同じである。それを支えるのか「日本会議」であり、その中心の1人桜井よし子氏は最近も第3次安倍内閣が一番だと言っている。

 天皇中心の大日本帝国憲法と富国強兵の明治に戻したいのだ。その点では維新の会も名前の通り同じであろう。安倍首相が言う経済最優先の裏にあるのは富国強兵なのだ。国民の生活の向上ではないのだ。

 メディアに扱ってもらいたいのは、戦時中の庶民の生活がどんなものであったのかということである。大東亜共栄圏建設のために中国や東南アジアを侵略しただけでなく、そのために協力させられた国民が、どんなに悲惨な目にあわされたのかということを、つぶさに掘り起こしてほしいのである。

 8月10日の朝日新聞に「暮らしの手帖」が「戦争中の暮らしの記録」を単行本にしたのが売れていると出ていた。累計で20万部売れ、若い人にも人気があるという。花森安治編集長が68年の暮らしの手帖をまるごと「戦争中の暮らしの記録」にしたのだという。全国から集まった1736の投稿から139編を採用したのだ。

 私は読んだことがないので読もうと思うが、私のような戦時中の生活を知るものが読むのではなく、70歳以下の戦時中を知らない人たちにこそ読んでもらいたいと思う。メディアがこういう視点の特集をしてくれるとよいのだが・・・と切に願っている。

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2017年8月15日 (火)

72年目の終戦の日

 8月15日は72回目の終戦の日である。私が小学校4年生の時に終戦になった。以前にも書いたとこがあるが、この日は太陽が照りつける大変暑い日であった。

 商業学校の教師をしていた父は学校に出かけて行った。父が帰宅すると遠くの山の中腹を開墾して作っていたちょっとした畑に行くことになっていた。私は長男なのでいつも家の手伝いをさせれれていた。

 暑いので畑に行くのは嫌だと思っていた。午後に父が帰宅したが、何も言わずに「今日は畑にはいかない」とだけ言った。家には4球式スーパーラジオ(その頃は英語は使えなかった。何と言っていたが忘れた。多分4球式放送受信機?)があったが、天皇の終戦の詔勅の放送があることは知らなかった。だから終戦を知ったのはその日の夜だったと思う。とにかく遠い山の畑に行くことは免れたのが嬉しかった。

 終戦になって何と言っても嬉しかったのは、もうアメリカのB29が飛来して、夜となく昼となく爆音を響かせて上空を飛んでいくのがなくなったことだ。それまでは田舎の街でもいつ空襲されるかとか機銃掃射をされるかと毎日心配であったからだ。

 平和という言葉があることを知ったのはずっと後のことで、戦争が終わった、もう殺されることはないという安心が一番であった。

 私たち子どもは、その日から外で安心して遊ぶことができたし、誰でもがやらなくてはなかった家の手伝いも安心してやれることになったのだ。

 夜の燈火管制もなくなった。夜になると小さな2燭豆電球の周りに黒い布で覆って光が漏れないようにしていた。それが布をはずして、今でいうと30Wぐらいの電球をつけることができたのだ。

 空襲警報が鳴るたびに防空壕に飛び込むこともなくなった。家の前の空き地に共同の防空壕があった。住んでいた新宮市の熊の地が焼夷弾で爆撃されたとき、その防空壕から顔を出して、そちらの空を見上げて、焼夷弾がキラキラと光りながら雨の様に落ちていくのを眺めながら、きれいだなあと不謹慎な感想を持ったことが忘れられない。その下で多くの家が焼かれ人々が殺されたり傷ついていたのに。

 終戦によって8月15日を境に戦争から平和へと劇的に切り替わったのであった。生活は非常に苦しく、父も母も必死であったし、私も畑仕事や松葉広いなどいろいろ手伝っていた。しかしそうしたことは、いつ殺されるか分からない恐怖の毎日に比べればどうということはないとも言えた。とにかく普通の日常生活が戻ったのだから。

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2017年8月14日 (月)

LINEの便利なところ―遠隔サポートもできるよ!

 私はiphoneにLINEアプリを入れて使っている。LINEを使いだしてから4年ぐらいになるが、まだLINEの機能については分からないことだらけである。

  先日まで新しい友人とどのようにして交信できるようにするかも知らなかったくらいだ。LINEに詳しい知人に聞いてやっと分かった。知って見れば難しいことではない。ただ若い人と違って1度聞いただけでは覚えられなくてすぐに忘れてしまうのだ。

  私の勧めでiphoneを買ったばかりの松山の知人からLINEで電話が掛かってきた。知人はやっと電話を使えるようになったのだ。LINEなら時間を気にせずに話しができるので有難い。

  話しの内容は、ワードのファイルを開いたら「保護ビュー」というのが出て、閉じてもワードが使えないというのであった。ひょっとしてウイルスかも知れないと思い調べてみた。

  Googleで「保護ビュー」と入れて検索したら、すぐにマイクロソフトの関連ページがヒットした。また、保護ビューを閉じて使う方法を書いたサイトもあった。それで両方のサイトを知人に送った。

  iphoneの場合、ページを開いて見た後、右下に四角に上向き↑のついたマークがあるので、それをタップするといろいろなところに送れるようになっている。その中からLINEを選んで送信したい相手の名前を入れて、送信ボタンをタップするだけである。

  自分のLINEには相手に送ったURLが残っているので確認ができる。

  その知人からまたLINEで電話があり、今度はメールソフトを開いたが受信したメールが見つからないと言った。そんな馬鹿なはずがないと思って、いろいろ聞きながら指示をしてやってもらったがどうにもならなかった。

  そのときふとひらめいたことがあった。LINEのカメラでパソコンの画面を写して、それを見れば分かるのではないかと思ったのだ。知人は松山にいるがカメラを通して彼のPCの画面を見ることが出来ると思ったのだ。

  早速LINEのビデオ電話で呼び出したら相手の顔が写った。その状態でPCのメール受信画面を写してもらった。

  「画面にはファイルがありません」と書いてあって、検索窓があった。その時点では受信トレイに何もないのはおかしいと思っていたので、自分の知識を動員していろいろと試してみた。でもどうしても受信したメールは見つからなかった。

  散々試してふと気が付いたのは、削除したファイルのことであった。そこには292個も削除してあった。それを開いて日付を調べたら最新のものも削除されていた。

  知人に自分で削除したのかと尋ねたらそうだと言った。それで分かった。知人はメールを読むとすぐに削除することが多かったのだ。試しに私からメールを送ってみると受信トレイに入った。一件落着であった。

  私はこれまでにパソコンやiphoneなどを何度も遠隔操作でサポートしてもらったことがある。今回のことでパソコンの画面を見るにはLINEのビデオ電話を使えばよいことが分かった。小さいながら字も読めるし遠隔操作と変わらないのだ。

 

 

 

 

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2017年8月13日 (日)

特攻艇兵士の短歌

 8月12日の朝日新聞に載った「戦死と向き合う 戦後72年」の記事が目にとまった。太平洋祭竿戦争末期に日本の陸海軍が編成した「特別攻撃隊」。航空機による海軍の神風(しんぷう)特別攻撃隊はよく知られているが、他にも陸軍の「水上特攻隊」が広島県の江田島にあった。

  ボートは秘密のため連絡艇とされ「マルレ」の略称で呼ばれていた。資材が不足する中、薄いベニヤ板と自動車のエンジンで作られ、船尾に250キロの爆弾を積んだ。

  前線に赴いたのは計30戦隊3125人いた。その内1703人が亡くなったという。沖縄・慶良間諸島に派遣された秋田県出身の横山小一さんは19歳であった。「大義のために死ぬのなら悔いはない。笑って『神兵』になるという覚悟で入隊した。1945年3月に米軍から急襲されて戦死した。

  横山さんが残した短歌2首が紹介してあった。

   大君の 御盾となりて 捨つるみと 思えば軽き 我が命かな

   戦時中兵士の命は鴻毛の軽さと言われていた。天皇(昭和)を守る盾となって特攻艇に乗り、沖縄の米軍艦艇を沈めて命を捨てるのだが、考えてみれば自分の命は何とも軽いことかという気持ちをうたったのだと解釈する。19歳の若さで自らの命を引き換えに敵に損害を与えることを命じられたのだが、その心境はいかばかりかと思う。横山さんは残念なことに目的を果たせず戦死したのだ。

  弟さんは「どんな時代になろうとも、多くの犠牲を忘れてはならない」と、その歌碑を実家の庭に建てた。

  横山さんのもう一つの歌は次のようである。

   大君に 捧げまつりし 命なれ 無駄に死するな 時代来るまで

  「いのちなれ」の後にどんな助詞を加えるかで意味が変わってくる。「ば」を入れて考えると、大君に捧げた命だから、病気とか失敗とかで無駄死にするなという意味になる。

 「ど」を加えるとどうなるか。大君に捧げた命ではあるが、無駄死にしてはいけないとなる。そして最後の「時代来るまで」につながるのだ。おそらく戦争が終わって平和な時代がくることを予想していたのではないか。そのときまで生きぬきたいという気持ちの表れであろうと解釈する。しかしそれは叶わず米軍に殺されてしまったのだ。もし生きて生還していれば新しい時代を立派に生き抜いたことであろう。

 同じように特攻艇で慶良間諸島にいて、助かった人もいる。隠してあった特攻艇が米軍に焼かれて使えなくなったので命拾いをしたのである。その人は91歳でお元気である。

 もう2度と戦争で命を捧げる事態があってはならない。稲田元防衛相も安倍首相も小池都知事も戦前のような国家の仕組みに戻すことを念願としている。それをよく見なければならない。

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2017年8月12日 (土)

おいしいカスピ海ヨーグルトを作るには

 私はカスピ海ヨーグルトを2000年から毎日作って食べて来た。最初に貰った種は伝わってきた経路が分かっている物であった。5年ほど前にうっかり種を食べてしまい、仕方がないので分けて上げた妹のところから種をもらってまた培養を始めた。

 7年ほど前までは牛乳を使っていたが、牛乳は人間にはよくないなどと言われたことがあって、豆乳に変えた。豆乳はイオンの調整豆乳を使っている。理由は値段が安いことと無調整より繁殖がしやすいと思ったからだ。

 2か月ほど前まで、180CCカップ二つに作っていた。つまり、種を入れて2日目のものを食べられるようにと考えたのであった。

 ヨーグルトのでき方は季節によって異なっている。夏や冬はあまり良くないように感じていた。ずっと同じやり方を17年間ほど続けて来たのだが、2か月ほど前から先ほど書いた様に種を入れて次の日のものを食べるようにした。

 ヨーグルトは24時間経てば十分すぎるくらい発酵するからだ。発酵が盛んなときは、できたものの表面がひび割れし、まるで豆腐のようになる。私はそういう状態のものを「豆腐」と呼んだ。「今日は豆腐になってしまった」という具合に。

 豆腐状になったものはかき回すとぶつぶつになって舌触りも味もよくない。上手にできたときは、かき回すとクリーム状になり、しかも膨らんで量が増えるのである。そういうときのヨーグルトは大変おいしい。

 そこでどうしたらそのようなおいしいヨーグルトが作れるかを試行錯誤で調べることにした。種の量がカギを握っていると想定し、種の量を換えてみた。

 いろいろやった結果、種はほんの僅かでよいことが分かった。もちろん今は高温の夏だから発酵が速いのだと思う。季節によって種の量を確定しなければならないだろう。

 2か月ほど前までは、大匙に1杯ほどの種を使っていたのだ。しかもそれを2日もかけて発酵させていたのであった。だから豆腐状になるのは必然であったともいえる。

 今は小匙の1/3ぐらいの種で180mlぐらいの豆乳を発酵させている。驚いたのはヨーグルト菌の繁殖力が非常に旺盛であることだ。朝種を入れて夕方にはかなり発酵が進み、翌朝には十分すぎるくらいになっているのだ。

 私は食べる前にメープルシロップを小匙1杯ぐらい入れて、スプーンでよく撹拌している。そのときに、先ほど書いた様に量が増え、クリームのようになったら最高である。

 なおメープルシロップを入れるのは知人の松崎さんから教えてもらった。それまで蜂蜜とかジャムとかいろいろ入れていたが、メープルシロップが1番よいことが分かった。メープルシロップは甘みが強いのか僅かな量でOKなのだ。

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2017年8月11日 (金)

自動車を修理して

 私の車はトヨタのラウムだ。今年の2月に車検をやって乗っていたが、ときどきカタカタとうるさい音がするので調べてもらった。原因は詳しく調べないと分からないが大丈夫だろうというのでそのまま乗っていた。

 

 車を運転するのはせいぜい週に1回、しかも往復で6km程度のスーパーまで行くだけである。だからバッテリーはしょっちゅうあがってしまう。カタカタ音は気にはなるが辛抱して乗っていた。

 

 先日娘と婿が来たときに、婿に車を貸した。そしたら後で運転中の音は調べてもらった方がよいと強く勧められた。それで自動車屋に電話をして、もう一度調べてもらうことにした。婿が東京から電話で自動車屋と話をして、結局修理をしてもらった方がよいということになった。

 

 見積もりは部品交換を含めて10万円くらいだといった。10万円は大きな出費なので、本当はやりたくなかったが、もし事故でも起こしたら大変だと脅すので修理に出した。

 

 この車にはほとんど乗らないので、走行距離は4万キロ程度である。買ってからまだ9年経ったくらいかと思っていたら、何ともう11年以上になるというので驚いた。

 

 ショックアブゾーバーあたりのゴムが劣化して、金属部分が当たるので音が出るのではないかという話であった。11年経つとあまり動かしてなくても部品が劣化するのかと思った。

 

 修理には部品取り寄せなどで6日ほど要した。平坦な道路を走行する限りでは音はなくなったように感じた。ただバンプのあるところでは前部に音が出る。オートマ関係のゴムがすり減っているのだということを言っていた。もしそちらも部品を交換すると30万円ぐらいになるので合わせて40万円にもなるから、車を買い替えた方がよいと言った。

 

 結局部分的修理をしてもらった。請求書はつぎのようになっていた。

 走行中異音修理一式          50000円

 

 FロアアームLH交換           19600円

 

 タイロッドエンドアウター交換      2740円

 

 FロアアームLH交換ショックLH交換  17200円

 

                    合計  89540円

 

        消費税7163円で  総計 96703円

 素人には車の修理のことはサッパリ分からない。ハイそうですかと聞くだけである。それにしても動かさなくても車が傷むのだと知った。これまでは10年くらいで新車に替えていたので気が付かなかったのかも知れない。もう免許証を返納した方がよいと思っているので買い替えはしないつもりだ。

 

 

 

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2017年8月10日 (木)

NHK ETV 「告白 満蒙開拓団の女たち」―お二人の感想

 以下に、友人から送られてきた「告白」を観たお二人の方の感想を記載させていただく

 (1) 敗戦による日本女性の犠牲。中でも敵兵(ソ連兵、国民党の兵士等)や日本の敗戦で今や勝利者側になった旧満州・朝鮮・ほかのアジアの男たちの性のはけ口にされた女性たち。その態様は様々でした。

 入局3年目に制作・放送した佐世保の「引き揚げの記録」(昭和4858日放送)の取材の過程で得た情報にも、そのような女性の姿が描かれていました。厚生省引き揚げ援護局がまとめた局史(佐世保引き揚げ援護局)に書かれていたと記憶しています。*佐世保にはアジアの広範囲の地域から復員兵・民間人140万人が引き揚げてきました。

 敗戦の混乱の中、祖国日本への引き揚げ船が出る中国遼寧省西南部の不凍港・コロ島に満州・北支など各地から列車で向うことの出来た人々がいました(私の両親と姉二人もその中にいました)。

 コロ島から佐世保に引き揚げてきた多くの女性たちの中で、一番荒れていたのが「性のはけ口にされた」女性たちでした。満州からコロ島に向う列車はしばしば中国の軍隊の国民党軍と八路軍(共産軍)に停車させられました。

 中でもアメリカが支援する国民党軍は車内の日本人女性を列車から降ろさせ、慰み者にしようとしたことが記録されています。その時、列車の中の団体がどのように対応したかは、引き揚げ列車の指導者層の判断次第でした。

 何とかお金で解決した列車、満州などで酌婦や女郎屋で暮らしを立てていた商売女に相手をさせ、素人日本女性を守ろうとした列車などなど。敵兵は差し出された女性たちを列車外に連れ出し、目的を達した後はまた列車に戻しました。この間、列車内に残り彼女らが戻るまでの間、特に同性の女性たちはどのような思いで列車内で過ごしていたのか。

 同じ敗戦国民として引き揚げる時、かつての玄人筋の女として敵兵に差し出された女性たちはコロ島に到着するまで、幾たびかこのような処遇を受けたことだろうと想像します。

 毛沢東率いる八路軍(共産軍)にこうした事例がほとんど聞かれないのは、国民党と熾烈な戦いのなかで中国国民の支持を得るために「強姦に対する厳罰」(露見すれば処刑)という規則を軍規としていたからでした。

 こうした女性たちの存在を、昭和26年に大ヒットした「上海帰りのリル」(作詞:東條寿三郎 作曲:渡久地政信 歌:津村 謙)を歌うときにいつも思い出します。

 一番の歌詞「船を見つめていた ハマのキャバレーにいた 風の噂はリル 上海帰りのリル リル あまい切ない 思い出だけを 胸にたぐって 探して歩く リル リル 何処に居るのかリル だれかリルを 知らないか」。

                                         (根本さん)

(2) いま、Eテレの「告白」を視聴しました。感動しました。

総括デイレクターを務めたNHKの塩田純さんからもみてくれと連絡が来ていました。期待にたがわない力作でした。

 接待という名目でソ連兵を「慰安」し、その犠牲の下で集団自決から開拓団の人々をまもった女性たちが居たのですね。驚きました。

 女性としてどんなにか辛かったか。そしてその周辺の人びとも苦悩した。その史実を明らかにしていったNHKならではの調査力を感じる作品でした。

 女性たちが名前も顔も出して、「生きて帰れたから、その後喜びも悲しみも体験できた。生きていて良かった。」とおっしゃっている姿は涙流さずにみることができませんでした。事情を呑み込んで彼女たちと結婚した男性たちも居たのですね。

 その一人、佐藤ハルさんの夫となった人はヒルしかすまない山奥の開拓に夫婦でとりくみ、戦後を二人で生き抜きました。

 その方を拝みました。立派なお二人です。また、子どもを産むことができなかった女性の、養子をめぐる話は哀切きわまりなく、しかし明るいものも感じさせ感動的でした。

 2年前に「集団事件の真実」(朗読劇)を演じてくださった方には、またさらなる思いが加わったのではないでしょうか。

 あの作品でも、ソ連や中国人の攻撃をうけながらの満州逃避行で弱い子どもたちが犠牲になったことを描きました。

 満州での集団自決は明治からの150年の日本の教育、洗脳の帰結です。

 「告白」は、その背景は語られていませんでしたが、それでも満州でたくさんの集団自決が起こったらしいことは想像させる「語り」でした。

また、あの舞台を再演したいですね。         (仲内さん)

 

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2017年8月 9日 (水)

NHK ETV特集「告白~満蒙開拓団の女たち~」を観て 

 8月5日にNHK ETVで放送された「告白~満蒙開拓団の女たち~」を観た。戦前に日本が旧満州国を作り、そこへ日本の各県から国策として送り出された27万人の農民がいた。岐阜県の旧黒川村(現白川町)からは満州の吉林省陶頼昭に黒川開拓団として入植した。戦争で養蚕がなりたたなくなり、一家で入植したと佐藤さんは語った。

  1945年8月ソ連が参戦し日本はまもなく負けてしまった。その後中国人たちが黒山のように黒川開拓団に押し寄せ物品を略奪し始めた。隣の九州から来ていた開拓団は薬を飲んで集団自決をした。

  黒川開拓団でも集団自決をする議論がされた。そのとき3km先の駅を占拠していたソ連軍に中国人を追い払ってもらうことを頼んだ。ところがその見返りとしてソ連軍は女性の提供を求めて来たのだ。

  苦渋の策として黒川開拓団では15人の未婚の女性を提供することにした。接待所を設けてそこにずらりと布団を並べてしいて若い女性、21歳~17歳を送り込んだ。

  ソ連兵はまるで物体のように銃剣で女性をあしらい相手をさせたという。昼でも夜でもソ連兵は来たので、1日に何度も相手をしなければならなかったそうだ。

  聞くに堪えない惨い話しであるが、600人の開拓団を救うためにはどうしようもないことであったのだ。

  女性たちには性病やチフスなどの感染を防ぐために洗浄などの措置が取られたが、それでも感染をし4人が亡くなった。また帰国後福岡の港の病院で中絶の手術を受けた者もたくさんいた。600人いた開拓団で帰国できたのは400人余りであった。

 女性たちも開拓団の人たちも帰国後この接待について触れることはなかった。心の中に封じ込めていたのだ。

 ところが数年前に当時89歳の安江善子さんが当時の経験を大勢の人の前で告白した。その女性は91歳で亡くなってしまったが、接待をさせられた女性が94歳の佐藤ハルエさんを筆頭に山本ミチ子さんなど3人生存しており、当時の様子を語りはじめたのだ。

 最初に告白した安江さんは夫や家族にもその動機については何も話さなかったという。生きている内に証人として地獄の経験を明らかにしておきたいと思ったのであろう。

 それをドキュメンタリーとして描いたのが、今回のNHKの番組である。佐藤ハルエさんは、黒川村に帰ったが、接待をした女性とは結婚できないなどの中傷をされ、2年後に蛭川村に移り、山を開拓して何とか生計をたて、満蒙開拓戻りの男性と知り合って結婚して今に到っているという。安江さんも開拓団の男性と結婚された。でも、子どもを産めない身体になっていた。

 安江さんは妹を守るためにその分も接待をしたのであった。それで子どものいない姉のために次男を養子に上げたのだ。心温まる話である。

 佐藤さんのお父さんは生きることが大切だと接待の道を選ばれたそうで、佐藤さんは生きていてよかったと言っておられた。ただお父さんは残念なことに現地で亡くなられた。

 戦後72年近くなって長生きをして、やっと話す気になったのだ。佐藤さんは後世に残さなければならないと語っている。カメラの前で名前も明らかにして当時の様子を話した勇気に感動をした。毎晩思い出されて夢にも出てきてさいなまれるという。開拓団を救うためとはいえそれほどの屈辱の体験であったのだ。非常に大切な歴史的事実で決して忘れられてはならない。

 

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2017年8月 8日 (火)

物忘れと認知症の判別

 高齢になると認知症になるのではと心配になる。70歳を過ぎた頃からだろうか、毎日自分は今大丈夫か?と自分を点検するようになった。それは物忘れが多くなってきたからである。

  50代でももちろん物忘れはあった。「この頃物忘れがひどくて」などと会話したものであった。51歳の娘は「私も物忘れがひどいよ」と言っている。

  この頃では若年性認知症も注目されるようになった。テレビでは50代で認知症になった人のことを取上げていることもよく見た。

  私の場合、まだ認知症は大丈夫だと思っているが物忘れがだんだんひどくなっていることは確かである。妻も後期高齢になったので認知症が心配である。だから毎日妻の言動を確かめている。

  先日auのニュースを見ていたら、週刊朝日に出た「『物忘れ』と『認知症』の境界線は○○ これを忘れるとヤバイ」という記事を見つけた。

 それによると区別する判断基準は次のようだと書いてあった。

 ※→のあとは、自分のこと

 <もの忘れ>


・ドラマに出ていた俳優の名前を忘れる→これは毎度のことである。
・小説の主人公の名前を忘れる→なかなか覚えられない
・知人の名前を思い出せないが、ヒントをもらえば思い出せる→その通り
・財布をしまった場所を思い出せない→しまう場所を決めてある
・買い物に行って卵を買い忘れる→妻に頼まれた物をよく買い忘れる
・友人との待ち合わせで、時間や場所を忘れる→これは今のところない
・洗濯機に洗剤を入れ忘れる→洗濯は妻任せでしないので
・手紙に書いた内容を忘れる→これは今のところない
・電話で聞いた内容を忘れるが、メモを見れば思い出す→メモは必ずとっている
・買い物に自転車で行き、置いた場所を忘れる→これは今のところない
・夫婦で旅行に行った年や場所が思い出せない→年は覚えていない

<認知症>


・ドラマを見たことを忘れる
・小説を読んだことを忘れる
・知人の名前を思い出せず、ヒントをもらっても思い出せない
・財布をしまったことを忘れている
・買い物に行ったことを忘れて、卵を何度も買ってしまう
・友人と待ち合わせしていることを忘れる
・洗濯機の操作方法を忘れる
・手紙を書いたことを忘れる
・電話で聞いた内容を忘れ、メモを見ても思い出せない
・買い物に自転車で来たことを忘れて家に帰る
・夫婦で旅行に行ったことを忘れている

 手紙に書いた内容を忘れるというような記憶の一部を忘れるのは老化だが、手紙を書いた記憶をまるごと忘れるのは認知症の可能性がある。「もの忘れの度合いが自分で客観的にわかる段階は健康な状態で、認知症は忘れている自覚がないというのだ。
週刊朝日 2017年8月11日号

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2017年8月 7日 (月)

原発のコスパは最悪だとまだ気づかない愚かさ

 福島第一原発が東北大震災の大津波によって、4基の原子炉が使い物にならなくなってから6年あまりになる。その廃炉の見通しが未だ経っていない。それなのに政府は一時は止まっていた原発を再稼働させている。

  原発は安全だ、発電コストは化石燃料や再生可能エネルギーなどに比べても一番安いし、二酸化炭素を出さないから、地球環境にも優しいと言われてきた。しかし、原発は一旦事故を起こして動かせなくなってしまうと、どうにもならない厄介物だということがはっきりした。それなのに原発に依存を続けているのだ。

  日本にはこれまでの商業原発で発生した使用済みの核燃料が約二万トンもあるという。その燃料から出る放射性廃棄物からは、今後数万年から10万年物長い間放射能を出し続けるのだ。これまでの人類の歩み寄りも長い未来に向けて放射能はゆっくりと減って行くのだ。

  思えば何という愚かな物を人間は作ったのであろうか。しかも、使用済み核燃料から原子爆弾を作ることもできるのだ。

  今日本には原子力発電は54基ある。もし再びその一つでも事故に遭えば福島原発と同じことになり、廃炉に向けて巨大なコストと労力が必要となる。原子力発電は決して安全で低コストとは言えないのだ。

 これまでに溜まった核廃棄物やこれからも発生する核廃棄物の処理のために、政府は300m以上の地下に埋めて密封することにした。その最終処分地について「科学的特性マップ」を発表した。

 しかし、候補地が見つかっても調査だけで20年もかかると言われる。その後地中深く掘削して埋設することになるのだろうが、いったいどのくらいの時間を要するのであろう。

 仮に埋めるところまでいったとして、何万年先までの安全を予想できるのであろうか。火山列島の日本でいつどこで大地震が起きるか分からないのだ。日本学術会議は「万年単位に及ぶ超長期にわたって安定した地層を確認することは、現在の科学的知識と技術的能力では限界がある」と指摘したという。

 それでも高レベル放射能廃棄物の処分は避けて通れない。コスパから見ても大変な厄介物であることは明らかである。

 とんでもない物を作り、未だにそれに依存している日本。なんという愚かなことであろう。日本の科学技術を総動員すれば再生可能エネルギーによる安価な発電は可能だと思うのだが。

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2017年8月 6日 (日)

終戦の日関連TV番組

 終戦の日に関連したTV番組の一覧が送られてきました。興味を引く番組ばかりです。番組が「三多摩平和交流ネットワーク」に掲載されていたのを横田忠夫さんがコピペされたものです

 

  

/6(日) 

 

NHK総合 後1:05~1:48

 

「”原爆の絵”は語る ~ヒロシマ 被爆直後の3日間~」

 

 あの惨禍を生き抜いた被爆者たちは、後世に伝えるため、自らの体験を「原爆の絵」に描き残した。およそ4200枚が原爆資料館に所蔵されている。今回、超高精細カメラで絵の細部まで丹念に撮影し、被爆直後の壮絶な3日間を時系列に沿って再構成することで、絵に刻まれた真実を追体験するようにたどっていく。

 

/6(日)

 

NHKEテレシアター 後2:30~4:45

 

「これはあなたのもの 1943ーウクライナ」

 

 1981年にノーベル化学賞を福井謙一氏と共に受賞したアメリカの化学者・ロアルド・ホフマン(1937~)は劇作家でもある。彼の作品『これはあなたのもの』が新国立劇場で上演された舞台を放送する。かつてはポーランド領であったウクライナに、ユダヤ系ポーランド人として生まれたホフマン氏が、母とともにウクライナ人の屋根裏にかくまわれていたという実体験を戯曲にした作品である。

 

/6(日)

 

NHK総合 後9:00~9:49

 

NHKスペシャル「原爆死ホットスポット~ビッグデータで迫る72年目の真実~」

 

 1945年8月6日から今に至るまで広島市が蓄積してきた約56万人に及ぶ被爆者たちの記録『原爆被爆者動態調査』。被爆直後、作成された検視調書や救護所がまとめた死没者名簿の上に、戦後、市が集めた戦災調査や個人データも加え、今も更新が続けられている超一級データだ。NHKは、初めてこのデータを市から入手し解析した。すると、特定の被爆地や死没地、死因に極端な死者数の偏りがある”原爆死ホットスポット”の存在がわかった。知られざる被爆の真実に迫る。

 

/6(日)

 

NHK BS1 後10001049

 

「74年目の郵便配達」

 

 戦地と故郷を結ぶ唯一の手段だった「軍事郵便」。アジア・太平洋戦争中、その多くをアメリカ軍は戦地で押収し分析し諜報活動に利用していた。そして今、その手紙は、アメリカ国内で死蔵されていたり、オークションで売買されたりしている。「今ならまだ宛先に届けることが出来るかも知れない」。番組では、手紙を収集し、宛先をたどって届けることを始めた。激戦地ペリリューから長野県の家族に宛てた手紙。ガダルカナルで書かれた宛先不明の遺書。果たして手紙は届くのか。手紙の向こうにあるはずの家族の物語を追い始めた配達の記録である。

 

/6(日)

 

NHK総合 後10001050

 

NHKスペシャル「沖縄と核」

 

 一昨年、アメリカ国防省は「沖縄に核兵器を配備していた」事実を公式に認めた。これを受け、機密文書の開示が相次ぎ、元兵士たちも重い口を開き始めた。そこで浮かび上がってきたのは、実に1300発もの核兵器が置かれ、危機的な状況に置かれていた沖縄の実態だ。そして、この「核」の存在こそが、沖縄への米軍基地集中をもたらすひとつの要因となっていたという新事実。新資料と関係者の証言から、沖縄と「核」の知られざる歴史に光を当てる。

 

/12(土) 

 

NHK総合 後7:30~8:45

 

土曜ドラマスペシャル「1942年のプレイボール」

 

 戦争の時代に翻弄されながら、ただひたむきに野球を愛し、全員がプロ野球選手となった4兄弟の物語。

 

/12(土)

 

NHK総合 後9:00~9:50

 

NHKスペシャル「本土空襲~日本はこうして焼き尽くされた~」

 

 アジア・太平洋戦争で米軍が行った日本本土への空襲。その全貌を解き明かす新資料や映像が、いま相次いで発掘されている。これらの映像や資料を分析する中で、史上初めて「軍用機の戦争」と化したアジア・太平洋戦争が、なぜ無制限にエスカレートし、多くの命を奪う道をたどったのかが浮かび上がる。

 

/12(土)

 

NHK BSプレミアム 後9001029

 

スペシャルドラマ「返還交渉人ーいつか、沖縄を取り戻すー」

 

外交官、千葉一夫。戦時中、海軍の通信士官だった千葉は、沖縄を圧倒的な武力で攻撃する米軍の無線を、ただ傍受することしか出来なかった。戦後、本土から切り離され、アメリカ統治下となった沖縄。アメリカと外交交渉を重ねながら、何度も沖縄に足を運び、人々の苦悩に真摯に耳を傾けた千葉。その信念の奥底にあった、想像を絶する体験とは。実話に基づいた物語を、井浦新、戸田菜穂らが演じる。

 

/12(土)

 

NHK BS1 後9:00~9:49

 

BS1スペシャル 「長崎 幻の”原爆ドーム”」

 

かつて長崎にも”原爆ドーム”があった。爆心地から500mで廃墟と化した浦上天主堂だ。長崎市は、原爆の悲惨さを伝えるために廃墟を保存する方針を示していたが、戦後13年目の春、突如取り壊されて姿を消した。アメリカ外遊から帰国した市長が取り壊しを支持したことからアメリカの関与も疑われた。なぜ長崎は原爆の象徴を「残さない」という決断をしたのか。”幻の原爆ドーム”の謎に迫る。

 

/12(土)

 

NHKEテレ 後11001159

 

ETV特集「原爆と沈黙~長崎浦上地区の受難」

 

長崎で原爆が炸裂したのは、浦上地区の上空だった。キリスト教徒と被差別部落の人たちが暮らす地域だった浦上では、およそ1万人のクリスチャンと被差別部落の人々が命を落とした。生き残った被爆者たちは、その体験を語らずに封印した。戦後72年の歳月を経て、沈黙を守っていた浦上地区の被爆者たちも、重い口を開き語り始めた。また、被差別部落出身者の、40時間にのぼる被爆体験の証言が見つかった。いま、浦上出身の若者たちが、祖父母、親世代の体験について真剣に対話を始めようとしている。

 

/13(日) 

 

NHKBS1 後10001149

 

BS1スペシャル「なぜ日本は焼き尽くされたのか~米軍幹部が語った”真相”~」

 

アジア・太平洋戦争末期、日本の敗戦が濃厚となる中、なぜ米軍は空爆を続けたのか。米軍関係者を取材する中で、貴重な史料が見つかった。日本爆撃を実行した米空軍100人の幹部の「肉声テープ」だ。米空軍の野望や焦りが語られる。「B29で結果を出したい。何も成果を上げてなかった」当初は予算も少なく、開戦時2万人だった航空軍は、終戦時には200万の巨大組織に急拡大し、米軍の中核となっていく。番組は、4年間の戦争の中で変貌していく航空軍を通して、戦争の怖ろしさの本質に迫る。

 

/14(月) 

 

NHK総合 後8:00~8:43

 

NHKスペシャル「証言ドキュメント 忘れられた戦場~樺太・40万人の悲劇~」

 

北海道の北に位置する巨大な島サハリンは、かつて樺太と呼ばれ、40万人の日本人が暮らしていた。8月15日、玉音放送で敗戦を知った将兵たちのもとに「自衛戦闘ヲ敢行スベシ」という命令が届いた。武装解除に応じるのか、戦闘を続けるのかをめぐって混乱する中、各地でソビエト軍との交戦が続き、兵士と民間人50006000人が犠牲となった。なぜ戦闘が続けられることになったのかを示す資料は失われ、これまで真相は闇に包まれていた。今回、NHKは、日本軍の内部資料や幹部たちに関する史料を発掘した。さらに、100人を超える樺太元住民や軍関係者の証言や手記を集めた。ここから見えてきたのは、東京の参謀本部ー札幌の司令部ー樺太、というピラミッド構造のもと、上部組織の命令の真意が問われることなく、理不尽な判断が繰り返され、兵士や住民にしわ寄せが及んでいく実態だった。番組では、ソ連侵攻後、終戦をはさんで2週間続いた樺太戦の全貌を描き出し、悲劇の実相に迫る。

 

8月15日(火) 

 

NHK総合 後7:30~8:43

NHKスペシャル「全記録 インパール作戦」

 

 補給線が断たれ、無謀な戦いで甚大な死傷者を出したインパール作戦は、旧日本軍の体質をさらけ出したとされている。インドとミャンマー両政府との長い交渉の末に、今回初めて現地取材が可能となった。さらに新資料や作戦を指揮した将官の肉声テープなどから、「インパール作戦」の全貌をあきらかにし、決して忘却してはならない惨禍の記録を未来へと継承する。

 

8月19日(土) 

 

NHK Eテレ 後11001159

 

ETV特集「戦時中の暮らしの記録~名もなき庶民が綴った1763通の手紙~」

 

50年前「暮らしの手帖」編集長花森安治は、戦争中の”庶民の暮らし”を特集号として出版した。読者から寄せられた未掲載文も含む1763通の手記は、今も大切に編集部に保管されている。そこには、苛酷な暮らしにも楽しみや生きがいを見いだし、命をつなぐ知恵を絞る、人々のたくましさやしたたかさが綴られている。番組では、投稿を寄せた本人やその家族を訪ね、あの戦争を”人びとの暮らし”に徹底的にこだわって見つめ直す。

 

<<平和と戦争を考えるテレビ番組(民放編)>>

 

/6(日) 

 

日本系  深夜055

 

NNNドキュメント

 

4400人が暮らしていた町~吉川晃司がたどる平和公園」

 

広島市の平和公園は、かつて多くの民家があり4400人が暮らしていた町だった。ここにあった旅館をルーツに持つ被爆2世の吉川晃司さんが、失われた町の記憶を求め、平和公園のいまと過去をたどる。(広島テレビ制作)

 

/13(日) 

 

日本系 深夜055

 

NNNドキュメント「奉納写真」

 

戦争中、ひそかにけ神社と呼ばれた神社が全国各地にあった。山口県の神社では、「戦地に行った肉親に弾が当たらないように」と、家族は本人に内緒で写真を奉納した。お国のためにと万歳三唱で送り出された兵士たち。その陰でひそかに奉納された写真に託された思いとは。(山口放送制作)

 

/27(日) 

 

日本系 深夜055

 

NNNドキュメント「なぜアメリカ人はヒロシマに?」

 

72年前、世界で初めて原爆が投下された広島。その広島を訪ねる外国人で一番多いのは、核を投下した当事匡であるアメリカからの観光客だ。なぜアメリカ人は広島を訪ね、平和公園・原爆資料館を巡るのか?番組では、広島を訪れたアメリカ人夫妻に密着取材を行った。(広島テレビ制作)

 

 

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原爆許すまじ!若い頃歌った「原爆の歌」

 広島に原爆が投下されて72回目の8月6日。今年は7月7日の国連総会で核兵器禁止条約が122か国の参加で採択された。しかし、核保有の米国など5か国や世界で唯一の被爆国日本は反対をしたのは残念でならない。

 毎年8月6日のヒロシマの日と9日のナガサキの日には世界から人々が集まってノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、核兵器禁止と廃棄を訴えるのに72年経ってもまだ全世界が一致できないのが現実である。

 私が高校生の頃「原爆の歌」が作られ日本中に広まった。素晴らしい歌詞でメロディーもよいので友人とよく歌った。その後もいろんな集会でも歌われたものであった。しかし月日が経つに連れてこの歌を聞かなくなったのは残念である。

 ビキニ環礁で焼津の漁船第五福竜丸が被爆した頃、東京・大井の町工場の工員・浅田石二が作った詞に、都立日比谷高校の社会科教師・木下航二が曲をつけ。発表は昭和29年7月28日。

 

作詞:浅田石二、作曲:木下航二

1 ふるさとの街焼かれ
  身よりの骨埋めし焼土
(やけつち)
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度
(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街に

2 ふるさとの海荒れて
  黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの海に

3 ふるさとの空重く
  黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの空に

4 はらからの絶え間なき
  労働に築きあぐ富と幸
  今はすべてついえ去らん
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  世界の上に

曲は下記のURLで:

http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_6629.html

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2017年8月 5日 (土)

安倍改造内閣に期待できない

 第3次安倍改造内閣が動き出した。問題の稲田防衛相は先に辞任したし、金田法相は上川法相に代わった。文部科学相も林芳政氏に代わった。外務大臣は河野太郎氏になり、野田聖子氏が総務相になった。

 こうして見て来ると、なんだか新しくなったような錯覚を覚えるが誤魔化されてはいけない。第2次安倍内閣がやってきた数々の悪業、アベノミクス、特別秘密保護法、集団的自衛権容認閣議決定、武器輸出三原則の改悪、安保法制、自衛隊の海外派遣、共謀罪法、道徳の教科化・・・・これらの安倍首相の”業績”(それはとりもなおさず国民にとって最悪なのだが)は、どれも自民党・公明党によってなされたものだ。

 つまり安倍一強の下で、自民党・公明党の誰も反対をせず、これらの改悪に協力してきたのである。

 安倍首相は、「仕事内閣」と名づけて「経済を優先させる」と述べた。だがその仕事は、上に列挙したような事項を強化することであり、破綻したアベノミクスを続けることである。アベノミクスについては前にも書いたが、発案者のハーバード大学の浜田名誉教授自身が間違っていたと認めたものである。それに安倍首相はしがみついているのだ。

 森友学園の国有地不当払下げや首相の親友が経営する加計学園への便宜を図った問題、稲田元防衛相の自衛隊日報問題などはまだ全く解明されていない。自民党が勝手にこの問題は終わったと言っているだけである。

 前の国会の審議や国会の閉会中審議では、参考人たちは、文書は廃棄した、記録は残っていない、記憶にない、忘れた・・・で通したのであった。

 民進党などは稲田元防衛相や加計学園関係の閉会中審議を求めているが自民党は拒否し続けている。また臨時国会開催要求もつっぱねたままである。改造内閣がこれまでの態度を改めるとは到底考えられない。

 国民は大臣が変わったことに騙されてはならない。彼らがどのようなやり方をするのかをしっかり見なければならない。

 

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2017年8月 4日 (金)

平均寿命更新のニュースを読んで

 

 先日の新聞に日本人の平均寿命が世界第2位になったと出ていた。厚生労働省は27日発表したところによると、2016年の日本人の平均寿命は男性が80.98歳、女性が87.14歳だったという。

 前年からの伸びは男性0.23歳、女性0.15歳で、いずれも過去最高を更新。世界トップクラスの長寿国で、男女とも香港に次ぐ2位だったというのだ。

 私は平均寿命を越して間もないが、それまでは平均寿命が先へ先へとのびて行くのでなかなか追いつけなかった。

 統計を取り始めたのは1947年で当時は男性50.06歳、女性53.96歳だったという。その頃は私は中学1年生で人生50年と言われていた。終戦から2年しか経ってなく、食糧事情も住宅事情も労働環境も医療もみなよくなかった。

 それが年ごとに更新されていったのだ。父も母も平均寿命のずっと上の高齢まで生きた。私はそこまで行くのか超えられるのか、その年齢に達して分かることである。

 新聞の死亡記事を見ると以前は80歳は少なかったが、この頃では80歳後半とか90歳代が多い。70歳台だと若いなあと感じる。

 平均寿命が伸びたのは、厚労省の担当者は「がん、心疾患、脳血管疾患の三大死因の死亡率低下が、寿命の伸びに寄与している」と分析したという。

 私の身のまわりでも、「がん」「脳梗塞」などを患う人が多い。でも、ガンになっても生きているし、脳梗塞になっても回復している。医療の進歩や生活習慣を改めて健康寿命を伸ばそうと努力しているからであろう。

 平均寿命より健康寿命を向上させることが大事だと言われる。病気になってただ生きているのではなく、人の世話にならずに自律して生きて行くことが求められるし、それが理想である。

 今年4月公表の将来推計人口では、平均寿命のさらなる上昇が見込まれ、2065年に男性で84.95歳、女性で91.35歳に達する可能性が示されたそうだが果たしてそうなるであろうか。原発、戦争、地球温暖化、自然災害などにより大きく左右されるであろう。それには人類は自らの命を縮めるような愚かなことから脱却すべきである。

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2017年8月 3日 (木)

籠池夫妻逮捕で誤魔化すな!核心は国有地不当売却だ。

 籠池夫妻が大阪地検特捜部に逮捕された。容疑は国の補助金を不正に受給したという補助金詐取の疑いである。8月1日の朝日新聞は第一面でこの問題を取り上げた。

 国の補助金を詐取したとなれば当然検察で真偽を明らかにされるべきである。しかし、森友学園問題の核心は、国有地売却に関する疑惑である。籠池夫妻を逮捕して補助金不正受給に目をそらそうとしているのではないか。

 旧名「安倍晋三記念小学校」建設用地として、国有地売却に当たっては、財務省は鑑定価格9億5600万円の土地をたった1億3400万円で売り渡したのだ。

 どうして一森友学園にそのような大幅値引きをしてやれたのか。その経緯は今もって雲の中である。

 国は地中のゴミの撤去費用として8億1900万円を値引きしたというが、それに相当するゴミは出てこなかったのだ。誰が見ても不当な値引きである。

 この問題に関しては、小学校の名誉校長であった首相夫人安倍昭恵氏の存在が重要である。森友学園の戦前のような尊王軍隊教育に共鳴し小学校建設を支援していたのだ。

 売却契約の成立の過程で、ここでも「忖度」がはたらいたに違いない。なぜなら首相夫人が関係している小学校となれば絶大な信用があるからだ。また政治家やその関係者の関与があったのかも大事である。

 財務省は売渡しの経緯についての記録は「廃棄した」と言い張っている。近畿財務局や財務省と森友学園との間でどのようなやり取りがあったのかを、財務省や財務極右を捜索し、資料を収集し、職員に事情聴取をするなどして徹底的に調べなければならない。

 絶対に籠池夫妻の詐欺事件で終わらせてはならないのだ。森友学園問題は終わってはいないのだ。国会も昭恵夫人招致などを含めて徹底てきに究明すべきである。

 

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2017年8月 2日 (水)

映画には、世界を必ず平和に導く美しさと力がある―大林監督―⑤―

◆若い人たち、俺の続きをやってよね

 

 さて日本の作品。これ正直一番甘かったです。切迫感がありませんでした。世界中の作品がそれぞれの立場において今の世界の、メキシコとの国境問題であるとか、あるいは極めて芸術的でアーティスティックな独裁者が作ったような殺人の映画とか、いろいろヒリヒリとするような時代を描いておりましたけれども、日本は、やっぱりそういう情報で甘やかされた国なんでしょうかね。この日本の作家たちに特に申し上げます。

 しかし、そのなかにも優れた作品がございました。私が感動したのはね、あの若い女性が友人の男の子2人とニューヨークで暮らしている。その彼らの生活をキャメラでとっているのですが、キャメラマンとしてではなく、友達の視点として撮っているという作品なんですね。そしてそのことによって「ああ日本の若者たちも健全に育っているな。こういう人たちが21世紀を表現していってくれれば素晴らしいな」と思いつつ、やはりその危機感のなさに怯えておりました。

 賞を獲りましたゴリさんの作品ですか。私もびっくりしました。この日本の同じ民族のなかにまだ風葬という習慣が残っていて、洗骨ということがある。なんと日本人でありながら私自身が日本のことをこんなに知らないのか。しかもそこに嫁いできた1人の嫁さんがそういう夫の故郷に帰って洗骨をするってのは大変なことでありますがアッと思いましたね。

 このお嫁さん。女へんに家と書きますよ。そんな時代ですか。みんな夫と妻になっているはずですが未だにこのお嫁さんは家に嫁いでるんです。家に嫁いでいるから夫の里の嫌な洗骨まで立ち会うんですが、しかしその洗骨をすることによって我が家の、我が里の、我が家庭の、私自身のアイデンティティがそれによってわかっていく。「そこにいまの日本の、まさに結びつかないバラバラの日本のなかで、日本人の血が絆を求めて結びついていく1つのヒントがここにあるのではないか」そういう意味でジャパン部門の優秀賞にさせていただきました。

 1つだけ私は残念でした。ここにいらっしゃるかな。『人間ていいな』という作品だったかな。あるクラスで、思春期のクラスで、不思議な暗い少年がいます。その少年みんなから疎んじられているんですけどね。友達ができるんです。で、その友達が彼の肌に触れるとその肌がポロっと落ちたり、最後に握手しようとすると手がポロっとおちるんです。ここまでの演出力、演技力、映像の表現、見事でした。

 ここで終わっていれば私は断然グランプリにしました。ところが残念なのは、この作品、ゾンビは他人で、ゾンビが人間社会に入って幸せになっていきますよ。だから人間はいいなっていうゾンビコントになってしまったんですね。ここに日本の作家に考えてもらわなきゃならない自分のアイデンティティ、自分はゾンビなのか。ゾンビを映画の素材としておもしろく描くのが映画か。それでは単なる映画です。自分がゾンビだと自覚するところから映画は庶民のジャーナリズムになります。

 そう、ジャーナリズムとはまさに庶民11人が語るもの。民主主義の多数決なんかじゃありません。少数者の意見が尊ばれることこそが、健全な正気の社会です。そういう意味で全世界の少数者の一人ひとりであるみなさんが、自分自身の現代のヒリヒリとする感覚、結ばないものをなんとか結びつけて、なんとか戦争の世紀を映画の世紀にとどめようじゃないかと、その意図に黒澤オヤジが生きていらっしゃればきっと拍手をされてると思います。そ

 して私たちはそういう映画に、「映画とは風化せぬジャーナリズムである」「映画とはメイクフィロソフィー」「自分自身を確立する手段である」とそういう意識をもって生きていってほしいなと。長くなりましたが、黒澤明先輩が私個人にとどめた「俺の続きをやってよね」という言葉をみなさんに送って終わらせていただきます。若い人たち、俺の続きをやってよね。ありがとうございました。

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2017年8月 1日 (火)

映画には、世界を必ず平和に導く美しさと力がある―大林監督―④―

 

◆今の時代の危険は、すべてが他人事になってしまったこと

 

 さて、そういう危機感の中で、今年の「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」、とてもすばらしゅうございました。20年前にアメリカ帰りの別所さんが「日本でこんなものをやりたい」とおっしゃって、「できればいいな」と私も願っていました。しかし参加をさせていただいたのは今回が初めてです。

 別所さんにもお伝えします。黒澤明先輩の映画へのリスペクト、映画への誇り、映画を信じる力、つまりそれは世界への平和を我々がたぐり寄せるんだという力、どうかそれを信じて、大いなる虚構のエンターテインメントの中、映画を作り続けていただければと思います。

 楽しい作品がたくさんございました。今年を象徴するものとしてはね、運転手さんとタダ乗りの乗客の、友情と裏切りと、人と人とはどうやって繋がり合うのかという作品がありました。そう、人と人とはどうやって繋がり合うのか、あるいは繋がり合えないのかという希望と絶望との間にさまようのが、今年の作品でした。

 しかしこの作品はあまりにもウェルメイドでね。この今の不幸な時代にこのウェルメイドはちょっと時代が違ったなという、つまりウェルメイドが存在しない時代です。したがって作品は暗い不幸な影に導かれておりました。

 その今の作品の代わりに現れたのは、「窓」。窓とは世界を見渡す視点ですね。そこに過去にしかそのことのできない大人と、これから未来を生きる子どもとが、そしてその2人が繋がらないのか繋がるのか。繋がれば、きっと戦争の世代から平和の世代に行くでしょう。しかしそこが繋がらなければ、別の世界として終わってしまう。繋がるのか繋がらないのかというところに危うい期待をかけた作品がインターナショナルのプログラムにありましたね。

 そしてアジアインターナショナル。これもすばらしゅうございました。今私たちはテレビ社会、情報社会のなかにおります。これはとても危険なんです。情報社会では情報が切り売りされてね、すぐ善悪で判断されてそれで終わってしまうんです。

 となると、トランプの問題も、我が日本の政権の問題も、あるいは学園問題も、誰かが浮気をしたっていう問題も、巨人が連敗しているっていう問題も、等しく5分くらいの切り売り情報になりまして、等価値になってしまうんですね。で、是か非で終わっちゃうと。つまりは他人事になるんです。

 今の時代の危険は、すべてが他人事になってしまったこと。こんな無責任な社会はない。そこでね、映画という力は他人事を我が事に取り戻す力です。このアジアインターナショナルの作品は、なんとテレビを捨てて、ジャングルに戻っていこうと。これは1つのユートピア幻想のようでもありますし、今私たちが切実に考えなきゃならないテーマかもしれない。

 この作品が決定した後ろには、テレビ人の小倉さんがいらっしゃったということにも、大変切実な問題がございますけれど。

 と同時に我々はジャングルに帰るだけじゃダメだ、原爆をやめるならサルに戻れと。3.11の前に遺言のように言われて亡くなられた我らの先人の哲学者の言葉を借りつつ、この科学文明のなかで生きて来た人間の幸せはどこまで私たちが責務を持って辿らなければならないのかということを、科学文明の落とし種、映画を作る我々は、切実に考えなければならないと思います。

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