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2016年5月 3日 (火)

増谷文雄「仏教入門」―23―

 生死の諦観とは、生をあきらめ、死をあきらめることである。あきらめるとは、真実を見きわめることである。古来の注釈家は「諦」を釈して「真実不虚(コ)」の義であるとした。すなわち、真実にして虚しからざることが諦であって、これを動詞に使用し、「諦める」というは、真実を見極めることと考えられる。そこでこの「真実を見極める」態度を、生死の解決に当てて見るとどうであるか。

  死を免れんことを希うのは人情であろう。だが、死は結局において免れ得べきものではない。仏教とはまずこの点に置いては真実を見きわめなければならぬ。

 不老長寿をねがうことも人情であろう。だが、それが決して到達し得ないねがいであることを、佛教徒は見きわめなければならぬ。

 現世において不死のねがいを到達しえないがゆえに、これを来世において求めんとすることもまた人情であろう。だが、釈尊の徒はそれが単なる幻想にすぎないことを見極めねばならぬ。

 また、最後には思うとて甲斐なく願うて甲斐なき死の問題のために苦しみ悩むのは、要するに、生に対する愛着があるからであるという真実を見極めねばならぬ。

 そして、釈尊の示せる縁起の理法によって、「生あるが故に老死あし、生に縁りて老死あり」との真実を見極め、これを種々の修行によって有愛―生存への渇愛―の断滅にまで齎すとき、そこに生死の諦観は実現する。ここに欲望に対する仏教的解決の方法の形式が存しておる。

 あきらめるとは、真実を見極めることというのは最も重要な概念である。別の表現で真実不虚といっている。真実を見極めることによって生死の諦観が実現すると言っている。

 世間でいう諦めるは間違って使われている。「進学を諦める」「結婚を諦める」などというとき、進学できないのは何故かを突き詰めて判断をする訳ではない。結婚についても同じである。どうして結婚できないかを突き詰めて諦めるのではない。そうした諦めは本来の諦めではないのだ。

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