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2016年6月 6日 (月)

増谷文雄「仏教入門」―㉘―

 三

  仏教がねらい究極の境地は、佛教の術語でこれを「涅槃」といっておる。すべての仏道修行は結局これを目標とし、これに集中される。いつぞや釈尊は、舎衞城にあって説いたことがあった。印度には恒河以下あまたの大河があるが、それらは総て「海に趣向し、海に傾向し、海に臨入する」それと同じく、あまたの比丘たちは、八支聖道を修習して、結局みな「涅槃に趣向し、涅槃に傾向し、涅槃に臨入する」と言うのであった。

  また漢訳経典の中には、しばしば、「離辺処中、行八正道、到涅槃城」という表現が見られる。これは言うまでもなく、佛教徒たるべき者のふむべき大道を示したものである。極端(辺)をはなれ、中道(中)に処し、よく八正道を行修して、涅槃の城に到達する。涅槃こそは仏教徒の究竟の目標である。ではそもそも涅槃とはいかなる境地をいうのであるか。

  古来の言い方でいえば、もろもろの煩悩の断滅せられたる境地がすなわち涅槃である。釈尊はこの境地を説明して、よく「渇愛の滅」であるとか「貪瞋癡の滅」であるとか教えられた。ある時は、尊者優陀耶に対して、「渇愛の遮断によりて、涅槃ありと言わる」との偈を説いたこともあった。ある時は、郁瞿婁(ウツガ)という居士に向かって、「取執なき比丘は涅槃に入る」と教えたこともあった。また、釈尊の高足舎利弗は、恒河のほとりで、サーマンダカ普行沙門と次のような談話を交わしたことがあった。

 「友舎利弗よ、『涅槃、涅槃』と称せられる。友よ、何ものか涅槃なる」

 「友よ、凡そ貪欲の壊滅、瞋恚(シンイ)の壊滅、愚癡の壊滅、これを称して涅槃という」

「さらば友よ、この涅槃を実現するの道ありや、行道ありや」

「友よ、この涅槃を実現するの道あり、行道あり」

「友よ、何をかこの涅槃を実現するの道となし、何をた行道となすや」

「友よ、この聖なる八支の道こそは、この涅槃を実現するの道なれ。それは即ち正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。友よ、これは涅槃実現の道なり。こは行道なり」

 これらによって知られるごとく、涅槃とは要するに、もろもろの煩悩を滅しつくした境地である。滅するとは、煩悩の焔がまったく消えてなくなることである。欲愛をもたらす渇愛もつき、もはや貪欲の焔も、瞋恚の焔も燃ゆべき由もなくなった状態に達することである。そしてかかる意味は、涅槃をいう言葉そのものの中にあきらかに示されておるのである。

 ※仏教の究極の目標である境地は涅槃であり、涅槃とはもろもろの煩悩を滅し尽くしたときに到達する境地であるというのだ。

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コメント

「極楽浄土と似ている概念であるが極楽浄土は他力本願で場所を意味し、涅槃は自力で到達する状態のことらしい。」というのはその通りだと理解しています。浄土思想は釈迦入滅後かなりの年数がたって誰かが創造したものだと思います。それが浄土宗や本願寺宗などに受け継がれています。涅槃は自力であって釈迦が説いた境地です。

もう何年も前になるが、「おやじ、涅槃で待つ」といって飛び降り自殺を図った若手人気俳優がいた。
この時に初めて人々の間で涅槃という言葉が話題になったような気がする。ブリタニカ大百科事典によると「前略、本来は風が炎を吹消すことを意味し,自己中心的な欲望である煩悩や執着の炎を滅した状態をさす。」生きている限りは不可能なので、死ぬことを涅槃にはいるということもある。極楽浄土と似ている概念であるが極楽浄土は他力本願で場所を意味し、涅槃は自力で到達する状態のことらしい。
今話題の舛添都知事も少しは涅槃の境地になって欲しいものである。

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