増谷文雄「仏教入門」―㊵―
四
四諦の第三は、滅諦と名づけられ、釈尊によって次の如く説明せられておる。
「比丘等よ、苦滅聖諦とは此の如し。この渇愛を余りなく離滅し棄捨し定棄し解脱して執着なきなり」
苦滅とは苦を滅する処方である。人生は苦である。苦は執着あるに依って有り、執着は渇愛あるによりて存し、渇愛は無明損するに依りて存する。されば苦を滅するためには執着を滅することが前提となり、執着を滅するためには渇愛を断つことが必要であり、渇愛を処理すべき方法は無明をなくすことより外にはない。
無明をなくするとは、具体的に言えば、四諦を知ることである。人生多苦の真相に目覚め、この多苦の原因を洞見することが出来れば、ここに、この苦の処理のためには残りなく渇愛を捨離し、執着なきに到るより外に方途なきことが判然としてくるのである。この処理の方途を確立するのが、この第三諦である。苦を処理するには、その原因を処理せよという。至極平凡にして当然の考え方とも思われるが、人間愚凡の浅ましさは、この当然の考え方に徹することが容易なことではないのである。
昔、ある男が、好物の蜜湯をわかしておると、そこに日ごろから世話になっておる人がやって来た。男は、「ようこそお出でになりました」と、いそいそと迎えて、早速つくり立ての蜜湯を差し上げようと思ったが、湯はたぎり立っていて、そのままでは熱すぎる。そこで彼は、団扇をもって来てばたばたと蜜湯を煽いだのだが、よほど周章ているものと見えて、釜をこんろから下すのを忘れていたのであった。
「どうしたというのだ。湯は一向にさめない」
煽ぎつかれて、彼はふと呟いた。それを聞いて客は、ぷっと吹き出してしまった。
「君はさいぜんから何をしておるのかと思ったら、さては蜜湯をさまそうというのであったか」
「さようであります」
「あほらしい。どんなに君が煽いだからとて、その蜜湯がさめる道理があるものか。釜の下には火がかんかんに燃えているでははいか」
「これは、これは」
彼はやっと気が付いて、火のように顔を赤くしながら、そっと釜をこんろから下したのであった。
これは古い経典のなかにある譬喩の物語であるが、この世の中には、こんろから釜を下すことを忘れている人が、何と多いことであろうか。
人生は苦しい、内心の平和が得たいと希みながらあも、人生多苦の根源に鍬を入れようとするものは尠い。内心の安穏が得られないのは、欲望に駆りたてられているからだと知っても、つい欲望を甘やかしているのが人間のつねである。「法句経」の聖句にもいう。
「樹根害われずして固ければ、樹は伐からるるとも再び生ずるが如く、愛欲の執着断たざれば、この苦は再々生起す」
「愛欲の流れは至る処に流れ、愛欲の蔓は芽を発して茂る。この蔓の生ずるを見ば、智慧を以てその根を断て」
苦の滅のためにはただ一路があるのみである。智慧を発し、渇愛を残りなく滅し、執着するところ無きに到って、苦は完全に解脱せられる。この方途を確認するのが四諦の第三諦である。そして第四諦にはこれが実践の方法、すなわち道諦が説かれておる。
※ここまでは釈迦の教えの中核をなす四八聖道のうち、四諦についての解説であった。次は八聖道についての説明がされる。
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