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2016年12月15日 (木)

面白かった「古館伊知郎のトーキング・ヒストリー 忠臣蔵」

 新聞のテレビ欄で「古館伊知郎のトーキングヒストリー内蔵助」が面白いと、観ることを勧めてあったので、録画をしておいて観た。

  テレビ朝日と東映が協力して、太秦の撮影所に吉良邸のセットを作り、赤穂浪士の討ち入りを、事実に基づき詳しく検証するドラマを制作した。その事実というのは、中央義士会が、100年にわたり研究を続けてきたものをもとにしているのだという。そのドラマと解説のコーナーで構成されていた。

  解説のコーナーには、歴史学者の磯田道史氏、聞き手に伊集院光、名取裕子、乃木坂46の秋元真夏が参加し、古舘キャスターがMCを務めた。また、古舘キャスターはドラマの実況放送も担当した。ドラマに入り込んで、現地中継で実況放送をするという手法が面白かった。古館キャスターの滑舌を活かしたやり方であった。

 新忠臣蔵は、ポイントの場面ごとに、旧来の忠臣蔵はどう描かれていたかを示した後、その部分を再現した。

 さらに、忠臣蔵の大事な観点として、

①どうやって集結したのか。

②大石内蔵助の討ち入り作戦はどのようなものであったのか。

③吉良邸の全貌はどうなっていたのか。

をあげていた。

 また、四十七士は一人も死んでいないのに、150人いたと言われる吉良側は58人もの死傷者を出しているのは何故かも興味深かった。

 ①集結については、内蔵助たちは2年間にわたり、さまざまな職業をしながら、準備をしていったのだが、忍者と同じレベルの調査能力でいろいろ調べたのだという。

 集結場所として、吉良邸の近くの米屋に集まったのだが、その米屋も仲間の一人が経営をしていたのであった。何と吉良邸にまで米を売っていたという。

 集結は、町人の姿をした浪士たちが、バラバラに米屋に集まった。そこで着替えをして、蓄えてあった刀や槍などで武装した。ドラマにあるような名前を大きく書くことはせず、袖口に小さく名前を書いたのだ。

 大事なことは、槍は室内で使いやすいよう短くし、衣の下には鉄の網の物を上下につけて、切られても大丈夫なようにした。その重さは10kgにもなったという。

 討ち入りは、12月15日であったが、磯田教授はこの日しかなかったと指摘した。それは浪士たちにはもう金がなくなっていたのだという。

 また、15日は満月の夜で、運がよく晴れていたそうだ。だから月明かりで行動できたのだ。行動を開始したのは3時50分ごろであった。夜が明けるまでには事をすませなければならない。

 定番のドラマでは、討ち入りには、二人が塀を越え、門の閂を開けて全員が門から中にはいる。そして、吉良邸で内蔵助が陣太鼓を鳴らしたことになっている。しかし、実際は、門の前で二手に分かれ、主税が率いるグループは裏門を固めに行った。内蔵助たちの表門グループは全員が梯子を上って静かに中に入ったのだという。

 中に入った連中は、内蔵助たち数人を残して長屋に向かった。長屋には足軽や荷物運びなどの連中を含めて150人寝ていた。その連中を閉じ込めるために金づちでかすがいを打ち付けて出口の戸を全部塞いでしまった。

 そして大勢の人数が外にいるかのように、あちこちで声をあげた。それで足軽たちは戦意を喪失して出て来ず、士分の者だけが戦うことになったという。吉良側の戦力はそがれてしまったのだ。

 吉良の侍たち1人に対して、浪士たちは3人で対するという戦法をとった。周到な準備と戦法によって、浪士側の死者はゼロであったのだ。

 ところで、吉良邸は3000坪以上の広大なものであった。だから吉良上野介を探し出すのは容易ではなかった。上野介は台所の物置に護衛2人と隠れていた。

 その場面も従来のドラマでは、炭小屋に隠れていたのを見つけ出され、内蔵助に殺されることになっているが、実際は間次郎が戸の外から槍でついている内に槍がささったのだという。

 こうして、2時間かかって夜が明けるまでに本懐を遂げ、浪士たちは主君の墓がある泉岳寺に向かったのだが、それも当初の計画にはなかったのだそうだ。近くの寺に断られて、10kmも歩いて泉岳寺に向かったのだという。だから着いたときは、みな疲労困憊していたという。また、この行軍を見るために多くの人々が集まったという。

 忠臣蔵の討ち入りの場面に特化して、実況放送を入れてのドラマは、大変面白かった。また、事実の方が、実に巧妙に、周到に準備をされていたことが分かり、成功した理由もよく分かった。

 江戸時代には仇討は「ご法度」であったが、明治になって息を吹き返し、「忠」ということを強調する教材となったことを指摘した。忠臣蔵も殺し合いの争いだと断じ、「復讐の連鎖はこういうことから起きる」とういう争いはいけないことだと言ったのがよかった。

 主君の無念を晴らすということは、江戸時代の人には自然の心情として受け入れられたという。しかし、300人いたと言われる浅野の家臣たちだが、脱落をする者が多く、やっと残ったのが47士であったという。忠義の美談として捉えられ、日本人に人気がある忠臣蔵も、所詮は武力による報復の物語であったと考えれば、現代のイラク戦争とかISとかの争いに通じる教訓として捉え直すことができよう。

 今年も討ち入りの日の朝は大変きれいな満月であった。それを眺めながらウオーキングをした。

 

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