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2016年4月12日 (火)

増谷文雄「仏教入門」―⑱―

 「実に世尊によりて又、『縁起を見る者は、彼は法を見る。法を見る者は、彼は縁起を見る』と説かれたり」

 これらによって、釈尊によって把握された存在の根本規定は「因縁」または「縁起」の理法であったことが知られるのであるが、この理法の内容は、釈尊によってまたつぎのように説明されておる。

 「此れありて彼あり。此の生より彼生ず。此れ存せざるとき彼存せず。此の滅より彼滅せらる。」

 これを今日の言葉にして言ってみれば、一切の現象はことごとく相待的依存の関係の上に成立する。この因縁の関係を離れては、何者も成立するものでない。」一切は因縁のむすばるるによりて存し、因縁のとくるによって滅する。この世界には、絶対的存在などというものはなく、常恒の存在なとというっものは考えられぬ。これを仏教では、一切は流転するという。常恒なるものはただ、一切は流転するという法則だけである。したがって、この因縁の法を知ることが、そのまま、この世界の存在の法則を知ることになるのである。

 しかし、理法としての法を知っただけでは、宗教としての仏教は成立しなかった。この法の理得をさらに実践にまで齎すのでなければ、釈尊は単なる哲学者に止まったであろう。私どもは、釈尊のことを尊み呼んで「如来」ということがある。この敬称は、釈尊が法の認得者であるとともに、また法の実践者、成就者であったこと、単なる哲学者ではなかったことを示した言葉である。文字に就いて言えば、如とは如実のいみであり、来とは行道または到達の意味である。したがって、如来とは要するに、明行具足、覚行窮満の人格を称えていえる言葉であったと解せられる。明とともに行があったから如来であったのであり、知識とともに実践があったから如来であったのである。理法としての法の認得とともに、これが実践的体系として、教法としての法が建立されてあったところに、釈尊が如来たりし所以があるのであり、また仏教が宗教たる所以が存するのである。

 では、実践的体系としての法はいかなるものであるか。古来ひとくちに「八万四千の法門」いわれているさまざまな教え方も、すべてみな教法としての法であるに相違ないであろうが、それらの中で、もっとも根本的なものとしては、かの四諦八正道―四つの真理、八つの倫理―の教法であった。それらに就いては、更に章をたてて詳しく述べられるであろう。

                       (ここまでP.44)

 存在の根本は「因縁」(生起)または「縁起」であり、絶対的存在はないのである。一切は流転するということだけが変わらないものだということだ。絶対的存在を否定するのだから、神とか偶像は否定されるのだ。

 因縁と縁起という言葉は今も日常に使われる。「縁起でもない」とか「縁起が良い」とか「縁起物」とか「縁起を担ぐ」などいろいろある。いずれもあることを縁として何かよいことや悪いことが起きることを表している。

 釈迦のことを釈迦如来というが、明行具足、つまり知識と実践を兼ね備えていたということである。だから如来という称号を得たというのだ。

 釈迦はさまざまな譬えを用いて法を説いたようだが、8万4000もあるというのは驚きだ。おそらく釈迦以外の弟子などの教法も含めてのことであろう。そのなかで根本は「四諦八正道」だと言っている。それについては次章以後に説明される。

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