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2016年7月29日 (金)

増谷文雄「仏教入門」―㉞―

 この態度はまた、佛教の実践道に於いても、その基本的態度をなすものであった。元来、印度の人々ほど苦行に重い価値を与えるものはなかった。その中にあって、釈尊は、決して苦行主義を支持していなかった。

  その思想的立場が非有にして且つ非無であったように、その実践的立場は非苦にして且つ非楽であった。快楽の道に就くのも間違っているが、苦行の道に偏するのもまた正しいことではないとした。苦に偏した態度と、楽に偏した態度と、その二つの極端な態度をはなれたところに、仏道実践の大道を存した。それが中道であった。そのことを釈尊はよく、「この二辺を離れて、中道に処す」という言葉で教えた。

  これらの思想的並びに実践的態度は、またしばしば「不一向」といういう言葉で表現された。一向とは、専らなること、偏にすることであるが、釈尊はかかる態度をとらなかった。

  「我はこれを一向に説かず。これは義相応に非ず、法相応に非ず、梵行の本に非ず、智に赴かず、覚に赴かず、涅槃に赴かず」

  かくして中道とは要するに、思想的にも実践的にも、決して極端に走らない態度であると言うことが出来るであろう。すこしでも極端な態度をとることは、既にそれだけ非仏教的であると言うことも出来るであろう。

  しかし、正しく中道をあるくということは、決して容易なことではない。ともすれば右に走り、左にかたよろうとするのが、人情の”つね”である。極端を思想し、極端を実践し、極端を固執して喜びとするのが、人間のよわさである。それを”じっと”ふみこたえて、中に処して動じないということは、実に容易ならぬことである。だが仏教の根本的な立場はそこにこそあるのである。この立場を味わうことを怠っては、佛教の本当の味わいはわからないのである。

 「我はこれを一向に説かず。これは義相応に非ず、法相応に非ず、梵行の本に非ず、智に赴かず、覚に赴かず、涅槃に赴かず」この部分は中心をなす釈迦の言葉だと思うのだが、難解である。「義相応に非ず、法相応に非ず、梵行の本に非ず、智に赴かず、」はなんとなく分かるような気がするが、「覚に赴かず、涅槃に赴かず」はどういうことであろうか。釈迦の説いたのは覚に至り、涅槃に至る道ではなかったのかと思うのだが。

  それと、日本に一向宗というのが鎌倉時代に一向俊聖によって説かれた。また、浄土真宗の一向宗とか一向一揆などがある。一向とは「ひたすら」「一筋」という意味であり、「一つに専念すること」を意味知っている。「中道」から離れるとすれば、釈迦の教えとは矛盾する。

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