« トランプ氏に投票した人たちは報われるのだろうか? | トップページ | カフェVITAバス旅行で松本へ »

2016年11月19日 (土)

葬儀や法事でのお経はおまじないか?

 この頃葬儀と法事に出席する機会があった。いずれも曹洞宗であった。私は葬儀でも法事でも、僧侶の読経を聞いて、何を言っているか知ろうとするのだが、漢文のお経では摩訶般若波羅密多心経以外には全くチンプンカンプンである。先日の葬儀や法事では文語によるお経も読まれたが、99%ぐらいは分からなかった。

  法事のとき、たまたま僧が読んだメインの経の表紙を見ることが出来た。それには「神力品」と書いてあった。「神力品」とは何だろうと思いネットで調べたらあった。「じんりきぼん」と読むのだ。

  正式の名称は「妙法蓮華経如来神力品第二十一」と言うようだ。「妙法蓮華経」だから日蓮宗のお経かと思ったら、天台宗でも使われているらしい。曹洞宗開祖の道元禅師は、天台宗の延暦寺で修行したのでそこで学んだという。道元は死ぬ前日に神力品を静かに唱えていたそうだ。

  文語で書かれた神力品というお経であるが、やはり聞いていても、ところどころの単語以外サッパリ意味が分からない。

  いつも葬儀や法事の時に思うのだが、どうして誰にでも分かる現代語に翻訳した経を読まないのであろうか。おそらくそうした現代語訳の経典がないのであろう。

  中国では、インドまではるばるとシルクロードを通って行って、経典を長安まで運んできて漢訳をした。日本の経典は中国から持って来た漢語の経典をそのまま使っている。それは漢語を読めるのはごく一部の僧侶や貴族だけであったからで、僧侶は寺院で修行をしながら、ひたすら漢語の経典を読んで理解しようと努めたのだろう。

  思うに日本に伝来したその時点で、経典はごく一部の当時の知識層の独占物であったに違いない。難解な漢語の経典を読むことで、彼らに特権意識が働いたのだ。だからお経はなんだか分からないが有難い、ご利益のあるものとして、呪文のように唱えられたのだと思う。

  奈良・平安の時代は仏教は天皇や貴族のものであった。一般庶民はあずからぬところであた。国家安寧のために東大寺が建てられたり、病気の治癒を祈るとか、様々な災難を逃れるために多くの寺院が建立されたのだと思う。

  貴族たちは病気を治したり、悪霊災厄を追放するために僧を頼んでお経をあげさせた。そして極楽浄土に往生することを祈願した。

 そのお経の有難さを一般庶民にまで与えようとして念仏が作られたのだ。「南無阿弥陀仏」唱えれば極楽往生が叶うというのは、非常に単純化してしかも効果的な方法であった私は思う。鎌倉時代になって日蓮は法華経をもとに、「南無法蓮華経」を唱えることを説いた。これも浄土教と同じがり方である。

 日本で経典が日本語に訳されたのが、何時頃であったのかは知らないが、今日聞くものは文語訳で、その上漢字部分はそのまま使われているから、漢語の経典とあまり変わらない。多少読みやすくなっただけである。聞いて意味が分かることは絶無である。

 仏事でサッパリわからないお経を有難そうに聞くというのは、呪文を聞くのと同じである。意味も分からずにただ音を聞いているだけである。一種の単調な音楽である。

 葬式や法事で読むお経を何時、誰が決めたのかは知らないが、そのやり方が何百年も続いて来て今日でも行われているのが不思議である。しかし、この10年ほどで急速に葬儀のやり方が変わってきているのは、従来の葬儀への疑問が広がっているからであり、お寺離れが広がているのも軌を一にしている。

 長い間の日本仏教の怠慢が、21世紀になって指弾され始めたのだといってもよいと思う。

 

 

|

« トランプ氏に投票した人たちは報われるのだろうか? | トップページ | カフェVITAバス旅行で松本へ »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 葬儀や法事でのお経はおまじないか?:

« トランプ氏に投票した人たちは報われるのだろうか? | トップページ | カフェVITAバス旅行で松本へ »