増谷文雄「仏教入門」―㊷―
4、相依る存在(縁起)
釈尊は、弟子や信者から物を質ねられると、たいてい親切な説明をもって教えた。外道の人々の質問に対しても、懇切な説明をもって答えることが多かった。だが、ある種の質問に対してのみは、黙然として答えないことがあった。答えても、「そんなことは知らない」とか、「それはどうでもいことだ」とか、杵で鼻をかんだような態度をとったものである。
この世界は常在であるか無常であるか。人間は死後も存するものか存せざるものか。身体と霊魂は一つのものであるか、それとも別の存在で会うか。かような問題をひっさげて釈尊のところに出かけていくと、釈尊はしばしばそっけない態度をとった。いつもの理路整然たる説明も、諄々として懇切な態度も忘れたもののごとく、黙然として空うそぶいておった。
あるときのこと、婆蹉という沙門が、また例のような質問をもって、釈尊の答えを求めるためにやってきた。
「大徳に一つご教示願いたいと思って参ったのであります。そもそも我というものは存在するのでありましょうか。それとも存在せぬものでありましょうか」
だが釈尊は、例によって黙りこくって、一言も口を開かない。経典の言葉はこれを「爾時世尊黙念不答」と記しておる。そこで沙門は重ねて質問を繰り返した。だが、釈尊は依然として黙っている許りである。「是の如くすること再三なれども、その時世尊また再三答えず」と経文に言っている。何度尋ねても、釈尊はこれに一向答えなかった。すると、師のうしろで扇をもって煽いでいた阿難陀が、つい堪りかねて言った。
「あの沙門はもう三度もお質ねしておりますのに、師はどうしてお答えになりませんか。ひょっとすると、師は答えが出来なくて黙っていたなどと、言いふらさぬとも限りません」
すると釈尊は、阿難陀をかえり見てて、いつものように、諄々たる態度で言い聞かせた。
「私がかりに我は存在すると答えたらどうであるか。彼はきっと従来の邪見をますます加えるに相違ない。また仮に我は存在せずと答えたらどうであるか。彼はやはり疑惑を増すばかりであおう。ありと言うは常見である。なしと言うは断見である。私はいつも言うように、この二つの極端を離れて、中道にあって法を説くものである。
そして、つづいてつぎのごとく説明した。
「所謂この事ある故にこの事あり。この事起こる故にこの事生ず。謂はく、無明に縁りて行、乃至生老病死憂悲悩苦滅なり。仏はこの経を説くのみ」
この説明は、極めて簡略にされておるが、これが即ち縁起の理法である。縁起はまた、古くは因縁といわれ、近年の学者は新たに相依るちう言葉をもって名付けている。
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