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2016年7月21日 (木)

都知事選と鳥越俊太郎氏、伊藤千尋氏の講演から―①―

 友人から送られてきた伊藤千尋氏が講演で話した「都知事選と鳥越俊太郎氏」が面白いので紹介する。

 

5. 都知事選
 

 7月14日、都知事選が告示されました。おお、フランスで言えば「パリ祭」の日、つまり自由と人権を求めたフランス革命の記念日ですね。それにふさわしい選挙となってほしいものです。

 でも、31日に投票ですから、選挙期間は2週間余りと短いですね。僕が6月にかかわった狛江市長選挙はたった1週間でした。こんなに短くては政策論争をする時間がありません。日本の選挙が候補者の名前だけをがなり立てるのは、そのためです。海外の選挙の期間は1か月が普通ですよ。アメリカ大統領選挙は1年近くもあり、そこで政策や人柄などが厳しく問われます。日本でもせめて1か月はほしいものです。

 さて、早くから名が挙がっていた小池百合子さんはいち早く名乗りを上げましたが、自民党の都連を素通りしてさっさと発表してしまった。自信を持っている人はとかく根回しを怠りがちです。このあたりはチリの軍部と同じですね。そういえば小池さんは元防衛大臣でした。

 これに怒ったのが、無視された都連です。なにせ内容よりもメンツを重んじる人々ですからね、政治家という人種は。しかも女性から無視されたというので、保守のおじさまたちはいっそう怒ったのでしょう。その意を受けた自民党本部は、元総務大臣で元岩手県知事でもある増田寛也さんを担ぎ出しました。公明党もこれに乗りました。名前の小池か、実の増田か、といったところです。

 ともあれ、こうして与党側は分裂しました。野党側にとっては、まさに「千載一遇のチャンス!」です。野党側で早くから準備を進めていたのは、過去2回の都知事選に立候補した日弁連元会長の宇都宮けんじさんです。早くからチラシを刷って準備しました。僕の手元にそのチラシがありますが、プロのカメラマンが撮ったポーズ写真といい、キャッチフレーズの良さといい、なかなか堂にいったものです。

 そのキャッチフレーズは「困ったを希望に変える東京へ。」です。さすが選挙を何度も経験された宇都宮さんは分かってますね。「希望」の2文字が入っています。裏面には「都政のすべてを都民のために」「3・11をわすれない。原発のない社会を東京から」など「東京を希望のまちに変革する7つの政策」がきちんと書かれています。いかにも早くから準備していたことを思わせます。

 人柄も政策も申し分ない。しかし、(悪いけど)華やかさもない。選挙は人気投票ではないと言いますが、それは政策がきちんと浸透したうえでの話です。選挙期間が短い日本では、現実には人気投票にならざるをえないのも事実です。せっかくのチャンスなのに宇都宮さんで勝てるのか、という危惧をいだいた野党側に別の動きが生まれました。

 ここで彗星のように登場したのがジャーナリストの鳥越俊太郎さんです。毎日新聞の記者からテレビ・キャスターを長年やって、知名度は抜群。しかもダンディで、巷の人気もあります。選挙で勝つためには個人が持つ「オーラ」が必要です。言葉を替えれば、人を巻き込む情熱、あるいはセックス・アピールと言ってもいいでしょう。鳥越さんには、それがあります。僕はひそかに「男の蓮舫」と呼んでいます。

 実は、僕は鳥越さんをよく存じてあげています。彼がキャスターをしていたテレビの番組にコメンテーターで出演したこともあります。現役の新聞記者だった5年前には、彼について3回の長い連載記事を朝日新聞に書きました。

 鳥越さんは毎日新聞で24年、記者を続けました。「死んだら棺を毎日新聞の社旗で覆ってもらいたい」と家族に言い置くほどの根っからの新聞記者です。とはいえ、会社からは記者として有能とみなされなかった。まあ、自分でも「落第という烙印を押された」と言うほどです。社会部から週刊誌「サンデー毎日」の編集部に異動を命じられました。当時は落ちこぼれた者が飛ばされる先が週刊誌だと言われていたからです。

 ですが、ここでジャーナリストとしての本領を発揮しました。ロッキード事件で逮捕された田中角栄首相の地元の町に3か月住み込んだのです。

 (その4)

  田中角栄が総理として権力の絶頂にあったとき、マスコミは彼を「今太閤」と呼んで持ち上げました。でもロッキード事件が起きて逮捕されると一転して彼を非難したのもマスコミです。しかし、田中角栄の地元ではなお、彼を称える有権者が多かった。マスコミはそうした地元の有権者をも批判しました。
 

 そのとき、地元の人々の視点に立って見つめようとした数少ないジャーナリストの一人が鳥越俊太郎さんでした。田中角栄の地元の町に3か月住み込み、過去の日本の発展から取り残されてきた日本海側の住民の視点で記事を書きました。
 

 現場に踏み込んで事実を見極め、現場の人々の視点で考えようとする姿勢は駆け出しの記者時代からのものです。農業の取材のため重いテープレコーダーをかついで田んぼに入り農民の声を聴きました。このときのことを鳥越さんは「大所高所でなく、アリの目で這いずり回って書く現場主義に徹した」と語っています。
 

 鳥越さんは41歳のとき、毎日新聞を1年間休職し、米国の新聞社の研修生になりました。このまま定年までだらだら過ごしたくない、可能性があるうちに能力を身に着けたいと考えたからです。40代というのは、当時の新聞社で言えば記者からデスクという中間管理職に上がる年代です。多くの人々は出世の階段を上ろうとします。でも、鳥越さんは生涯一記者を目指していました。
 

 だからといって英語ができたわけじゃない。会話の試験は落第でした。合格したのは書類で提出した英文が見事だったからです。実は、英語が堪能な若い記者に書いてもらったのです。あ、ずるい、なんて思わないでください。要領がいいってことです。
 

 普通、その程度しか英語ができなければ、現地に行って苦労するのは自分ですから、そもそもアメリカ行きなんて考えません。彼は違いました。自分を追い込むタイプなんですね。現場で苦しんで自分を鍛えようとしたのです。同時に、行けばなんとかなるという日本人離れした楽天性をも持っていました。
 

 ここまで話を聞いたとき、鳥越さんはニヤッと笑って小さいころの自分を振り返ってこう言ったのです。「僕はね、『泣き虫の俊ちゃん』と呼ばれてたんだよ」。人前に立つと震えて話せなくなったそうです。まあ、今と大違いですね。彼は大学時代に合唱団のマネジャーとなり、自分から人前に立たざるをえない状況をつくって自分を鍛えたのです。人前に出ると上がって頭が真っ白になってしまう方は、鳥越さんを見習いましょう。
 

 アメリカから帰国すると週刊誌から新聞に戻りましたが、イランのテヘラン支局長を命じられました。そこで落ち込んだそうです。アメリカの特派員になれると思っていたからです。まあ、この辺が鳥越さんのずうずうしいところです。アメリカに1年住んだくらいでいきなりアメリカの特派員になれるわけがない。
 

 しかも、イラン特派員をアメリカ特派員の下だと考えるって、あんたらしくないじゃないかと思うのですが、「テヘラン行きは当時の毎日新聞外信部で最低のランクだったから」と彼は言うのです。まあ、鳥越さんなりにプライドというものがあったのでしょう。
 

 しかし、イランに行ったおかげで今日の国際政治の焦点となっているイスラムについて知ることができました。農業やイランという、彼に言わせれば「日の当たらない、だれもやりたがらない」部門でやったおかげで、「オセロゲームのように白黒が逆転して今の私に役だっている。人生って面白い」というポジティブな発想をする人なのです。
 

 その後は週刊誌「サンデー毎日」の副編集長になります。週刊誌といえばよく誤報を出します。「サンデー毎日」が誤報を出したとき、社としてはなんとかうやむやにしようとしました。しかし、鳥越さんは社の幹部を説得して8ページもの詳細な検証記事を掲載したのです。これはアメリカのジャーナリズムの報道姿勢です。アメリカでの経験は実際に役に立ちました。いえ、身を持って役に立たせた鳥越さんを称えるべきでしょう。
 

 「サンデー毎日」の編集長となったとき、テレビ朝日から思いがけない話が舞い込みました。新設する調査報道のニュース番組のキャスターをしないかというのです。実は社会部時代に知り合った作家の澤地久枝さんの推薦だったのですね。その話に鳥越さんは飛びつきました。かねて「50歳になったらフリーのライターになろう」と思っていたからです。このとき49歳。う~ん、こうしてみると、ジェットコースターのような人生ですが、要はツキまくっているのです。「塞翁が馬」を絵に描いたような人です。
 

 50歳でテレビ界へ入っても、やったことは新聞記者時代と同じでした。「現場へ、アリの目で」がモットーです。天安門事件の中国へ行き、ソ連崩壊の瞬間を赤の広場から報告し、オウム真理教の家宅捜索のさいも山梨の現場から伝えました。埼玉県の女子大生殺人事件では警察の手落ちを検証して「ストーカー規制法」の成立をもたらしました。調査報道の面目躍如です。2004年のイラク戦争時にも現場に行き、周りから「死ぬ気か?」と止められたにもかかわらず、フセインの隠れ穴があった危険地帯に踏み込みました。
 

 神に愛されているのではないか、と思えるほど幸運が続いたその彼に、突然の試練が訪れます。「がん」を宣告されました。

 

 

 

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コメント

今朝の中日新聞の朝刊を見て私は大変驚いた。週刊文春と週刊新潮に鳥越氏に対する大変不名誉なネガティブな広告見出しがおどっていたのだ。中身は読んでいないが都知事選が佳境に入ったこの時期にこんな記事が、しかも多くの読者を有する週刊誌に掲載されたことは鳥越氏サイドにとって計り知れないダメージになることを憂うるのである。両誌はこれまでも政治家のスキャンダル記事で話題を呼んで、渦中の政治家を退陣に至らしめた実績もある。全く根も葉もない記事と言い切れない面もある。鳥越氏は昨今の政治状況に危機感を強く持ち義憤に駆られて、おっとり刀で飛び出した面は確かにあるが愛すべき人物だと私は思っている。ブログにあるよう危機にもめげずにしっかり戦って欲しいと思う。

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