2022年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 「SPOTLIGHT世紀のスクープ」を観た | トップページ | オバマ大統領、原爆資料館を見てほしかった »

2016年5月28日 (土)

増谷文雄「仏教入門」―㉗―

 

  釈尊が火をもって喩えたものは、要するに煩悩であった。煩悩とは、貪欲瞋恚愚痴等を因として生起する惑いである。この煩悩の焔に焼きさいなまれておるのが、つまりこの世のすがたであり、またこの身のすがたである。黄金を見ればこれを得んことを思う。美衣を見ればこれを着んことを思う。美人を見ればこれを抱かんことを思う。

  これは眼が煩悩の焔に燃えているのである。眼ばかりではない、耳も、舌も、鼻も、手足もおなじように煩悩の焔にもえておる。そしってこの煩悩のために、いつまでも煩悩はつきない。内心の平和はやってこない。恐るべきものは煩悩である。煩悩の恐るべきことは火をもって喩えるもなお足らぬ。釈尊はそう考えていたのである。

  『中阿含経』のなかに『木積喩経』というよく知られた経典があり、それと同本のものが、南伝大蔵経では『増支部経典』の中に見えておるが、その中には、つぎのような釈尊の説法のことが記されておる。

  拘薩羅国の平原は、水清く、草青く、あちこちには鬱蒼たる森林があった。釈尊は多くの弟子たちをつれて、この平原の大道をゆっくりと遊歩しておったが、ふと見ると、むこうの方で大木を積みかさねたものがしきりと焼けておる。ものすごい煙の間からはめらめらを大木をなめる火焔が見える。釈尊は、しばらくそれを見ておったが、やがて並木のもとに坐を設け、弟子たちを顧みて言った。

 「大木が焼けておる。すごい火焔だ。ところで諸君は、あの大木を抱いて坐っているのと、優しく美しい女子を抱いて坐っているのと、どちらがよいと思う」

 「それは矢張り、美しい女の子を抱いて坐る方がよいので、燃える大木を抱くのでは堪りません」

  釈尊はしぶい顔をなされた。重苦しい沈黙がしばし一行の上をおおっていた。その沈黙をはね返すように、釈尊は声を励まして叱咤して言った。

  「それは間違っておる。諸君は、美しい女の子を抱いて坐るよりは、むしろあの燃えさかる大木を抱くほどの覚悟をもっていなくてはならぬ」

 弟子たちは、師がこんなに興奮して物を言うのは初めてであると思った。みんな顔を見合わせて黙っていた。すると釈尊は、今度はいくらか言葉の調子を和らげて続けた。

 「忘れてはならぬ。煩悩にかられて、戒を破り、不善をなすことは、何よりも恐ろしいことである。焔をかぶるよりももっと恐ろしいことである。焔の大木を抱いたからとて、その苦しみはせいぜい死の苦しみにすぎない、だが、破戒不浄のやからは永劫の苦しみを受けねばならぬであろう。だから諸君はいつでも、美しい女の子を抱かんよりは、むしろかの燃えさかる大木をいだくほどの覚悟をもつべきである」

 平常の釈尊の説法の態度は、いつもは至って物静かなものであった。諄々という形容詞がそのまま当嵌まるような態度であった。だが、この『木積喩経』に於ける釈尊の説法の態度は、まことに烈々たるものがあった。いつもの物静かな態度になれていた弟子たちは、みなこの釈尊の態度には驚き戦いたものであった。経典の記すところによると、その時六十人の弟子たちは口から熱血を吐き、六十人の弟子たちは修道をおそれて在家に帰り、また六十人の弟子たちは即座に執着をはなれ煩悩を解脱することが出来たといわれておる。この経典における説法の態度は、釈尊の数おおい説法の中でも最も異彩のあるものであった。

 釈迦は煩悩を燃えさかる火に譬え説法をした。私たち凡人はまさに煩悩の焔に包まれていると言ってよい。煩悩からの解脱をするにはどうすればよいのか、これ以後にそれが説明されるであろう。

 

« 「SPOTLIGHT世紀のスクープ」を観た | トップページ | オバマ大統領、原爆資料館を見てほしかった »

宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 増谷文雄「仏教入門」―㉗―:

« 「SPOTLIGHT世紀のスクープ」を観た | トップページ | オバマ大統領、原爆資料館を見てほしかった »