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2016年4月 5日 (火)

増谷文雄「仏教入門」―⑯―

 だが、また反対の側から考えてみると、釈尊の弟子たちは、この「導師」なくしては正法を知るものとはなり得なかったであろう。してみると、釈尊なくしては正法もまたあり得なかったわけである。釈尊の大覚と説法とによって、はじめて正法がこの世に明らかにせられたのである。

  殊に、直接に釈尊のおしえを受けた人々にとっては、正法と釈尊とは到底話して考えることのできぬものにあったに相違ない。したがって彼らはしばしば、彼らの釈迦に対する信頼の念を表明して、

 「世尊、我等には法は世尊を根源とし、世尊を導師とし、世尊を帰依処とす」と、述べておる。かくも信頼を寄せたる釈尊が、沙羅の並木のもとに法体を横たえて、ついにその生涯を終わらんとするや、弟子たちの悲歎と狼狽は言うべき言葉もなかった。彼らはいまや根源を失い、導師を失い、依りどころを失わんとするのである。その悲しみと狼狽は当然であった。この悲しみと狼狽とを、漢訳『大般若経』は次のように記してのこしておる。

  「世間は虚空となれり。世間は虚空となれし。我ら今より救護あることなく、宗仰するところなし。貧窮孤露にして、一旦無上世尊に遠離せば、もし疑惑あらんとき、まさに誰にか問うべき」

  かく嘆き悲しむ弟子たちに対して、釈尊はいろいろと最後の教訓を与えたが、中でも最も知られてた教訓は所謂「自燈明、法燈明」のおしえであった。

 「されば、阿難よ、ここに自らを燈明とし、自らを依所として、他を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住せよ」

 ここには、正法ちゅうしんの宗教たる立場が、もっとも厳粛に宣言されている。なお阿難は、釈尊入滅の後なお久しからざる頃、王舎城において、摩掲陀国の大臣雨勢婆羅門と問答せることがあった。その時、雨勢が釈尊亡き後の依所を問いたるに対して、阿難は明らかに次のように答えることが出来た。

 「婆羅門よ、我らは所依無きには非ず。婆羅門よ、我らは所依あり。すなわち法の所依あるなり」

 ここに、真理による宗教としての仏教の立場が、厳乎として樹立されておるのが見られる。

         (ここまでP,38)

 長い修行によって「法」を見つけたのが釈迦であり、それを説いたのが釈迦である。法は絶対の真理であり、揺らぐことはない。だから釈迦は「法を燈明とし、依所とし」と語り、それを信じる自身が大事だと述べたのだ。だから釈迦が死んでも法が正しく伝えられれば、釈迦の教えは続くのである。

 ただ、それが正しく、歪められずに伝えられたかは、私の思うところではNOであった。だから心ある仏教学者が釈迦の真意を、つまり釈迦が覚った「法」は何であったかろ探ろうとしたのだ。

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