増谷文雄「仏教入門」―㊴―
四つの真理のうちの第二の真理は、続いて次のように述べておる。
「比丘等よ、苦集聖諦とは此の如し。後有を齎し、喜貪俱行にして、随処に歓喜する渇愛なり。謂く、欲愛、有愛、無有愛なり。」
人生はすべて苦であることは、第一の真理として説かれた。その苦の原因は何であろうか。それに対する答えが、この第二の真理である。集とは集起の義、苦集とは苦の因となるもの、苦を生起するものの意である。釈尊は、すべての苦はみな人間の渇愛によって生起せらるものであると考えた。渇愛とは、今日の言葉では、欲望といってもよく、もっと適切には、欲望をあらしめる生命衝動とでも言うべきものである。
これを大別すれば三つの渇愛がある。欲愛すなわち情欲の渇愛、有愛すなわち生存への渇愛、無有愛すなわち安息への欲愛がそれであって、それらが相率いて、充足をもとめ、欲貪をかきたて、歓喜に酔い、転生の因をつくる。この人間欲望の本質に対して無智であり、したがって、欲境に対して執着をもつ、そこからすべての苦は生れて来るのだと教えられる。
我々はさまざまの欲望をもっておる。富貴をのぞむ欲望もある。美人を愛せんとする欲望もある。いつまでも生きたいという欲望もある。死んで後には彼の世に安穏を得たいと言うのも欲望である。だが、静かに考える者には解ることだ。人間はいつまでも生きられるものではない。美人の愛すべき容色もいつまでも存するものではない。富貴は浮雲のように果敢ないものであると言われている。支那の詩人も詠って言ったことがある。
百川日夜に逝き
物々相隨って去る
惟だ宿昔の心あり
依然として故処を守る
万物はつねに流転して止まるところを知らぬ。一切は念々刻々に変化していく。昨日満開を誇った花は、明日は散りゆく花である。諸行は無常である。一切は変化する。変化するが故に存在しないのではなく、一切のもののあり方は変化であるということ、すべては時間的に存在するということである。このことわりを知らぬ人間のみが、いつまでも富貴にとらわれ、生存にとらわれ、情欲にとらわれている。それが執着である。
しかも、いくら執着したからとて、いかに煩悩の焔をもやしたからとて、移ろうものは移ろう。流転するものは流転する。したがって執着する人間の心は、念々刻々裏切られねばならぬ。人生の苦しみはかくのごとくして生ずる。これが釈尊の考え方であって、この考え方が四つの真理の第二、佛教術語でこれを集諦となづける。
苦は渇愛(欲望)にとらわれること(執着)から生ずるという。万物は無常(常なるものはない)つまり変化する。欲望の対象となるものもすべて変化する。それが釈迦が説いた第二の真理だというのだ。「いろはにほへとちりぬるをわがよたれそつねならむ・・・」といういろは歌はその真理を詠ったものである。平家物語の「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり・・・」も同様である。方丈記の「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にはあらず・・・という名文章は解りやすく無常を説いている。
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私は仏教に関心を持った時、ひろさちや氏の著作を多く読んだ。その中で以下の一節が一番共感できた。そのまま引用する。仏教の勉強をしていてだんだん分かってきたことは、仏教が教えているのは全てのことが=なんだっていい=ということです。世間の人は、美しく生きなければならないと拘っていますが、美しく生きてもいいし、醜く生きてもいいのです。健康でなければならないと考えるのは拘りです。健康でもいいし、病気でもいいのです。真面目であってもいいし、不真面目でもいいのです。こうでなければならないという拘りを捨てて達観できれば、ある意味で悟りが開けたわけです。仏教はそんな達観を教えています。(後略)確かにこんな心境に達すれば悩みは消えるかもしれない。しかしながらそのような達観に至るのは至難である。勉強ができなくてもいいではないか。有名私立学校に入学できなくてもいいではないかと思えば忌まわしい事件は発生しなかったはずである。
投稿: toshi | 2016年8月24日 (水) 08時41分