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2016年9月26日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―43―

 

 

 私どもが日常つかう言葉の中に「勿体」ないという言葉がある。お金を無駄につかってはいけない。勿体ない。紙を無駄にしてはいけない。勿体ない。たとえ自分の持ち物でも、みんなの役に立つように使わねばならぬ。勿体ないから。かように私どもはこの言葉を日常つかておるが、これはもと仏教の言葉であって、深い意味をもっておる。

 

 この金は私のものだ。この紙は私のものだ。この身体は自分の身体だ。私たちはいつもそう思っている。だが、佛教の考え方によるとそうではない。一銭の金といえども、一枚の紙といえども、本当に自分のものだというものはない。一枚の紙も、いろいろと衆力を集めて出来たものである。一銭の金も、人々が相寄り相扶けて経済社会を保っているから通用するのである。本当に自分のものだといえる物はどこにもない。みんな天下のもの、衆のものである。それを自分が預かっているにすぎない。自分の勝手にはならぬ。大事にしなければならぬ。それが勿体ないの心である。

 

 だが、勿体ないのは、金や物ばかりではない。考えてみると、自分のこの身体さえも勿体ないのである。私たちはみな、何等の因縁なくしてここに存在しているのではない。父母ということも考えねばならぬ。社会ということも考えねばならぬ。自然のめぐみということも考えねばならぬ。私のからだはこれを父母に受けたものである。私のからだは米を食い、野菜を食い、肉を食いしてここまで成長して来た。私のからだは社会からいろいろと保護と影響を受けた。その外になお種々の力が加わって、ここにいま私の存在がある。だから、この私は決して私自身のものではない。また父母のものでおなく、社会のものでもなく、自然のものでもない。そう考えて来ると、本来私自身というものは何処にもない。ただ衆力和合の結果がここにある許りである。これも勿体ないである。

 

 かかる従来仏教の常識的な考え方が、縁起の理法の理解に、幾分でも役立たないであろうか。釈尊もある時、弟子たちにむかって、おなじく「この身は汝等のものに非ず。また余人のものに非ず」と説いたことがあった。そして縁起を思念すべきことを教えてつぎの如く言った。

 

「比丘等よ、されば聖弟子は縁起を聞きてよく思念するものなり。斯くこれあるが故にこれあり。これ生ずるが故にこれ生ず。これなきが故にこれなし。これ滅するが故にこれ滅す。即ち無明に縁りて行あり、行に縁りて識あり、識に縁りて名色あり、名色に縁りて六処あり、六処に縁りて觸あり、觸に縁りて受あり、受に縁りて愛あり、愛に縁りて取あり、取に縁りて有あり、有によりて生あり、生に縁りて老死・愁・悲・苦・憂・悩あり。斯の如きは、これを全苦蘊の集なり。無明の無余・離貪・滅によりて行の滅あり、行の滅によりて識の滅あり、識の滅によりて名色の滅あり、名色の滅によりて六処の滅あり、六処の滅によりて觸の滅あり、觸の滅によりて受の滅あり、受の滅によりて愛の滅あり、愛の滅によりて取の滅あり、取の滅によりて有の滅あり、有の滅によりて生の滅あり、生の滅によりて老死・愁・悲・苦・憂・悩の滅あり。是の如きは、これを全苦蘊の滅なり」

 

既に述べたように、釈尊によって考えられた存在の方式は、相関性相依性のものであった。それは縁によりて生じてあるが故に、縁生といい、また縁起といい、通常十二の項目の並列によって説かれておるが故に十二縁起とよばれ、またこの縁たるものを因と縁とに分けて考えるばあいには因縁と称せられる。そして、我等の身体のみならず、その他一切の存在は、この方式によって存在しているのだと教えられる。

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