増谷文雄「仏教入門」―㉖―《二 仏教の原理》
1.内心の平和(涅槃)
釈尊は、その説法の中に譬喩をひくことが得意であった。その中でも火による譬をよく用いた。古い経文には、火についてのたとえがよく出て来る。
あるとき釈尊は、新しく帰依した多数の弟子たちを伴れて、王舎城のほどちかい象頭山に登った。春風駘蕩たるのどかな日であった。山頂に立って見はるかせば、村落があり、野原があり、森林があり、牧場があり、そのむこうの方には、なだらかな起伏の山がかすんでいた。その大きな眺めをたのしみながら、釈尊は何時もの物静かな態度で語りはじめた。
「すばらしい眺めだ。ひろい世間だ。だが、このひろい世間は、みな焔の上にあるのだ。」
弟子たちもみな、その素晴らしい眺望を楽しみながら、のどかに釈尊の言葉に耳を傾けていた。
「あの村も燃えているのだ。あの森も燃えているのだ。世間はみな燃えているのだ」
燃えているという釈尊の言葉の意味が、弟子たちにはよく解っていた。みな肯いて こっくりをしながら、眺望をたのしみ続けていた。
「だが、燃えているのは世間ばかりではない。諸君たちは、いつも自分自身が燃えていることを忘れてはならぬ。眼も燃えているし、耳も燃えているそ、鼻も、舌も、からだも燃えているのだ。貪りの焔、瞋りの焔、痴かさの焔が、熾然(シゼン)として燃えているのである。諸君は、はやくわが身の焔を消すように、せいぜい精進を怠ってはならない」
みんなはそこで、すこしは緊張したらしい面持ちで、またこっくりと深く肯いたことであった。
ヨーロッパの仏教学者の中には、この教訓を、キリストの「山上の垂訓」になぞらえて、仏陀の「山上の聖訓」などといっておるものもある。
そのほかにも、世間はみな焔の中にあるという譬喩や、或いは貪瞋痴等わが身を焼きさいなむ焔であるという言い方を、釈尊はいろいろの場合に用いておる。それはそのまま、仏弟子の心のなかにも止まって生きていた。
世はすべて火を放たれ、
世はすべて燃え拡がり、
世はすべて焔を挙げ、
世は全て震い撼かさる。
これは『長老尼偈』にのこる尸羅婆遮羅(シースーバチャーラー)という比丘尼の述懐であった。
刃を以て刺さるるが如く、
頭を燒かるるが如し。
欲貪を捨離せんがために、
比丘は正念にして出遊すべきなり。
これは『長老偈』に記さるる長老帝須が、師のおしえの思い出を語れるものであった。そして、この釈尊得意の譬喩は、やがて後には「法華経」の作者もこれを学んで、三界は火宅であるとする有名な譬えをもって、三乗の道の説明を試みたこともあった。
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