2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 小池百合子氏は軍備拡張、核武装も主張 | トップページ | 増谷文雄「仏教入門」―㉞― »

2016年7月28日 (木)

増谷文雄「仏教入門」―㉝―

 

 禅宗の僧たちの得意な説法の題目に「担板漢」という題目がある。担板漢とは板を担いだ男という意味である。大きな板を肩にかついで町を歩くと、彼には町の片側だけした見えない。「なあんだ。ここは立派な町だと聞いていたが、片側だけの町か」

 これは笑うべき科白である。だが、世の中には真に「担板漢」ならざるものが何処にいるというのだ。そして禅僧たちは、得意の辛辣な論法をもって長広舌を展開せしめるのであるが、釈尊の説く中道とは、言わば、かかる板を担がないで歩く態度であるということも出来るであろう。

 現在の思想界にあっても、唯物論にあらずんば唯心論、唯心論でなければ唯物論と、そんな考え方をしているものがないであろうか。だが、釈尊の考え方によると、唯物論者もまた担板漢であり、唯心論者もまた担板漢でしかないのである。

 世の中に立って、板を担いでいるのでは、人生のあらゆる風景を見とめることは出来ない。偏った立場をまもっているのでは、人生のまことの相を観じて、悟境に到達することは期待しがたい。柳は緑であり、花は紅である。それを一向に、柳も花も紅であると見てもいけないし、また柳をも花をも緑であるとしても間違いである。間違った前提から出発したものは、結局正しい結論に到達することはできぬ。

 我々は先ず偏らぬ立場から出発しなければならぬ。釈尊当時の印度に於いては、我と世界とに就いてその有無等を論ずる問題が、好んで思想家たちによって取り上げられた。―世界は常在なりや無常なりや。―人間は死後も存するや死後も存せざるや―

 かかる種類の問題が、有無いずれかの立場から、熱情をもって論ぜられておった。だが釈尊は、それらの問題に就いて有無いずれの立場をもとらなかった。彼があるとき尊者迦旃延にむかって、その思想的立場を語った言葉はつぎのごとく伝えれれておる。

 「迦旃延よ、『一切は有なり』という。これ一の極端なり。『一切は無なり』という。これは第二の極端なり。迦旃延よ、如来はこれらの両端を離れて、中道によりて法を説くなり」

 そして彼は、つづいて縁起の理法を略説しておる。これは言わば、主義無き主義、立場なき立場であった。漢訳ではこれを「離於二辺、説於中道」と述べ、かれは毅然としてここに立っているのであった。

« 小池百合子氏は軍備拡張、核武装も主張 | トップページ | 増谷文雄「仏教入門」―㉞― »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 増谷文雄「仏教入門」―㉝―:

« 小池百合子氏は軍備拡張、核武装も主張 | トップページ | 増谷文雄「仏教入門」―㉞― »