増谷文雄「仏教入門」―㉙―
涅槃という言葉は、梵語ニルバーナnirubanaの音訳であり、これを意訳すれば滅、滅度、寂滅等となる。この言葉が印度の文献に始めて現れたのは、たしかに仏教の術語としてであったと思われる。
それは当時すでにあった言葉を釈尊が採用したのであるか、それとも釈尊自身の創作になる言葉であるか、そこのところは詳らかではない。
これはnir-va(吹き消す)という動詞を語根とする言葉であって、燈火の消え去るがごとく、煩悩の滅し去った境地を示す言葉であるが、さらに一歩をすすめて言うならば、燃えさかる焔も、薪木や枯草がなくなる時、自然に消えてまた焔なきがごとく、夜を照らす油燈のともしびも、燈心をとり去ってしまうと、もはや燃ゆべきすべもなきがごとく、人間煩悩の焔もまた、欲貪を去り渇愛を抜くとき、自然に消え果てて、いつまでも擾乱なき平和の境地がもたらされる。涅槃とは、かかる平和の境地を指していえる言葉であった。
これを滅といい、不生といい、無為といえば、消極的な印象が強いが、古来の仏者は、またこれを無上の安穏といい、至楽となづけ、また妙境とも称した。そこにあるものは平和であり、寂静であり、清涼である。
それに対して、世間はただ擾乱に充ち、瞋恚にみち、懊悩にみちておる。それを釈尊は、煩悩の焔が一切の世間を焼いていると教えた。眼も耳も鼻も舌もからだも、あらゆるものが煩悩の焔に燃えていると教えた。煩悩の焔のおそるべきことは、むしろ大木を焼く焔にもまさると教えた。
そして、その煩悩の焔を滅し去る方法として八支の聖道等を説き、また煩悩の焔を滅し去れる境地における無上の安穏を説いたのであった。では煩悩はいかにして滅盡されるべく、また涅槃の平和はいかにして招来されるべきであるか。
「世間はただ擾乱に充ち、瞋恚にみち、懊悩にみちておる」というのはまさにその通りである。人間個人はもちろん、会社やグループ等の集団としての人間も、民族や国家としての人間も、すべて欲望、憎悪、妬み、争いなどさまざまな煩悩の焔に燃えさかっているのである。戦争やテロはその最たるものである。もし、釈尊のおしえに従って煩悩を滅却していたら、人類は地球は平和そのものであったはずだ。それができないままいたずらに歴史積みかさねて来たのだ。
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