増谷文雄「仏教入門」―㉛―
釈尊もかつては、自らを苦しめることによって悟境に到達せんことを企てたことがあった。尼連禅河のほとりの美しい森の中に坐をかためて、一麻一米の苦行をしたこともあった。一麻一米とは、一粒の胡麻、一粒の米のほかは、一切の食物を断つことであった。この苦行のため、釈尊の髪はよもぎのようになり、眼はくぼみ、骨はあらわに、腹の皮と背の皮とがくっつきそうにまでなった。それでも悟りは開けなかった。
途方にくれておると、尼連禅河の堤の上を、民謡をうたって通る農夫の声が聞こえてくる。耳をすまして聞くと、
弦がつよけりゃ強くて切れる。
弱けりゃゆるくてまたいけぬ。
程はほどほど調子をあわせ。
手ぶり足ぶり上手におどれ。
と、言っておる。これを聞いていた釈尊の心の中には、ふと霊感がひらめいた。これは天の声である。導きの声であると思われた。そこで、すっぱりと苦行をやめ、尼連禅河の水に入って身体を浄め、j十分に食事をとり、あらためて調達な心身をもって、かの菩提樹の下に座禅の座をかた
釈尊が大覚を成就したのは、それから間もないことであった。そして、ペナレスの鹿野苑においての初転法輪―最初の説法―には、つぎのように説かれたのであった。
「比丘等よ、世に二辺あり、出家者は親近すべからず。何をか二と為すや。一に諸欲に愛欲貪著を事とするは下劣卑賤にして凡夫の所業なり、賢聖に非ず、無義相応なり。二に自ら煩苦を事とするは苦にして賢聖に非ず、無義相応なり。比丘等よ、如来はこの二辺を捨てて中道を現等覚せり。これ眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覚、涅槃に資するなり。
比丘等よ、何をか如来の現等覚せる所の、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覚、涅槃に資する中道と為すや。これ即ち八正道なり。謂く正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。比丘等よ、これを如来の現等覚せる所の、眼を生じ、智を生じ、寂静、證智、等覚、涅槃に資する中道と為す。」
※ここには、釈迦が苦行の末悟りを得るに到ったエピソードが語られ、最初の説法について簡潔に述べられている。中道、八正道などは釈迦の思想の中核をなすものであるが、詳細については後に出て来る。
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