平和ということ
戦後71年、幸いというか日本は武器を使っての戦争には参加しなかった。イラク戦争のときはアメリカにOn The Bootと言われたが、サマワに自衛隊をPKOとして派遣しただけであった。発砲する事件が起きなかったのはラッキーであった。
しかし、安倍政権による安保法制改定で、集団的自衛権行使ができるとされ、これまでは憲法9条を盾に戦争参加を拒否できたが、、これからは米国などの要請があれば断れなくなってしまった。アフリカのスーダンでも駆けつけ警護の命令が出されれば自衛隊は銃器を持って出かけなければならい。
怖いのは戦争に参加することだけではない。昨日も書いた様に、憲法に「緊急事態条項」をいれることによって、憲法を自由に変えることができるようにされることである。かつてドイツのヒトラーが使った手法である。それについては昨日のblogに取り上げた。
8月12日の朝日新聞の「文化・文芸」欄に瀬戸内寂聴さんのエッセイが載った。題名は「平和だからこそ阿波踊り」であった。徳島出身の寂聴さんは、59歳のときに徳島に寂聴文学塾を開設した。その塾生たちが阿波踊りに参加して、大変人気を呼んだというのである。もちろん寂聴さんも参加した。
阿波踊りは戦況が悪化した1944年と45年は中止され、1946年に復活したのだという。太平洋戦争の時には、阿波踊りもきっと「戦意高揚」に利用されたに違いない。寂聴さんは「平和だからこそ阿波踊りは続けられるのである」と結んである。
その通りだと思う。平和だからこそ、阿波踊りなどの各地の踊りも、名古屋で盛んになった「ど祭り」も、その他文化事業などやスポーツなども平和だからできるのである。
しかし、ちょっと待てよと私は思った。戦争がない状態を普通平和というが、仮に戦争がなくても、政治による圧力のもとでは平和ではないのだ。安倍政権がやろうとしている憲法改悪によって、国民の自由や権利が抑えられ、特別秘密保護法によって知る権利が奪われ、戦前のようにマスコミも翼賛化してしまうと、一億総動員が復活しかねない。安倍政権が掲げる「一億総活躍」というのは一億総動員のことではないか?と私には思えるのである。
安倍首相らが唱える「美しい日本」は明治憲法にあるような天皇制のもとでの富国強兵の日本である。そこでは人権が制約され、民主主義が抑圧されるのだ。道徳の教科化により、姿を変えた「修身」が強制されようとしている。国家管理と統制が強化された社会は「平和」であるとは言えないと思うのだ。平和は単に戦争がない状態ではないことを肝に銘ずるべきである。
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